ゲーム+α日記(2001年6月)

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6/30

 『ソニックアドベンチャー2』への情熱が急降下していく。
 巨大な敵の背後を取るために、そいつを取り巻くように渡された石橋を半周して回り込む、というシチュエーションがある。こういう場面で、3D移動をアクションに取り込めなかった時代のゲームは、横視点2Dアクションのまま、それに連動して三次元的に見えるよう、背景画を混ぜていた。この時点では、3Dは演出でしかなかった。だから、橋の横幅がいくら狭くても、落ちるかもしれないと緊張することはできなかった。
 『ソニック』は違う。上下左右前後への行動の自由度を得たアクションだ。その結果、意図しない奥行き方向へのちょっとした入力によってさえあっさりと転落してしまう、「いつでも落ちる自由」を獲得できた。
 あんまり嬉しくないです。そして多分、テストプレイしていても好感触は持っていなかったんじゃないかと思う。なぜなら、その敵の背中から頭のてっぺんにかけて、危なっかしいアクションで苦労しなくて済むように、「ホーミングアタック」(自動的に目標に向かって突っ込んでくれるソニックの能力)が活用できる仕掛けが作ってあったから。それを使えば、方向キーに頼らずとも、Aボタンだけで気軽にボスを攻略できるようになっていたから。
 このヒントは、3D移動は、少なくともこのボスステージにとって単なる障害でした、という告白であるように思える。がっかりしました。
 そして、ゲーム屋には平然と、期間限定販売商品だったはずの限定版が、それも1,000円下がって並んでいた。ああ。あの広告の「2日間しか売らないぜ」ってのは、「5,800円で売るのは2日間だけ」って意味だったんだなあ。

 そんな重い気分を振り払うように、『マジック:ザ・ギャザリング』を遊んでみる。
 『マジック』については、極めて希薄な予備知識しかなかった。確かカードゲームであったような…というのよりはほんの少しましな程度のそれは
 「妙なシンボルマークが何種類かあった」
 「カードには、絵の他に何か文章がついていた」
という二点。
 それらもまた『DT』プレイ中の記憶がごちゃ混ぜになって生まれたものだったかも知れない。何にせよ、『DT』を遊んでみて、『マジック』のルールを『DT』がどれだけ受け継いでいるのか、『DT』が切り捨てた要素があるとしたらそれは何か、といったことに興味が出てきていた。でも、一人でその違いを知るためには一人遊びできるもので比べなきゃならない、というのがドリームキャスト版『マジック』購入動機でした。
 チュートリアルムービーを一通り眺めた後で対戦してみる。『DT』は、カードを特定・集中して攻撃でき、場から葬り去ることができるため、『マジック』より短期決戦になりやすいようだ。
 と、それが一番の違いと感じられるくらいには似ているものだと分かり、先ほどの興味も満たされていく感じ。だいたい、こんなルールをたかだか一度のチュートリアルモードだけで理解できるなんてところからも推して知るべし。用語に慣れさえすればついていけます。

 しかしこのDC版『マジック』の、テレビゲーム化にあたっての重点方針は『DT』のそれとは大いに異なっていて、その比較も面白かった。例えば対戦画面。カードが「床に並んでいく」のには驚かされます。それも、コンピュータ側は上下反転して。視点はパースをつけて。
 これは、対人対戦模様を再現しようとしているのでしょうね。遠くのカードは自然と見にくくなりますが、それを拡大・縮小と高解像度で解決しているのが何ともむりやり。
 さらにカードの説明モードでは、(恐らく)本物のカードをそのまま表示。文字なんかもきちんと、カードの効果とエピソードで書体を使い分けるなど、再現に向けた努力は痛いほど伝わってきますが、フォントが小さすぎて判読できないため、テキストが併記されています。
 力の入れ具合がずれているんではないでしょうか。本物という厳密な見本があるせいなのかも知れませんが。

 あと、密かにチュートリアル「ムービー」であるのはかなり問題。ナレーションに合わせて場面が流れていく…止まらない! ノンストップでプレイの様子を紹介するムービー。
 そして、知りたいことがムービーの最後にあっても、一連の項目を初めから見るしかない素敵な仕様なのであります。

