ゲーム+α日記(2001年3月)

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3/30

 ああっ『セガガガ』が予定通り届いてしまった! このクソ忙しい上に青ゼルダが甘い見積もりをはるかに上回る進捗の遅さで滞り、その上よせばいいのに『シスター・プリンセス』を体験などしてしまっているうちに!
 そして体調もおかしいです。せきが周期的に訪れる。微熱もあるし風邪なんだろう。ハナから破綻の明らかだったゲームと業務の年度末進行、全てやり遂げることを目標に置かずに頑張ろう。

 セガのゲームで世界制圧! のセガシミュレーションこと『セガガガ』の、「怪物と化した開発スタッフを説得・交渉して味方に引き入れる」というRPGパートの味付け。ひどい見立てだけれども、この駆け引きの相手が化け物じゃなかったら生々しすぎるから、ゲームのためにはこの方がいいんでしょう。
 わざと不正解を選ばせる、そこに必然性を持たせた三択クイズのシステム。それがもし『女神転生』シリーズの仲魔集めに似ていたとしても、そちらを知らない私はこのシステムに感心しました。


3/28

 少しずついろんなゲームを遊んでみるのもいいことだろうと思い、体験版つきの雑誌、電撃PS-Dを買ってみる。一番の狙いはもちろん『シスター・プリンセス』
 これほど「一度見てみたい、そして二度は見たくない」気にさせる設定のゲームもなかなかないかも知れません。自分基準では『デスクリムゾン』と同方向の興味。

 前もって「12人の妹候補(?)とメールでやりとりする」というゲーム内容に関する曖昧きわまりない知識があり、そこから「『センチメンタルグラフティ』+血縁スパイス」のような設定かと想像していました。12種類に分けられるイベントが並行していき、それぞれの妹(?)は他の11人のことを知らない、といった塩梅の。
 違うみたいです。この体験版を遊ぶ限り、ストーリーは一本、そこに全員が絡んでくる。複数が顔を合わせることがあり、お互いをよく知っている。というか、全員集合してパーティーを開く、というイベントが入っていた。
 ということは。本物の妹を一人捜し当てるゲームではなく、12姉妹、13兄妹で展開されるストーリー!

 いや、どちらの設定が不自然といえば甲乙つけ難くはあります(-100対-101みたいな相対比較)が、ちょっと豪快すぎますよそれ。4つ子が3年連続で誕生? あるいは血縁と法律上の違い? いや、キャラの顔は似ていたから、血はつながっているのかも知れません。
 いずれにしても、みんなで姉妹関係を共有しつつ口々に「お兄さま」(呼び方が各キャラで違う)と慕ってくるありさまを見て、しかもその期待に応えようと頑張っている(その世界を受け入れている)主人公を見て、ドッキリカメラがそのうち現れるんじゃないかと心配したり、その一方、プレイヤーとして主人公の立場に置かれることを考えると、ドッキリであることを切に願う心持ちになったりしました。
 「バッカじゃない? 本気で妹だと思ってたの? あたしたちのお芝居も上達したものね」って腹を抱えて笑われて幕、というオチを希望。それがエンディングなら最高なんだけれども(バッドエンドでも可)。


3/24

 やっと『俺屍』終了! つっても最短「あっさりモード」でのクリア。
 このゲームには4つのモードがあります。各モードの違いは推定総プレイ時間。遊べるゲームは同じ(だそう)です。戦闘で得られる経験値やお金、成長のしかたを調整してあるんですが、恐ろしいのはそれに加えて「ストーリー上の演出を端折っている」こと。
 例えばマルチエンディングの1つを削るというのではなく、物語の骨格はそのままでエピソードが語られないまま終わる、という形らしい(長時間モードをプレイしていないから推測でしかありませんが)。時間短縮のためにゲームのシステム部分に手をつけるぐらいなら、ストーリーを説明不足にする、それでも「同じゲーム」だ、というこの考え方はすごい。
 せっかく作ったストーリーなんだから、遊んだ人全員に見てもらいたいと普通思うだろうに。ストーリーを語ることよりゲームに触れてもらうことの方がずっと楽しいはず、というその自信、しっかり受け取りました。あっさりでも十分満足です。

