ゲーム+α日記(2001年7月)

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7/31

 今や自分にとって「よっぽど出回りの期待できないゲームオタク向け製品を買いに行く場所」となった秋葉原にて買い物。
 買ったものについては、内容に触れたときに改めて取り上げようと思っています。あるものを買ったこと自体をネタにするには、ゲームの買い物が日常的になり過ぎてしまっていて、気持ちの盛り上がりに欠ける。かといって、一度に二桁本数買いました、などの、明らかにネタを作りに行く消費活動にも消極的な昨今。
 何だかんだ、面倒な理屈で動いているようです私は。いつか全て解き明かしてやる。

 とりあえず一つ、ゲームじゃないだけに気軽に中を見られるな、などと思いながら『Sense Off』ドラマCD用同人誌をチェック。こんなド狭いターゲットに向けた品があることを、まず有り難く思いたい。
 そして残念なことに当方の『Sense Off』に関する記憶がだいぶ薄れていました。歳月というものは容赦ないなあ(簡単に受け入れすぎ)。


7/29

 スピッツの曲をネタとして使ったことから、思い立ってアルバム『フェイクファー』を買いました。
 実のところこのアルバムは以前に聞いたことがあって、良いと思う曲を6曲ほど見つけていましたが、当時はその重大さに気づかないままうっかり返してしまったのでした。
 無作為に選んだアルバムの中に1曲お気に入りが見つかればラッキー、という私的アベレージが確立してきた近年(ってそんな歴史もないくせに)、『フェイクファー』の重要性は増すばかりなのであります。
 そういうのは持ってなきゃだめでしょ。

 で、当時(といっても1年ちょい前)と現在とで好きな曲が変わっているだろうか、と一通り聞いたところ、さらに1曲、好みのものが追加されるという結果に。微妙な違いですが、この間にスピッツの曲調に慣れて受け入れ態勢が広がったということなのかも知れません。
 追加の一曲「ただ春を待つ」は、5拍子から3(6)拍子へと小節の区切り方を変えるという、メロディーの転調に比べて大がかりな仕掛けでできた曲ですが、こういう力技をまとまった形にされると感心します。
 ゲームミュージックだと『グラディウス3』のステージ2の曲。あれも幻想的で良い曲でした。

 ところで、ゲームの話に比べて歌曲の話をするのにはためらいがあるというか、浮ついた感じがして気恥ずかしいのですが、趣味としての深さ浅さの問題でしょうか。それともいつもネタにしているかどうかの問題?
 むりやりでも『グラディウス3』なんか引っ張ってこられて、少しほっとしていることに気づきます。


7/25

 さて、『君が望む永遠』のことを頭の片隅に置きつつも(例:エンディングテーマはヒロインの名前に因んでスピッツの「遙か」はどうか、いや、ヒロイン姉妹の名を歌詞に織り込んだ「運命の人」のほうが合ってるかも)、ちまちま『マジック:ザ・ギャザリング』に取り組んでいたのですが、ここでまたも個人的には重要な問題点に向かい合うことに。
 …コンピュータ、ズルしてんじゃないの?

 大ボスらしきキャラまでたどり着いたはいいものの、こいつがどんな土地属性のカードも出せる布陣で来て非常に手強い。
 と、強いだけだったら別に問題ではなく、これをやりがいと感じることは私にだってできますが、そこに
 「手札を切り直しているところを見たことがない(最初の7枚がカスでどうにも不利だと思ったら、手持ちの枚数を1枚減らす代わりに配り直せるのだが)」
 「最初の数手がだいたい同じ」
が加わったらどうか。
 さらに
 「先手・後手はコイントスで決めているが、大ボス戦に限り表裏どちらが出てもプレイヤーが先手」
というシステムが謎、いや疑いを深める。
 もしかしたら、ボスという強さを演出するのにカードの組み合わせや戦術以外の手を使っているのではないか。ボスは山を切っていないのではないか、さらに引いてくるカードもかなり決まっているのではないか。プレイヤーがいつも先手を取れるのは、そのささやかな代償のつもりではないか。
 もしそうだとしたら、ちょっとこれは受け入れられません。