 あ、ゲーム自体は面白いと思いました。って、あれだけ流行っているのに付け加えることもないか。


6/28

 めまぐるしい展開についていけないというのもあるけれど、せっかく用意されたコースを一気に駆け抜けてしまうのって勿体ないなあ、というのが『ソニック』シリーズに対する自分の、どちらかといえばネガティブなイメージだった。
 一瞬で通過するエリアだから絵がおざなりかというとそうではなくて、そこで止まって歩く人のためにもてなしのグラフィックは抜かりない。全員が走り去ってくれる地帯なら、あるいは程良くぼかした風景でスピード感を主張しつつ使い回し、とかもできそうだけれども。かっ飛ばせる自由よりも、好きなだけ止まって探索できる自由のために、大変な手間が必要なんだと思う。
 走るのと見て回るの、どっちを優先したらいいんだろう。そういう両立できないことで悩まなければいけないのが、ちょっと。

 しかしながら、じっくり探検に浸らせないのが『ソニックアドベンチャー2』の個性で、前にも触れたカメラアングルへのイライラが募るこのごろ。視野の回転方向が感覚と左右逆だったり、キャラを遮る絶妙な邪魔加減で壁を大写しにしたりと、マップが意図する以上の難易度に苦労させられます。
 特に驚いたのが、カメラに突然正面に回り込まれたとき。ちょうど通路から小部屋に入った瞬間に起こったこのできごとによって、「方向キーを固定したままなのに、入ったばかりの部屋から即座に退出」させられました。
 同じことを水中でやられて方向感覚を狂わせられ、あげくに溺死ときた日には、笑うしかないです。しかし、オモチャオ(ヒントをくれる人形)をひっつかみ、死んでも離さない決意で入水しても、死ぬのは結局自分だけなんだなあ(←罰が当たったんだろう)。


6/25

 先日の心がけを胸に、改めて『プロギアの嵐』に臨む。
 ここで、自分の発想が至らなかったことを思い知らされた。5面はほとんどが、当初設定した「ボムを使うほどのピンチ」に該当してしまうという厳しい現実を目の前にしては、せっかくのおまじないも功を奏さなかった。ラスボスにてTHE END。
 それでも! 4面クリアまではこれで頑張れた気がした、少しずつ進歩していけばいい。
 少しずつ…と言っていられるほどの時間が、あの場所のこのゲームに残されているのかどうか。
『怒首領蜂2』にカプコンが絡んでるなんて知らなかった。まさか入れ替わったりしないだろうな。入れるのは構わないけれども、交換するなら隣の『ギガウイング2』とにしていただきたいものだなあ(身勝手)。

 ところで、今月末からしばらくゲームを買い続ける(ったって1本/週)ことになりそう、とは思っていたけれど、まるで購入予定のなかった新作がなぜか今手元に(※盗んでません)。
 「そんなに限定品が好きですか?」ぐふぁっ!!<きつい一言> (by『セガガガ』)
 おまけCDにつられて『ソニックアドベンチャー2』をつい買ってしまったッ! ソニックとは相性が合わないことを知っていながらつい! あのスピード感が当方の処理速度を凌駕していることを初代『ソニック』に突きつけられた、遠い日の思い出が蘇る… 金色の16-bitに敗れ去った、あの夏の日…

 まあそれでもせっかくだから遊んでみるか、と(すぐやらなければ二度と遊ばない気がしたので)プレイ。
 はは、速いー! というか、なぜキミは「高層ビルの直立な壁を駆け下りる」んですか〜! 同じ箇所を自由落下するより明らかに加速されていることを後で確かめ、その場面で割とこのゲームに満足してしまったのですが、同じシチュエーションが前作にあったりしたらお門違いの感心でありますな。
 ややアバウトなカメラワークは、じっくりマップ探索プレイの際には目につく欠陥となってしまうだけに、ここはひた走りに走ることで、めまぐるしく揺れ動く景色をも演出に見せるソニックスタイルに徹することに大決定!(←さっきと言ってることが大違い)


6/23

 非ゲーマーな友人の前で『プロギアの嵐』をプレイしてみせるという小イベントあり。「クリアしてね」と屈託なく言われて、「…うん、頑張る」と答えたときのちょっとしたためらいは彼に伝わっただろうか(無理です)。
 3面までは大変好調に進む。しかし、ボムをためらわず使う決意でいたのにうっかりミス多数、結局5面道中で全滅。ここ一番の勝負弱さを見せつけた次第でした。彼にとって恐らく初見であったろうゲームの中身については、それでも分かってもらえたみたいだけれども。

