ゲーム+α日記(2002年3月)

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3/31(日)

 そういや進藤ルートでは妹が出てきていた。そして、むつきの妹に会ったところで主人公は何を気にすることもなく、普通に彼女たちに接している。

 そりゃそうだよな。互いのいもうと観が異なったところで、それをクロスさせない限り話は通じ合う。あるいは、意味が違っていても話は通じてしまう、というべきか。
 だから、
3/19で思ったような心配はいらない。他の兄妹を見るだけなら何も起こらない。同じ人が別の概念を同時に住まわせて、始めて混乱は起こるはずだ。主人公兄妹の成り立ちを極めて近くから観察してきた自分のように。
 雪希のほかに別の妹が現れたら、さすがに主人公も戸惑うだろう。
 ただ、『みずいろ』の世界には、そういう混乱はふさわしくない気もする。実の妹と義理の妹が一緒に出てくるゲームなんて、他にあるに決まっている。そっちの方に任せればいい。
 そういう混乱をうまく扱ったゲームは、ちょっと遊んでみたいです。

 それにしても『みずいろ』が進んでません。なぜなら「バルドバレねこ」でコンティニューができることが分かったから(←ちゃんとゲーム内の説明を読め)。
 これで、一から武器を育ててきたのに強敵相手にちょっと操作を誤ったばかりにタコ殴りに遭いまた最初からやり直し、の長時間サイクルを踏まなくてすむのが大変ありがたく、何度も死にながら対策を練っているところ。
 ただ、『トルネコの大冒険』のダンジョンの途中でセーブができるようになってしまったようなものなので、そういうぬるさを歓迎する自分がちとふがいないとは思います。学生時代だったら意地を張って、そういう仕様は却下したことでしょう。


3/29(金)

 このところ『みずいろ』が遊べなくてもそれほど不満がないのは、主題歌「みずいろ」を毎日聞いているからです。
 この曲の歌詞はゲームのシナリオとほとんど関係ない。カップが回るとかゲーム内のイベントが出てきても、そこに乗るのは本編では使われないムービー。あとは雪希が雨の中走ったり雪希が傘を閉じて空を見上げたりといった、日常生活的な場面ばっかり。
 そんな情景を思い描いているときは、ゲームを遊ばなくてもそちらの世界に出張しているので、ドリームキャストが起動していなくても、目の前にゲーム画面がなくても、遊んでいるのと同じ。だから、ゆっくり座って遊ぶ時間が取れないからといって腹を立てたりはしないのです。
 というか、『みずいろ』がそういうふうに遊べるゲームなんだと思う。

 そんな中でも進藤ルートをちょっと進めているけれど(清香と言っておきながら、ゲームに出てきた順番をなぞっているだけ)、どうもこれはまずい。
 雪希ルートでは雪希の前にかすんでごまかされていた、話の流れに納得できないまま進んでいくあり方が、このルートでは全開放出されているようで、話に乗っていけません。


3/26(火)

 「『私には』〜と感じられる」「『個人的には』〜だ」と但し書きをつけることで、説得力を犠牲に個性を得ることができますが、そしてそれは自分の日頃の態度でもありますが、肝心なときには個人の事情を脱して広く共有されるものを求めたい。
 自己紹介の成分が薄れ、伝えたい内容が透けて見える文章に憧れます。狙ったところでうまくいくことなんてそうはないけれども。

 CONTINUE3号の巻末コラム「ゲームの彼岸にて」はゲームというもの、ゲームを遊ぶということ全般を扱っており、その文章の透明度および規模の壮大さには、引用という形で書き写すほど惚れました。
 すっかりその心づもりを引き継いで読み始めた今号(4号)の同コラムでしたが…
 前号から一転してターゲットを絞り込んだ記事に接し、気持ちを切り替えるまで少し時間がかかりました。
 よく見りゃ始めにきちんと、「安易にクソゲーとレッテルを貼ってけなす人向け」と断ってありました。再読してようやく気づく始末。ちょっと気を許しすぎていたようです。

