ゲーム+α日記(2001年11月)

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11/28

 先週末遊びすぎた報いでもないんだろうけれども、妙に今週は忙しい。疲れた。
 そこで思い立ち、『シルバーガン』ビデオに癒しを求めてみた。

 1年前だったらまだ、落ち着いて見ることはできなかったかも知れない。燃えて燃えて困ってしまい、癒しとかの対象どころではなかったはずだ。
 今はこれを見て希望が湧く。それは週末への希望。幸せが待っているに違いないと少し先を夢見て、それを明日の糧としよう。
 おー、本当に癒されようとしている。


11/26

 『Rez』を一通りクリア。

 このゲームでは、あらゆる音がリズムに縛られています。BGMはほとんどリズムだけで、敵をロックオンしたり攻撃したり、攻撃が命中して敵が破壊されたりといったあらゆる効果音が、音程を変えたりしながら素のリズムに乗ってきます。
 そのようにして、いかなる音も自由に鳴ることは許されていないのですが、そのことがゲームプレイにいささかも影響を与えていないところが面白いと思いました。
 このゲームでは、プレイと音(効果音)のつながりが緩いのです。

 BGMがプレイと離れている、というんだったらいつものことです。逆に、BGMをゲーム進行と同調させているほうが珍しいでしょう(その珍しい例としては、『メタルブラック』という大技が直ちに思い出されます。あの一体感は実に美しかった)。
 それに引き替え、効果音は常にプレイに従属するものでした。いかにもふわふわ感のあるジャンプ音、地鳴りの感じられそうな爆発音といった、音色方面への工夫はあっても、アクションと同時に音が鳴るのは当たり前のこととされていたのではないでしょうか。
 リズムアクションゲームはその前提の延長線上にあって、あれは音のためにプレイを合わせてあげるゲームでした。
 しかし『Rez』は違います。プレイヤーは好き勝手に遊んで良いのです。リズムはゲームが取ってくれます。

 ロックオンした敵に向けてショットを放つと、あとは弾が自動的に敵を倒してくれます。一刻も早く倒す必要はありません。敵はもう死ぬ運命にあるのだから、やっつけるのが少し遅れたところでプレイヤーに危険はありません。
 それなら、たとえ同時に複数の敵を倒せるタイミングで攻撃したとしても、倒す時間を一体一体少しずつずらして、続けて効果音が鳴るようにしよう。音の高さも変えよう。そういう演出が、ゲーム全体を貫いています。
 
初代『風のクロノア』のタイトル画面で、「かぜ・のくろ・のあ」みたいなリズムでゲームタイトルが一文字ずつ出てきて、風を切るような効果音がそれに乗っかって、最後をわっふぅ!で締める、という小技を見ることができますが、この種の小技を、デモ画面ではなくてゲーム中でぶっ通し味わわせてくれるのが、この『Rez』なのです。

 この音楽と相性が良いものとして選ばれたに違いないサイケデリックなビジュアルに対しては今ひとつノリの悪い自分に、『Rez』を遊んでいて気持ちいいという感想が出るとしたら、それは音にこだわっていながらもそれによって操作を束縛しないという発想と、それを実現した作りのきめの細やかさに贈りたい。


11/24

 『シルバーガン』と『プロギアの嵐』の置いてあるゲーセン……じゃなくてデパートのゲームコーナーを近所に発見。ほんとに空から降ってきたのか(9/5の終わりを参照、って分かりにくいリンクだ)!
 夢のようなそんな場所を午後いちに見つけて、その店を出たときは日が暮れていました。
 両方とも難易度を落とした上にエブリで残機が増えるという、虫歯ができそうに甘々な設定。うーん、あとはどうやったら一見さんにコインを入れてもらえるだろう。

 まず『シルバーガン』、難易度だけノーマルに変えてもらって遊ぶ(快く対応してもらえて嬉しい限りです)。
 と、そのように自分のかつてのパターンのゴーストを追いかけるようにプレイしましたが、またそれは自分がずっと続けてきた遊び方でしたが、そろそろ「自分で作り出す」ように遊べるようになった方がいいかも、と、楽しみつつ少し苦みも感じました。

