ゲーム+α日記(2000年2月)

'00年 1月
'99年 12月 11月 10月 9月


2/28

 「ストライダー飛竜2」を通してクリアすると現れる「飛燕モード」がおもしろい。といっていいのかどうか迷ってしまうけれども痛快なのは間違いない。
 敵として出てくるもう一人のストライダー(=忍者由来の暗殺専門家)飛燕をプレイヤーキャラとして操れるのだが、こいつの得物が自動追尾式ブーメラン(のようなもの)で、はっきり言ってこれが反則的に強い。
 画面外の敵をばさばさと殲滅し、自身は一歩も動くことなくボスを倒し、特定の空間を斬ると出現する隠れアイテムも容赦なく探知するなどやりたい放題。こんな怠け者は忍者なんて呼べない。呼べないけれども、肉や機械を切り刻む音がそこら中で響き渡る中を平然と進む飛燕の姿はさながら悪魔の化身。しびれる〜。
 あまり調子に乗っていると、足場にしていた飛行機まで壊してしまい一緒に墜落、なんていう間抜けもやらかすけれど、素晴らしいことに落ちても即死じゃないんだな今回は(飛竜もそうだけれども)。
 「飛竜」世界に飛び道具を持ち込んだら強さの秩序がどれだけ崩れるかを体感した次第。

 あ、飛燕でクリアしたらブースト(飛竜が使えるボム)無限使用オプションが。もう何でもござれのようだ。壊せ壊せ! 全てを壊しながら駆け抜けろ! これぞ「飛竜」の魅力!
 という意味だったら、昨日引用した「超クソゲー」内文章が理解できます(強さを得るために努力しなくてすんでいる点で大違い)。


2/27

 「ストライダー飛竜」の1をプレイして、よくこれを昔の人は頑張って遊んでいたなあと思った。
 見た目が古いとか演出とかの問題ではなくて、この難易度。とりあえずノーマル設定では1面もクリアできず。ダメージを受けて後退→飛行機のプロペラの隙間から転落死、を3度繰り返して30秒でゲームオーバー。重力が反転する中の槍ぶすまがどうしても抜けられずついに投げ出す。
 「超クソゲー」では「ストライダー飛竜の魅力=主人公の強さ」と定義していたけれど、激弱じゃないでしょうか彼。
 もちろん腕前が悪いというのは最大の理由ではありますが。

 1に比べれば2はまだ遊ばせてもらえるから好き。ポリゴン背景は汚いけれど、暴れ回れるのは楽しい。アクションというよりはシューティングですね。ボムっぽいのもあるし。
 「心霊呪殺師太郎丸」をちょっと思い出した。


2/26

 ゲームを遊んだ後は感情の起伏が平べったくなる。
 少なくとも自分の場合はそう。ゲームに没頭して他のことは何も考えない時間(ゲームのことさえ考えていないかもしれない)を過ごした後では、目は覚めながら夢うつつの狭間にいる寝起きのような気分でいる。どんなやる気も殺がれていて、せいぜい食う寝る程度の本能しか働かない状態。
 気持ちの切り替えができない。

 したいことが他にあるときにはそんな呆けた気分になりたくないから、大切な用事は遊ぶ前に片づけておかなければならない(当たり前のことではあるけれどもなかなかできてない)。
 そんなふうに普段は警戒している。
 でも昨晩は、滅多にないことだけれど、遊ぶことそのものではなくて無気力になることを望んでゲームのスイッチを入れた。

 なだらかになるのは目的意識だけじゃない。激しく凹んだときも、その穴は徐々に埋め立てられ、平坦になっていく。どうでもいいことを思わずにすむようになっていく。暗いところから出てきた余計な考えが、元いた場所に戻っていく。
 眠れるようになるまで「実況G1ステイブル」で3時間が必要だった。

 根本的な解決策ではないな。
 だましだましでも過ごしていければ。今日は「カードヒーロー」と「ストライダー飛竜1&2」を買ってきた。


2/23

 競馬というものが、予想する側ばかりでなく馬の管理者たちにとっても思い通りに行かないものなんだろうということを、週明けのスポーツ新聞を見るたびに思います。
 「距離が長かった」「展開が向かなかった」「馬場が悪かった」「イレ込んでいた」「芝向きじゃなかった」「斤量が響いた」「二走ボケだった」……
 どの結果論も敗因と考えられるでしょう。馬券を買う立場であれば言い訳なんか聞きたくないかも知れないけれど、いろんな可能性を考えるのが競馬の楽しみの一つなのだと私は捉えています。