 一つゲームが片づいた。一方、3/29からは『セガガガ』期間となる予定。このちょっとした隙間を埋めるべく、後継機が売り出された中でゲームボーイカラーを引っぱり出し『ゼルダの伝説 ふしぎの木の実 時空の章』(青箱のほうなので、以下青ゼルダ)を遊ぶ。
 しかし、今回のゼルダは二本立てだけれども、もし『大地の章』のゲーム内容が別物であるなら、同時発売は絶対避けるべきだと思う。もう色違いとか性別違いとかはうんざり。一つのタイトルは単体で完結していてほしい。作るならきちんと続編という形にして。

 さて青ゼルダですが、ゼルダってこんなにお使いゲームだったっけ? と驚く。あっちへ行けこれを取ってこいと右往左往。しかしゲーム内容(特にアクション)は確かにゼルダ。なぜ今回のはお使い感覚が強いのだろう?
 理由は「目的が明示されているから」だと思います。次にすべきことがはっきりと文章で示される。後から何度でも見直せる。次なる目標がいつでも参照できるゼルダ、というのはかなり違和感がある。
 ゼルダシリーズは、目的も自分で探していくゲームだった気がします。といっても遊び方を開発するとまではいかなくて、すべきことはあるけれども情報の露出が抑えられていて、与えられる手がかりは少しだけ。何をしたらいいかに頭を使わせられるゲーム、というイメージを持っていました。
 今作でも頭は使います。でもそのスケールが一回り小さくなっていて、考えるのは今のところほとんどが迷宮内のパズルを解くためです(現在迷宮3つクリア)。このパズルはかなり歯ごたえがあって、こんなのどれほどの人が解けるんだろうかと少し心配になるくらい(←自分ができたことから来る優越感が匂いまくり)。
 うーん、ゼルダシリーズのパズル的要素って、迷宮のトリックだけにとどまらない、もっと大きな存在だったと思うのだけれど。青ゼルダにおけるパズルの重みはSFC『エストポリス伝記2』のよう。ちなみに『エストポリス伝記2』は「既存のRPGと『ゼルダ』をいいとこ取りした面白いゲーム」と言われていました。


3/21

 それから思いつく限りの近所のゲーム屋を巡って分かったことは二つ。『ロードス島戦記』の新品は置いてないということと、ドリームキャストのソフトに対する強い風当たり。3月の値下げとともに全品2000円均一にして売り切ったところあり、「再入荷は致しません」の張り紙ありと厳しいありさま。
 気づくのが少し遅すぎたようです。しまった。

 そんなわけで募る欲求不満が、いろいろ買ったり借りたりする形で現れる。久しぶりにレンタルビデオを利用したりしました。特に目当てがあったわけではなく『ショーシャンクの空に』をチョイス。
 歳月を感じさせない演技ならぬメイクとか、そりゃバレるだろってなラストの一発逆転トリックとか、つっこみどころはあるのだろうけれども、そういう経緯をたどったんだからイチャモンつけてもしかたないと思わせられる骨太感あふれる物語でありまして、ドラマ慣れしてない身としてはひとたまりもなく撃沈。中終盤の静寂→射殺シーンで体が反射的に動いてしまいちょっと恥ずかしい。


3/19

 うっそぉ〜DC『ロードス島戦記 邪神降臨』作ったのってネバーランドカンパニーだったんだ! 知らなかったーどーして教えてくれなかったの!
 といささか女っぽく驚いて、そうと知ったら明日にでも買いに行くさ、ロードス島戦記って一切知らないけれども。幸い評判も良さそうだし(ナイスゲームズより)、きっと楽しめることだろう。ネバーランドが生きていることが分かったのも嬉しい驚きだった。