 続いて『プロギア』、弾の数が半分くらいしかない画面にいっぱいの開放感を覚えながら、つまりこちらは易しいまま、これだったらさすがに2周目行けるんじゃないか、とさもしい期待の元にプレイ。
 それでも4面で2機死ぬんだから情けないところですが、それが気にならないほどの景気の良い増えっぷりにより、5面ボス突入時残機9。いかにへっぽこな自分でもこれなら乗り切れます。5機死んだけど1ボムでめでたくクリアー。
 もしかしたら難易度によっては2周目なし? とも思いましたがそんな意地悪もなく、初めて見るデモとともに6面がスタートしました。
 即死。
 これは厳しい。打ち返しの丸い弾が山ほどあるわ弾のスピードは速くなってるわジュエルの落下速度まで速まってるわ死んだら面の最初に戻ってやり直しだわと、話に聞くとおりの厳しさ。
 いや違うか。易しくしてこれだから、実際は倍くらい弾数が多いはず。えーとあれ以上どこに弾を置く隙間があるだろう。こりゃすごい。想像だけで大満足しました。
 この環境で弾数のインフレに慣れれば、ノーマル難易度の1周目をやり過ごせるようにならないだろうか。陸上の高地トレーニングのように。いいチャンスかも知れない。
 それにしても6面ボスの遺言、「また死ぬのか!」はないだろ。君が1面の彼と同一人物なのは、君にとっては秘密のはずなのに(ひょっとしてそういう物語?)。

 今後の週末の予定が、すごい勢いで埋まっていきそうな予感があります。


11/23

 『iS』だの『ラティス』だのを回想しつつ、それらより今後数段長持ちしそうなので、DC版『Rez』にはまずまず満足しています。不満点は一にも二にもタイトル。店先で指名買いできないでしょこれじゃ。あとは目が回ること……って、これは「トランス感覚」と呼ぶのですか。
 ところでこのゲーム、プレイの上手下手によって難易度が露骨に変わります。できるだけ撃たずに進めば仏のような易しさに、敵を全滅させていくと反撃も激しく。照準が大きくて狙いがつけやすいことと合わせて、初心者向けの配慮がかなりされているように感じました。
 といっても予想だけれど。3D画面で照準を合わせて狙い撃つゲームを遊んだことのない人にやらせて確かめてみたい。その人が本気で取り組んでようやくクリアできるよう、このランク操作が調整されているのかどうか、興味があります。ランク調節が、クリア狙いのための方便じゃなくて、腕前の違いを広くカバーするために使われているなら、すごく嬉しい。
 他にも、ゲームより「音を楽しむこと」の優先順位が高い人がどれくらいいるか、という謎はあります。それは昔からの謎。

 ときに、このゲームを買ったときにプレゼントのキャンペーンがあって、当たりを引いた自分はその場で振動対応ヘッドホンをいただきましたが、これが定価10,000円也。
 当たりが何本あるのか知らないし、ヘッドホンの実売価格も分からないけれど、太っ腹で心配です(と、心のこもらない調子で)。
 ちなみにそのヘッドホンはコードが短いのと肝心の振動がかすかなのとで使い勝手はよろしくありませんでしたが、ただでもらっておいて文句言ったら罰が当たる(言ってるよ)。


11/20

 筒井康隆『朝のガスパール』を読み直すべきだと感じる。そこに、ここ最近自分が考えている問題の答えがあったはずなのです。おぼろげな記憶によれば。
 ただ、読み直すべきだと言ったそばから、さらに手元にもう新潮文庫版を用意してあるにも関わらず、今読んでしまうことがためらわれもする。その内容に必ずや引きずられ、それと自分の考えとの少しのずれも気にできなくなるに違いないと恐れるからです。
 だから、自分の考えとやらをまとめてから読むことにしよう。朝日新聞連載時には訳が分からなかった話が、どれだけ理解できるようになっているか楽しみだ。読み返してもさっぱり、かも知れない。その時は成長してないということなんだろう。
 そう思ったら少し緊張した。読みたい気持ちと我慢する気持ちがごちゃまぜになっています。


11/18

 夜更けの眠い頭で考えてもロクな締めくくりにならない、ということがよく分かりました。
 昨日の更新を
修正
 今回の内容で最も悩んだのは結びのところで、そこが、一年以上寝かしているうちに考え方が変わってしまった部分なのでした。思いついたときに速攻で形にしていたら、ラストはまた違った形になったはず。
 何にしても、一旦公表したものの結びを大きく変えてしまうのにはもっと恥を感じた方がいい、と思いました。


