ゲーム+α日記(2001年10月)

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10/31

 ん? 「そんなにこだわるゲームってどういうものよ、とか聞かれると言葉にできない」ってに書いたけれど、自分でもう答えを出してたんじゃないのか。
 「ゲームの世界は閉じていて、あらかじめ決まったルールの組み合わせで世界は動いている。ゲームとはそういうものだ。」って10/9の終わりの方に。
 ゲームってのは世界のことだったのか。ルールがあって閉じていればなんでも。例えば現実だって世界の一つで、ということは現実はゲームの一つなのか。
 現実がよくゲームと対比されるのは、現にあるゲームが現実の中で作られているからに過ぎない。そして、この現実世界では、主人公とプレイヤーの溝に悩むことが、他のゲームよりも格段に少ないと思える。もしかしたら、全くないかも知れない。

 そう思えたら、急に周りの景色の見え方が変わってきたような。
 『ガンパレード・マーチ』ってそういうゲーム観を提示したゲームだったんじゃないだろうか。1周しか遊んでないからよく分からないけれど。


10/28

 まずはごめんなさいだ! 出てすぐ買わずにごめんなさいと十回言え! 言ったか? なら買って良し。行ってこい! 手に入れるまで戻ってくるな! 心当たりのあるあらゆる店を回って見つけ出せ!

 という気持ちで『R・TYPES』と『R・TYPEΔ』『THEダブルシューティング〜レイストーム×レイクライシス』を買う。
 R・TYPEシリーズが出た当時と比べて、今は自分内シューティング価値が段違いに高い。当時はゲーセンに不自由していなかったってのが大きいんだろう。失って初めて分かる有難味。そしてまた地元には売ってなかったんだ。
 一方レイシリーズには全く思い入れがなくて、どうも自分とタイトーシューティングは相性が合わないようであるけれども、こんな値段でワンパッケージに押し込まれてしまってるのを見ると買わないわけには行かない。
 ちなみに、いつものゲーム屋では『R・TYPES』のみ売り切れ。シューティングを買う人がこの地域にいるなんて予想外だったけれど、三本の中でどれが、ということなら妥当かも。

 早速初代『R・TYPE』から始めるも、PCエンジン版(4面までの)しか遊んだことのない自分にとって懐かしがっていられたのはそこまで。というか既に4面から死にまくり。
 そして6面のキツさと来たら。最近の自分にこういう精神注入棒ビシバシゲームに耐性があるはずもなく、それでも無制限なのをいいことにコンティニューしまくり、歯を食いしばって頑張りました。
 もっとも、一旦は我慢できず難易度を下げようとオプションモードに入ったのですが、現在の「NORMAL」から下へ……って、「HARD」との二択しかない? ということで、もはや退路は絶たれていたのでした。腹をくくって戦場へバック。ステージセレクト機能(クリア後選択可能)は便利ですね。

 ひとつのステージは短いものの、場面場面の密度がものすごく濃くて、それらを何ヶ所かまとめて切り抜けないといつまで経っても先に進めない、死に越えを許さないシステム。接近戦厳禁、自機の当たり判定は見た目通り、ザコといえども倒すまで油断するな、と毎回肝に銘じていながら、同じ理由で死ぬのには悶絶。
 7面はなんだかあっさり抜けて、ラスト8面がまた地獄。オート連射の力も借りてどうにかクリアしたけれど、これが本当の倒し方なのか? もっと楽できるんじゃないの? 大いに疑問がありますが、ま、これほどのメジャータイトルならどっかに攻略サイトがありそうなんでちょっと漁ってみようかな。

 ゲームに没頭してしまい、なかなか視点を引けないため、効率よく攻略法を見つける遊び方ができません。代わりに、危険な手順でもひたすら何度も試し、手数の多さでクリアを引き寄せるという頭の悪い遊び方に終始してます。
 意識したら冷静になれるだろうか。と思い、ちょこっと客観視を心がけてみたら、面白いことを発見。自機が撃破されるとき、画面内は爆発する自機を除いて動きが1〜2秒ストップするんですが(スクロールも)、その瞬間にはプレイヤーの自分の動きも凍り付いていることが分かりました。
 単純すぎ。つーかそれどうでもいい。