 前に全くゲームに参加しないまま(カードを一枚も出さないまま)負けて、それでももらえるカードを集めて戦力を充実させようとしたことがありました。その時、えっらく後ろめたい気持ちになったのですが、それは、相手は真面目に、マジックのルールに則って勝負してきているのに、自分はゲームを攻略しようとするあまりそのルールを踏みにじっている、自分は卑怯者である、と感じたからでした。
 その思いを今、逆の立場から味わっています。ああ、コンピュータに意識があったなら、こういうやりきれなさでいっぱいだったんだろうな、と。
 う、そう思ったら少し落ち着いてきてしまいました。失敗。

 このドリームキャスト版の狙いは、マジックというルールに基づくゲームの面白さを忠実に引き出すことにあるのだと思ってきました。テレビゲーム化に伴って思いつくあれこれの便利機能をあえてつけず、カードも外観全体が分かるような画像を取り入れ、対人対戦を思わせる画面構成にして、そうやってマジックを守ろうとしているのだと納得してきました。
 そのことと、歯ごたえのあるボスを用意することとは、ちょっと方向性が違います。いや、方向を合わせるようにすることはできるけれども、このゲームではそうしていないように思えます。
 コンボが決まれば確実に勝てるよういいデッキをつくって、個々の場面でも優れた判断を下して、それでも運が悪ければ負けるのが、ルールに沿った遊び方のはず。つまり、ルールの中には運が組み込まれているはずですが、もし「長く遊び続けてもらいたいから簡単に勝って欲しくない」との思いがルールを超越させたとしたら。
 それはもうマジックを遊んでいるのではなく、やっぱりカードゲームとテレビゲームは別物だったと思うほかなく、こちらも「ゲームに勝つ」ためにずるい手を画策する必要に駆られ…行き着く先は洗練されたルールの世界から遠く離れた泥仕合でしょう。
 今の自分には、そこで気力と時間任せの勝負を演ずるエネルギーは残っていません。

 コンピュータが素晴らしい確率でいい手を引き続けてきている、との可能性を否定できないのがこちらの痛いところです。でも、たとえ小細工がなくても、疑いを持たせてしまうようではその時点でマズイのではないのか?
 と、今きわめて他人に厳しく自分に甘い主張が出たような気がしますが、消化できない疑問で頭が一杯のあまり、そういう点にまで気配りが行き届かない(ことにする)。


7/23

 いや、「安心」してはいないな。自分の立ち位置を調べながらも、その立ち位置には自信を持っている。1章のアダルトシーンも、だからこそあれでいいんだ。
 ということでちょっと昨日の日記を修正。手が滑った感じでした。


7/22

 『君が望む永遠』1章のどこを良いと感じたのか、あれこれ考えていたんですが、1章がそれ以降へ向けてのプロローグ、という位置づけに留まっていないところだろう、と思いました。ラストのあれが全てではないところが。
 以下は1章の粗筋をたどっているようなものなので、全部消しておくことにします。

 主人公は、遙(ヒロイン)と付き合うようになってからずっと、周囲からの視線と自分の気持ちのギャップに疑問を持ち続けます。彼女ができたなんて幸せだね。なんで映画に誘ってあげないの? 彼女、かわいいじゃんか、大事にしろよ。といった、外野から飛んでくる評価に対していちいち反発します。オレはみんなとの関係が崩れなかったことの方が嬉しい。付き合っているとそういうことをしなきゃいけないのか? かわいいから大事にしなきゃと思うのはお前だろうがっ!