 書き手の事情に左右されるレビューの例としては、同じCONTINUE4号のと、ゲーム批評42号の一本目の『ピクミン』評などはどうか。両方を並べて読み、それぞれがどういう理由でこのソフトを褒めているかを比べてみるのも、趣味が悪くて面白いかも知れません。
 いや、たまたまゲーム批評のその号が近くにおいてあったものだから。


3/24(日)

 『みずいろ』日和ルート終了。
 みっともない表情、かっこ悪い服装、情けない声。さらに、同じ学校にもおらず、最初は主人公にとって幼なじみですらない。あるのは、プレイヤーが見てきた過去だけ、それだって画像がモノクロだから髪の色などは手がかりにできず、情報はさらに限られる。
 ほとんどゼロからのスタート。ライバルの雪希は一つ屋根の下に住む妹として、すでにトラック一周分くらい先を走っている。こんな劣勢をどのように挽回し、ヒロインとして印象づけるか。シナリオによる全力の後押しが始まる。
 雪希に並んだと感じたのは夜の公園に行こうとするときかな。それ以降は日和が主役で、私が日和をそう位置づけたところでこのシナリオは目的を果たしたのではないでしょうか(←すげえ偉そう)。

 雪希は萌えキャラだが日和は違うなあ。シナリオの中に生きている。『Kanon』の名雪とあゆの関係と同じで、うまく参考にしてあると思いました。

 ところで、「バルドバレねこ」が面白くてやめられません。順当なら、昔からの知り合いのくせにこれまで一度も過去に出てきていない清香あたりを次に進めるべきなのだが、ついこっちに走ってしまう。
 それまで使ったことのなかった武器を試してみる。その新しい特性がゲームのルールに溶け込み、役立たずと思っていたのに使いでがあると気づいたときの快感がたまりません。強敵にぶち当たっても、工夫の余地があからさまに残されているので、やる気がしぼまない。
 一プレイに30分以上と時間がかかるのが難点です。だから『みずいろ』まで手が回らない。困ったもんだ(笑顔で)。


3/21(木)

 やっと『みずいろ』2周目に取りかかる。幼なじみの日和ルートへ。

 雪希ルートで唐突とか不自然とか感じられた事柄が、いちいち説明づけられて出てくる。こっちが本編だったか。
 もっとも、こちらを先に済ませたところで雪希ルートにあった不自然さが消える訳じゃなくて、ただ日和ルートの話の流れの堅実さが強調されるだけ、という気はする。

 うまいなあ、と思うのは雪希の表舞台からの去らせ方。ゲーム開始直後の接近度で日和に比べてアドバンテージ大な雪希の魅力は、他の子をターゲットにしますと宣言しただけでは消えない。そのままでは主役が食われてしまう。
 日和ルートでのこの問題の解決策は、雪希の性格をそのまま使って三枚目に仕立て上げることだった。
 あのかわいい妹に、兄がチョップをくれるんですよ。そして雪希悶絶。雪希が進藤(雪希のクラスメートで小うるさい、根っからの三枚目)と同列に並んでいる。信じられない。しかし、そんな道化は雪希には似合わない、なんてひどいことを、許せない、と怒る気分にはならない。ところで、いくら直接表現を避けたいとはいえ、この否定形の連発は正直どうだろう。
 それはともかく。こうして、プレイヤーに愛着を持たせたまま恋愛対象から外すという離れ業が成り立った。「○○ルート突入」と一言で表すより100倍効果的な実践だと思います。
 いや実際、これくらいやらないと日和に気持ちが行きませんって今のところ。雪希かわいいもん(←手に負えない)。


3/19(火)

 この3日、『みずいろ』のファーストプレイでずっと引っかかっていたことがあって、それは何かといろいろ考えてみたところ、雪希が妹である、という点であるとの結論を得た。
 って、そこは威張るところじゃありません。

 ハッピーエンドに至るまでに、幼なじみの日和のことをお互い気遣うことはあっても、「兄だから」「妹だから」ためらうという場面はほとんどなかった。主人公が一度だけ「兄として」と言ったけれど、そこには特別な重さはなかった。雪希も「いい妹」と「悪い子」を対比して苦しんでいたりする。普通は対比できないはずだ、雪希は何よりもまず主人公の妹で「ある」のだから。妹で「いる」かそうでない立場で「いる」かを秤にかけられるなんて変だ。
 プレイしていての違和感はこの辺りにあった。
 しかし、考えてみれば、この二人の間ではそうなって当たり前なのだった。

