ゲーム+α日記(2000年12月)

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12/29

 ギャルゲーは語りの対象にしやすい。ゲームチックな部分がないに等しいものがほとんどだからだ。ゲームについて言葉にするのはけっこう面倒くさい作業で、例えばあるゲームの第一印象を伝えるのには、いろいろ言うより似たゲームのタイトルを挙げて、聞き手の記憶に直接働きかける方がずっと楽だ。
 そんな中、あえてギャルゲーを選んでゲーム的仕掛けについて考えるのは、鳥なき里のコウモリの謗りを免れないだろう。それでもいいと諦めた。その通りだから。
 それにしても、リハビリ代わりにと軽い気持ちで取り組んだのが災いしたか、まとめるのにえらく苦労した。時間もかかった。

 いや。前置きはもうたくさんですね。Memorial Games更新:GREEN
 日付書き換えるのも久々なんで少し興奮しちゃって。
 それにしても、1年以上空けて、このコーナー2000年唯一の更新がエロゲーというのはいかがなものかと思えてならないけれど、「20世紀に置き去りにしていく」のだと見方を変えれば、ほら、どことなくサマになっているような。
 記憶には残し、記録(ハードディスク)からは削る。容量との兼ね合いで、新しいゲームを入れるためには他のデータを残してはおけないのだが、これで心おきなくアンインストールできます。

 今年はこれで更新終了です。よいお年を。


12/26

 『THE TYPING OF THE DEAD』はタイピングを楽しむゲームとして一流だけれど、良いタイピング練習ソフトへの道はこの方向だけではないかも知れない。
 「ゲームとして面白い」ということは、取り組むときの気構えにもゲームの高さを要求される、ということで、その高さを乗り越えるためにはある程度のエネルギーが必要だと思うのです。100円を投入するくらいのエネルギーが。
 PC版も本編は気軽に取り組めなくて、この頃はドリルモードの100人斬りがメイン。もう少し敷居を下げるためにはどうしたら? 「タイピングがうまくなりたい」という駆動力は、「ゲームで遊びたい」に比べて弱いだろうけれども、持続させるための消費エネルギーも少ないのではないか?

 そんなことを、少し前に遊んだ「RPG仕立てのタイピングソフト」を思い浮かべながら考える。
 アイディアを何重にも取り囲むダメで駄目でしょうがない演出を突きつけられて、当時は呆れるだけだった。でも、あんなゲームにも見るべきところはあったのではないかと、駄目装飾を一つ一つひっぺがして検証してみた今では感じられもする。自分の目はまだ贔屓で曇っているのだろうか。


12/24

 MDの編集で、曲やディスクにタイトルを入力するとき。キーボードで入れる訳じゃないから、左右+決定の3キーを駆使して、画面に映る文字をスクロールつつ選んでいくことになる。アルファベットなら26種しかないからあっさり検索できるけれど、カタカナの場合は50音+小文字+濁点・半濁点と80字近くの中を延々とさまようことになる。
 こりゃじれったい、時間を節約しよう、てんで、タイトルの文字をバラバラにして50音順に並べ替え、順に入力していくというやり方にしてみた。タイトル内の入力位置指定は「それまで入力した文字列内の移動」という操作が別にあり、それは80字の移動よりずっと短い。並べ落としがなければ、50音は一巡するのみで入力完了となる。
 で、その並び替えを頭の中でやっていたら気が狂いそうになった。例えば、「グランツーリスモ」というタイトルなら、それをほぐして「スツモリラングー」(小文字・濁点・記号(?)は後ろ)と並べ替えるのだが、この意味のない文字列というやつを抱えていると、強烈な、耐えられないほどの負荷を感じる。今のようにメモしていればどうということもないのに。「ファイナルファンタジー」なんか「イタナフフルンァァジー」だ。ァァとは何事だろうか。イライラしない方が嘘だ。

 でも昔、そういう技能を嘘でなく持っていた時期が、自分にはあったらしい。今考えると信じられないことだが、アルファベットをZからAへ向けて数えることができていた、との証言が家族からある。
 ほんまかいな。アルファベットの並びはABC順の方向だからこそ役に立つのに(QWERTY順もある? でも発音には無縁でしょう)。ただ呪文のように覚えていただけではないかと疑わしい(自分のことなのに)。
 その頃なら多分、今日のような作業もやすやすとこなすだろう。しかし、意味が崩れるレベルまで言葉を分解するなど、許されないはずだ、それがコミュニケーションの道具である限り。