 結局のところ、彼は世間で言うところの「彼女を好き」な状態ではありませんでした。やがてそれは表面化し、二人の仲は冷え込む(これも外側の視線に基づく表現ですけれども)のですが、この切羽詰まった状況で主人公は、今の気持ちを分析し……「多分、この気持ちを『好き』と言ってもいいのだろう」という結論を得ました。
 遙が主人公を「好き」なのは、「好き」としか言いようのない、言い換えの利かない気持ちであるのに対して、主人公の遙に対する思いは「もしかしたら他に適切な言葉があるかも知れんが思いつかないので『好き』といって差し支えなかろう」というものです。
 その結論にたどり着いた彼は、彼女に告白し直します。直観的な感覚ではなく、自分の分析から得たものを信じて行動に移したのです。これは非常に勇気のあることだと思うし、元の分析力が優れていなければできないことだとも思います。このシーンを見た後なら、友人の「お前はやれば(勉強が)できる奴だから」との評価も頷けるというものです。

 また、彼が再告白の際に、二人の「好き」の違いのこみ入ったところを説明しなかったところに、主人公の心の広さが窺えます。真実が別にあることを知っていても、それよりも重要なことがある場合に真実より優先させることができる能力は、心の容量が広くないとできない芸当です。
 「それよりも重要なこと」が他人にとって不利益となる場合、真実以外のものを優先させる行為は「詐欺師」とか「嘘つき」とか呼ばれて非難されますが、「自分の中にある二つの基準のうち、どちらが重要かを自由に決められ、重要でない方は表に出さずにしまっておける」という点で、彼が遙にしたこととそれらは同列です。わざわざ呼び出されるという、かつて彼女が取ったのと同じ方法で、改めて彼の口からその言葉が出たからには、遙は主人公の「好き」が彼女の「好き」と違うかも、とは疑わないでしょうから(とは推測ですが、彼女はそう推測させる性格に描かれています)、やっぱり彼は遙をだましていることになります(これが、彼にそういう素質があることを示す前フリだったらスゲェのだが)。
 それでも、彼が思う「好き」に沿って遙に接する態度と、遙が彼に接する態度が似ていれば、それは外(遙含む)からは同じように「好き」であると見えるでしょう。主人公は、関係を修復してから後の自分たちのカップルぶりをしばしば客観視して、それがまさに世間で言うとおりののろけ方であること(時には、それが世間一般から外れていること)を確認するのです。

 そんな心の動きをつぶさに見せられたため、こういうのを追うのが本作のテーマなのかな、と思いこんでいました。だからあのラストシーンには心底びっくりしました。
 あれは自分にとって不意打ちであり、ああいうものは不意打ちであるほど効果的であり、したがって、私にはこの上もなく効果的に働きました(この点で、「死ぬぞ死ぬぞさあ死んだ」一辺倒の『てんたま』プロローグより遙かに優れています)。ただ、作り手の思惑通りに驚かされながらも、「あれ、こっちが1章の(このゲームの)本当の狙いなのかな?」と不審にも思いました。それがなくても十分に面白かっただけに。
 しかし、もしこれ以降の展開が、男女がくっついたの離れたの復活したのといった動きを縦糸にしながらも、1章で見せてくれたとおりの気持ちの細やかな揺れを横糸に織りこんで進行していくのだとしたらどうか。これは自分にとって大変面白いゲームになる、と期待するほかありません。そうなっていることを祈りながら、発売日を待ちたいと思います。

 追加:
 ラストシーンで一番こたえたのは、あの現場で誰も悲しんでいないということでした。多くの野次馬がいて、仕事で来ている救急隊員や警察官がいて、その中で悲しむことができるのは主人公ただひとり。その彼も、あの場では呆然としているだけ。そうであるなら、事情を知っている俺くらいは悲しんでもいいか、という気持ちに、プレイヤーとしての私はなりました。
 「そんな……事務的な口調で……」この「事務的」にかなりグラリと来た次第です。彼らはだれも悲しめない。