10/25

 自分にとって『未来にキスを』とは何だったんだろう、そして『Sense Off』とは、なんていう、インタビューで質問者が楽をしたいときに使うような問いが、3日前から頭の中にあって、答えらしきものを思いついたのが昨日。
 あまりに眠かったから更新せず、だからその思いつきを見直す時間が今日はあって、それほど的はずれではなさそうだと思えている。時間が経ったからといって、分かりやすくまとめることができるかというととてもそうなっているようには思えないけれど。
 これは消さないわけにはいかない。二タイトルのネタバレからなる文章です。

 自分にとって、『Sense Off』は、意志が通じることの喜びを感じさせてくれた希望の物語だった。
 どうしようもない孤独も、主人公とヒロインの特別な間柄なら取り払える。
 たとえ死が二人を分かつことがあっても、意識のつながりが切れることはない。物理的な断絶があっても、精神的な共有の絆は断ちきられない。
 そして、自分にとってここが重要なところだけれど、主人公が共有できる喜びを感じているのと同じ喜びを、ヒロインも(他人として)感じているに違いない。たとえ主人公の意識で共存、という形を取ったとしても、そこに来てくれた彼女は自分ではない彼女であるに違いない。
 そのことがストーリー中で直接語られていたかどうかは気にならない。その確信の源は、この物語がゲームによってプレイヤーの自分に向けて語られている、というところから来ている。

 主人公とヒロインは物語上で対になっている。自分とゲームは現実で対になっている。主人公とプレイヤーは、主人公に「触媒作用」「運命を変える力」という能力があるという物語の設定と、分岐を選び物語を進めていくゲームの内容が、似たものであるとプレイヤーに類推させることによって結びついている。その類推をもとに、ヒロインとゲームも結びつけられる。
 自分とゲームとは別物である。よって、主人公とヒロインも別物、他人である。
 共有の喜びはゲームが語る。よって、ヒロインも共有の喜びを感じている。

 おまけシナリオでは、プレイヤーとゲームの関係がより露骨に、機械チックに描かれる。
 自分にとって「他人」と呼べるほどに意志を持ったソフトウェアが、つながりを求めてこちらに向けて手をさしのべて来ようとしている。プレイヤーとゲームのそんな画期的な、「歴史」的な関係が始まりを告げ、その後はもっとプレイヤーに近づいてくるゲームが登場するようになる、との期待を持たせてゲームは終わる。

 一方『未来にキスを』では、その期待に背く態度をゲームが取り始める。支配の対象の違いが述べられ、断絶することを勧められ、共有は否定され、挙げ句の果てには「お別れ」だ。
 寂しい。この結果には不満がある。しかし、こちらが不満を感じているかどうかに関わらず、事態はそのように進んでしまった。歴史はそのように変わる方向を向いてしまった。「それでいいのかー!」と叫びたくなる、自分にとって不本意な方向へ。
 彼らは、プレイヤーがいつまでも異世界の住人として彼らの世界に関わっていることを許してくれなかった。二者択一が突きつけられる。まるごとゲーム世界の住人になるか、その場で白旗振って彼らを見送るか。人間であるならば見送るべし、と。

 ひたすら遊んでいるうちに、ゲームから(正確には、ゲームのキャラクターから)別れを告げられる、という経験があったのを思い出した。『ウィザードリィ』を遊んでいた折のことだった。そのことはかつてMemorial Games用に書いたものの、あまりにその思いの強さだけが際立っていて不格好なので消したのだった。
 次回の更新までそれをちょろっとアップしてみる(10/28:消しました。「パーティーがあたかも意志を持って自分から離れていくように感じた」という経験を、それがどういうことかよく分からないまま日記形式でメモした、というものでした)。
 『ウィザードリィ』での経験が一般的に「飽きた」と呼ばれるものなんだろうと思っている。『未来にキスを』は自分にとって、ゲームに飽きて勝手に離れていくプレイヤーに対する、ゲーム側からの反乱の物語だった、と言えるかも知れない。

 3日前の啓蒙に始まる呪縛から逃れられただろうか。来ないかも知れないと思ってたけれども。先のことなんて読めやしない。
 ここで
「別れを告げられて初めて、自分が『人間』であったことを思い知る」
とやればそれは啓蒙の範囲になりますが。そういう思いもないわけじゃない。