 プロローグを振り返ってみる。出会ったころ、主人公は雪希のことが嫌いだったし、雪希は泣いてばかりで主人公のことを見ていなかった。それが徐々にうち解けてきて、コミュニケーションが取れるようになってきて、ついに互いに代名詞で呼びかけるときが来る。

 (ありがとう、お兄ちゃん)/…はじめて…そう呼ばれた。
 僕は妹に見えないように、片手を”ぎゅっ”と握りしめていた…
 この瞬間、雪希は「お兄ちゃん」を主人公だと定義づけたし、主人公も「妹」を雪希のことだと定義づけた。それより前に、二人にそれぞれの言葉は存在しなかった。
 それが、生まれながらそれであるような「妹」の定義を持つ自分とずれているのは当然のことだった。

 自分とずれたいもうと観を持つ主人公の視点でシナリオを進めることで、頭の中の妹の定義が二種類になり、それがごちゃ混ぜになって戸惑った。
 二人のほうはどうだったんだろう。成長するにつれ、実の兄妹を持つ友人ができることもあっただろう。彼らから異なる兄弟像を見せられて、混乱しなかっただろうか。
 多分、二人の中では、兄妹という言葉と、雪希にとっての「お兄ちゃん」および主人公にとっての「妹」は全く別物として住み分けられたのだろう。もっと言うなら、相手を指す「兄」「妹」と、本人を指す「妹」「兄」は違うものだということに落ち着いたのだろう。
 その関係の始まりを示したプロローグは、だから自分にとって雪希シナリオの一番の見どころだった。これは自分にとって、このシナリオ中最もショッキングなイベントであり、そのインパクトは本編後半の葛藤をしのぐほど印象に残った。読み返してより一層その思いが増していくのが分かる。

 これは分岐が現れる前、ゲームを始めてすぐ出てくる。それならば、何を差し置いてもまず雪希のシナリオに進むのが当然ではないだろうか。
 と、これは後付けの理由ではあるけれど、漠然とでもそう感じたに違いないからこそ真っ先に雪希ルートに進んだのだった。
 その感触を(主に前半、屈託なく互いに呼びかけあう日常を)ぼんやりと抱えたまま、まだ次のキャラの話に進めないでいる。

 もっとも、『みずいろ』本編が進んでいないのは、エンディング後の二人が知りたくて『ねこねこファンディスク』(ねこねこソフト)を試していたからでもあります(買ったさ! ああ買ったとも)。
 そして、そこで繰り広げられるコスプレエロのダイレクトな18禁ぶりにDC版とのギャップを痛感し、付属のゲーム「バルドバレねこ」に逃避するのであった。
 見下ろしフィールドをギャルゲーキャラが縦横無尽に駆け回り撃ち回るシューティングですが、きびきびしたテンポや体力温存システムなどが、武器の多い『ザンファイン』(あっちは体力じゃなくて制限時間だが)といった趣で好感。
 って、本家『バルドバレット』(戯画)ってのがあるんじゃん! いいのかな? と思ったが、クレジットがちゃんと入っているのでいいんだろう(そうか?)。


3/16(土)

 『みずいろ』雪希(妹)エンド。
 この子はお兄ちゃんというのと同じ意味合いでお姉ちゃんと呼ぶ。この「お兄ちゃん」がまさしく『未来にキスを』でいうところの「好きってのと同じ」呼び方であることが、ここからすぐ分かる。
 申し分ない導入でした。もう、本編(現在ルート)が始まってから3日間(ゲーム時間で)くらいはすっごく幸せだった。ここで一旦中断したのは、昼を迎えて腹が減ってきたからだけじゃない。幸福度が満腹で、消化しなければ続きが納まらなかったのです。
 だが。途中から登場人物だけ、というより作者だけの了解事項のもとに話が進んでいった感じ。ずっと以前、子供の頃に仕込まれた、この話の元となる種が、ゲーム内の日付の中でいつしか芽吹いた、と、「いつ」ではなく「いつしか」になっているところが残念。ラストも、二人がそう決めたなら仕方ないとは思うけれども、納得とまではいきませんでした。