 そんなふうに、競馬とは誰にとってもままならないもの。その「ままならなさ」をゲームとして味わえたと感じるとき――うまくいかなかったとき、競馬だからしょうがないなあ、と思ってしまうとき――が、自分にとって競馬ゲームに一番のめり込んでいる瞬間です。
 「実況G1ステイブル」の自厩舎専属騎手が確勝を期したレースで出遅れ→出遅れ→前が詰まったため追い込んで届かず、と失敗を3戦続けたって、競馬だからそういうこともある、いやむしろ、この理不尽があってこその競馬、などと思い…でもあまりに腹が立つからしばらく遊ばないでおこう、なんていうことができるのもゲームだから。本職がそんな理由で休むことはできない。

 ゲームとはありがたいものです。


2/20

 スキーも三度目になるとだんだん要領を覚えてくる。
 今まで「体重移動がキモ」と教わってやってきたのは、実際は足に力を掛けることだった。体の一部分に力を込めると、反作用がそこ以外に来てしまい、進行方向がばらばらになる。だから滑りが不安定だし、それを押さえ込もうとして力むのでよけい疲れる。
 足がいくら踏ん張ってもなかなかエッジが効かず減速できないので、恐くて斜面の前に体を突き出せず、重心が後ろに行くと板だけが加速してなおさら恐い、と悪循環でいいことなし。
 違うッ! 全体中を投げ出すように一方向に傾けてしまえ! そうすれば反作用も一体で受け止めるから滑る向きは揺らがず、止まりたいときにきちんと速度を落とせるので恐怖感もなく、さらに見た目も何となく向上。
 つかんだ! 俺はつかみましたよ!

 これまでになく爽快な気分で滑走を終えることができた。しかし敷居の高い遊びだな。

 と、屋外活動による健全ぶりをアピールしつつ、プリズマページに登場人物紹介をつける。


2/19

 「プリズマティカリゼーション」がドリームキャストに移植されるという噂が本当かどうか、本屋に行って調べていたら、PS2用ソフト「花と太陽と雨と」なるタイトルのアドベンチャーにそっくり同じ設定のシナリオがあることを発見。
 ディレクターの方が週刊ファミ通で語っていたゲーム内容の一部は、そっくり「プリズマ」紹介に流用できそうだった。
 キッドの
「Infinity」といい、「繰り返すことで変化していく同じ一日」という概念がはやってるんだろうか。

 ドリームキャストマガジンのスケジュール一覧に、噂を裏付ける名前を見つける。「久遠の絆」も出るのだそうな。テキストアドベンチャーなんてドリキャスに最も似合わない気がするけれど。
 御大セガがバンバン繰り出す大作の間を埋めるようにサードパーティーが佳作を作って…でもその隙間は埋め切れていない、そんな感じをドリキャスソフトのラインアップから受けます。
 二つともイメージに過ぎないか。


2/16

 ゲームのタイトルという固有名詞を、代名詞でなく別の、多くは珍妙な固有名詞で呼んでしまう、という割とよく見かける現象(英語名なのに漢字の当て字を使う、とか)は、どのような心理でなされるものなのか。そんなことを考えながら仕事をしていたら、帰りが遅くなってしまったさ。
 で、あれは多分、他人にあだ名を付ける感覚と同じなのだという結論に落ち着いた。
 「ちょっと変わった呼び方するけど、分かってくれるよな?」というような。俺とお前の仲じゃないか、みたいな。

 でも、ゲームに呼びかけたって返事が来るわけじゃない。代わりに、そのゲームの話をするときに、奴とはこんな間柄だと考えているのだと示す意図で使われる。
 対象に関して話し相手と共通のスタンスを持っていれば、話も弾むことだろう。その言葉を使ったりもして。
 あだ名は基本的に、相手を見る目線を下げる目的でつけるものだ。上限が対等の関係で、多くはそれ以下。「俺とお前の仲じゃないか」と了解を求めて本人に使えるのはそれほど失礼に当たらない(と話し手がとらえている)呼び方、陰でこっそりささやくのは侮蔑表現。
 敬意を払うつもりでいるなら、元からついている名前を使うだろう。呼び方は使用者の立場を、明確に区切られた形で表す。

 かの「超クソゲー」から例を引くなら、

『センチメンタルグラフィティ』(原文ママ)は、発売前からファンの間では『センチ』、ファンではない一般的なゲーマーの間では『セングラ』、アンチファンの間では『チングラ』という略称まで広く知れ渡るようになっていた (P204)
 単純な略称が上位に来るのは、正式名称で呼びたいのだが短ければ呼びやすいので使っているに過ぎない、他意はありません、という意識があるからだろう。信奉者の間では、『センチ』は神聖にして侵すべからず、畏れ多くも略称させていただきますッ! という雰囲気があったのか。