12/22

 ゲームはネットワーク化することで質的変化を遂げる、だって想像してみろ、ゲームしながらチャットもできるじゃないか!
 そんな文句ではちっとも煽られなかったのですが、煽る側(作り手)と煽られる側(遊び手)の立場を混同していたことに気づいた。
 作る側にとっては、扱うプレイヤーの数が一挙に増えるという大きな違いがあっても、一プレイヤーのコンタクト先はあくまでゲーム、それは変わらない。接するゲームが変わっても、プレイすること自体は変わらない。
 ゲームと交流を別個に(同時に、ではあっても)楽しむのではなく、チャットさえもゲームの一部に取り入れられるのがネットワークゲームの特徴。思えば東風荘は、三味線を本格的にフィーチャーした麻雀ゲームと見ることができるのだった。

 それなら分かります、ネットゲームが楽しいわけが。俺はプレイヤー、接続先はゲーム、繰り返しそう唱えてやっと。おしゃべりが好きなら隣人と交わせばいいんだ。
 それでも、遊ばないままでの想像だけでは面白さの要素はカバーし切れまい。
 いや、『ファンタシースターオンライン』が少しだけ気になっているのですが。でも遊ばないだろうなあ。


12/18

 昨日考えたことはとりとめもなかったけれど、スコアアタック(より高く)とタイムアタック(より早く)が両立して、さらにギャラリー受けするプレイができるゲームがあればとても嬉しい、というのが、一日経っての結論なのだった。
 その視点から考えると、よくシューティングゲームで使われる強制スクロールは、「タイムという要素をなくしてスコアに専念させる」ことを目指した工夫なのだなと思い当たる。
 しかし、いくら足を引っ張り合うよりはいいからといっても、せっかくの目標をなくしてしまうのは勿体ない。ということで、早く倒せばたくさん倒せる「キャラ回し」が登場する。

 それに加えて登場キャラ総数を決めることで時間とは独立の足かせをはめ、さらにタイミングを計ってボーナスコンボをつなげる要素も加えて。
 ああ、『ゲーム天国』タイムアタックモードが。当たり判定や色遣いなどを抜きにすれば、あれは稼ぎゲームの理想の形なのか?


12/17

 ファミ通と言えば、『罪と罰』がスコア募集対象になっていた。
 このゲームでの稼ぎのポイントは、ステージクリア時の敵ヒット数・残タイム・残体力、スコアアイテムなど。スコアを上げていくことが迅速かつ華麗なプレイにつながるところが多く、好感が持てる。ただ個人的には、クリアできるだけのアクションを使いこなせるようになれれば、それで十分満足。
 少し気になっているのは、最終面での「パーフェクトボーナス」というもの。画面一杯に300以上も散らばる敵を逃さず倒すことで、破格のボーナス点が入るのではと思えてならない。その比重がどれくらい大きいかで、スコア募集のコーナーが盛り上がるかどうかが決まるだろう。総スコアの1/10も割り当てられていたらやる気激減、そもそも達成できるのかどうかも含めて興味深い。そんなボーナスはないのが好ましいけれども。

 久々にじっくりゲーム雑誌を読んだけれども、今週のファミ通では、コインを入れたことを死ぬほど後悔したクイズゲーム『ああっ女神さまっ』のDC版が18000本も出たのか、とか、またもドラクエとFFに邪魔されそうなGB版『グランディア』の切なさとか、『ドラクエ7』攻略スタッフの中に一人、インタビューされるのに不向きな人がいそうだ、とか、いろいろと楽しめた。


12/15

 まさかソフト側で設定するとはねえ。そうだよ、ないはずがないんだ。
 CE機の「関連づけ」問題は解決。次は不要そうなショートカットその他諸々を削除していこう(←それより「生み出す」側に回りなさい)。

 ファミ通クロスレビューを通し読みして、今度こそ徹底的に、心の底から、新作情報についていくことが不可能であることを悟った。これだけソフトが拡散しては追いつきようがない。狙いを絞って、数少ない出会いを大事にしていくしかない。
 その決意を固く保って『罪と罰』ハードクリアに挑戦、どうにかやりとげる。ラスト近くはコンティニュー頼みのごり押し、情けない。我が身を盾にひたすら前進、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ(本当に捨てている)、俺の屍を越えて行けという感じでようやっと。
 ってエンディング含めストーリーは全く一緒か! 補填なし?
 勢いでノーマルを1クレジットクリアしてみたがやはり変わらず。何とかならんのかコレ。クリアして満ち足りた今のこの気持ちと、与えられかけのお預け気分、相殺しろと言われればするけれども、それでいいのか?