 頼まれもしないのに今の気持ちを細かく説明しますと、
1:「あの傑作『カオスシード』を作った会社のゲームなら面白いに違いない、だから買う」
というのとは微妙に異なります。
2:「あの傑作『カオスシード』を遊ばせてくれたお礼として、次回作も買う」
という感じ。1は次回作を遊ぶこと、2は次回作を買うことが目的です。続編とか何かつながりを持ったゲームに対する私の購入動機は、たいていそう。
 こういう気持ちで次回作を買うのは、本当はおかしい。買った時点で達成される目的なんていうものを、単体では役に立たないゲームに適用するなんて、直観的に変です。ゲームは遊んでナンボ、積んどくだけじゃかわいそう、ってのはよく聞く言葉です。
 正しい態度は「そのゲームがいいと思ったら、その同じゲームを何本も買う」となるでしょう。それが筋というもの。

 でも、変だし正しくないけれど、そうしてるってことは、それが自分のためにいいってことですね。「いい」のはなぜか、をもう少し腑分けしてみると、
A:「同じものを買うのはつまらない」
B:「買ったときは遊ぶつもりがなくても、手元にあればそのうち遊ぶかも知れない」
という二つの理由でそうしているみたいです。最初のはそこで完結してしまう、大したことのない理由で、二つ目の理由が自分の中で重要。これがあることで
面白いゲームに出会う→次回作が出る→買う(2)→遊んでみる(B)→面白かった→……
というループを成り立たせることができるし、たとえ次回作が面白くなかったとしても
次々回作が出る→前のゲームの面白さがまだ余韻を残している→買う(2)→……
でループに再突入する可能性がある。実績評価偏重型、プロ野球の契約更改のようなものですね。「プロ野球の」というのはたまたま年俸の記事をよく見かけたからつけただけで、年俸制度って皆同じですかね。

 次回作に対して期待してないという意味で、こういう動機は保守的というか後ろ向きと言えるでしょうが、なぜそんなふうに考えるようになったんでしょうね。次回作がハズレだったときに悲しまないよう、心の準備をしてるのかも?
 「元来『期待』できない性格だから」という身も蓋もない回答が浮かんできましたが、あまり考えないことにします。というより考えたくありません。それ正解かも知れない。
 だって、すんなり期待できますか(メーカー限定してません。一般論で)? メーカーが同じだってスタッフが共通とは限らない。スタッフが同じだって――って、考えないことにしたっつうのに。やめたやめた。これもまた個人的な問題だ。「裏切られるのが怖いから」ということにしておこう(それもどうかと思うけれども)。

 DCつながりで、上の話から「カプコン、アーケードから撤退」報道につなげられるかと思ったけれど無理でした。いや、日経がDC製造中止のせい、みたいな書き方をしていたもので。コメントがセガ風味。条件付きの否定なんて肯定と同じようなものだ。
 むー、来年度以降、ゲーセンに格闘ゲームって残るんだろうか? それよりゲーセンが残るかどうかを心配すべきかも。


3/17

 Memorial Games更新:てんたま。日記ではゲームらしいゲームにも触れるけれども、こういうのは割とまとめづらい。ギャルゲーはゲーム自体にはほとんど言及せずに済むから文章にしやすいのです。同じことを前にも書いたような。

 この際だから『てんたま』ちょっと嫌な話、など。嫌なのは、以下のようなネタを取り上げる私の性格が、なんですが。
 『てんたま』のスタッフロールには、シナリオ監修者として2名が挙がっているのですが、お一人は椎名さんという方です。名前の色分けから見て男性と思われます。
 一方、ゲームの主人公は椎名という名前です。ゲームでは女の子から名前で呼び捨てにされます。台詞には声優さんの声がついてます。「し〜いな☆」って具合に。
 …いい気分だったかもしれませんね。

 念を押しますがこれは嫌な発想です。ゲームを作るにあたって作者がどんなつもりでいたか、それが分かったところで、ゲームから受ける印象は変わらないはずです。私はあまり関連づけないようにしています。ゲームにとってはどうでもいいことのはずだから。そう思っている上で今回やりました。
 まあそれ以前に、名前を呼ばれることのが嬉しいかどうか、その人の名前を呼ぶこととその人を呼ぶことをそんなに簡単にイコールで結んでいいのか、という問題があって、今はそれをわざと無視しましたが。たぶん、世間的には結んでいいんだと思います。それは個人的な問題なんだろう。