 それにしても、教室で女の子(他クラスの子含む)に囲まれて堂々と弁当を食べる主人公を容認するクラスメートはすごい。さすが、あのデザインの制服を採用する学校の生徒だけのことはある。


3/14(木)

 今日は自分の中ではちょうど一週間前、3月7日なのです。
 ということで
DC『みずいろ』。いやーポスター(予約特典)もらわないように発売直後にドリームキャストダイレクトを利用するのって難しいな(ただ申し込みが遅くなっただけ)。
 近所の店に入ってないしDDでも注文した次の日には売り切れてるし(あ、今見たら補充されてた)で、かなり慌ただしい一週間でした。買えて良かった。

 この「ぎゅっと」というのがいいと思います。悔しさとか怒りとかで本気で握りしめると、拳は「ぐっ」と音を立てるだろう。「ぎゅっ」には、力を込めながらも中にあるものを潰しはしない配慮がある。小さな「ゆ」のようにかよわい、守るべきもの、女の子の手などはそれにふさわしいと言えましょう。もちろん、女の子自身が作る握りこぶしの音はそうあるべきです(c.f. 「小さじ一杯の勇気を/ギュッと ギュッと 握って」@「小さじ一杯の勇気」by堀江由衣『黒猫と月気球をめぐる冒険』)。
 主人公の父親だって、絵入りのはがきが憎くて握ったわけじゃない。はがき自体はなかったことにしようとしつつも、そこにこもった気持ちを消し去ることなどできやしない。そんな理由があるのでは、大のおとなが「ぎゅっ」と音を立てたとしても仕方ありません。

 ちょっと疲れていて頭が湧き気味のせいもありますが、このようにして気持ちを盛り上げながら取り組んでいきたい。というか、更新よりゲームしろ(プロローグが終わったばかり……雪希ルートへ)。


3/12(火)

 『電脳遊戯の少年少女たち』(西村清和、講談社現代新書)という本を読む。といっても通し読みはしてなくて、ゲームに関するところをピックアップ、他は斜め読みという不真面目な態度で。

 ゲームにストーリーが馴染みにくいのは、ストーリーはゲームの外、こちらの世界のものだからだ。ゲームの中には、私たちが知るような形のストーリーはなくて、あるとすればそれは彼らの世界の様式に則り、彼らの言語でつづられているだろう。そんなものを読むことはできない。だから、こちらの言葉に翻訳される必要がある。
 物語がゲームの中から出てきたものだと感じられるとき、つまりゲームの中にあるであろう独特に語られた物語を翻訳して見せられていると感じるとき、私はその物語にゲームらしさを感じる。以前は翻訳のされかたにバラエティがあることにこだわっていたけれど、最近はそうでもない。どのみち、一度のプレイでたどれるストーリーは一つだけなのだ。その一つがあれば十分だと思えれば、そのゲームを遊んだ甲斐があったというもの。
 ゲームの中から引っ張り出してきたのではなく、あらかじめ用意されたストーリーをCGに演技させて見ているに過ぎないものが「ゲーム」と呼ばれたとしたら、それはストーリーが勝ちすぎてつまらないゲームであるだろう。

 なんてことは付け足しであって、この本で注目したのはゲーム中の主人公とプレイヤーの関係についての考察。それが同じものではないことを示す過程を読み進めるにつれて期待は高まりました。
 しかし、最後でそれは裏切られる。そこまで行っていながら、の思いが強いだけに惜しまれます。