 それにしても、こんなに大量の新作が出るのに、何もドラクエやFFをリメイクで出さなくてもいいのにと思うのですが。


12/13

 このたび縁あって、といってもそんな縁は自分から求めて得たものだけれども、Windows CE機ユーザーとなった。
 やはりこの機敏な応答は触れていて気持ちがいい。思いついて5秒で文字が打てると思うと(思うだけでそういう機会はあまりないにも関わらず)愉快になってくる。非常に得した気分! 買って良かった!
 と喜んでいじっているうちに奇妙なことが判明。エディタをインストールして、これからはテキスト入力にこれを使おう、と「.txt」ファイルを開いても、呼び出されるソフトは相変わらず、プリインストールされたPocketWord。そうか関連づけを変更していなかったと思い出して実行、しようとしたのにそのような機能が見つからない。関連づけという概念がCEにはない様子だ。
 たまげつつ、じゃあPocketWordがなくなったらテキストファイルはどう処理されるのかと興味が湧いたので削除してみようと思ったら、なんとそれもできなさそう。
 このOSとの密着ぶりには思わず分割命令を出したくなった。こうなると、決して使い勝手は悪くないPocketWordが急に憎たらしく思えてくるから不思議。
 ってこれ本当の出来事? ただ自分が知らないだけでどこかで設定変更できるんじゃないの? 未だ半信半疑であります。


12/10

 GBカラー版『ドラクエ3』の定価が6400円と知って驚く。これは、思い出に浸れる高年齢層ユーザーと、子供へのプレゼントを用意しなければいけない保護者のために設定された価格だ。両者とも、あまり気にせず金を出すだろう。
 …と思っていたが、
『ドラクエモンスターズ2』も同様だそうで、ゲームボーイソフトも出世したものだ。いや、ゲーム自体を見ず、相場と比較して買い控えを考える方がおかしいのか。


12/7

 君の名前は「ゾンビ打」じゃないだろ!?
 タイピングゲームの名作
『THE TYPING OF THE DEAD』PC版がついに発売されたので嬉々として買いに出かけたのですが、パッケージに本来のタイトルより十倍くらい目立つ大きさで、件の「ゾンビ打」などという謎の文字が踊っているのを見て驚愕。その傍らには追い打ちをかけるように、「バカウケ必至の爆笑タイピング!」なるコピーが、いずれもゲーム内の映画的演出を全く無視した朗らか系フォントで箱の表面を占拠している。さらにトドメとばかりに、店頭で流れる放送が「究極のバカゲーか?」と煽り立てる始末。
 なぜ? これは面白いゲームだと、自信を持って売ってはいけないの? セガがゲームの面白さを宣伝できなくてどうする? 従来のタイピングソフトが、そういったベタなセンスのネーミングでも売れたのは、比較の問題でしかないはずなのに。当ジャンルぶっちぎりNo.1に面白いゲームを自ら貶めてはいませんか。不思議でならない。
 ゲーム画面にまでその悪影響が及んでいなかったのは不幸中の幸いでした。正確に打つのが苦手だと判明したので、ドリルモードで練習練習。もちろんゲームをクリアするためだ。実用を考えればそこまで必要ないじゃんというところまで向かわせるモチベーションは、やはりゲームが持っている。

 ところでこのゲーム、一通り探したところでは終了のコマンドがありませんでしたが、どうやったら終わらせられるのでしょうか。強制終了?
 移植にあたってゲームを取り巻く環境がぼろぼろになっているのではと、↑の公式紹介ページを見ながら邪推せざるを得ません。なんだこの安い作りのページは。バナー(?)に「デット」とは何事だ。いったいどうなっているんだ。訳が分からず恐怖さえ感じる。これが本物のホラー?


