ゲーム+α日記(2000年8月)

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8/31

 ドラクエそっちのけで『キャプテン・ラヴ』(のオープニングアニメ)に大ハマリ中。一日10分しかゲームの時間が取れなかったとして、うち3分はこのデモを見る。
 テーマ曲のサビ「好きなら好きって言わなきゃだめ」の場面で、うつむき加減から上目遣いでこちらを見やり、やおらパンで山盛りのかごを両手に差し出してにっこりする女子高生、というこの流れなあ。
 毎日見てます。直球に見せる魔球、という変化球。

 ワンダースワンのカラー版を出して、携帯FFもそっちで出す、という日経新聞の昨日の記事。ゲームボーイカラーの時もそうだったけれど、「××が○○するのは初」というフレーズは、スペースを埋めるための常套句なのでしょうか(例:携帯ゲーム機でカラー液晶を採用するのは初)。あるいは、「新しい出来事なのです」ということを示す文句が入っていないと記者としては記事を書いた気になれない、のか?
 FFの携帯版にGB『聖剣伝説』(FF外伝)は入っていないのか、公式見解を知りたい気持ちがちょっとだけあります。


8/28

 『メモリーズオフ』から(というより、みなもシナリオから)離れて3日になるけれど、なぜあのようなことを書く気になれたのか分からない。
 他人に干渉することを望まないでいたと言いながら、他人は自分に影響されてくれるなどという思い上がった自信を持つことが出来ていた、なんて?

 それでもあの気持ちは、遊んでいて確実な手応えでつかみ取っていたものだった。
 椎名林檎の暗黒パワーさえも凌駕する前向きな姿勢を取らせてくれたことが、みなもシナリオの真骨頂のように思える。

 という結論は、シナリオそのものへの言及なのか、プレイヤーの心境次第で同じシナリオでも受け取り方ががらりと変わることの一例に過ぎないのか。
 五分五分くらいはシナリオの力が与っていると信じたいけれど。


8/27

 そろそろ、『ドラクエ7』購入から丸二日が経とうとしている。

 そこまでのやる気もなかったのに午前0時のゲーム屋に出かけたのは失敗だった。100人もの行列に圧倒されて萎えまくる。
 普通に買っていれば普通に遊ぶ気になったかも知れない。ふとした出来心が実現してしまい、望んでいたと周囲から見られた結果を手にしながら言いしれぬ虚無感を覚える。違うのだと説明しても照れ隠しとしか思われない。これじゃ『ONE』の幼なじみシナリオだ。悔いております。でもあの主人公の振る舞いは真似ない。決してッ…!

 遊びに来た友人に画面を見せるも、その素朴ぶりにすぐ飽きられてしまう。いくらドラクエでもちょっとまずいんではないか。主人公移動時のフィールドの微妙な揺れ、乱視にならないか心配。
 代わりに盛り上がったのが、買っておいて封も切っていなかった
『キャプテン・ラヴ』のオープニングデモ。このテイストは、自分の乏しいアニメ経験に照らすと「すごいよ!!マサルさん」だろうか。女の子の仕草ひとつひとつが目に沁みるほどイタい(褒め言葉)。
 ゲームの中身も、シナリオ・システムともひねりが利いていて相当愉快だ。ドラクエを終わらせたら直ちに取り組もう。


8/25

 『メモリーズオフ』みなもシナリオ精査。いろいろな分岐を試してみる。グッドエンド&バッドエンド、仮のエンド&真のエンドがぐるぐると入れ替わって組み合わさる。

 暴走なりきりモード発動。気味悪い内容なので、思い入れの激しい文章がお嫌いな方はここでストップ。


 みなもの気持ちの中でいつの間にか主人公に据えられてしまっていたことに、オレは戸惑っていた。オレがみなもに深く関われば関わるほど、苦しい事実は次々に明らかになり、そのせいでオレは苦しむのに、同じように苦しみ、その元凶であるオレを恨むはずのみなもは、オレを最も大切な人と位置づけていた。
 他人に影響を与えることが自分にとってこれほど苦しいのなら、他人に関わり合いなどしたくなかった。それは、他人に影響を与えることで生じた責任を自分が負うのが嫌だからだった。責任を背負うくらいなら、他人に接したりしたくなかった。