11/17

 ほぼ一年半ぶりで突発的ですが、プリズマページを更新する:選択肢に見た「正しさ」
 自分の考えていることがわざわざ言うまでもないことに思えてしかたない。よそのサイトで目にする(『プリズマ』に限らないけれど)考察で、一旦咀嚼しなければ(あるいは咀嚼しても)分からない複雑なことが語られているのを目にするとき、彼我のギャップにくらくらします。
 そのくせ、順を追って説明していかないと、何を言いたかったのかが後で読み返した自分にさえ分からないものになる。始末に負えません。

 今回の更新ネタは、割と昔から(専用ページを作った頃から)頭に残っていたことだった。それを蒸し返してまとめている最中に、考え方が当時と変わってしまっていることに気がついた。
 昔の気持ちになってまとめるのは難しい、というより無理でした。変わってしまったら元のものは保存されず、一部は失われてしまうものらしい。惜しい、と少し思った。ただ、少ししかそう思わないのはいいことなんだろう。


11/14

 『すべてがFになる』を読んでいたときの「萌えが物語の邪魔をする」経験、あれは、萌えが勝手に独自ストーリーを作り出し、それが用意された物語と競合するということだったんではないか、と唐突に思った。
 そこに萌えがあれば十分であると。他に話はいらないと。いうのか。

 何だか、ギャルゲー内でのシミュレーション・アドベンチャー両ジャンルの区分は、ゲームとして遊ばせるシステムの有無よりも、しっかりしたストーリーの有無によるように思えてきた。
 ストーリーがなければ、たとえシステムがなくてもシミュレーションと言えます。なぜなら、断片化された萌え情報から新しいシナリオを生み出すシステムが、プレイヤーの内で働き出すから。
 ほんまかいな。


11/13

 この間買った『THEダブルシューティング〜レイストーム×レイクライシス』を両タイトルとも遊んで、少し認識を改めました。
 始めのうちは瞬殺ポイントが多すぎるのに唖然としていましたが、ここで驚くのは今までの感覚で遊んでいたからだろうと思い、見方を変えるよう意識してみました。
 ただ殺したい、プレイヤーから金を巻き上げたい、だけだったら、あんなきれいなレーザーの帯なんて演出は必要ない、ドット弾でいいはず。これだけサクサク死ぬのには絶対なにか訳がある。
 その訳は。
 ということで考えました。
 この2本において、自機は敵と対等に渡り合えるスーパーヒーローではなくて、閃光を上げて消えることでゲームの演出に一役買う脇役なのではないか。
 代わって主役の座には、物語や世界観といったものが就いている。
 そういうことにしてみよう。

 斬られ役になるために100円を投入しに行くには、現状もう一段二段悟りが足りませんが、家庭で遊ぶ分にはオールオッケー。いくらだって死んでみせます。
 あー…まだちょっと、今の新型概念フィルターで悔しさの成分が濾過しきれていないと見えて、コンティニュー画面になるたびに腹立ちのようなものが浮かんできますが、いずれ消えるはず。時が解決するだろう。

 こんなコアなゲームを750円/単体で広く売ろうともくろむとは、大胆というか壮挙というか。


11/11

 テレビから、どこか聞き覚えのあるメロディーが流れてきた。数秒かかって、『パネルでポン』のエンディングに似ていることに思い当たった。
 ゲームの中身と同じくらいこの曲が好きだったのでとても嬉しくなり、でも歌番組でなぜこれが、と不思議に思ったのだけれど、放送されていたのはもちろんゲームじゃなくて、RIP SLYMEの「One」という曲のイントロだった。
 次の日にさっそく借りに行った。

 『テイルズオブデスティニー』の主題歌だったからという理由でDEENを聞き始めたゲーム好きを揶揄しているサイトを、どこかで見たことがある。きっかけはどうでもいいと思うけれど、ネタにする気になったのは多分、ゲームから入ったことを隠して曲の善し悪しを口にするのを耳に(目に?)したからだろう。知ったかぶりして平気なのが気に食わないという、より一般的な話だと思う。
 とばっちりを食わないためには、ただ黙って聴いているのがよさそうだ。

 ところで、きっかけの痛さを競うなら、曲のタイトルを見て
「ほほー、『ONE』ね」
と自然に全大文字変換されていたというのはどうか(ここは一つ、カプコンがPS版を販売したアクションシューティングじゃない方で)。そして『パネルでポン』とこれの重ね合わせで興味倍増だった自分はどうか(誰も相手にしません)。