 嫌な話その2。情報誌には全く顔を出しませんが、『てんたま』の販売はエレクトロニック・アーツ・スクウェアが担当しています(ゲームには出てくる)。あれ? スクウェア、ギャルゲーに本格的に進出? 遅すぎやしないか? と思いました。
 が、これはデジキューブとのからみがあるのかもしれません。デジキューブでは「Digital Contents Terminal」というデータ配信業をやっていて、その中に「Digital Photo」という画像プリントサービスがあるんですね。で、歌手やアイドルの写真に混じってゲームのキャラクターも選べる。『トリコロールクライシス』に『下級生』に『デッドオアアライブ2HARD-CORE』と、ギャル満載のコンテンツです。その中に『てんたま』も入っていました。
 商品の選択肢は多いに越したことはないかも知れませんが、これはかなり厳しい商売だと思いますよ。一週間ほど前の日経新聞では、モーニング娘のフォト欲しさに渋谷のコンビニに若者が群がったそうですが、「衆人環視のコンビニで『てんたま』の画像をプリントアウトすること」を罰ゲームに賭けたボーリングなどは、白熱すること間違いなしでしょう。


3/12

 全てを知った上でゲームするなんてどこが面白いのか、という問いに対しては
「全てを知っていることと、全てを思うままにできることは違う」
と答えればいいだろうか(おとといの続き)。
 全てを知るだけの者は、その世界に対して力を持たない。彼にできることは、起こったできごとを解釈すること、理由づけすることだけ。しかも、彼にとってはそのことが無上の楽しみなのだった。

 思い通りに世界を操ることよりも、後づけの理由を見出すことを楽しんでいる様子が見たければ、競馬中継など最適だと思う。どんな波乱のレース結果も解説できていながら、予想はまるで当たらない、そしてそれにもかかわらずその人は楽しんでいる。それが「解説者」としてふさわしいかどうかはともかくとして、当てられないことを前提とし、理解することを目的とする楽しみ方というのは確かに存在します。
 ただ、同じことをしているようでも、解説を付けられることで世界を操れていると勘違いしている人もいるかもしれない。どちらなのかは見れば分かりますね、きっと。見ていて鼻につくかつかないかで。

 そんな遊び方の共通点を媒介として、自分の中で『ウィザードリィ』と『ダービースタリオン』は関連づけられています。私の『ダビスタ』の楽しみ方は、競馬中継の解説者さんの楽しみ方に非常に近い。
 同じ方法で『シルバーガン』も結びつけられそうな気がしてきた。個人的な事情が、ロールプレイングゲームとシミュレーションゲームとシューティングゲームをつなげようとしています。意外な結びつきに少し興奮しているのですが、そんな個人的な興奮が伝わるわけがない。


3/10

 むかし『ウィザードリィ』のファミコン版の1作目を、「リセットなししばり」で遊んだことがあった。死のうがレベルを下げられようがロストしようが一切を受け入れなければならない、という掟を設定して遊んだことがあった。
 当時はただの思いつきで、そのプレイがあまりに面白かったので、『ウィザードリィ』はリセットしたら楽しみが損なわれるゲームだという固定観念ができあがってしまった。でも、振り返ってみれば、あれが面白かったのには原因があったのだ。
 条件は、ゲームの内容をほとんど知っていることだった。ここが序盤の山場だから覚悟をしなければ、とか、エレベーターを使えるようになったらすぐ一番下まで降りて、とか、最下層はいろんなところに地上へのワープポイントがある、とか。さらには敵の弱点や呪文の特性なども。それらを把握していなかったら楽しめなかったはずだ。なぜなら、起こることが予想できる中にいることが楽しみだったからだ。
 あれは、何が起きても対応可能な、心の準備が万全な状態での冒険だった。予想できることが最も重要であり、キャラがひどい目に遭うことは問題ではなかった。どんな目に遭おうとも、それがゲームの世界の法則に従っている限りOKだった。そうなる可能性を分かっていて、実際にそれが起きたというのに、それをなかったことにしようという発想は出てこなかった。
 あの時の自分には、それが一番の楽しみ方で、他には必要なかった。そして、一本のゲームでそこまで準備するためには膨大な時間がかかったので、他のバージョンを遊びたいとは思わなかった。同じシステムで別のダンジョンを用意されてしまうことには、デメリットしか感じなかった。