 あのとき…暗闇で耳を塞いでうずくまり、度重なる呼び鈴を無視しおおせることができたら、「唯笑は」諦めて立ち去り、再びみなもと会うこともなく……彼女はオレの知らないところで暮らしていけていたかも知れない。あり得ないということはないはずだ。
 干渉を引き受けてしまったために、あの奇跡とともに生まれた4つめの因果を、都合4つの因果を、一生抱えてオレは生きていくことになる。

 あたしが此のまゝ海に沈んでも何一つ汚されることはありませぬ
(椎名林檎「依存症」)
 それは、現状確認ではなく希望。

 でも、そんなことはこの世に生まれた瞬間から無理な話で、結局人は相互に干渉し合って生きるもの。そしてみなもは、オレから受け取ることをこの上ない喜びと感じ、与えられないことをこの上なく悲しむ。

 オレはあの時、非干渉を望むのではなく、みなもが感じているのと同様の喜び、悲しみを、干渉することによって共有したかった。責任感、義務に駆られてではなく、自らの意志に基づき関わり合うことで生じる感情(それが喜び、悲しみなのだろう)を分かち合いたかった。
 そのために、自らの意志をオレは求めた。


 せっかくの良いシナリオを汚してしまったね。でも暴走モードが切れません。この記憶はすんなりOFFにできないよ。
 そして、そんな記憶を与えられたことを、自分はどう思ってる? 嫌で嫌でたまらない、忘れてしまいたいと願っている?
 その辺に、オレ←自分の求める意志、そして共有の鍵があるはずだ。


8/24

 それにしても『プリズマティカリゼーション』のファミ通受けがいい。クロスレビューで7点が出るなんて。これを受け入れる余裕っていうのは仕事じゃなかなか出てきそうにないけれど。

 なんてことを思いながら迎えたDC版の発売日に、うーむこのシナリオでも隠しおおせるシチュエーション萌え(同じクラスで席が隣り)に入るしかこのゲームは楽しめないんだろうか、などと気落ちしながら『メモリーズオフ』をプレイしていたら雷の一撃。

 なんかこのシナリオだけタイトルが違います。
 自分がこの境遇に置かれたら醜態をさらすのは必定、それなのにあのような態度を取れる彼女は偉いと、虚構であっても称えずにはいられなくさせる下級生「伊吹みなも」のシナリオに、クリア後しばし茫然とする。
 仕掛けは他シナリオの4倍(たぶん)、効果は絶大というところ。泣かせというより壮大さに打たれる。
 作者なんだから全てを知っているのが当たり前なのに、それを隠さず話の展開に使ってしまうために、否応なくライターの主張を意識せざるを得ないシナリオがある。それに対して、全てをキャラクターに演じさせ、書き手の存在はみじんも感じさせないという彼我の落差に、美しささえ感じる。前者が後者を引き立てること引き立てること。
 他のキャラに行く気がしません。掃き溜めに鶴を見た思い。


8/22

 面白い「構成」というよりは「趣向」の方がいいかという気がするのでおとといの日記の末尾を直す。うん、趣向。酒の肴じゃないといったら肯いてくれますか。
 何でもありません。

 ドラクエの雑誌広告に一本取られた気持ち。発売当日、どっかの会社の出欠表示ボードが軒並みいろんな理由を付けては休みだったり早退だったりするあれですが、すごく実感が湧きました。遊びたくてうずうずしている人が周りにもいます。
 ゲームのために仕事を休むというのは、ドラクエに限っては広告に使ってしまうまでに検討すべき選択肢の一つであるというのは、やっぱりすごいことだ。あまりにも突飛な思いつきだったら広告のネタになんかしないでしょ?
 よく行くゲーム屋が、日が変わった瞬間に売り出すと宣言している。イベントを見に行く感覚で出かけてこようか。ついでに買ってきてもいいし。


8/20

 ギャグのランクを、特に何のフォローもなしに面白さが伝わるものを上等、自己フォロー(劇中の他のキャラに突っ込ませる、など)で補足するのが中等、他人の視点を装って笑うべきところを指示する(バラエティ番組でのスタッフの笑い声とか)のを下等と分類して良いように思うけれど、フォローなしで面白くなさが伝わってしまうものは区分以前の問題だなあ、と『メモリーズオフ』のテキストを読みながら思う。
 こんな脱力会話を延々と読まされるとは何かの懲罰か。きっと、せっかく借りた『イース2エターナル』をほったらかしにしてこちらに走った報いが来ているのだ。突っ込み入れようよ。ボケ×ボケじゃ話が進まない。