 結局、この考察の背後には、現実世界のあり方がゲーム世界のあり方に比べて特権的・絶対的に異なるものだという暗黙の了解があって、それがこの物足りない結論、「ゲームと現実は異なる、よってゲームが現実を浸食することはない」に至らせてしまう原因になっています。
 プレイヤーが主人公と一致しないこと、より正確にはプレイヤーの経験が主人公の経験と一致しないことから「ゲームと現実は異なる」を導くためには、「一方、自分(現実世界のプレイヤー)は自分(現実世界の主人公)と一致している」という前提がなければなりません。このことは本書には明記されてなかったと思う。
 括弧内に示したように取ることによって、示された同じ前提「ゲームの主人公≠ゲームのプレイヤー」から正反対の結論を得ることが可能です。そういうゲームがある。この先生にはぜひ、ゲームと現実を並べようとしている、例えば『未来にキスを』を遊んでほしい。そしてその後の心境の変化(って決めつけてるし)もうかがいたい、と強く思うのです。


3/10(日)

 フリープレイじゃなく半額サービス(50円)になっていた『斑鳩』を遊ぶ。初めて1000万点を越えた。おお、うまくなっているじゃないか。ちょっとずつ4面を練習しようという気になって遊んでいることが身につきつつあるらしい。うれしい。
 もっとも、スコアが上がろうがチェーンがつながろうが、それは『斑鳩』の主人公にはちっとも意味のないことで、依然として4面で全滅する現状は、彼にとって憂うべきことに違いない。スコアを意識し始めたら危険を冒すようになるので、彼の立場からすればたまったものではない。
 そして彼の憂鬱は、エンディングを迎えようとも消えることはない、ように思える。

 もし戦いの末に敵が全滅し、主人公が生き残ることがあるなら、彼を主人公とするこのゲーム世界はそれから先も続くはずだ。ゲームが終わるのは、ゲームの外側の事情でしかない。ゲームクリアによって主人公はプレイヤーから切り離され、ゲームの中に取り残される。
 別にそれでもいいような気がするが(ほとんどのゲームはそうだ)、あのエンディングはそうなることを嫌がってできたのではないか、と思う。ゲームが終わるという外野の事情をゲームの内側、主人公の立場に適用した結果が、ラストのあの暴発なのではないか。このゲームが終わるのは、世界が終わるからだ。彼の世界がはじけ飛んでしまえば、そこを媒介としていたプレイヤーも否応なくゲームを終わらせざるを得ない。それは、ゲームオーバーであろうがクリアであろうが変わらない。
 こちら側の世界の事情を押しつけられた形で閉じるあの物語に、現実に対して従属的な作者のゲーム観が感じられます。遊んで、満足して立ち去るなんて、俺たちゃ気楽なもんだ。

 コンティニューごり押しで見られる以外のエンディングがあるなら、この想像はあとかたもなく崩れ去りますが。


3/8(金)

 ゲームがうまくなりてぇ〜と、最近たまに思う。
 昔はあんまりそういうことは考えなかった。ただゲームで遊べていれば幸せだった。昔は多かったアクションゲームなんかで、うまいこと難関を乗り越え、ゲームオーバーにならずに先に、時には最後まで進められたとしても、それはたまたま、おそらくは子供の方が優れているであろう反射神経とか動体視力の助けがあったからで、攻略指向は薄かった。それを「ゲームがうまい」と見られるのには違和感があった。
 褒められていたのかも知れないけれど、別にそれは嬉しくはなかった。自分の感覚に合っていなかったから。うまくこなせているから楽しいのではなくて、ただ遊んでいるのが楽しい。自分がゲームがうまいのかどうかは判断できなかった。ゲームの主人公が、自分の行動を「うまくやった」とか「失敗した」とか思ったりしないのと同じように。
 最近の「うまくなりたい」という気持ちは、「うまくなっていると評価されるように遊びたい」という意味で、それが自分の目であろうが他人の目であろうが、とにかくゲームの外側からの視線を意識して出てくる思いだ。そんな思いが出てくるようになったということは、少しずつ現実に近い立場に移動しつつある、ということなのかも知れない。夢見る頃は過ぎつつあるのだろうか。

 というようなことが、ゲームする時間のとても取れない日常の合間に浮かんだりする昨今ですが、仕事中にそっちに意識を飛ばしているようでは、現実に近づいているなんてとても言えないんじゃないか?