 いやあ、なんかいいように乗せられてますよ。


7/20

 経験したことのない状況に放り込まれて途方に暮れたとき、とりあえずの指針として一般論とか常識とかに頼ってみる。その問題を解くのに、調べたり教わったり何となく身に付いたりしている一般解を使ってみる。
 でもその一般解は、その人という境界条件によって大きく変わるものであることに、解いている途中で徐々に気づいていく。
 その特殊条件で問題を解く過程を、他人は知ることができない。その代わりに他人は、一般解や、その人の条件で昔解いたことのある解法を持っていて、それを当てはめようとしてくる。それは当然、問題を抱えている当人といろいろな点で異なっている。
 無数のその他の解法が自分に合わないことに苦しんでいるうち、何とか自分の解法を編み出す。それによって得られた解は、他ならぬその人にとって最適であるばかりでなく、なるほど一般解とも共通するところがある、ことに、解いた後で気づく。
 難しいのは、解くことじゃなくて、解き方を見つけることだったんだ。

 えー、これは「一般論から始めて特殊解を見つける」ことの一般論なので面白くも何ともないです。オリジナルな例を挙げたいところですが、残念ながら自分には経験が足りない。
 恋愛を例にとって、この過程を丹念に描いているのが『君が望む永遠』(
アージュのトップページから紹介ページへ)の第1章でした。主人公が自分の気持ちを分類していくようす、特に自問自答しながら自分なりの「好き」を定義していくくだりが面白かった。
 数時間分を楽しんで、これが体験版だというから驚きます。

 で、1章最終日だけ残して中断し、そろそろ終わりだろうなかなかいい雰囲気だった、この章だけで十分満足したなあ、などと余韻にふけりながら時間をおいて続けてみたところ。
 一撃。

 ぐわっ。慌てて体験版のついていた雑誌(カラフルピュアガール)を見てみたが(読まずに遊んでたんかい)、それには触れられていない。まあ、これだけ物語の導入部に手間をかけた上で隠すのであれば、隠すこと自体に納得ではありますが、話としてそれでいいんですかー!?
 ただし、その問いかけを作者ではなくてゲームの中に、『君が望む永遠』世界に向けていることを自覚しました。作り手の術中にはまっているようです。

 「ヘッドホンつけてて良かったー」(音の仕掛けにも凝ってます)「これを見習え『てんたま』!」(シチュエーションはむしろ『メモリーズオフ』だがストーリーの見せ方の点で。というか、『てんたま』遊んでいるならこの展開を予想しろよ>自分)とか、この1章ラストを直に受け止めたくないことから来る思いが生まれています。それに逃げたい。
 ちょっと前まで、1章だけ遊べればいいと思っていたのに。ふうむ、8/3発売か(早速延期してるし)。メーカーの予想するプレイ時間のうち1章が全体の半分を占めるのが気になりますが、どうしたものか…

 そうそう、絵に少し癖があるなあ、と思って(遊ぶ前は正直なところやや引いて)いましたが、ゲーム始めて10分で馴染んだ。一通りの表情が出揃って、このグラフィックでこのゲームは作られているんだということを理解したものと思われます。慣れるスピードがやけに速かったんですが、ゲームの方に何か特別な工夫でもあったんだろうか。ふしぎ。
 ゲーム開始からやや遅れて出てきたヒロインが、初見の印象より数段かわいく見えたのには、自分でも驚きました。


7/18

 連日暑くて本格的に夏だなあ、と思ったところ、そこから
夏 → 夏休み → 宿題 → 小学校時代の自由課題
と連想が進んで、そんなものもあったことを思い出しました。
 しかしあの自由課題ってやつも、当時は意義がちっとも理解できず、進んで取り組む熱意にも欠け、さっぱり面白くならないままものの本からの引用でお茶を濁したりして、いい思い出がまるでない。