 ところで、昨日から今日の間に追加して思いついたんですが、『Sense Off』と『未来にキスを』って、両方とも完全に「終わる」話ですよね。ストーリーが終わっても世界がある限り、登場人物たちの生活を想像することができますが、この二本とも、最後はきちんと「終わる」。
 それが、まるでステージ数が尽きたら完全に終わるゲームのような終わり方のような気がして、それなら両方とも確かに「ゲーム」と呼べるなあ、とふと思いました。
 この思いつきは、うまいこと発展しないだろうか。


10/22

 まっずいなあ。いや、別にまずくはないのか。
 
PANDEMONIUM「KtFのお料理教室」を読み、次いでお薦め通りに『コミュニケーション不全症候群』(中島梓著、ちくま文庫)に進んだら、『未来にキスを』で語られていることが出てくる出てくる。
 実にあっさりと啓蒙されてしまいました。
 知識を消化した上ではじめて(上のサイトのように)考察に進めるのであって、その段階にたどり着かないうちに出会ってしまった『未来にキスを』を、この見方を離れて味わえるのは遠い先のこと、やってくるのか分からないほど先のことになる。
 それは残念なことだけれど、所詮は井の中の蛙の残念さ。すごい文章を読めたことに比べれば大したことじゃありません。

 『コミュニケーション〜』の方も、10年前の本とは思えない内容。推測の長さに比べると実例は多くありませんが、そこは読み手が自身の経験からいくらでも事例を引っ張ってくるので、説得力の心配はいらない。
 個人的には、まわりの人々を人間とは認識しない、というより、自分が周りの人々と同じように人間であるとは認識していない、の方がしっくりきます。自分の姿っていつもは見ないし。顔を洗うとき見るといっても、たまたま洗面所に鏡がついているだけだし、ひげを剃るとき顔を見るのも、自分の姿を確認するためではなくひげを剃るためだし。自分のいる写真を見て自分を探し出すのにちょっと苦労したりして(←顕著な啓蒙効果)。


10/20

 気になっていたところを頭の隅に留めてはいながら読み返していなかった『未来にキスを』のエンディングを再読してみる。
 このところ頭を使わない忙しいだけの仕事が多くて(いや、頭を「使えない」というべきなんだろう。できる人ならそんな忙しさの中でも常に考えていられるはずだから。それは能力の問題に過ぎない)、自分が駄目になっていく感じがあった。もっとも、その打開策にエロゲーを持ってこようというあたりは別な意味でダメになっていると言えなくもない。まあ、そっちのダメなら喜んで引き受けるさ。
 ちなみにこのゲームは、クリアしたシナリオのエンディング(以降)だけを読めるオプションがついているけれど、これはここだけ読めば十分ですという意図に取れなくもない。そのシナリオのダイジェストが回想の形で入っていることでもあるし。

 それで、先輩で巫女見習いの(こういった属性による紹介の、このゲームに似つかわしくないことといったら)悠歌さんシナリオなんですが、再読してもやっぱり腑に落ちない。筋道はつけられるけれど、それが本当とは思えない。こじつけすぎる気がする。
 こういうネタのときはいつもなら文字の色を変えるようにしていたけれど、もう面倒くさいし核心に触れている気がしないから隠さないことにします。そう言えば、隠さないでいるものは拡散する、という趣旨のことを、オヤジギャグであるのが明らかなやり方で(「隠さん」と引っかける形と独特の口調で)会議中に宣った上司がいて、その場は割と気まずい雰囲気に陥ったのですが、今思えばあれはただの地口ではなくて結構的を射ているのかも知れない。全く関係ありませんが。
 早く本題に入ろう。

 気になっていたのは、悠歌さんの能力の「神様」とは何なのか、どこかに神託は出てきたのか、ということでした。そういうことができる、とせっかく言っているんだから、実演のシーンがあっても良かったのに。
 と疑問だったんですが、実はそれはあったのではないかとふと思いました。
 ところで、私は、このゲーム(や『Sense Off』)に「ゲーム」のポジションから接しています。ある人にとっては哲学であり、別の人にとっては数学であるだろう、このゲームを受け取るときのスタンスが、自分の場合はゲームです。というか、そう受け取れるところが、これらのゲームを好きな理由です。もっとも、そんなにこだわるゲームってどういうものよ、とか聞かれると言葉にできないのが情けないところですが。
 ということで、そういう曖昧なものを起点とした短絡的な発想で、私は「神様」がゲームの世界にいない存在=プレイヤーと仮定します。そうすると、悠歌さんの望みは、神からの信号=プレイヤーの希望を代弁したものではないだろうか、と思えるのです。