 ところで、そんなふうに攻略を意識せずゲームに浸るとき、最大の褒美は「長時間遊べること」だった。スコアよりもステージクリアよりも、長く遊ぶのが第一の目的だった。
 技量がつたないせいでゲームの世界に短時間しかいられなかったとしたら、ゲーム好きの(現実から他の世界へ飛ぶ)資質があったとしても、「浸る」快感は味わえず、ゲームを好きになることはなかった。ゲームを抱えていない自分は、どんな自分なんだろう。想像できない。
 ゲームを抱えた自分が幸福なのか不幸なのかは、自分自身では判断できないはずだから、比較のために想像するのはムダという気はするけれども。


3/5(火)

 『超クソゲーINTERNATIONAL バトルゲーム大全』(太田出版)を読む。
 「丸ごと洋ゲーレビュー本」と銘打たれており、その時点で警戒はしておくべきでしたが手遅れ。1章先頭の『モータルコンバット』レビューで
 「『モーコン』をプレイして面白いと思わなかったら、これ以降のページは読んでも意味ないだろう」
との文章に出会い、そういう注意書きは帯に明記しておいてほしいと思った(勝手なことを)。
 どこを切ってもあふれる舶来ゲーの殺伐ぶりが自分には全く合わず、それでも読み続けていると、興味のない泣きゲーを勧められる人の気持ちがしみじみと実感できました。


3/3(日)

 一つ対策を持って『斑鳩』を遊びに行った。

 4面が苦手なのは、「移動」「ショット(単発狙い撃ち)」「属性変更」の3要素を一手に引き受けようとしているからだ。もともと自分はボム式シューティングでボムを余して死ぬことが多い。ショットと移動に夢中になっていて、ボムまで配慮が届かないからだと思う。それと同じことをステージを通してやろうとしているから、処理が及ばなくて失敗するのだ。
 ことは根本的な能力の問題で、一朝一夕に進化できるものではなさそうだ。それなら、要素の数を減らして対処するしかない。稼ごうというのだからショットは欠かせない。ならば移動か属性変更、どちらかを捨てよう。

 ということで、極力二つだけの操作に集中することを心がけて4面に取り組みました。「やや安全そうな位置で、移動せず、その場でショット&弾幕に合わせて属性変更」の2ボタンオンリープレイで練習始め。
 ちょっぴり進歩した感じがします。良かった。これでまた『斑鳩』が楽しめる。
 ん? 力の解放? 減らそうと努力してるのに、要素を増やしてどうする。


3/2(土)

 久々の休日、近くに巨大なシネコンができたので行ってきました。お目当ては併設のゲーセン。
 なかなかの規模に満足しつつ早速『斑鳩』(出回りが良くて嬉しい限り)の前に座ったところ、コイン投入口にシールが。
 客を入れておいておあずけ状態なのか? と早合点しかけましたが、画面の下端をよく見れば、そこには眩しすぎる「FREE PLAY」の表記が。
 今週来週は開店記念に全ゲームがタダで遊べるという出血サービスなのだそうです。
 コンティニューしまくってエンディングまで見ました。
 「これで……良かったのだろうか」というメッセージの痛いこと。
 4面は何度取り組んでもうまくならないし、ここは一つ上手い人のプレイを拝見したい! と他力本願モード全開です。

 ところでここはシネマコンプレックス。せっかくだからゲーセンを抜けて本館を視察してみれば、上映リストに本日封切という『ロード・オブ・ザ・リング』があります。
 行きがけの駄賃で見ていくことにしました(思うつぼ)。

 『指輪物語』を読んだのは中学生の時で、人名・地名・アイテムなどの固有名詞数個を除いた内容は、今では忘却の彼方にあります。
 ただ、頻繁に出てきていた詩や歌のパートはざっくり飛ばした、という自分の読み方は覚えています。そういう読み方になったのは、当時の自分には物語を進めることが重要だったからなのだけれど、飛ばされたものも全てあの世界から生まれていたのであって、それらの積み重ねで感じられる世界の幅(って、文字通り口幅ったいことばだ)というものがあの作品の特徴なのではなかったかと、振り返ってみて思うのです。
 語られた一つのストーリーは、世界を構成するパーツの一つに過ぎない。