 いやあ、音楽との距離はこれくらいの方がほっとします(そんなんだから、からかおうと思われるんだ)。


11/10

 そうか。余計なことをするんじゃなかった。
 日記の今月分のファイル名を年・月以外にしてみていたのだけれど、不都合に気づいて元に戻しました。
 というか、読まれることを意識するのは、日記の中だけで十分だ、自分の場合。

 ところで、昨日急に音楽の話を書きたくなったのは、『AIR』シングルCDを試聴したからかもしれない。
 「夏影」の破壊力は驚異的であります。直球ど真ん中。もともと好みの曲なのに加えて、ボーカルの高音の引っ張り方が自分好みであり、この試聴範囲では言うことなし。いや、一言だけあった。
 「通販で買っときゃよかった」
 うー、早く一般販売されないかな。

 …ん! 聞き直したらちょっと待てよ、声に変なエフェクトがかかっている。それは困った。この声という楽器が好きなのに、そんな作為をされても嬉しくない。
 普通の声が曲の大半を占めていることを祈るばかりです。


11/9

 サイトの作者プロフィールに、好きな曲が並んでいるのをよく見かけます。うちにはそういうのがありませんが、紹介する気がなかったという身も蓋もない理由の他に、サイトを立ち上げたときにはリストアップできるほどの趣味にしていなかったという点がありました。そして他には、固有名詞だけでは物足りないからというのも、これは時間が経つにつれて追加されてきた理由。
 コメントを入れたくなって、そのコメントは一言じゃ済まなくなって、サイトの紹介だかその曲の紹介だか訳が分からなくなっていって、きっと収拾がつかなくなるに違いない。好きなゲームのタイトルを挙げただけで済ませることができないように。
 前置きはどうでもいいか。たまには畑違いの分野について、狭い視野から見えることだけを、他人の目を気にせずに語ってみたくなるときもある。自分のページだからこそできる贅沢。
 うー、どう前置きしていいか分からない。事実から書いてみよう。川本真琴が最近出した「ブロッサム」という曲やその他の曲についてなんですが。ゲームネタ出てこないんですが。書いてみたくてしょうがないんですが。
 あ、これだけでいいのか。

 川本真琴が出している曲を発売順に見ていくと、連続した一人の女の子の人生がたどれるようで、それを想像して楽しんでいることがよくある。飛んだり跳ねたりと生きのいい学生時代(アルバム『川本真琴』)があって、卒業を迎え(「桜」)、でも進路が決まらずさまよっている(「ピカピカ」)うちに一年も経ってしまい、悩み疲れてか床に臥せる冬の日があったりする(「微熱」)も、武者修行を決意して渡米(「FRAGILE」)、帰国したら吹っ切れたような弾けっぷりを見せて(「ギミーシェルター」&アルバム『gobbledygook』)今に至る、というような。
 我ながら勝手な物語だ。多分、性根が下世話で、曲だけを素直に受け取る能力に欠けているんだろう。それに、ここで選んだのはシングルA面に偏っているし、「桜」より前の曲には思い入れが薄いのが丸分かりだ。

 自分にできるのはせいぜい、その女の子を作者と不用意に同一視しないよう気をつけることだけだった。そのことは、自分の補間に比べてはるかにもっともらしくないと思っていたから。
 そのせっかくの努力が、今回の「ブロッサム」で一旦ご破算にされてしまった。自分のストーリーはそのままに。より厳密な努力のために、努力する対象を再構築する必要に迫られた。
 「ブロッサム」を初めて聴いてから一週間、歌われている事態の深刻さにようやく気づいたために。

 ああもう今日の内容はゲーム日記的に速攻ダウトな感じですが、思えば一本のマイナーなゲームについて熱く語るのもこういう疎外感を覚えさせるという意味で同じはずなのだ。今気づいた。書きながらでさえそう思える。
 後には引かない気持ちで。
 何言ってるんだ俺は。ちょっと恥ずかしがりすぎ。そう恥ずかしがっているんだ。ギャルゲーで萌え萌え言えたって全然関係ない。
 慣れていないだけか。本当にそうか。
 ともあれ、曲を知らない人の置いてけぼり感はここからさらに加速します。

 「ブロッサム」で歌われているのは、どうにも歌い手本人のことと取るべきだろう。恐ろしいのは、本人の気持ちではなくて、本人を外側から見ている他人の気持ちを、本人が歌っている、というところだ。
 最も直接的なのは、ピアノなんか弾いてないで、っていうところ(歌詞のトレースに気を配らない書き方をします。以下同様)。クレジットを見ると歌い手はピアノ演奏も担当しているそうであり、とりあえずこれで接点はできた。