 プレイヤーは、ゲームの先の展開を楽しみにしています。それを先に知ってしまったら楽しみは台無しだから、知る方法があっても(攻略本とかサイトとか)目に入らないようにして、ゲームに対してどきどきしています。
 そういうプレイヤーの意識を、悠歌さんはいつも受け取っていたのかも知れない。そしてそれを神託として口に出さなければならなかったのかも知れない。そしてさらに、いつもいつもそんな意識を受け取ってしまう自分の能力にほとほと嫌気が差していたのかも知れない。だからあの悲しみは、プレイヤーからの神託でもあり、悠歌さん自身の気持ちでもあり、と、二重の意味を持っていたのかも知れない。

 えー、「プレイヤーはネタバレ情報を望んでいない」「神託を受け取ったら黙っていることは許されない」など、多くの自明でないと思われる前提を含んでいるため、これが一般性をもって伝わる筋道だとは思いません。
 このシナリオを受け取った自分のための物語。これはそういうものなんだろう。


10/17

 毎号何かしら読みどころがあると思ってきたゲーム批評だけれど、11月号は創刊以来最も期待はずれだと感じた。
 特集の一つ、FF10の批評についてはゲームを遊んでないから触れないとして、「肯定派vs否定派座談会」には驚かされました。読む側としては、好きの反対は無関心じゃなくて嫌いであって欲しいのですが、ってタイトルもそうなっているのに。関心を持った上で否定するんだから、当該ゲームを遊んでいるのなんて当たり前、それを語る上での前提でしょう。興味ないなら何も言わない方が、辛い思いをしなくて済むのに、と思います。
 悪趣味ゲーム特集も「一本のゲームをいろんな人が文章芸でいじくり倒す」ものを期待していたので残念(期待する方が無理か?)。ゲームの外のゴシップがゲーム語りに持ち込まれるのにやや飽きていたところでもあり、それが面白がれなかった理由かも知れません。そういう書き方は幅広い知識のなせる技だと分かってはいるのですが、素直に受け取れないときもある。
 だから、『スーパーギャルデリックアワー』の記事は良かった。今号では最も楽しめたページでした。


10/14

 急に持ち上がった身辺の慌ただしさがこれまた急に下火になったので、あわてて揃えたアドバンス&『逆転裁判』のモチベーションまで下降しないか心配。
 慌ただしいのは先送りになっただけなので、そのときのために楽しみを取っておいたほうがいいのか。しかし、どうせ遊びたいときに遊ばなければ手に取らなくなるのだ。それに、面白そうなゲームなんてその都度見つかる。
 買ったらすぐ遊ぶべきだ。時間さえ取れれば。いやむしろ時間を作って。
 ときにこれは予定外の買い物だったので、出費の帳尻はどこかで合わせなければ。さしあたりドリームキャスト『ディヴァインラヴ』は見送りかな。

 ああ、できごとを単発的にメモしていくのって、時間かからなくていいけど頭使ってなくて実によろしくない感じだ。


10/11

 ゲームボーイアドバンスを『逆転裁判』と一緒に買いたくなってきたぞ、と。

 身辺がなにやら慌ただしくなり、長期留守の可能性が。そうなると持ち歩けるゲームが必要で、そんな折りにグッドタイミングで興味を引くものが現れた次第。絵がちょっと濃くて主人公以外には馴染みにくそうだけれど、この指付きだしポーズが異様にかっこよくて惹かれます。
 溜まっている旧ゲームボーイソフトにこいつを加えれば、寂しい夜を過ごさずに済むはず。
 なんて、寂しがれる暇があればいいのだけれど。

