ゲーム+α日記(2000年11月)

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11/28

 朝、目覚ましで起こされるとほぼ同時に、
「よし! これから5分間でどこまで深い眠りに落ちることができるか、自分の限界に挑もう!」
と固く決意、すぐ実行。ほどなく次の目覚ましに起こされる、という出来事があった。
 遅刻することへの恐怖という潜在意識と戦うには、それだけの大義名分を必要としたのだと思う。それにしても、何をもって眠りの深さの尺度とするつもりだったのか。たぶん測る予定だったんだろうがどうやって。寝ぼけた頭の考えることはよく分からない。


11/26

 『罪と罰』のハードレベルには泣きたくなる。時にパッドを投げたくなるほど腹が立つが、下手な自分が悪いのが8割、振動パックも差して異形化著しい64のパッドを投げたら取り返しのつかないことになるとの恐れが2割の配分でそれは思い留まる。
 コンティニューには回数制限があり、途中でセーブも可能だが残クレジットも保存される厳しい仕様、かと思ったら、セーブしないでゲームオーバーまで続けると前回セーブした状態から再スタート可能、そして問題の残コンティニュー回数もそのままのようなので、それでじわじわ前進する心づもり。

 ところでこのゲームにおける難易度調整法。難しくすると敵配置が変わったり攻撃が激しくなったり、それはもちろんあるのだけれど、微調整はショットの攻撃力でされているようだ。通常は3Dスティックで操作する照準だが「ロックオン」にすることで敵を追尾してくれ、避けに専念しつつ攻撃できる。イージーレベルならそのやり方でクリアまで辿り着くこともできる。
 しかし、難易度を上げるとロックオン攻撃が格段に弱くなってしまうのだった。3Dスティック操作を怠けていたらスコア狙いどころかクリアもおぼつかない。
 手動で狙いを付けるのはかなりの練習が必要な一方、撃墜数を増やすのがこのゲームのキモだから3Dスティックマスターは必須。ということで、うまい調整のさじ加減だと感心し、同時にハードレベルで何としても解かなければならないと気持ちを新たにする。ハードレベルという名ではあっても「難しい」というよりはそれが「本編」なのだと思うから。
 というより、そんな意気込みでないと、ストーリーから完全に置いてきぼりの今の状態が落ち着かなさすぎる。ハードクリアで初めて物語に落ちがつくのではないかと予想しているので…

 いや、今の今までそう予想していたのだが、しかしそれだと初級者には話の全体像が見えないことになり不親切(ってのもおかしいが任天堂基準では)だ。まさかイージーのアレが本当のエンディングってことはないだろう? だいたい、ステージ導入のデモが「2A」面なのだから当然2Bがあると期待する、しないと嘘だ。
 それともステージの途中で分岐するのだろうか。壊せる壁があって進路変更、とか? 


11/24

 大地に接吻、じゃなかったかしらん? と疑念が湧いてきたが、確かめるために読み直すくらいならゲームの方をやるさ。
 と
『罪と罰』中。ビデオで撮って後で見直してみたくなるゲームを遊ぶのって久々かも。そして曲がなかなか良い感じ。スタッフロールのBGM、穏やかな中にも『ブラックマトリクス』風の暗さを醸し出していて好みです。


11/23

 ちょっと気張って『ガンパレード・マーチ』を一周終わらせる…っていっても、世界の謎を解き明かさぬままであり、実質的にクリアできていない。敵を山ほど倒さなければいけないのに、こちらの勢力に恐れをなして逃げていってしまい、どう努力してもノルマが達成できないのだった。
 最良エンディングは無理と悟った時点で職務など放棄、以後は面白おかしく生きることにし、同級生の女の子たちを追いかけ回してみる(notストーカー、それもやろうと思えばできるけれども)。両思いキャラとの会話と来たら、学校で交わす日常会話とはとても言えなくて愉快。明るいうちから何やってるんですか! うーん、でもまあいいか、誰も見てないし。といった大胆さを見せつけてくれます。
 そしてクリア後は裏シナリオ(本編と同ボリューム)が4本。これは中断しよう。興味深いんだが、気持ちが続きそうにありません。

 そんなわけで『ガンパレ』から逃げ出した先はN64『罪と罰』。地面に額をこすりつけたり、朝の山手通りに煙草の空き箱を捨てたりする意気込み(あまりと言えばあまりに陳腐な連想)でソフトを我が家に迎える。
 初プレイ前の練習段階で「これマスターできるんか?」と頭を抱えた難しい操作系、ジャンプと移動を同じ手でかつ別の指で操るのは辛い、と悩んでいたら別系統が用意されていました。良かった。移動は左手がジャンプは右手がそれぞれ担当するもの、という『スーパーマリオ』の刷り込みがいかに強いことか。そしてジャンプキーの次善は↑ですね、自分の場合。
 ゲームは壮大で爽快な3D視点シューティング、ストーリーは暗いながらも、地球を守るためにニセ地球をぶち壊すという『ドラゴンボール』顔負けのシチュエーションがたまらなく痛快、このステージでソフト代の元が取れた気分。3Dスティックの制御を修行して頑張るぞ。

