ゲーム+α日記(2002年4月)

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4/28(日)

 またもペースを守って『みずいろ』麻美ルート終了。
 この萌えワールドに筋書きを持ち込んだらどれだけ展開が締まってしまうか、を思い知らされるラストだった。猫のことが片づいたってこの世界は終わらないっていうのに、その他のことを忘れたかのようにエンディングを迎えるとは。
 確かに、放っておいたらどこまでも続いていきそうではあるけれど、それを防ぐための麻美の期限ではなかったんだろうか。終わらせ方が思い切り良すぎだと思いました。あるいはいろいろ盛り込み過ぎて消化不良。

 ところで、冷えた手を両手で包み込んであっためるという場面がありますが、それは恥ずかしいというより痛いので絶対にやめていただきたい。他のシチュエーションは身をよじっても耐えます。しかしこれは困る。それも人目につくところでなんて。最悪です。
 それは遠い昔の。いやもう。勘弁してください。本当に。(←そうやって喜んでるのか?)


4/26(金)

 『みずいろ』麻美ルート途中。むむ、そう来たか。

 日和がもし小さいころ主人公に出会っていなかったら、そして代わりに麻美が主人公に出会っていたら、今頃二人の立場は逆転していたに違いない。二人の立場の差なんてそのくらいしかない。そしてそれがこの世界では重く効いている。主人公がいるかいないかでキャラが幸せに過ごせるかどうかが決まる。
 過去ルートで麻美の出番が用意されていないのは、彼女にとっては恨めしいだろう。しかし、麻美に肩入れしすぎると今度は日和が不幸になる。これまで自分がたどってきた他のキャラのルートで、主人公に出会わなかったために麻美が不幸だった可能性を想像すると、同じ理由で日和に寂しい思いをしてほしくはない。
 ……というのは主人公の役割に期待しすぎている自分の思い上がりで、きっと他の誰かによって別ルートの麻美は幸せになっているのだ。それがいかに直観に反していようと、このゲームのシステムがそのことを保証している(はずだ)。

 それにしても麻美の環境設定は予想外だったけれど、自分が興味を持ったのが「像のよう」なところ→人っぽく振る舞っていないところ、だったことを考えると、気が重くなる。それは、彼女から他人を遠ざけていた理由でもあるのだろうから。
 麻美に対する他人の態度は一般的と呼べるものなんだろうか。別世界の自分だから関わる気になれたんだろうか。自分が同じ世界の登場人物であったなら、やはり「一般的」判断に従うんだろうか。それが正しいと思えてきて、また気が重くなる。


4/23(火)

 まだまだ終わらない、というか懲りてない。『みずいろ』、ぼんやり先輩・麻美ルートへ。
 過去でのキャラとの関わりが現在に尾を引いてルートが決まる、っていうこのゲームの仕組みに関する説明がうわべのものでしかないことが、麻美や冬佳のルートに行き着くとバレてしまいますね。二人とも過去に出てこないんだもの。

 彼女が他のルートで公園にいたとしたら、その揺るぎない存在感が他のキャラを邪魔したに違いない。この人には主役感が漂っています。像のようだ。
 といいながら、彼女の姿を学食で見かけたことがこれまでにもありましたが、大勢いる中の一人と広場の中のたった一人では重みが違います(と言い繕う)。
 見たら声をかけたくなる姿を目にして、それを実行できたのが他の誰でもなく主人公であったことが、それを成り立たせたこの狭い世界が喜ばしい。

 麻美の緩さを際立たせるように、日和の口調がいくぶんテンポよくなっています。この微調整ぶりには、チューニング、みたいな人に対して不似合いな言葉を使いたくなります。
 日和がそんなことになっていてもそれをおかしいと感じさせないのが、このゲームの構成のいいところです。


4/21(日)

 『みずいろ』冬佳ルート終了。
 忠実に一週間一殺のペース。ただ、今回のプレイ時間は他に比べて劇的に短く、おそらく2時間もかかっていません。原因は雪希の声。他のルートと違い高くて調子の異なる声色に違和感→声を聞かずに読むことに専念→時間短縮、という流れ。
 確かにこのゲームの構成は、キャラクターの設定ががらりと変わることを念頭に置いてできていますが、できれば声は変わってほしくなかった。それにしても、一月以上の長丁場の大半を、声を聞くことに費しているなら、たとえゲームに冒されたとしても不思議はないような気がします(今気づくな)。