 これがゲームだったら、用意された世界を気が済むまで調べてからシナリオを先に進められる。というか、ゲームの方がこれをお手本にしてそうやって作られたのか。
 一本道にせざるを得ず、見せ場が常に求められる娯楽映画と『指輪物語』の相性は、果たしてどうだろう。タイトルになっているほど、ここに物語があっただろうか。自分が忘れてるだけでしょうか(←逃げ口上。あとそれ邦題。そしてポイントは恐らくゲームのやり過ぎ)。

 これ3時間もあるんですよ。なのに全編を通してダイジェスト版みたいに感じられて仕方がありません。めまぐるしく慌ただしい。原作が長いから詰め込まなきゃならない、ってのは、ラストがああである以上、理由にできないでしょう。
 たとえば冒頭のホビット庄だっけ、あれ一つ取っても、隅から隅まで見てまわりたいのです。作ってあるんじゃないかな? 視点を引いてぐるっと俯瞰してそれで終わり、っていうのはもったいないと感じました。

 手強いモンスターを見て『ウィザードリィ』を遊びたくなったのは、ちょっと面白い副作用でした。
 『ウィズ』の成長途上の冒険者にとって、下層のモンスターがいかに怖い存在だったかが思い出されました。地上で暮らすものたちでは歯が立たない闇の生物、というのは、怖くて魅力的です。
 映画のバルログがグレーターデーモンに見えたのは、ファミコン版『ウィズ』のキャラデザの勝利だと思います。

 オープン日に話題作を迎えて満席になっていなかったシネコンの今後が、やや心配ではあります。
 何とかこのゲーセンには生き延びてほしい。そのためにも、見たくなったら映画はここで見よう(映画館で見るのは今回のが十年ぶりくらいだけど)。


3/1(金)

 月をまたいで「天体観測」(@BUMP OF CHICKEN)するとは思ってもみなかった。

 聞きたてのうちは、この曲の歌詞が疑問でした。雨が降るかどうかの空模様で、果たして星が見えるんか? と。日中のうちから曇り空だったりしたら、その夜に星を見ようなんて計画しないんではなかろうか。
 天なんて仰いで嘆息するくらいにしか使い方の思いつかない人間としては、興ざめするような突っ込みを入れたくなるものです。

 しかし、きちんと歌詞を読めばちょっと様子が違う。二人が見ようとしたのはただの星空ではなくて、「ほうき星」というイレギュラーなものだった。
 となれば、次がいつ来るか分からないチャンスと微妙な空の色を前にして、日中の二人が話し合う姿があったに違いありません。今夜だったよね、だめかも知れないけど、みたいなやりとりの末の、半ばは納得ずくの観察行。それでも、運命は予想外に、特に彼女に辛く当たった。

 こういう、物事の側面をクローズアップすることで、他の側面と引き替えに物語が盛り上がっていく様子から、やはり『Kanon』が思い出されます。
 『Kanon』では雪が始終顔を出しますが、それは積もっていくことで時間経過を明らかにしたり、季節感を出したり、といった役割が強くて、雪につきもののはずの冷たさを感じさせません。キャラクターたちが感じているよりずっと、本来の雪がもたらす冷え込みは厳しいもののはずです。
 しかし、その特性はシナリオと比べて重要ではなかった。だから捨てられたのであり、そのシナリオを前にして非現実的だと文句を言うことには意味がないのではないか。
 自省を込めて。雨の冷たさが手の震えを呼んだことを重視するなら、その発生源である雲のポテンシャルを軽視したっていいはずだと、「天体観測」は教えてくれたような気がします。
 同様に、一緒にいて慕ってくれるということを重視するなら、妹が持つ血縁的な側面を軽視したっていいはずじゃないか? いやマジで(と突然自分に言い聞かせてみる)。

 情報を小出しにしていくうまさとか、「今」を強調しながらも当時の思い出に基づいて行動し続けているところとか、他にもいろんなところで『Kanon』してる曲です。
 この曲と「ハルジオン」が『Kanon』と『ONE』くらい似ている(違う)というのは、いい例えかも知れません。逆も可。誰にそう説明するのかは謎だけれども。



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