 悔しいながらも気づいたこと。
 ボムの抱え死にを2度やらかして、もったいないと思ったその瞬間、ボム発動の活性化エネルギーが一気に低まったのだった。その後は、あたかも手段から目的に変わったようにボムに頼りきり。ついにはボムボタンの空打ちまでする始末。
 そして、使い果たしたと悟るやパニックに陥り、まるで弾に当たりにいく感覚で撃墜され、というかたちで自分のプレイは終了したのだった。
 心がけるべきなのは、ボムを使うことじゃなくて、いつがピンチなのかを把握することなのだな。はじめからボムという結果を直接意識するとプレイがおかしくなる。ひとまずボムのことは頭から外して、まずピンチの価値を判定する訓練をしよう。そして、「ボムを使うほどのピンチ」という自分の基準を作ろう。その基準は練習によって上げられるだろう。
 そうすると、危ない状況からボムを使うまでに判断が挟まるから、危機回避にタイムラグが生じるだろうけれども、弾足が遅いゲームだからこれでも何とかなるのではないか?

 うん、次はなんだかうまくいきそうな気がしてきたぞ!
 (しかし、これを実践的なアドバイスに変換すると「画面をよく見なさい」とかの当たり前で面白くも何ともない結論になってしまうな。というか、「画面をよく見て」というアドバイスはそういう考え方をいつも裏に含んでいるものだったんだろうか。いやそれより、ボムのことばかり気になってしまう困った癖を直そうという発想はないのか? というより、そもそもそんな抽象的な「心がけ」で本当にうまくなると思うのって、自分の頭の働き方がかなり幸せなんだろうか?)


6/20

 プレイヤーがゲーム作者と戦うようにゲームを遊ぶ遊び方がある。どうやら、それは自分にとって、ゲームとの望ましくない関係であるらしい。
 その状態に入ったら最後、プレイヤーはゲームの外に出たことになる。それまでゲームのルールに従い、あくまでルールの範囲内で勝ち負けを競い、負けてもそれを当然のこととして受け入れていた段階を、過去のものと思うようになる。
 作者との戦いには、終わりがある。はっきりした勝ち負けがつく:解けないうちは負けで、解けたら勝ち。この戦いにルールはない。ゲームのルールは作者が決めたものだから、それに沿って負けるのには納得できない。それくらいなら、ルールの不備を突いて勝つ方を選ぶ。そして、どれだけ作者が知恵を絞ろうとも、抜け穴を探し続けるプレイヤーに対抗してルールを改めていくことができない以上、作者の勝ち目は薄い。
 努力の果てにプレイヤーは勝利を得る。勝利の味わいは刺激的で、かつてそのゲームの中で得ていた、ルールに縛られ、翻弄されることによる小さな、そして麻薬的な喜びをかき消してしまう。そして、その感覚は、同じゲームではもう二度と得られない。こうして、その勝利とともにプレイヤーはゲームから卒業していく。

 一本のゲームからの卒業は時に必要だけれども、それはゲームからの要請じゃなくて、そんなに遊び呆けていたら生活に差し障りがあるとか体力が保たないとかの、ゲームの外側から課される条件だ。これに対して、ゲームはずっと遊んでもらいたいし我々はずっと遊びたい、そうお互いに思っていて、望めばそれをかなえられる外的環境が我々の側にあるにも関わらず、そのゲームから離れなければならない場合がある。
 その「場合」は、ゲームに由来するものとしては、ひどい操作性とか腹立たしい内容とか(いわゆるクソゲー)、物語の完結(例えば『俺の屍を越えて行け』…ストーリーはゲームを盛り上げるだけじゃなく、ゲームからプレイヤーを引き剥がすためのものでもあることを、このゲームは教えてくれた)などがある。一方、プレイヤーに由来するものとしては難易度や時間の制約からくる挫折(どっちもプレイヤーだけのせいかといえば微妙ではあるけれども)とか、冒頭に出した「作者と決着をつける」(覚えゲーはこれだ)、あとは「遊び尽くして飽きた」(真の意味で作者の勝利と言えるのはこれかな。プレイヤーを最後までゲームの外に出さずに済ませたのだから)なんていうのがある。
 どんな理由にせよ、そのゲームからの別れの時が来たことを知ったときは、寂しい。