 君たちはいつも授業で、基本を一から順に学ぶやり方で勉強している。ところが世の中では、問題は習った順番でなんか出てきてくれない。そこで、一年生(もっと前?)からの勉強の積み重ねを崩して、必要な答えを選んで取り出すやり方を身につける必要が出てくる。
 夏休みの間は、物ごとを教わる代わりに、それと逆方向に、教わったことを外に出して、使ってみることにしよう。「自由課題」はどの教科でもないけれど、解くためにはあらゆる教科の内容を組み合わせていい。
 これまで教わって覚えてきたことが役に立つ、ということを知ることができたなら、そのことが夏休み中の一番の勉強だ。

 と、こんな感じで先生にアドバイスしてもらえていたら、ちょっとは取り組む姿勢も違っていたんじゃないかなー、と思うのです。

 あの時代から年月は経ったけれど、知識と実際の隔たりに苦しみ続けています。双方向のやりとりができない、応用が利かない、いわゆる「使えない」というやつです。
 もっとも、以前は双方向のやりとりという概念自体が自分になかったから、それに比べれば進歩はしているのでしょうけれども。
 あと、他に大事だと思われるものとして「自力で問題を見つける訓練」「成果をまとめる訓練」がありますが、これらについては、いったいいつになったら実行できるようになることやら。どんなふうに先生にしゃべらせたらいいか見当がつかない(←社会人と呼べません)。


7/15

 ということで、片道1時間半ほどかけて『プロギアの嵐』が置いてあるゲーセンに出かけてみた。が、そこでまた一つ、消えていたものを見つけた。というか、消えてしまっていたことを発見した、というか。
 それは自分の腕前。

 4回遊んで5面まで進んだのが一度だけ(それもボム多発)。せっかくのオート連射ボタンも初めて使うせいか勝手が違って落ち着かず逆効果、ってそれは言い訳。使わずにクリアできると思うならそうすればいい。このところ握力鍛錬器(右手用に一つだけ購入、100円)を盛んに手にしていたのはそのためだったじゃないか。
 きっと、ボム2回のみで5面ボスまでたどり着いたあの記憶も、夏のうだる暑さが見せた幻だったのだろう。そして今胸に広がる、言いようのない寂しい気持ちもきっと気のせい。きっと。
 無力っていうのは、悔しいものですなあ。

週末のプロギア:完


7/14

 2Dシューティングの賑わいは一瞬のことだったようで、いつものゲームコーナーから『プロギアの嵐』が消えていた。ついでに『ギガウイング2』も『ガンスパイク』も。そして代わりに見たものはずらり並んだ『ガンダム』。
 大人気なのは分かるんですが、狭いスペースに8台も置くことはないじゃないか、と思いかけて、大人気なのが分かってるんなら思うべきことじゃないのかも知れないと考え直す。生き残った『怒首領蜂2』をちょっと遊んで亡き『プロギア』を偲び、がっくりしながら帰りました。

 さて、どうしたものだろうか。「週末のプロギア」は今や生活の大事なアクセントだった。加えてこの頃は2周目という目標が現実味を帯びてきてもいた。ここでこのゲームから離れたら、あと10秒まで近づいていたその目標は遠ざかり、二度と手の届かぬはるか遠くへ去ってしまうに違いない。
 そして何より、遊んでいて『プロギア』は楽しかった。

 自分が与えられた立場にいるってことを実感する。そんな経験もたまにはいいかも、なんて言っていられない、自分のことだもの(人ごとならOKか?)。
 遊べない悲しさを遠出して解消するか、悲しいと思わないことにするか。どうする?


7/12

 あれ、『DT』の資料集ディスクが届いてる。やった!
 って、ん? 応募はがきを出したのは締め切りを過ぎてからだったにもかかわらずもらえたということは。

「期限内に届いたはがきの枚数 < 用意したプレゼントディスクの枚数」

ということか。

 公式サイトを見てみたら、プレゼント期間が延長されていた。つまりCDは大いに余っているようなのだが、ここは、ゲームの売り上げが予想を深刻に下回ったというよりは、抽選といいながらも全員に贈る覚悟でCDを余分に作ったと見るべきだろう。なぜなら、このCDには、本編を補足する内容のプレストーリーが収まっているから(公式サイトでも読めます)。そしてそれは、作り手が執着しながらもゲームボーイソフトには不適当として削除された残虐さを含んでいるから。
 ただ、この描写群をゲーム単体から切り離したのは、ゲームを楽しむ上で正解だったと思う。物語をおまけの形にしたことも。読むだけの物語ならゲームに無理矢理入れなくてもいい。現在の形にできあがった『DT』には、この内容ならではの意義がある。
 ああ、何だか現状肯定しまくり。この穏やかな気持ちはプレゼントのおかげでしょう。