 そういえば「ときメモ」の開発者が「ときめき」という言い方を好んでいるという主張を週刊ファミ通でよく見た。専用コーナーではその呼称で通していた(いる?)はず。
 作り手が個人でそう思うのはいいけれど、ファミ通の記事レベルで追随するのはおかしな気がする。


2/14

 昨日の毎日新聞の…なんて名前か知らない、朝日なら「天声人語」に当たる欄に、「日本では現在推定100万人が引きこもっているといわれる。異常だ」などと、出典も何もなく唐突に出てきたのには驚いた。
 著者は続いて江戸時代の文献を引き、僅々五箇条を守っていれば普通に暮らしていけるはずなのにと、あたかもあの時代には誰もが快活であったと断定するような口調で文章を締めくくっていた。
 本当かな。ただ記録に残っていないだけで、いないはずがないと思うのだけれど。それでももし今に比べてふさぎがちな人の割合が少ないとしたら、物思いにふける暇のない生活を送っていたせいが一番大きいんじゃないか。くたくたになるまで働いて、日が落ちたら早々に寝て、一生懸命生きているうちに寿命が来るというような。

 それこそ思い込みか。


2/12

 丸一日あったのにこれっぽっちしかできませんでしたよ!


2/11

 今日から3連休だ! と思ったら無性に「ゲームらしい」ゲームが遊びたくなってきたので、「実況G1ステイブル」をチョイス。
 押入れの中を探したとき、未プレイ品の多さに一瞬くらっと来た。

 「実況G1ステイブル」は、4年前にコナミが出した競馬シミュレーションゲーム「ステイブルスター」の続編に当たるもの。
 「ステイブルスター」はシミュレーションパートのバランス、グラフィック・音声実況などの演出、どちらにおいても優れており、今遊んでも色あせない面白さを持っています。しかもスーファミのゲームだ! すげえ!
 ずっとそちらを遊んでいてもいいんですが、天皇賞に外国産馬が出ようという時代に未だフェブラリーステークスがG2のローテーションを延々繰り返すのも…ってそんなの理由になりませんな。
 新しいバージョンを試してみたかった、ただそれだけ。

 始める前はスーファミ版をスケールアップしたものだろうと思っていたのですが、どうも様子が違う。
 プレイヤーは調教師で、それぞれの馬に実際に調教をつける立場ではない(それはスタッフである厩務員や調教助手の仕事)というのは前作と同じですが、「実況G1ステイブル」では馬・厩務員(世話係)・調教助手(乗り役)の3キャラからなるユニットを必要に応じて組み替えるという仕事が増えました(前作は任命したら変えられない)。
 最大20ユニットを最適な組み合わせに編成し、それぞれに大まかな指示を与える。良績を残したユニットには経験値が割り振られ、スタッフは成長していく。そして各ユニットの残した結果は厩舎全体の士気に反映され、画面右上に縦棒の目盛りで示される。

 これは「オウガバトル」? その縦棒はカオスフレーム?

 ということで、20頭の競走馬の管理にてんてこ舞いだった前作に、めんどくささでは一歩も譲らない「オウガ」のシステムが加わった「実況G1ステイブル」、このタッグは馬ゲー史上最強の複雑さを誇るといってもいいのではないでしょうか。私はKO寸前です。

 「人よりも馬を育てさせてくれ!」と叫びたくなるときもあります。

 同じ64で3作目が出たり、ネオジオポケットで初代の外伝が発表されたり、ファミ通40点満点作「ベイグラントストーリー」が昨日発売になったりと、「オウガ」の末裔は各地で活躍していますが、こんなところでその面影に出会ったりすると、ゲームに関わる人の流れが垣間見えて興味深いものがあります。
 同時に「オウガバトル」の影響力の強さをも思い知らされる。

 なんつって見当違いだったらどうしよう。
 スタッフロールを調べてみようか(多分やらない)。

 それにしても、KCENのデータ入力アルバイト、馬1頭につき20円とは渋い。100頭入れても2000円か…


2/8

 「久遠の絆」続ける。

 「平安時代→源氏物語→ロリ方面にも盛んな主人公」という貧困な短絡思考にぴったりはまってしまう展開に。それだけじゃないけれども。むしろごく一部だけれども。
 絵空事ではなく実際に起こりうることとしてキャラたちが悩んでいるのを、ブラウン管と1000年の時を隔てて半ば当然のように受け取っている。物語に引き込まれかけている証拠か。

 それでも、ゲームを中断してふと回想すると。
 13歳っていうのはどうなんだろう。それも、あの頃の習慣なら恐らく数え年で。
 彼女のグラフィックが最も良い塩梅に見えるのは、イラストレーターの気合いのたまものか、自分の見る目の偏りか、悩ましいところです。