 ところで電撃の64専門誌に『罪と罰』制作者インタビューを見つけたので読む。難解なストーリーについて「作者の頭の中で筋書きが固まってしまっていたようなので、徐々にでも理解が深まるよう工夫した」という任天堂サイドの方の返答に、おそらく的確であろう任天堂のアドバイスと作者のこだわりのぶつかり合いが見え、「ああモノを作っているんだなあ」と感心させられました。
 きれいにまとめすぎかも知れませんが。


11/21

 経験できることは限られているから、いくつかの事柄に一般性、汎用性、共通性を見出せると効率がいいし、思わぬ発見に嬉しくなる。
 で、その効率や喜びは当人の次の行動にフィードバックされるときにこそ有効に働くように思う。いただけないのは行為を欠いたその種の達観(じみた姿勢)、それでは若隠居だ。ご隠居の意見が尊ばれるのは、年寄りならではの多くの経験がその意見を後押しするからで、若くしてアフォリズムに走ってもろくなことにはなりません。ここはひとつ、不言実行でお願いしたい。
 実践もせずにスローガンを押しつけるなんてのは最悪ですよッ! と言いたくなることもたまにあるんだが、なかなか口には出せないものです。


11/19

 感じたことを素直に述べてはいけない場合があるとしたら、今日などはまさにそんな場合ではないか。
 いくら、自分がゲームを遊ぶのは、ゲーム自体が好きなんじゃなくてゲームを遊ぶ自分が好きだからかもしれないと思ったとしても、それを公にしてしまうのは恥ずかしいことだ。ゲームをすることがかっこいいとでも勘違いしている? それってどこの空想世界のお話?
 だから、そんなタワゴトは公表してはいけません。本当に、心の底からそうだと確信したならば。信じちゃいないからまだ書ける。いや、タワゴトだと感じられているうちはまだ書ける、と言うべきか。

 なんていうことを、ダビスタを遊びながら思った。このゲームはいつ遊んでも面白い。じゃ他のゲームはどう? 他のゲームを、本当に面白く遊んでる?
 逆に、ダビスタがあるうちは、さっきのタワゴトはタワゴトのままでいられる。何だか崖っぷちに踏みとどまっているよう。落ちたくはないし踏みとどまり続けたくもない。クロネコヤマトばりに一歩前へ進みたくてたまりません。


11/16

 おたんじょうびおめでとう!
 つぎのレベルにあがりました!
 ちからがさがった.
(以下略)

 『ウィザードリィ』における宿屋のあのテキストは、大人になってしまえば誕生日なんて忌まわしいものでしかないのだということを実に巧みにフィーチャーしていたと思う。


11/13

 最近のアニメは改善されているかも知れないけれど、昔見ていた『サザエさん』や『ドラえもん』なんかでは、どの場面でも明らかに浮いているオブジェがあった。周囲と異なり妙に明るい色遣いのそれに注目していると、そのうち決まって動き出した。隠れ身の術を使う見習い忍者のようだった。
 当時はそれを笑っていたけれど、あの頃から現在に至るまで、自分にとって世界の見え方というのはあんな感じだったのだと思う。注目しようと決めたものしか視界に入らず、他に何かあっても興味の対象ではなかった。自然、他のものは目にも留まらず、触れることもなく、存在しないのと同じだった。
 今だって変わらない。ただ、そのことに気づいたから、できるだけ辺りを見回し、あるはずのなかったものを見ることができるよう気をつけてはいる。といっても気をつけただけではなかなか見えてこない。
 視野を広げるための手がかりは、既に知っているもの(「見えるもの」)からの関連づけ、敷衍、拡張といった試みであり、つまりはそれが「関心を持つ」ということなんだろう。

 自分にとって望ましい世界は『ガンパレード・マーチ』の中にあって、『FF9』にはない。同じように背景画とポリゴンのオブジェという画面構成でありながらのこの差異は、『ガンパレ』がシステムによって世界を構成しきろうと試みているのに対し、『FF9』がビジュアルの力でキャラクターを含む世界の全てを描き切ろうとしている、という姿勢の差によるだろう。
 しかも『ガンパレ』はそれに成功し、『FF9』は途中で力尽きている(と言っていいだろう)からなおさら目立つ。

 自分にとって『FF9』は、『サザエさん』ワールドのように、動くことを義務づけられた小道具を見つけておかしがる遊び方をメインとせざるを得ない、ゲームとしては低いランクに置かれる作品だった。
 しかし、ファイナルファンタジーが次かその次かで完璧に統一感のあるグラフィックを備えたとして、目標を達成したという意味では、ようやくそこがスタート地点なのではないか? あまりにも険しい道のりだ、ゲームの立場としては。