7/9

 一日遅れの「週末のプロギア」:ボム2発限定で5面ボス最終形態にて力尽きる。
 
一週間で10数秒先まで行けるようになりました。この進歩のスローペースぶりはどうだろう。旧社会党も驚く牛歩ぶりと言えましょう。
 もっとも、このペースを保てば来週には2周目突入報告ができる見込みなのだが、とてもそのように前向きには考えられない。二度と来ないチャンスを逃したのではないだろうかと思えてなりません。
 それにしても、ラスボス1形態目の高速三連花火弾、動かないでいる限り当たらない気がして仕方ない。グラフィック上は重なっているようにしか見えない弾が、何事もなく自機をすり抜けていくさまは奇怪…あ! お前か、お前なのか? 奥行き方向への避け方を伝授してくれているというのかッ(当人も忘れていたネタ)! LEVEL6のラヴの力で!(←書いてて恥ずかしい)

 そして平日は『マジック:ザ・ギャザリング』生活に。
 賢いと思っていたコンピュータの思考ですが、限界はあるようで、どうやら学習・予測機能はないみたいです。
 例えば、味方のキャラが倒されても消滅せず、戦いの場に残る(『マッハライダー』で主人公が大破→元通りになるイメージ)能力「再生」について。これがあれば、ザコキャラでも強力な敵と戦わせ、命を張って食い止めつつ即座に復活、という壁の役割が期待できます。
 この戦法を早速実践したところ、コンピュータは毎ターン同じように無駄な攻撃を仕掛けてきました。強敵がザコトラップに引っかかっている隙にこちらは別の手で反撃、試合を有利に進めます。

 まあ、全ての攻撃に対応できるようにしてしまうと、遊んでいて敵の公正さに疑いを持ち始めるようになるから、ほどほどの粗忽さが望ましいのかも知れません。
 ちなみに、自分はこの「公正さ」について全く疑いを持っていなかったことを、友人に指摘されて初めて気づきました。このゲームの話(敵がなかなか強いことなど)をしたところ、彼はこう答えたものです。
 「そんなの、相手はこっちの手札だって全部知ってるんだから強くて当たり前じゃん」
 そこまで割り切れなかった。こうも純だと、生きていく上で損なことが多いに違いない(言ってろ)。


7/7

 やっぱり入ってたよ『怒首領蜂2』! 筐体配置が少し模様替えされていたため、代わりに何が消えたのか分からず。『プロギア』も『ギガウイング2』も健在。合わせて10台ちょっとしかない、 レバー+nボタン式の普通の(大型でない)テレビゲームのうち、3台が2Dシューティング(4台の『ガンダム』と『ガンスパイク』をシューティングに含めればこのジャンルが半分近い)、という構成はちょっと珍しいかも。
 『怒首領蜂2』を前作と比べて云々するには前作の経験が少ないのだけれども、敵キャラが全体的に小振りになっているような。そして堅い。初プレイは、水加減を間違えて炊いた芯入りの米を噛んでいる気分で、あまり快いものではありませんでした。
 あと終了画面で「失敗」と告げられましたが、GameOverと比べて、漢字ゆえの鋭い否定力にグサッと来る。ゲームクリアに成功することなんてほとんどありませんが、不成功を表すに際して婉曲フィルターを通していた他のゲームは気を利かせていたのだ、ということに気づきました。すべきことをストーリー仕立てにして「任務に失敗した」ことにするとか、「ゲームおわり」みたいに変な表現にして「失敗」のショックを中和するとか。