 今日の日記も、購入時はあれほど喜んでいながら、高価なメモ帳としてもあまり使われていなかったWindowsCE機で更新を試みる。
 そんな準備より先にすべきことが山のようにあるはずですが。さしあたって部屋の片づけ。そこら中に散らかった本を何とかしていきたい。それとゲーム。ゲームが散らかってるというのもかなりどうかと思う。

 keyのページを見て、知りもしないはずの『グラナダ』なる単語が浮かんできた。(どこから?)
 あと「夏影」シングルはちょっと欲しい。


10/9

 やおらスーパーファミコンとコナミの名作競馬シミュレーション『ステイブルスター』を部屋の隅から発掘し、それまでのセーブデータを消して最初から遊び出してみる。おとといの京都大賞典をビデオで見て、その異様な決着のつき方にでも影響されたためだろうか。
 このゲームが丁寧に作ってあることは十分承知していたはずだったけれど、今回やり直してみて改めてその丁寧さを再認識した。スタートしてからプレイヤーを調教師という役に乗せるまでの助走期間が極めて短い。イベントや台詞(これだって小さなイベントか)がシステムの間をきめ細かく埋めていて、ふと気づいたときにはゲームに引き込まれている。
 そして、一旦勢いがついたら、終わることなくループする一年間のスケジュールを、調教師として追い立てられるようにこなすようになっている。ある馬が競走生活を終えても、他の馬はそれと関係なく各自の人生(ならぬ馬生)を送っている。彼らの面倒を見続けるよう、私は引き続き駆り立てられる。
 このゲームは区切れることがない。管理する全ての馬が同時に引退するというような、天文学的な偶然のいたずらが起こらない限り。そして、このゲームは区切れることを許さない。プレイヤーは、できるだけ多くの馬を同時に管理するように、システムから求められているから。

 ちらりと目に入った時計を見て、始めてから数時間が経っていることに気づいてあわてた。それでも、中断する踏ん切りがなかなかつかない。セーブはいつでもできるにも関わらず。さらに時間が経ち、空腹が訪れるようになってようやく、一段落つける決意が固まりはじめ、それでも電源が落ちるまでにはそこからさらに数十分を待たなければならなかった。
 恐ろしいゲームの支配力。

 すっかりこのゲームの虜になっていた私が、現実に引き戻されたきっかけは、現実にある時計の文字盤であり、現実にある自分の体が訴えた空腹感だった。現実にあるもの、今いるゲームの世界にないものが、自分がいるのと違う世界があることを気づかせた。
 時計はそこにあるだけで、それ以上のことはしない。現実で経過した時間を私に示しただけで、時計がスーファミの電源を切ったりはしてこない。だから、現実のことに気づいた自分は、自分の力で何とかしなければならない。それは自分が抱える問題で、時計が抱える問題ではないから。ゲームの世界から抜け出すために、その世界にとって冒険的とも言える決意を実行に移さなければならない。

 常に先へ先へと進むよう促す、大変に駆動力の高いゲームシステムには、前にも出会っていた。その一つ、『俺の屍を越えてゆけ』に触れた自分は、このゲームのプレイ感覚を「ハムスターの運動器具」にたとえていた。同じところをぐるぐる巡るゲームシステム、プレイヤーがゲーム世界に囚われるゲームシステムの表現として。
 中にいるハムスターは当然、自分自身のこと。ゲームの世界を外から観察することができれば、ゲームに対するたとえの中に自分を入れることもできる。でも、ゲームの中にしかいられなかったとしたら、自分自身をそのたとえに組み入れることはできないはず。「ししおどし」の動きに繰り返しを感じ取るひとがいたとして、もしそのひとがゲームの中にしかいないのなら、そのひとにとっては繰り返していることそのものだけが重要であるはずだ。

 ゲームの世界は閉じていて、あらかじめ決まったルールの組み合わせで世界は動いている。ゲームとはそういうものだ。そこに、それまで知らされてこなかった全く新しいルールが突如導入されたなら、プレイヤーはそのことをアンフェアと感じる。
 逆に、「全く新しいルール」なんてものがある、ということは、ゲームの世界だけでなく、そのルールをゲームの世界に取り入れさせた、ゲームとは別の世界があるということだ。そんな世界があるということは、ゲームの世界にとって思いもよらない、仰天すべき事柄だ。そういうことがもしあるなら、それへの「身も蓋もない」との形容は、ゲーム世界の住人にとって適切であると感じられる。