2/6

 「久遠の絆」切り上げどきが難しく、プレイ時間長引く。
 あら。あらら。なんと、そんな突然。

 もしこのゲームがX指定で、そのために遊ぶ機会を逃すことになったとしたら、ちょっと惜しいことをした、と思うだろう(現段階での感想…クリア後はもっと上がってくれますように)。
 アクションやロールプレイングといったジャンル区分さえゲーム内容を前もって判断するのに曖昧な役割しか持たなくなってきている今、内容とは無関係に一律に決められるアダルト指定を判断基準にすることで、楽しめるゲームと出会う可能性を狭めてしまうのは得策でない。
 一本一本のゲームで判断しなければ。18禁のラベルは、ゲームよりもそれらを見る自分の目の前により強力に貼りついていたらしい。そんなものは剥がしてしまおう。

 でももし、その種のゲームを、予備知識の全くない他人に勧めようという気になったら? 「18禁だけど」面白いよ、という注釈は不要だろうか?
 やはり予告はしておいた方が誠実なように思う。自分で難しいと分かっている観念の修正を迫るなんて大げさなことじゃなくて、そのゲームを遊んでもらうのが目的なんだから。
 自分ならぬ他人の考え方まで変えようと思うのは押しつけがましいな。他人の考えていることも分からないくせに。とりあえず「だまされたと思って」って付け加えておけば、後は向こうで解釈するだろう。

 好みがつかめていないくらいに親しくない人にエロゲーの話なんかしないのが一番の正解だと、ここまで書いてきて思った。


2/3

 あの単語がトップページを飾っているのを見ると嬉しくなってしまう。でも大文字で通すと猛烈違和感があるな。さらに、いつ見てもLが一つ多い気がする。むむ。
 いずれにしてもまだ予告だけ。やる気が出るように。

 ほかの3本のように、そのことを考えただけでどうしようもなく幸せになれたゲームじゃない。「プリズマティカリゼーション」には、近づけないのに苛立ちながら、また時には距離を隔てていることに安心しながら、取り巻くように覗き見る態度で接していた。遊び続けてもいない。専用ページを作ってみたい気持ちが残っているのが不思議。
 強いて分析するなら、高尚で鼻持ちならない雰囲気への憧れ(憧れを萌えと言い換えてもいいと思う。楽しみの主眼がゲームを遊ぶことから離れているという点でギャル萌えと共通しているから)があるんだろう。

 でも、そのための準備が何もできていない。例の薬品のネタはもちろんつかめていないし、ゲーム中に出てくる「参考文献」(ルイス・キャロル、ハインライン、シェークスピア)もさっぱり。フランス語も解読できないし、文学・哲学など昔「文学部唯野教授」で目を回したことがある程度(いばるな)。ギャルへの思い入れもなし。
 全然駄目じゃん。現状では致命的なまでにページオーナーの資格に欠けている。なんつうか、生涯学習みたいな心がけで臨むべきだと、海からの寒風に吹きさらされているように身の引き締まる思いです。

 18禁から「手を引く」なんて、あたかも制作者であるかのような、その世界に深く関わってでもいるかのような言いぐさは傲慢でした。
 そもそも遊んじゃいないってのな。最もエロゲーと呼べそうなのが「To Heart」だという時点で。

 「久遠の絆」30分/日で進める。あら、主人公がおかゆを食べてるよ。出てくるとは思わなかった。
 だんだん面白くなってきたところです。


2/1

 ネタに使っておきながら今まで遊ばずにほっぽりだしておいた「久遠の絆」をちょっと立ち上げてみる。

 むう、三分炊きのおかゆのように緩い会話シーンが、地の文に頻発する小難しい言い回しと何ともミスマッチ。そして文章・画像の切り替わりがストレスの素に。顔を赤らめて「うん」と頷くのに3秒もかけないでくれッと叫びたい。
 まだほんの序盤だからな。物語に期待。
 プレイヤーへの状況説明を主人公の口を借りて行っているのは、あなたが操るのは彼一人ではありませんよという作り手の予告と考えてよいでしょうか。

 テンポのもたつきが気になるのは、PCノベルゲーと比較してしまうから。大容量インストールの利が後者にはある、にしても。「プリズマティカリゼーション」は頑張っていたなあ。
 で、こちらも買ったままの「痕」のことは決して忘れてはいない。先に「久遠」に手を出したのはまずかったかなー、くらいで情報収集は慎んで、そのうち必ず。
 これと「MOON.」あたりを掉尾として18禁からは手を引きたい気持ち。



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