 『DT』の簡易ジャンケン拡張型カードゲーム「バトルファイブ」で、ルール上どのカードを出せば有利に試合を運べるかと迷っても、画面を見もせず手持ちの並び順に出していっても、それほど勝率が変わらないこと、さらに後者の方がボタン連打で終わる分だけ大幅に時間を短縮できること、に気づいたのが今日の日記の発端でした。カード集めのためとはいえ、気づいてしまうとそうせずにはいられなくなってしまうんだよなあ、情けないことに。
 それに加え、遊ぶのにかまけていてアンケート葉書を出さずにいたら、プレゼント応募期限が今日だったことにも気づく。設定試料CD-ROMがもらえたかも知れないのに。悔しー。


6/17

 白や黒や豹があるならと思っていたらちゃんと「羽あゆ」もやってくれたんだなあ。
 ただそれだけのオタク感あふれた動機で「Endless sorrow」をレンタルしてみましたが、写真が一枚きりと寂しかった上に曲もピンと来ず、そうそう期待通りとはいきませんでした(当たり前だ)。

 そんな用事も交えつつ、週末恒例で『プロギアの嵐』のノーボムプレイを頑張ってみましたが、4ボスで2機死んでゲームオーバー。
 この2周目突入条件にボム使用回数制限というのは、ボムをうまく使えないで死ぬ「抱え死に」を力強く正当化してくれる、極めてユーザーの立場に近い設定であることだなあ、と感心します。それが上達の助けにもなっているんだし。

 ところで、よくシューティング(というより反射神経を使うゲーム全般の)初心者の特徴としてからかわれる習性の一つに「体が動いてしまう」というものがあります。
 私もかなり激しくアクションを取ってしまうたちでして、高速弾にはのけぞり、じわじわ迫り来る弾幕にはじっくり顔を近づけ、左右に規則的に振られれば体の動きも同期を取る始末。敵弾の挙動の実に多彩な『プロギア』のプレイ中など、そばから見られていればきっと滑稽なことになっているはずです。
 しかし、本当に体の動きはマイナスでしかないのか。どうせ不可抗力も同然に動いてしまうなら、あれを役に立っていると正当化できる理屈は立たないものか。

 例えば、テニスラケットでボールを弾き返すとき、腕が体から離れていると、飛んでいく球の方向が安定しません。必ず脇を締めて、ショットの際には体重移動で自重を加えることで、速い球が来てもラケットの面がブレずに打ち返せる。手は、打撃の瞬間は面の微妙な傾きだけに気を配っていればいいのです。
 って、これには多分に俺理論が入っていそうな気がしてきましたが、もし手に持つものをラケットからスティックに変えても類推が効くなら。
 体の動きは大まかな方向決めのためにあり、指先の細かな制御を助ける働きをしている、と言えるのではないだろうか。

 むー、でももし「体が揺れなくなったら2周目は堅い」なんて理論を聞いたなら、こんな屁理屈はすぐほっぽりだして必死で身体固定研修に入ることだろう。


6/15

 今週はゲームする時間もあまりなく、ゲームネタを餌に更新する心づもりのこのページにとって辛い状況であります。
 というようなことを書かざるを得ないくらい新トピックスがない今日この頃。そしてネタがないことをネタにして更新してみようとの試みはたいがい失敗に終わるのが世の常です。

 そんなときはどうでもいいことについて考え、実のありそうな筋を急いで組み立ててネタ作りをするも、後から矛盾や事実誤認に気づいて訂正する、という自作自演のサイクルをやるのがいつもの手で、これなら訂正するのも更新のうちなどと思えて得した気分にさえなるから不思議です。そのような醜態が本サイトのあちこちにさらされているのを、すぐに見つけることができるでしょう。
 ただ、仮に急造仮説を全て撤回したところで、完全に数日前の状態に戻るかというとそうではなく、そのようなネタ作りをする人間であるという事実は残ってしまうのであり、その印象は、ただ「私はネタ作りに一生懸命です」とのみ叫ぶのとは比較にならない強さで、目を通した方々の記憶に刻まれるはずなのです。そして、その印象は、これは人によって違うでしょうが、自分にとってはどちらかというと好ましくないレッテルであるように思います。
 少し前は、とりあえず考えさえすればいい、という気持ちでいました。そこからの意識の変わり方を、「自分の考えを大切にするようになってきた」と表すのは、通俗的な言葉の響きのせいで誤解を持って捉えられそうですが(理の通った反論によって誤りが明らかになってもなお、それが自分から生まれたものであるという理由で、自分の考えに固執することをも意味しうるから)、今の自分の気持ちがそこに含まれていることは確かなようです。