7/5

 ああ、こんな萌え曲があると知らずに生きてきて損したー、とか思いながらリンドバーグの「君のいちばんに…」(「いちばん」は平仮名だったのか)を聞き続ける日々。
 ひと昔前の曲なんだろうけれども、歌詞つきの曲(対義語:歌詞のない曲、とりわけゲームのBGM、というかそればっかり)を聞き始めたのが2年ほど前からのため、それ以前の流行歌でも(もちろん、それ以降も)記憶になければ自分の中では新曲待遇で受け入れてしまうのです。
 メロディーもかなり好みですが(というか、メロディーが受け付けなければ聞く気になれない)、ここで歌われている「失恋の痛手にくじけそうになりながらも、自分を励まして前向きに生きようとする健気な女の子」が萌え度高し。
 曲の中に、ある場面がうまいこと表現された歌詞を聞きつけて、「ん、この曲はあのゲームにぴったり」と思うときがたまにありますが、この曲などは『With You』の勝ち気な幼なじみ、菜織に歌わせたらドンピシャではないだろうか。もちろん彼女が振られる展開で。

 ところで、この曲の萌えポイントは、「普段は気丈に振る舞いつつも、うっかり弱いところを見せてしまう」ところにあるわけですが(「君の一番に…」の娘の気丈さについては、妄想がこれを保証する)、普段とは異なるその態度を知ることができている自分は何者か。考えられる例二つ。
 ・その女の子が心の内までさらけだせる、恋人というよりは親友に近い存在
 ・他に誰もいないものと思い、安心して本心を現しているその女の子を盗み見ている存在
 幼なじみなどは前者の関係として適当かと思われます。それが、私がこの曲から『With You』の菜織を想像した理由でもあります。しかし実際の状況はどちらに近いのかといえば、この曲を聴いている本人という光景を客観視してみると、後者であることは明らかです。
 ここから、俺は覗き見が趣味の人なのであるという結論が導かれました(ここで、この曲を好きだけど幼なじみその他のシチュエーションを個人的に持ち合わせでない、そんな殿方に、ご自身と引き比べて考えていただけるようにするため、主語に一人称を使ってみました)。

 この「俺」に加えて、自分には、特に覗きということでなくても、見つからない→関係を持たない状態が保たれることを願っている、というさらなる問題点があるようです。
 自分が干渉することでこの状態を崩したくない。慰めてみようなどと例えば声でもかけようものなら、途端に彼女はその態度を隠し、いつも通りの気丈な鎧を身につけてしまうから。
 これは、その娘が気になっているのではなくて、その状態が気に入っているのですな。だから、ほしくないその女の子との関係と引き替えにありがたいその状態を手放す愚を犯さぬよう、離れたところから、気づかれないように、ずっと「みつめていたい」わけです(『With You』の副題にうまくつなげたと自己満足)。

 萌えとは人に向けられるものではない、ということの再確認でした。


7/3

 DC版『マジック』の、ゲーム進行上のバランス取りについて考えたとき、悔しいというか腹が立つというか、やりきれない気持ちでいっぱいになりました。

 コンピュータは本気です。そのことは痛いほどよく分かる。
 カードを使うためにはエネルギーが必要で、その例外がエネルギーを生み出すカード。エネルギーがないと何もできないので、初めはエネルギー生成カード「土地」を出し合うことになります。と、そう信じて土地を出していきました。
 こちらのそんな態度に隙を見出したのか、敵はさっそく特殊な呪文を操り、当方の手順を連続して「なかったこと」にしてきました。一度は土地カードを山に戻され、一度は蹂躙されて捨てられ。将棋で例えるなら、さて角筋を開けるか、と斜め前の歩を突いたら、いきなり相手にその歩をつままれて7七に戻された、といったくらいの衝撃。おいおい次の手はそれかい。
 初プレイにおけるこの歓待ぶりに、マジック世界の厳しさの一端を感じた思いです。