 その見方で他の歌詞を見ていくと、神様がいた遠い昔、という表現がある。いつもの自分なら安易な結びつけを慎むところだけれど、今回はそれが許可されているようなので結びつけられるものを思い浮かべてみる。すると、「桜」や「1/2」や「10分前」といった好きな曲の歌詞にその単語「神様」を見つけることができる。
 それが遠い昔であると語られるのも理解できる。最近の曲に比べての作風の変化は、過去に未練があるなら耐えられないだろうと思えるほど著しい。

 そして、どうやら傍目から見てピアノを弾く女の子は途方に暮れているらしい、というのが、「ブロッサム」の歌詞の残りの部分だ。メロディーだけならシンプルな曲。長調で力強い低音がなくて4拍子のベートーベン「月光」第一楽章みたいな曲。
 さっきも書いたけれど、この曲の歌詞には本人の気持ちは出てこない。それでいながら、妙に深くまで本人に踏み込んだ歌詞だ。これが他人なら、相当お節介だと思う。そして、作詞者はいつものような本人ではなく他人なのだ。
 他人の視線で見られた自分を、自分の気持ちの一切こもっていない歌詞を歌うというのはどういう気分なのか。拷問のような辛さがあるのではないか。歌うとき何も考えないよう、必死に努力しなければならないのではないか。なぜこんなにも挑戦しなければいけないんだろう。
 この曲の作られ方は正しい。正しすぎて、聴く方としては不安になる。

 歌詞どおり、川本真琴が本当に先行き不透明に感じているのなら、何やっても受け入れる素地は当方できています、てなことを言ってみたくもなる。でも、それよりもっと大きい問題に直面しているせいで、本人の悩みにまでは気を回すことができそうにない。
 それはつくづく身勝手だ。ただし、「本人の悩み」なんて余計なことに気を回すことができないのは、「その人の曲」から「その人自体」をついうっかり関連づけてしまうくせを制御できない情けない自分に与えられた精一杯の幸いであるように思う。そんなことを考えるのはいくら何でも自意識過剰すぎる。
 自分のいる世界は、曲と直結したものまでで切り取られるべきだ。今回の場合、世界の境界は大分広がっているけれども、それでも川本真琴名義の曲の集まり、までしか含まれず、本人のいる世界とは別物だ。そこは留意しなければ。

 ところで「月光」を知っているのは、それがサターンで遊んだアクションゲーム『アースワームジム2』のBGMに使われていたからだ、ということはメモしておこう(←ほっとしたな! ゲームネタを引っ張り出せてほっとしただろう!)。


11/7

 『R・TYPE』のRとTの間は中点なのかハイフンなのか、はっきりしてもらいたい気持ちでいっぱいです。ゲームのパッケージ見て慌てて直したら、メーカーのサイトじゃハイフンだよ。というか、それ見たからつられたのに違いない。
 なんてことが書きたいのではなくて。

 『R・TYPE』を遊んで、難所でめげたら寝ころんで『すべてがFになる』(森博嗣・著)を読んで、その体勢に疲れたらまたゲームへ、などという、今思い返しても嬉しくなる理想的な休日を過ごしたことを思い出しました(週末のネタは消費期限一週間で有効、の俺法則)。
 しかしこの『すべてがFになる』ですが、こうあからさまな萌えキャラを出されてしまうと、彼女の挙動に気を取られてしまい、話の筋が追えません。そして、やりすぎと感じたところ(焼きそばのエピソードとか名前が「萌絵」なところとか)はあるにしても、企まれたとおり(?)萌え心はくすぐられたのだった。
 特に、憧れ(という様子であると表現したいところから、すでに萌えが始まっている、と言えば言えるのだが)の人と二人きりになれたことについて(以下、文章についてはうろおぼえ。図書館に返した後なので確認が取れません)、みんな気を利かせてくれたみたいですね、と話しかけたら、その変な表現は聞かなかったことにしよう、と返された場面が強く印象に残っています。それを聞いた彼女の反応については確か本文じゃ触れられてなかったけれど、表情とか思いとかを想像するとたまらない。きっと、気づかれないほど小さく頬をふくらませたに違いないのであり、まったくもう、でもそんなところが、いやそうだからこそ私は、とか反芻したりしているんだろう。
 お、珍しくキャラに萌えている。