 といった考えは、他人に見せてしまうことで説得力を失ってしまうはずですが、そう思っていながら結局更新したいという気持ちに逆らえなかったのは、本日ただいまこの時点で少し酔いが回っているからに違いない(抑制する力のなさに目をつぶる)。


6/12

 これだけ精密に世界が設定されているんだったら、望むものはただ一つ、
「なぜカードゲームなのか」
これに尽きることだなあ。ってややしつこく『DT』の話です。
 カードの形を取ったあらゆるキャラクター、アイテム、現象が、一つの世界の中で説明されている。カードバトルのルールも、DTという特殊な力を使うときの約束事に即して決められている。ここまでは完璧。
 ならば、その上に期待してしまう。物語上も世界のどこにも今のところ現れていない「カード」が、なぜゲームボーイソフトとしての『DT』を支配しているのか、に対する説明を。
 それが、まだ手に入れていない40枚弱のカードを得ていくことで明かされるなら、このゲームを良作から傑作に格上げするんだけれども。

 もともとカードゲーム出身であって、それをテレビゲームに移植したんだったら、そんなこと追い求めない。カードを使うことは前提となっているから。
 そして、面白ければいいという立場からなら、そんなことを考えるのは全く無駄なことだ。気持ちの問題に過ぎません。
 ただ自分が遊ぶ場合、その「気持ちの問題」は割と大きなファクターになってしまう。ゲームで楽しむことを忘れているんだろうか。


6/9

 ゲームに何を求めるかは時によって違うのだけれど、昨今の気分としては、どういう性質のものでもいいから発見というか驚きというか、見たことのないものがほしい。
 美麗なグラフィックや壮大な物語だけじゃなくて、そういう考え方があったか、とか、それは工夫だなあ、とかのちょっと気づかされることが嬉しい。ってそれは気づけた自分が嬉しいのか、なんて余計なことは思いつかないことにします。

 「どういう性質でもいい」以上、プラス方向でなくてもいいので、ああなんてヘッポコなミニゲームだろう、こんなの見たことがない、と『エンジェルプレゼント』を遊んでいて思えば、それは一つの発見であります(前向きな姿勢で)。
 で、新しいゲームを始めればとりあえず新しいものが見られる。さらに、せっかくならそのゲームの全体的な(他のゲームとこういうところが違う、といえるような)特徴も知りたい。でも、そのためにはある程度の時間が必要になる。
 困ったことに、最近、驚きに出会うためにかける手間を惜しむ気持ちになってきている。ゲームに対して怠慢というか贅沢な要求をするようになってきています。学生の時のように遊びに使える時間が多くは取れないという背景があるけれども、ゲームはそんな個人の事情なんか考えてくれません。当たり前ですっての。

 『プロギアの嵐』の2周目は想像を絶する弾幕を見せてくれるという。そこにたどり着くためには、自分の腕を磨く必要がある。
 『プリズマティカリゼーション』ドリームキャスト版の追加テキストを見るためには、何周もかけて条件を積み上げる必要がある。
 大きな驚きほど遠いところにある。その驚きに出会う価値と、それにかかる時間を天秤に掛けている自分に気がつくようになってきました。そして平衡はしばしば、時間を乗せた側に傾き、ゲームの続きに取りかからないで一日を終えたりするのですが、そんなんじゃいつまで経ってもゲームをクリアすることなんてできやしない。