 後半に入り攻略対象キャラが絞れてきてからは、文章の質がだいぶ改善された様子。一人エンディングを見ました(ショートカットの転校生)が、今ひとつ話が散漫だったように思う。小道具はいろいろ出てきたんだけれども、出た端から消えていくのな。惜しい。

 ただこのゲームのさしあたりのポイントはバッドエンドにあるだろう。『ONE』プレイ経過においてその鈍さを遺憾なく発揮した私でも、あれがバッドエンドだということはさすがに分かりました。どうも都合の良すぎる空想だと思ったよ。
 このゲームのタイトルは、そういえばMemories Offだったな。面白い趣向ですね。


8/19

 風呂上がりにビール片手に『ダビスタ』としゃれ込んでみる。何ともオヤジくさい。そういうオヤジゲーマーの知り合いはいないけれど、自分だったら30年後、絶対こうやって遊んでるね。

 今ダビスタを引っぱり出したのは、『パーフェクト種牡馬辞典2000-2001』(自由国民社)を買って読んでいるうちにその気になったから。サンデーサイレンスを初めとして有名無名の種牡馬532頭が集められ、現役時代の出走レースや種牡馬実績が解説されるというデータベースです。
 この本は大変面白い。名前は辞典だけれども完全に読み物です。馬券の検討に役立てようと思わない限り(本来はそのために編集されているのですが)。
 これのおかげで、走ったのを見たことがなくてもカリスタグローリ(ゲームでは種付け無料)に感情移入した気になれる。ダビスタがデジタルデータの集合体に見えなくなる瞬間でもあります(大げさ)。
 なんて思いながら育てたカリスタグローリ産駒がG1を勝ったりして仰天。お前こそ心の代表産駒、などと記憶にしまい込むのもまた楽しいもの。

 ところでサターン版ダビスタはレースの結果や調教過程が毎回自動セーブされる仕組みで(というより、プレイステーション版だけがそうじゃない、というべきか)、失敗を許さない緊張感があっていいのですが、毎度毎度書き込みに行くのに多少時間がかかり、ちりも積もれば山となるの言葉通り、次第にストレスが溜まってきます。
 そこで、緊張感をそのままにスピードアップを図るために「セーブしない」という方法を試したところ、効果が現れたのでちょっと嬉しくなりました。内蔵メモリに少しでも他のゲームのセーブデータを入れてから「新しく始める」→「本体RAM」を選べばOK。かなり快適です(だから、遊んだ内容は自分の記憶にしかしまい込めない)。

 そしてこの遊び方ならダビスタの「やめられない止まらない」無間地獄からも抜け出せる。ダビスタの麻薬的な魅力は、賞金や獲得タイトルや牝系を引き継ぐことで増幅されていますが、一頭の馬と数年間を共にするというファミコン版からの面白さの核はセーブデータがなくても味わえる。そいつが引退したらそこで物語は終わり、やめるきっかけができるわけです。
 初期牝馬とリーズナブルな父馬の掛け合わせで「そこそこ走る馬」を「思いがけず」生産することができたときが、ダビスタを遊んでいて一番楽しい時です。増えた資金を元手に高い母馬を買おうという段階になって、急激にゲーム続行のモチベーションが下がったりしませんか。そりゃ私だけですか。


8/17

 さてFFも終わったことだし、ドラクエに備えて一息入れるためのソフトとして、予定通り『メモリーズオフ』で電撃G'sマガジン譲りの萌え萌え路線に乗るか、それとも目先(ギャル絵の)を変えて『Catch! 〜気持ちセンセーション〜』などというこっ恥ずかしいタイトル(これを「ご購入の際は口頭でタイトルをお申しつけ下さい」と指示していた秋葉メッセサンオーは鬼だ)で少年チャンピオン仕込みのお色気路線にしようか、とノベルものに向けての進路を模索していたところへHere Comes A New Challenger.

 …え、これ貸してくれるの? マジ?