 それから後も、敵は強いという一貫した印象。多分頭がいいんでしょう。そして、その賢さに見合うカードが敵の手中にある。
 戦って戦って、ご褒美のカードを集めて強くなってね、というシステムですが、初めから強い敵にはそうそう勝てません。では、プレイヤーはどうやって強くなるのか、というと、
「施しを受ける」
 つまり、負けてもいくらか恵んでもらえるんですね。これが非常に手痛い。

 現実だったら、弱者が強くなるために「金に物を言わせる」手があります。とにかく強いカードを買い集めてくればいい。(それにしても、現金をゲームのシステムに取り込んでいるってのは恐ろしいな、今さらながら)
 しかし、ゲームの中ではお金もショップもない。容赦なく攻め立ててくる敵を、貧しい陣容で迎え撃つしかない。
 いくら形勢が悪くても、途中でギブアップしたらカードはもらえません。だから敗勢でも最後まで続ける必要がある。そしてボロボロに敗れ去った後で勝者からカードの贈り物。たまにニューカードあり。
 「うん、まあ、持ち札が弱いんじゃ仕方ないよね。これ、要らないからあげるよ。あ、持ってないんだ?」
 そういう憐れみに満ちたプログラムの顔つきまで目に浮かぶようです。

 キキー悔しい! たかがデータになぜそこまで見下されなければならない! こうなったらこちらも蔑み返してくれるッ! このような侮辱を食らって黙っていられるか! 見ていろ! 必殺!
「一枚も出さずに負ける」!
 どうだ! ゲームする以前の言語道断なこの態度! それでも貴様は俺に施せるか! このやる気のなさに直面してもなお、俺と戦い、打ち負かした気分になれるというのかッ! 怒れ! 怒れよッ! 悔しかったら怒ってみろッ!
 …あっさりもらえました。努力して負けても無抵抗で負けても戦果は同じ。なーんだ、これなら無抵抗で負け続けた方が時間を節約できるぞ。楽ちん楽ちん♪

 は! またもルールの外に出てしまった。ゲームと不正な関係を結んでしまった。
 初心に返ろう。ゲームでそんなふうに感情を左右されるなんてみっともないじゃないか。真面目に遊ぼう。ちゃんと工夫して、勝って稼いだ方が気分がいいに決まってる。
 こうして、一巡りの末にゲームと和解した気になっていますが、そんな心境になれるのも、ある程度手持ちが充実してきたからに違いない。


7/1

 『プロギアの嵐』使用ボム2発で5面ボス第三形態まで。5面中ボス対策(できると信じて避ける心構え)とボス第一形態最初の方針(正面から離れない覚悟)が整う。あとは3機もやられてしまう5面道中をもう少し改善して、どこかで100万点余分に稼いで1UPできたりしたら…!
 ひょっとしたら行けるんじゃなかろうか? 遠い世界と思っていた2周目に。あと、自機をじたばた動かさないでいた方が、動いているより死ににくい気がするんですが、気のせい?
 最近では、このゲームを遊ぶと1日1プレイで燃え尽きるようになっていますが、これは嬉しいことなんだと思う。現段階で持てる力は全て出しており、毎回後悔がありません。過ごした時間の密度にも、何かつまむとやばい人ばりに震える右手の指先にも。

 それはそうと、『マジック:ザ・ギャザリング』にかなりいただけないシステムを発見。カードが集まってきたので別のデッキを組んでみようと思ったら、
「他のデッキに使われているカードは、新しいデッキには使えない」
ことが分かりました。
 って、そんな馬鹿な。野球チームじゃあるまいし、なぜ1軍と2軍を厳密に分けなければいけないのでしょうか。紅白戦でもさせる気なのか。これには到底納得できません。
 デッキのコピーができないのも根は同じ。一旦組み替えたら元に戻せないとは。謎仕様の多いゲームです。



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