11/11

 ここ数日、かつてないほどに考察とか論理性といったことと無縁の日々を送っていることに慌て始める。これだけだらだらと、ゲームにしても仕事にしてもメリハリのない過ごし方をしていてはいけない。こんなザマではページの更新もできない。
 こういうときは本でも読もう。そう思い本屋に行ったら『超クソゲー外伝 企画屋稼業』(太田出版)を発見。奥付を見るとつい最近出たらしい。だいぶ前からこの本についての話は聞いていたが、いつしか話題に上らなくなっていたので忘れてしまっていた。その時には「超クソゲー外伝」なんて冠していなかったはず。そういえば昔予約したんだったなあ、著者の企みに乗って。
 その辺の事情は本書の中で明かされている…のはいいとして本題、考える足しになればと思って読み始めたはいいけれど、ここに詰まったアイディアの密度に押し潰されそうになる。全て没ネタであるという事実がさらに重苦しい。気が付くと、その重苦しさをかわすために、文意をたどることだけに専念し、読むスピードを上げていることに気づく。

 と言い訳してみた。つまり、人ごとである辛さに同情するふりをしていい人を装うことで己の怠惰を隠そうと、辻褄の合わないすり替えを試みてみた。
 重苦しさを感じる本当の理由は、全編通して失敗談だからじゃなくて考えるのが面倒だからに違いない。またそうやって、自分の代わりに著者にものを考えてもらっている。そんなことでは意味ないじゃないか。


11/7

 「風の」リグレットだろーがー! サブタイトル使って間違うなんて、これだから知ったかぶりは駄目なんだ。
 恥ずかしさを少しでも紛らわすために無理やり意識をそらそうとする。なぜそのような間違いを犯したかを考える。頭を使えば悔しさも薄れるだろうから。
 で、考えて、以前にそのような語句に心当たりがあったのだろうという結論に達したので、いろいろ思い返してみる。そのうちに、頭の中を『Kanon』のオープニング曲が流れ始めた。その言葉をアルファベット表記に直してみたときのことだった。
 恥・倍増気分。思わず顔が燃えました。


11/6

 近所のツタヤのCDレンタルコーナーでは、あるミュージシャンに関連した別のミュージシャンを紹介する「音楽数珠つなぎ」というミニガイドが結構な確率で付いていて、全くの門外漢としてはありがたく参考にさせてもらっています。
 ある程度の知識がつくまでは、こういう手引きで自習しようかと思っています。早く次の段階、好みの網目を広げて、良さそうな新譜をいち早く捕らえたり、そのガイドから外れたマイナーげな、しかし心の一本となりうる曲との運命的な出会いを果たす、などといったことをしてみたい。関連づけるための基礎知識ってのが欲しいですよ。

 これがゲームになると、新作についてもさることながら、あるソフトを遊んだときに、旧作と遊び比べたいと思うことが実にしばしばあります。前に伝聞や紹介記事などで頭の隅に引っかかっていた知識が思い出されるのです。
 そうやって追いかけているときりがないから結局ほとんど遊べないのですが、ああ『ダブルキャスト』とか『リアルサウンド』なんかを遊んでみたいなあとか、今回は痛切(かなり大げさ)に思いました。
 前者はアニメーションと設定の類似(この辺が推測)について、後者は音声付き台詞が萌え心バースト機能以外に働いている(「気に入らなければ飛ばす」つもりにならない演出が効いている)参照例として。

 遊びながらそんなことを思ったゲームは『GREEN』といいます。
 つい魔が差した。あと、このゲームについて真っ先に挙がって然るべき特徴については、目立つからこそ敢えて挙げなくてもいいかと思いました。多分どこの紹介ページでも載せているだろうから。


11/4

 ぼーっと、よくこれほど何にも考えずにいられるもんだと感心しながらゲームする休日。『ガンパレード・マーチ』だったり『ダビスタ』だったり。
 可能性がシステムの中に広がっていながら、それを半ば強制的に狭められた状況でのプレイというものに燃える性格らしい。例を挙げれば、ガンパレなら、味方に手柄を奪われないようにかつ自分もダメージを受けないように、どれだけ多くの敵を倒せるか。ダビスタなら、売却価格が最低の馬でどれだけ稼げるか。など。
 そういう遊び方が、目的設定から自分で行い、そうなるように積極的にし向けてプレイしているのではなく、選ばないでいるうちに流れ流れて落ち着いた(それしかないように強制された)条件になってしまっていること、それを自分で選び取ったと勘違いしかねないところが問題。何よりまずいのは、それで楽しんでしまえているところ。それは、幸せというよりは、おめでたいと呼ぶのだと思う。


11/1

 難易度の高さは十分に攻略のモチベーションとなりうること、それゆえただ「難しい」というのは何かを嫌う理由にしにくいこと。
 アーケードのシューティングゲームを遊ぶたびに、悔しさを紛らわせるためにとりとめもなく考えていたそんなことをはっきり意識したのは、「my sweet darlin'」を聴いたときだった。
 この詠唱難易度は好みです。冒頭が(なぜか)中ボス級、長い日本語の中だるみ休みが入って、怒濤のラストへ。大ボスを用意しているところがニクイ。この曲をJポップ界のTATSUJINと呼びたい。
 これで自分の中の矢井田瞳像が椎名林檎像から分離できた。次は是非、達人王を出して下さい。

 でも「これ難しっ! クソじゃん」ってうっかり使いそうなんすよね普段から。嫌いなのには他の理由があるはずだ。と思って探そう、これからは。



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