 思いもよらない申し出に、右手で一応は断りつつ同時に左手は差し出すといった大仏のポーズの心持ち。結局手渡されたそれは美麗なグラフィックが巷で大評判の『イース2エターナル』でありました。

 イース2といえば特に音楽が大好きで、記憶の糸をたどれば村の曲に歌詞を乗せた歌まで口をついて出るくらいには聞き返したもの。他にもあの曲とかこの曲とか……残念なのはゲーム自体は遊んだことがないことで、だから「特に」も何も音楽のことしか知らないのでした。
 当時は何とゲームミュージックらしからぬアップテンポ&低音パートの装飾の多さよ、と思いながら聞いたオープニングの曲、ムービーだからこそふさわしいと思いました。
 ゲーム開始。この女の子とのご対面で胸ときめかせたプレイヤーはさぞ多かったであろうと、知らぬ当時に思いを馳せるのであります。
 12年前はテキストオンリーだったってことはないですよね、この場面。


8/15

 『FF9』クリアー。60時間ちょっと。

 徐々に盛り上がってきたシナリオだったのに、最後の最後で落ちてない気がする(どこかに後日談があるの? 「THE END」で長いこと待っていたのに)。小さなエピソードにはすごく好きなところがあるんだけれど(「同い年の落書き」や「おじいさんの古時計」で垣間見せる時の重みとか)、それが全体のお話につながらないのが惜しい、というより、全体像が巨大になりすぎてつかめず、物語と関係しない尖ったイベントだけが記憶に突き刺さる、と言った方がいいか。ビッグタイトルで分業制(『週刊ファミ通』のインタビューだと、メインのシナリオもとっかえひっかえ部分的に手が入っているそうだし)なら仕方ないのかも知れない、けれども…
 そこは是非『ドラクエ7』と比べたい。

 アビリティのカスタマイズ、最終盤ですごく面白かった。勝てたのが工夫のおかげだと実感できる敵の強さ、アビリティや武器防具の豊富さ。勝ってしまえば、ラスボスの体力はもうちょい多めでも良かったかも? とバランスへの欲張りも出るけれど、うまくいったからこその感想。
 対ラスボス戦のメンバーはジタン、サラマンダー、エーコ、クイナでした。

 やり残した(やり残していることがあるぞ、と、空欄のある行列を掲げてゲームが迫ってくる)こと多数。心残りは召喚獣を全て見ていないこと。
 チョコボは酔わなければ続けたいけれど、移動画面を見ていると気分が悪くなってしまうので断念。

 ラスト数時間の面白さを味わうために、その10倍近い時間を捧げられるかどうかがポイント。時間が捨てるほど余っている学生(的身分の人々)にお勧め。そういう人たちはもう遊んでいると思うけれども。
 自分にとっては、タイトル通りの「最後のファンタジー」になるんではないかという予感。


8/11

 そう、おとといの日記の核は
「あるゲームがギャルゲーかどうかは、ゲームそのものではなく、プレイヤーによって決められる」
ということ。なので、ギャルゲーを遊ぼうとするとき、周囲の視線を気にすることはないのです。

 なにが「なので」かと言えば、手にしたタイトルを見て「あ、ギャルゲーやるんだ」と思いもし口にも出す人は、その人がそのタイトルをギャルゲーと呼べるように遊ぶだろうと思い公言しているのであって、そこには他ならぬそのタイトルを手にした人に関する情報は含まれていないから。
 単に発言者の嗜好を明らかにしたに過ぎないその手の指摘にくじけてはいけません。

 もっとも、そのゲームを遊んでいる姿を直に見られたり、プレイスタイルを公開したりなどの結果としてギャルゲーマー扱いされたなら話は別。
 評価を謙虚に受け止める姿勢が問われます。


8/9

 かつてギャルゲーを遊ばなかったのは、どう面白いかが想像できなかったからでした。
 ここでギャルゲーとは「女の子のグラフィックが前面に押し出されているゲーム」とでもしましょうか。絵を見ることがなぜ面白いのか分からなかったし、それより面白いゲームを知っていたから、ギャルゲーを遊ぶ必要はありませんでした。
 「遊んでみるまでは面白さが分からない」というのは別にギャルゲーに限ったことじゃなくて、ゲーム全般に言えることです。私は『ダービースタリオン』の面白さが、友人に勧められての初プレイまでは全く見えてこなかった。結局、触ってみるまでは分からない。ただ、未経験者にとっては、パッケージのアニメ絵が、ゲーム内容に関係ないところで遊ぶ動機の妨げになります。