 『ウィザードリィ』の罠に落ち込んだ期間は長かった。今でも、そうした遊び方には魅力がある。でも、この遊び方でゲーム(『ウィズ』に限らず)を遊ぼうとすると、大変な後ろめたさを感じるようになった。
 個々の確率から生まれる数値は制御できなくても、その数値(結果)がある確率で出ることを把握した状態にプレイヤーはある。それは、ゲームの中では神様でいるのと同じ。プレイヤーはキャラクターになり切っているのではない(敵と対等の立場にいるのではない)。なにに、と強いて言うなら、プレイヤーはゲーム自体になり切っている。敵の攻撃も、自パーティーの行動も、全てを把握した神様として、プレイヤーはゲームの世界に君臨する。
 私はそんな「プレイヤー」=神として、このゲームを遊んだ。そういうふうに遊ばせてくれる『ウィズ』を、この上なく良いゲームだと思った。他の人はどうなんだろう。他の人は、『ウィザードリィ』のどんなところを良いと思ったのだろう。

 この遊び方は「閉じて」いる。遊んでいて後ろめたいのはそのせいだと思う。自分だけの世界に他人の介入は認められない。無視された他人は白い目で見る。白い目で見られたくないから後ろめたさを感じる。でも、この閉じ方は、代替不可能なゲームの特性なんじゃないかという気がする。
 閉じるのは怖い。滅茶苦茶に魅力的だからなおさら怖い。ちょっとまだ、今は思い切れません。例えば『俺屍』をそういうふうに遊んではまずい。目的意識を命綱にしておかないと。
 そういうゲームがあまりないことは救いです。


3/6

 風邪が治ってゲームする気も取り戻し、また『俺屍』生活に入ったところですが、一度落ちかけた罠から抜け出せた今は大変晴れやかな気持ち。
 罠っていってもゲームの中のことではありませんで、仕掛けたのも落ちかけたのも他ならぬ自分。「『俺屍』を見切ったと錯覚する」罠に、すんでの所ではまってしまうところだったのでした。

 『俺屍』というゲームは、プレイヤーキャラを絶えず入れ替えて遊ばせる(具体的には、早死に&子作りさせる)ことで、パーティーの総力の上がり方を調整するシステムを取っています。キャラを取っ替え引っ替えしているうちに、出てくるキャラの強さの上限が少しずつ上がっていき、戦力が底上げされていくという仕組み。
 ということは、ちょっと頑張れば倒せるくらいの敵を倒すのを繰り返していけば、やがては強いパーティーができあがる、ボスに挑むのはそうなってからにしよう、このペースだと相当時間がかかりそうだな、そのうち敵がレアアイテムを落としたりするだろう、なるほどそうやって楽しむゲームね……
 と、『俺屍』の先行きを予測し、想像の範囲内の楽しさと、それを得るためにかかりそうな時間を見積もり、手間がかかることを考えて静かにゲームから手を引く、という流れで、次第に『俺屍』熱が冷めていったのでした。
 そんな矢先の風邪でさらにゲームから離れて、ちょっと遊んだ先週末が久しぶりのプレイ。

 そのときに、プレイ時間はやり方次第で大きく縮まることが分かったのでした。
 力不足のパーティーと限られた時間でどれだけ戦果を挙げられるか、に的を絞れば、工夫の余地は用意されていたことに遅まきながら気づきました。
 例えば、このゲームではフィールド上を移動する敵と体当たりすることで戦闘に入るのですが、そのとき敵の背後を取ると先制攻撃ができて非常に有利、しかし敵も簡単に隙は見せてくれない。だからといって諦めるのではなく、運に頼るのでもなく、「敵の動きを鈍らせる呪文」「敵の動きを止める呪文」を唱える、という手段があったこと、そして実際に隙だらけになってしまった敵の動きを見て、爆笑とともにまた『俺屍』を見直したのでした。