 で、冬佳ルートですが、けっこうこの話は好きです。いかにも家庭教師というシチュエーションありきと感じられ、年上にも先生にも惹かれない自分としては設定が引っかかる上に、むつき・清香のシナリオもそうでしたがこれもまた導入からの展開が滑らかでなく、始めのうちは進めるのに骨が折れましたが、終盤の展開は割と好みでした。
 3日前に書いたような話にはならなかったけれど、代わりに主人公のための話がありました。自分が冬佳を気に入るかどうかは関係なく、二人がくっついていく過程を見て納得できればそれでよかったのです。あたかも自分が主人公であるかのように話を想像したのは、ちょっと出しゃばりでした。
 主人公はこのルートで、学校の勉強ができるようになるためのやり方として「考える」だけでなく、いつの間にか正解の見つからなさそうなことについても「考える」ようになっていきます。その二つ、言ってしまえば勉強のことと冬佳のこと、がごちゃ混ぜになっているところは、感情に支配されている主人公らしくて面白いと思いました(冬佳との対比のためでしょう、このルートでは、主人公は他に比べて特に感情的に描かれています)。自分だったら「勉強を教えてくれる冬佳先生」は二つに切ってそれぞれで捉えるだろうから。

 以下ネタバレにつき色を消しますが、冬佳が「好きとはどういうことか教えてほしい」と言ってきたときはびっくりしました。『みずいろ』世界ではみんな自然に「好き」を持ち合わせている、と感じていたからです。それは確かに、エンディング直前、ラストの設問としてふさわしいものでした。
 どうするんだろうと思っていたら、主人公は「問い自体を否定する」ことで答えとしました。「好き」の定義はやはりこのゲームの世界では問われてはならないことだったのでしょう。そこに沿って話が終わりを迎えたことに非常に納得できました。そして、主人公が、時には論理に囚われず、そこに自分の意志を混ぜて説得力を持たせる返答ができるようになっている様子を見て、うらやましいと思いました。彼も成長したもんだ。そんな勉強だったら自分もしたかったよ。

 違う世界の話だなあ、というのを強く感じたシナリオでした。


4/18(木)

 前夜を2時間半睡眠で迎えた日くらい、ゲームする時間を作ったって罰は当たらない。
 ちょこっと『みずいろ』、年上の大学生・冬佳ルートへ。

 この冬佳さんというのが変わったヒロインで、自分のしゃべるスタイルが自然でない、馴染んでいないひとなのです。マニュアルには「論理的な思考を振りかざす」とあるけれど、振りかざすものが論理的になり切れてません。
 「人に謝るのにその態度は何ごとか」と「謝ることもできないなんて」という二言は、論理的には両立しません。片方は謝ったといい、もう片方は謝っていないと言うのだから。
 主人公は正しかった。彼は謝ったのであり、冬佳がその態度を問題にするとしたら、それは冬佳の主人公に対する態度が彼にとって問題であることの裏返しだ。だから二人の立場はこのとき対等なので、主人公があんなにも萎縮し憤慨することはありませんでした。
 もちろんそれは後付けの理由であって、その場にいたら自分だって冬佳の剣幕に気圧されるだろう。けれども、ありがたいことに、プレイヤーには「再読機能」という味方がついている。冬佳にとっては限りなく不利な戦いだと言えます。
 ほかにも、真実のみを見つめよといいながらそのすぐ後に推測を口にして迫るところなどに、発言の非一貫性が見られます。彼女の第一印象がよくないのは、論理的だったからではなく、論理的ではなかったからです。

 極端なものの考え方は、それに接した人を強烈に染め上げることがあります。新しいものの考え方に触れ、それに衝撃を受けて自分でもそれを実践してみようと考えるものの、なかなか慣れることができず、つい旧来の思考が混ざってしまう。冬佳の言動はそういう事態を表しているのかと思いました。
 ゲームの季節が春なら、この事態に対して一般的な類推が効きます。大学生になったばかりというのは、新しいものと出会うのにいいきっかけとなるでしょう。しかし舞台は冬。彼女ももう新入生とは呼べません(何年生かも知らないが)。
 とすると、大学に入ったものの何らかの理由で勉強することができず、この頃ようやくそれがかなうようになった、という設定だろうか。そのために、主人公に勉強の大切さを実感を込めて教える役を演じながら、自らもまた定着し切れていない思考様式の安定化を図っていく、といった、二人の成長物語的シナリオだろうか。
 主人公の家庭教師として現れた彼女を見ながら、そんなことを思いました。