 それでも、多くの人が楽しんでいるのだから、一度くらいは遊んでみたい。そこで思ったのが、
 「どうせなら典型的なギャルゲーを」
遊ぶ前のギャルゲー全般に対する、女の子の絵柄を見て喜ぶだけというイメージ、それを目当てとするなら、逆にその方面に特化したゲームを選びたい。極端な例をまず制圧してしまえば、段階的に遊ぶよりも効率的にその世界を知ることができるのではないか。

 そのためには、キャラクターは半端なくかわいくなければいけません。ギャル閲覧の目的なのに味のあるグラフィックでは悲しい。それらは中上級者のためのもので、エントリープレイヤーのためには、とにかく絵だけ見ていれば満足とさえ言い切れるゲームが最も望ましいのです。
 そこへ現れたのが『ひざの上の同居人』、正確にはイメージイラストを載せた公式ウェブサイトでした。画面に見入って30秒。これで行こうと内定。
 以後、実際の購入に及ぶまでにはやはり多くの葛藤がありましたが、心理の紆余曲折を経ながらも無事ギャルゲーデビューを果たすことができました。
 それ以前にも『ティンクルスタースプライツ』など微妙な線上のゲームは遊んでいましたが、純粋なギャルビュワーとしては『ひざぱ』(←略称)が初めて、それゆえ、あのゲームは私のゲーム人生を変えたと言えます。内容がこれまた率直に萌えを育むことに集中したものだったこともあわせて。
 『ひざぱ』はそのギャルゲーとしての極端さゆえに、自分のゲーム歴に一点を刻んでいるのです。

 これで自信をつけてから後、ギャルゲーに対する抵抗は格段に薄らぎました。そして次のステップ、エロゲーという壁は、これとは正反対の『Kanon』というアプローチで乗り越えることになりますがそれは別の話。(まだ壁は残っているよね!「鬼畜」とか。それはどのようにして? いやいやそれも別の話だ)
 何本かのギャルゲーを遊び、萌えたり萌えなかったりいろいろあって分かったことは、やっぱりゲームは遊ばなきゃ分からないということ。
 そしてもう一つ、ギャルゲーを「ギャルゲーマー」としてでなく遊ぶこともできるということ。
 目的を萌えに置かないことを意識して遊ぶ限り、たとえギャルゲーを遊ぼうともそのプレイヤーは「ギャルゲーマー」ではないのです。これ、自分で今決めた定義。
 もちろん萌えたいと思って遊ぶこともできる。目的意識を持つことで異なる遊び方を使い分けることができるようになるのは大きなプラスだと思います。
 ギャルゲーでなくてもその意識の振り分けは習得できるでしょう(戦車萌えとかシステム萌えとか)。しかしギャルゲーは特異な感情に訴えてくるだけに、その使い分けかたが自然に身に付いてくるのではないでしょうか。

 ギャルゲーはギャルゲーマーとして遊ぶためのポテンシャルを持ったゲームと再定義しましょう。萌えようとしなければ自分は普通のゲーマー、そう自らに言い聞かせて遊べば、食わず嫌いの方もギャルゲーが遊べるはずです。
 その結果萌えに転ぶのもまた良し(?)。それだけ、になってしまわない限り、ギャルゲーはきっとプレイヤーに何かのプラスをもたらすことと思います。評判の良いものは特に。
 ということで、「ギャルゲーのススメ」として本文を閉じたいと(書き始めからは予期せぬ展開ながら)思うのであります。


8/6

 いろんな人のさまざまなゲーム話を重ねることで、ゲームにまつわる楽しさをぼんやり浮かび上がらせようとしている週刊ファミ通の「ゲームの話をしよう」。
 編集者の個人的な願いから始まった企画がよく読まれているのは、それが読者に共通の希望でもあるからでしょう。

 私もこのコーナーは好きで連載当初から読んでいるけれど、単行本を通読したら自分でもゲームの話がしたくなった(いつもしてるのに)。乗せられたと分かってもちっとも悔しくないナイス企みだと思います。
 ワンダースワンと『GUNPEY』の項で出てきた、それまでゲームなんかしなかった人が遊び始めるきっかけの考察に関連して(ないかもしれない)、「ギャルゲーを遊ぶようになったきっかけ」なんかを。