 ゲームボーイソフト=手軽、の印象は、本体が小さいことからのイメージ混入分が実際以上に大きいように思いますが、たとえ勘違いでも、ゲームクリア→大きめの驚きゲットに利用できるものなら利用してやる。
 そんな意気込みで
『DT』後編をノーコンティニュークリアしてみました(これがストーリーを最後まで読むための条件)。
 さっき出てきたとおり自分は怠慢気味なので、確率で割り出せるクリアへの道のりをプレイ回数を重ねてつかみ取る努力はなかなかしたがらない。かといって、時間さえかければ確実に報われる一本道シナリオはゲームしている気がしなくていやだ(本当にわがままなのはこの辺)。その点、うまい戦術を組み立てれば有利な試合運びが見込めるカードゲームというジャンルは、今の心境にあっているかも知れない。
 対戦相手のコンピュータが露骨に手加減するときがある(そんな強いカード持ってるなら使えよ!)のと、先手有利の傾向が強い気がする(これもカードの種類によるんだろうか)ことが気にはなりましたが、クリアして良かったという満足感が得られました。結構大変だったけど面白かった。

 …ん? 満足感って、私が求めていたのは発見じゃなかったんか?
 ゲームをクリアすることで新しい発見への道が開けるとは限らない。むしろエンディングはゲームの収束を担っているのであって、そこまで隠されている新事実なんて一般的にはそうないはず。
 満足してるから悪い気はしないけれども、前提でつまずいているのはちょっといただけません。がっくり。


6/6

 「よみがえれ! セガ魂」との題も勇ましいゲーム批評の巻頭特集だけれども、その「セガ魂」とは何を指しているんだろうか。
 いや、中を読んでの感想ではなくて、その叫びの意味を理解できない、これから何を特集しようとしているのかが推察できない、という意味で。自分としてはハナモゲラ語に出くわした気分です。

 メーカーがそのゲームの内容を規定している、という発想を自分が分からないのは、「ゲームを作った人たちがいる」ということと「その人たちがある会社に所属している」ということをつなげられないからだと思う。会社はゲームの売り方を考え、金をやりくりするためのもので、カネとモノは別物のはずだとしか思えません。
 「あるゲームに惚れ込んで、そのゲームを出したメーカーに入り、そのゲームのような面白さを目指した新しいゲームを作る」という人の動きのサイクルが、メーカーのイメージを築いていくんだろうか、とも想像したけれど、「メーカー」はその輪に入っているようでいて、よく見れば触媒のような働きしかしていない。それが特定のメーカーである必然性が見えない。みんなはその偶然を貴んでいるんだろうか。
 ゲーム批評の記事でも「セガらしさとは○○である」と何人もの意見が載っているけれども、その理由としてはゲームタイトルが挙がるばっかりだった。「そのゲームが面白い」で済みそうなところを「そのゲームを出した会社が好き」「そういうゲームを出してきた会社が出すゲームが好き」とどんどん回りくどくなっていくのが、ついていけない感じ。

 『セガガガ』を一度クリアして以来全く遊ぶ気になれないでいるのが、それと関係あるのかどうか。あるような気がしているのですが。


6/4

 Memorial Games更新:エンジェルプレゼント
 これの前半部(けなしパート)を書いていて、このゲームをよく全員分クリアするまで耐えたものだと感心し、また、どうやってまとめようかと悩みました。なかなか前半が終わらないものだから。
 そんなことで力尽きる週の初日。ちょっと悲しい。


6/1

 質問をされてそれに答えるとき、聞かれたその質問のされ方に沿って答えてあげるのって、答える人の好意だよなあ、と思った。
 思い通りの答えが得られないことにいらつく気持ちは想像できるけれど、それはあくまで質問者の都合であって解答者の知ったことじゃない。Yes/Noで答えなさい、とか制限してみたって、なぜそうでなくちゃいけないのか納得できなければ耳を傾ける必要はない。カレー味のウンコとウンコ味のカレーのどっちを選ぶか、などという質問を振られて迷うなら、迷った時点でその人は好意的に対応している(必然性ないのに)。質問をはぐらかされたからって怒るなんて甘えてる。
 制限が質問者によってではなくて、会話が交わされる場にくっついて設定されていることもある(地位の上下とか)し、そもそもコミュニケーションは進んでするものだという道徳が自分の中にあるから、意に添わない質問だからって拒否するつもりはない(できない)。けれども、その場の力にばっかり頼ろうとしないで、こちらの好意を引き出せるような質問のしかたを、もう少し考えてはもらえないものかなあ。
 コンピュータに入力するときは、誰だってあんなに厳格に解答者のルールを尊重しているくせに。

 そんなことを思ったけれど、それは解答者の甘えなのだろう(それを他ならぬ質問者自身が指摘したって説得力ないけど)。
 って何の話だか。



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