 前半は『ステイブルスター』の、後半は『未来にキスを』の話でした。
 理解から実感に移ったシナリオが、また一つ。


10/6

 ゲーセンじゃ他に遊ぶものがないからという理由で不活発に続けていた『怒首領蜂2』が、不覚にも少し面白くなってきてしまった。
 前に出てボム発動→敵弾の密集地帯に突撃→かすってボムエネルギー充填→敵弾を見つけたら再びボム発動……の、「エネルギーモード」限定サイクルとはどういうものなのか、試してみて分かったからのようです。
 貧弱ショットで堅い敵に押されて圧死というのがそれまでの遊び方でしたが、そしてそれはシューティングを始めて遊ぶときの芸のない遊び方ですが、そうやっている限りこのゲームはつまらない。ようやくそこから離れて、このゲーム固有の遊び方に入れた。そのことはそれ自体嬉しいことでもある。さらに(というよりこっちが主体だけれど)そのスタイル自体もまた楽しい。邪魔物が資源に見える画面は、以前とは別のゲームです。
 今さら感は猛烈に強い。遊ぶのに頭使ってないですね。

 そして、近所と言える範囲に『婆娑羅2』を見つけた。大変喜ばしいのですが、画面の四辺が凹型に歪んでいるのと、そこがラーメン屋の店内の待合室であることが問題。
 ラーメン食わずにゲームだけで帰るのはちょっと辛いです。


10/4

 『未来にキスを』の4人のシナリオを、心からしみじみとというふうに分かれなくても、それはそれでいいのだと思えてきた。
 あの4本で出てくるのは、丸ごと支配されたいとか、好きだけど恋愛状態は耐えられないとか、どれも一般的には変だと思われること。それが実感できない人には、そこに至る考え方を示して、さしあたり理解してもらう。実感できた人には、喜ばしい未来にたどりつくための次の段階(シナリオ)が待っている。
 こうして4つのシナリオを回り、未来への鍵を4本そろえ(てしまっ)たとき、その人はすでに彼らとともに「楽園」にいる。一方、権利を取れなかった人は、見送る立場であのエンディングを眺める。
 現状で実感できたのは1本、式子のシナリオだけだから、楽園行きはまだ先のことになりそう。自分でも、目を閉じて引きこもるにはちょっと早いかなという気はしていて、それはこの世に未練はあるということだろうから、世間的にはいい傾向だと思います。

 『Sense Off』で、ゲームの中から物語が手を差しのべてきたように感じた。その手を握ってみたところから始まったと見るとき(続編として考えたとき)の『未来にキスを』は、握った手をゲームの中に引きずり込もうとしているように感じる。
 そこにプレイヤーがつられてくるかどうかを試す、関門としての4シナリオ。という位置づけなんだろうか。

 記憶が曖昧なままイメージだけに頼ると、たいてい間違えます。特に『Sense Off』。
 ただ、ゲームする時間がなかなか取れないから、もっぱら想像に頼るしかないのだった。(←更新の暇はあるのに?)


10/2

 次の月に持ち越すつもりのなかった『未来にキスを』(otherwise)、最終シナリオ「もう引き返せない 大好きな未来」ことGENESIS(これがタイトル画面にあるうちは「最初から遊ぶ」を選べない)を遊ぶ。
 ……クリア直後、もし近くに夕陽があったなら、「それでいいのかー!」と叫びたかった。

 それまでの各シナリオで出てきた概念がまだ自分の中ではバラバラのままで、統合できていない。それができたときに、ようやく『未来にキスを』を単体で遊んだと言えるんだろう。
 それまでは、この創世シナリオで公式に許された『Sense Off』からの連想で、というか続編としてこのゲームに接する(しかない)。
 あのとき「もう始まっている」と語られた歴史が、このような形を迎えるとは!
 彼らにずいぶんと勝ち誇られてしまったものです。プレイヤーもこの「未来」に片足を突っ込んでいる、との確信もそこには含まれているようす。自分が訳分かってない自分自身のことで他人から確信を持たれるのは癪だから、もう一度読み直さなければ。
 スタッフロールその2の終わりから4、5つめの文章など、当事者がそれを言うんじゃないとか、言わないでおくのが奥床しさというものだろうにとか、思うところはあるけれども、今は心地よくない混乱で頭が一杯で、そのことに構っていられません。

 それにしても『Sense Off』のことを分かってなかったんだなあ、とも思い知らされる。前に遊んでいたときは思惟生命のことをどう捉えていたんだろう、とメモを見直してみたら、『ONE』のことばかり書いてあったのでずっこけた。
 すっとこどっこいなのは全然変わってないみたいです。



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