 今日はまとまらなかったのでそのうち。


8/3

 今ないしはごく近い将来ドリームキャストを買うとしたらどんなソフトを同時購入するだろうと空想(バーチャルショッピング)してみる。『ダビつく』『THE TYPING OF THE DEAD』『ギガウイング』『ティンクルスタースプライツ』…
 意外と遊べそうな気がしてきた。ついでだから『センチメンタルグラフティ2』も『デスクリムゾン2』も買いましょうか。どーせ想像の中の出来事だからいくら追加したって損するわけじゃなし。そんな空想するだけ時間が損、てのは言いっこなし。

 やっとドリームキャストという市場が自分の中に根付いてきたように思います。ってそれは近々『Kanon』と『プリズマティカリゼーション』が出るからだろう。
 セガ製ソフトとはどうも相性があまり良くない(サターンで買ったのも『NiGHTS』『ファンタジーゾーン』『花組対戦コラムス』『Mr.BONES』『せがた三四郎』という微妙な面子、そしてオール未クリアというありさま)ので、なんとか他のメーカーに頑張ってもらいたいのです。

 そんな調子で今月末には出てしまう、誰のニーズかさっぱり分からず恐らくDC史上最も売れないギャルゲーとなってしまうであろう『プリズマ』についても同様に声援を送りたい(口パクで)。今回は「本家」セングラの僅か1ヶ月後に同ハードでリリースという壮挙。各雑誌での酷評(編集者・読者両サイドから)に身をよじらせるのも楽しみの一つと言えます。本当に「移植」ならそれは確実に訪れる見もの。

 ところで(ここまで前フリ)DC版『プリズマ』を紹介した画面写真での主人公のセリフにいわく、

「他人の思いは判らない。どれだけ親密になろうとも、それは変わらない。物理的に不可能だからだ。」
 テキストを軽々しく引用するのは、どこを切っても面白いこのゲームの場合特にためらわれるけれど、今回はちょっと気になったので。「物理的に」ってそういう意味で使うだろうか。
 キミのその気持ちを分かるのは俺には物理的に不可能だ、と言われて、相談を持ちかけたあなたは納得するだろうか。

 対義語を探してみれば解決できるかも知れない。ちなみに、自分の関わる職業的には「物理的な」の反対が「化学的な」となることが多くて、真っ先に思いついたのはそれだったけれどもそれは置いといて。
 心理的に、だろうか、この場合は。物←→心、物質vs精神、何となく対立していそうな気はする。でも、一文字だけ取り出せば納得しても、物理的←→心理的とは……? 言うのか? 平成教育委員会(懐かしいね)あたりなら正解にしそうだけれども?

 physically impossibleの誤訳(肉体的←→精神的)というのが、個人的には割とすっきりする解釈だけれども、なぜ他国語を持ち込むなどという迂回が必要なのかという当然の疑問が持ち上がり、現在も討論は我が脳内で続いているのであります。
 抜粋だからいけないんじゃないか、文脈で読み取るべきではないのかとの問題提起が、討論会場の熱気を急速に冷ますその時まで。

 やっぱり時間の損だったようで。


8/1

 帰省ついでに、実に久々に秋葉原に寄ってみたけれど、Kanonアイテムの多彩さにびっくり(この手の店になぜか真っ先に足を向けてしまった…)。
 グッズ展開と表現すれば多少は聞こえもいいが(いいのか?)言ってしまえばキャラの切り売り、そのなりふり構わなさ(そう見える)はすさまじく、このゲームに感じていたどこか神聖なオーラがジッポーライターや携帯用ストラップやTシャツの彼方に吹っ飛んでいくのを見送ってから店を出ました。

 ムーミンシリーズの代わりに読んだのがハインラインの『夏への扉』(ハヤカワ文庫)。『プリズマ』課題図書の一冊であります。
 こちらは「ぐるっと一周してくる」話で、内容の面白さもさることながら(でも「戻る」ほうの理屈はちょっとどうなんだろう?)、読了して改めて思うのは『プリズマ』の選択眼の良さ。表題の季節も絡めて、ほんとうまいもんだ。



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