 退屈な遊び方を選んでおいて「退屈なゲーム」と思ってしまうのは愚かしい。だからといって「何事にも工夫は大切だ」なんていう正しいかもしれないけれど何の役にも立たないまとめはしないで、あの日はゲームを楽しめたいい休日だったっていうことで、回想録を終わります。


3/3

 子供の頃、具合が悪くなったとき、そのことを大人に伝えるたびに聞かれることがあった。「どんなふうに痛むの?」という質問。
 どう答えていいものか分からず黙っていると、続けて「ほら、シクシクとかジンジンとかキリキリとか、あるじゃない?」なんて来られて、これらは腹痛を訴えたときに求められた擬態表現の例なのですが、そんなこと言われてもどれがそれだか分かりゃしませんっての。
 よしんば自分の中で、なんとなくキリキリかも、と思ってそう伝えたとしても、それが質問者の想定するキリキリかどうか確認するすべがない。そんなこと聞いて何の役に立つんだろうな、と思っていました。
 「よしんば」が使えて、今少し嬉しかった。

 今はその代わりに、客観性の増したデータの提出を求められており、それには応じることができます。熱っぽいです。せきがよく出ますそれに頭痛がついてきます。歩くと体が浮く感じです。
 もしかしたら、子供のためを思って、説明的であるよりも直観的な方が子供にとって表現しやすいだろうという気遣いから、そんな問い方になったんだろうか? そうであるならそれは、ただ言葉を知らないから説明できないのと、どれだけ年を食おうが関係なく根本的に伝達不可能なこととを混同した大きな間違いだと思うんですが、子供時代にはそんなこと思いつかなかったし。そりゃ腹を抱えてうずくまるしかないわさ。

 過去の面倒ごとからは縁がなくなったけれど、それで風邪の治りが早まるわけじゃない。終日寝たきりで過ごすはめになりました。
 ずっと寝ていても、発熱と頭痛が絶え間なく相手をしてくれたので退屈ではありませんでした。でも目で活字を追うだけでも疲れてくるんでは、じっとしているほかにない。見て捉えた情報が意味を形作ろうとする、その働きが拒否されているようでした。これじゃ本も読めないし、ましてやゲームもできない。
 ところが。そんなにも弱い視覚刺激に対して、聴覚からの情報は案外滑らかに入ってくることに気づきました。これはなぜなんだ? 目は閉じられるが耳は閉じられないからか? 耳はいつでも情報を受け入れているから、体が弱っても意味作りへの耐性ができているんだろうか?

 そんなわけで、寝ながらCDを聞きました。『Kanon』真琴シナリオの。
 こんなものが置いてあるTSUTAYAにも疑問符を差し上げたい。あの店はどういう基準で商品を仕入れているのか謎。借りる客がいるんだから正解ではあるけれども。
 まあとにかく借りたものを聞いていて、あれ? と思ったんですが。
 そのままなんですよね、この『Kanon』CDは。ゲームそのまま、そこに音声が当たっただけ。この間『Sense Off』ドラマCDについて「ゲーム内のテキストが多めに入っているのが特徴」なんて書きましたが、正確には「別の物語があって、その中でゲームのテキストをふんだんに利用しているのが特徴」なんですね。『Kanon』はゲーム内のテキストで溢れているけれども、それはこのCDをゲームから隔てる特徴なんかじゃない。
 もちろん、元が泣ける話だから聞いてみれば泣ける。声が付いたことで泣きツボが強化されたところもある(丘に出かける二人を見送る秋子さんの潤み声「いってらっしゃい」は強烈)。でも、それだって原作のカバーに過ぎない。
 ああ、このCDのタイトル「沢渡真琴ストーリー」ってそういうことだったのか。それでいいのかな。これじゃ物足りない、というかグッズの域を出ない商品だと思います。



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