12/6

 かつて、自己言及に付随して生ずるパラドックス(「落書きするな」という文面の落書き、みたいなもの)について読んだとき、それを自己紹介的発言(「はじめまして」じゃなくて「私って○○なんです」)に当てはめてみた。「自己」という言葉が持つ擬人的な響きの「擬」を無視して、安直に人に応用したのだった。でも安直な割には案外しっくり来たように思う。
 それ以来、その種の文章なり発言なりを全てギャグであると考えられるよう、頑張って修行している。今まで笑ってあげられなくてごめん、それ私には少し高級すぎた。

 本人が決定できないことなら、真偽は読者が恣意的にでも決めるしかない。内容が肩の凝らない雑文/雑談であるなら、受け取る側は呆れるよりは楽しみたいし、むかつくよりは笑ってすっきりしたい。楽しめるように情報を受け取る、そこに受け手の恣意性が発揮される。
 早い話、ほかに真偽を判断できる材料が何もないまま孤立して提示された「本人に関する叙述」は、本人にプラスになるよう書かれている(自慢や誇示)ならその反対に、マイナスになるよう書かれている(卑下や謙遜)ならその通りに、それぞれ解釈して構わない・解釈されるべきである・解釈してもらうためのものである。
 受け手は、基準なく宙ぶらりん状態のその叙述を救い出す。基準となる比較対象を受け手自身に設定し、比較する際に受け手が優越感を覚えられるよう、都合良く情報を操作する。証拠なしの自己言及はそれを許してしまう。
 まったくもって、優越感は喜びの源であります。

 と、話を早くしたとたんに、書き手のいやしい本性が、これは確証を伴って現れたようです。


12/4

 先週は本をよく読んだように思ったが、字が多いとはいえゲーム誌2冊の他には新書サイズ1冊だけだった。ただし読んだのが『バトルロワイアル』(高見広春著、太田出版)だったから1冊きりなんて感じなかっただけで。
 最初にどかんとルールを決め、42人の登場人物をそのルールに沿って動かすなかで、そのルールから起こりうるイベントを組み合わせてストーリーを作っていく、非常にゲーム的な組み立て方の物語。もう一遍同じ話を書いたら、全く違った結末になるのではないかと思わせる。
 そんなシステマチックな面白さに惹かれて最後まで読み通したおかげで、ゲームの時間が少なくなった。登場人物の誰にスポットを当てていても、書き手自身のおしゃべりが常に同じ調子で挿入されるのが時にうざったく思えるけれども、面白いのか面白くないのかと聞かれればそりゃ面白い。

 しかし映画化されているんだっけ、それは見たくないなあ。だって映像になったら、血みどろの他に汚物まみれのシーンなんかも出てくるんだろう? 小説では省略されているけれども、死ぬほどの恐怖にさらされたら当然排泄機構は麻痺するだろうと、これは筒井康隆作品群から叩き込まれた鉄の掟でありまして。
 文字による殺し合いの描写だけで一旦本を閉じて気を鎮めなければならなかった自分は、そんなビジュアルショックからは身を引いていきたいと切に願います。
 あ、ただし、最後から3番目に死んだ生徒に関する、ぶっ飛んだ設定と簡潔すぎる死にっぷりが映画でどう扱われているか、そこは気になる。そこだけ見たい。


12/3

 むー、「制作者に関する情報を集める」っていうのは「ゲームに対する嗅覚」ってものを鍛える方法なんだろうか。
 なんていうことを、ゲーム批評最新号を読みながら思った。パッケージを見ただけで伝わるものが! なんていうのはうらやましい能力だけれども、負の方向にしか効かない類推であるように思える(うわ、なんてダメそうなゲームなんだ!)。

 さらにアルカディア最新号…に載っていたエコール(『デスクリムゾン』)社長インタビュー。エコールでは企画書も仕様書も作らないんだそうな。「なるほどなぁ」という声が聞こえてきそうですよ、『企画屋稼業』方面から。


12/1

 社内の技術交流会というものに出席した。専攻外の分野でどんな進歩や工夫があるかといった本来の興味も十分満たされ、出て良かったと思える面白い会合だった。
 しかし内容から外れた中で最も面白かった出来事は、全く想定していなかった日中の電話連絡というハプニングに伴い、着信音をうっかり消さずに手荷物の奥底に放り込んでおいた携帯から『AIR』着メロがほぼ一周、静寂の発表会場に響き渡ったことでありました。ああ面白かったさ、焦りで顔を真っ赤に染めた自分が。今振り返っても確かに。
 いや喜んだり恥じたりの問題じゃないだろう! 場を乱してごめんなさい!



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