 ところで、同じくキャラが気になって話に集中できない小説で思い出されるのは『秘密』(東野圭吾・著)なんですが、こちらは正反対。お気に入りになれないのに存在感たっぷりのヒロインに最後まで振り回されどおしでした。
 この二例から得られる結論は、精神年齢で歳食っていると、たとえ見た目の幼さで媚びられてもダメである、ということか(←ダメなのは自分の方だ)。ええとここで「精神年齢が上」というのは、ある問題に対して答えを出すのに、少ない基本原則を組み合わせて導き出すという方法でなく、培った経験を元に多くの道を張り巡らせ、最短距離を突っ走ってダイレクトに答えに辿り着けるということで、つまりそれは知恵をたくさん持っていると(もういい)


11/5

 むー、「みんなでいるときの居心地」を改善するためにここまで回りくどい理屈が必要だなんて、まったく因果なことだ。

 気持ちのバランスを取るために『R・TYPEΔ』を遊ぶ。これだけスローテンポで、画面が暗くて、死因が分かりづらくて、それでも楽しめるのはすごいことだと思いました。
 見通しの暗さは特に困った問題で、背景の星かとおもうほどさりげなく、ゆっくりと近づいてきた敵弾に、撃墜されて初めて気づくあたりが大変やるせない。自分の目のせいかと思って一旦中断し、『R・TYPE』を立ち上げてみたらくっきりはっきり見えている。弾をアイテムと勘違いして取りに行ったことはありますが、気づかないというのは少し珍しいかも。
 視認性の悪さは、3D描画にしたことで奥行きがついた&奥のものはぼんやり描画される→奥行きを持った敵機や障害物の輪郭がぼける、のが原因かと思います。む、ならば手前方向にせり出したデザインの敵キャラなら輪郭も明瞭で問題解決、と一瞬思いましたが、そんなふうにカメラ目線で造形された敵はイヤだ。
 あと、一ステージが長いのでなかなかリトライする気になれません。ステージが短い上に面セレクトがついていた『R・TYPES』とはえらい違いだ。こちらにこそ、おまけではなく最初からステージセレクトをつけて欲しかったところです。

 それでも面白いんですよねえ。
 子機(フォース)の脱着だけで十分遊べる。フォースで敵を倒すとボム用にエネルギーが充填されるのですが、敵に食いつかせてパワーを吸い取っているところが実に生体チック。ガンガン養分をむさぼるフォースの姿を見るにつけ、敵が取り込みたくなるわけが分かります。で、調子に乗って自機から遠く離していると守りがお留守になって死亡(頭悪い)。
 3面の巨大戦艦ならぬ巨大四足歩行ロボがお気に入り。ゲーム進行のもっさり感が大迫力の重量感にうまく変換されています。だから、道中のテンポがとろいのもこの面に関しては欠点じゃない。足下に避難するところなどわくわくします。
 面スタート時の雪景色+ロボ+BGM、三拍子揃って『FF6』のオープニングをふと思い出しました。暗いのまで含めて、実に絵になる景色でした。このゲームで一番好きなところかも。

 最も簡単なKIDSモードでコンティニューを重ねてではあっても、クリアしたことで満足。堪能した、という感じです。
 気合いがたまったら、フォースの種類を変えて、また遊んでみようかな。KIDSモードで(弱)。


11/2

 そんなわけで、『未来にキスを』から派生したいくつかに影響され、先月末から自分は「現実をゲームと見なして生きる」ようになっています。経過はゲーム内物語の外側を通ったにせよ、自分とゲームの恋物語は二つの併合によって幕を下ろした。結局当方おおかた取り込まれた立場となって。
 いいのかなあ、そんな簡単にものの見方を変えて。

 『プリズマティカリゼーション』のみゆや『未来にキスを』の式子が、小賢しくもゲームの枠を越えた視線をモニターの向こう側から飛ばしてきているように、自分もまた、現実に囲まれながら時々よその世界のことを考えてみようとして(ただしこちらは果たせずに)いるひとりのキャラクターだった。
 「小賢しい」と感じられたのは、現実とゲームを比べてみて現実の方に優位を見ていたから。でもそれは実際のところ上下関係なんか持っておらず、ただ「違う」ものでしかなかった。

 そんなことを思わせる起点になるなんて、『未来にキスを』は困ったゲームだ。



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