 しかし、これを書くためにこの場面でゲームを中断するのは果たしてどうだろう、本末転倒というやつじゃないでしょうか。


4/16(火)

 せっかくの日曜なのにゲーム時間15分とは何事だろう。まして月曜以降においてをや。これじゃ『みずいろ』をクリアするのにあと一月かかります。あと3人いるというのだから。
 というように、まとまった時間が取れない中でちびちびと『みずいろ』を続けていますが、この手のゲームに継続的に触れているのは非常にまずいのではないかと、最近思うようになりました。
 この手の、というのは、キャラクターがシナリオと共にゲームの中に留まっていない、シナリオ主導でなくキャラ主導のゲームのことです。このキャラたちがゲームから出てきたら、移住先はプレイヤーの気持ちの中であって、そこでいつ果てるとも知れないオリジナルストーリーが繰り広げられ得るのがこの手のゲームの特徴です。
 そういう性質のゲームに接し続けるということは、いつでもキャラを迎える準備ができているということで、自分と『みずいろ』の場合はそれがもう一月も続いています。
 先日もひどい目に遭いました。ちょっと熱を出して眠りが浅かったのですが、入れ替わり立ち替わりキャラ群が出てきてうなされること限りなし。というか、風邪だと気づくまで、とうとう『みずいろ』に冒されたかと観念しかけました。
この前「どうにかなるつもり」と書いたのは、振り返ってみればそういうことを予感していたんだろうと思います。
 全く、駆動力をゲーム機に求めない、この内燃機関をどうにかしてほしいものです。もっとも、燃えてるんじゃなくてどちらかというと萌えてるんですが(←用意の締め。あと本気でどうにかしたいなら無理してもさっさとクリアするかやめるかすればいい)。


4/13(土)

 『みずいろ』清香ルート続き〜終わらせる。

 私は乗り物酔いするたちで、子供の頃は特にひどかった。車中で一時間も過ごすことを思えば、どこへも出かけず家で過ごすというのは幸せなことだった。
 それでも家族旅行なんかで、延々と車に揺られざるを得ないときがある。そういう場合は仕方ないので、酔い止め薬を飲み、吐き気を連想させる車内特有のあの匂いを嗅がないよう窓をできるだけ大きく開けて、気分が悪くなったらいつでも小休止してもらえるよう頼んで、だましだまし先へと進んでもらったものだった。
 ところが、そんな車の旅から、何の弾みか一切の辛さが抜けてしまうときがあった。薬が効いたのかも知れないし(毎回効いたわけではなかった)、うねうねと曲がる山道でも景色に目を回さなかったからかも知れないし(どのタイミングで曲がるか分からないときに酔いやすいということに、自分で運転するようになってから気づいた)、途中で立ち寄った食事が気分を落ち着かせてくれたのかも知れない(既に酔っていたなら、あとは戻すことしかできないから、新たに胃の中にものを入れるなんて思いもよらないことだけれど)。理由は一つではないだろうし、この中にないかも知れない。
 ともあれ、そんな状態になれたとき、自分はすごく喜んだ。別に車内が快適なわけではない。車に乗っていないのと同じくらい安楽な気持ちになれていたこと、普段は苦しい嫌なものがいつの間にか受け入れられていること、が嬉しかったのだと思う。
 理由が分からないものを狙って得ることはできない。もしかしたら、車内でこんなに気楽でいられるのはこれが最後かも知れない。そう思うと、その時間が貴重なものに感じられて、目的地に着くとともに今の状態が失われてしまうのがひどく惜しまれた。できるだけこの時を大切にしたいと思い、なるべくならこの状態が終わってほしくない、到着してほしくない、とさえ思った。

 砂絵に挑む物語中盤の主人公の気持ちはこんな感じだったのだろうか。
 と自分の経験から想像し、それなら分かると思ってはみたけれど、ここで例えた「車内の辛さ」を表すのに、前半の描写は長すぎるとも感じました。
 あと、このルートにはもっと他人が必要だと思う。よそよそしい役のクラスメートとか。主人公・雪希・清香・母親の閉じた系からは、この話のような清香の性格は導けまい。だから説明してもらわなければならなくなる。言葉で説明されると味気なくなる、と思います。


4/10(水)

 頑張って作った暇で『みずいろ』を先に進めようと思っていたのに、むつきルート再読に半分、次のキャラのルートに入れず過去をさまようこと半分で進展しなかったのには参りました。

 むつきルートのキモは雪希に冷やかされるところにあるのかも、と思う。いつも相方が照れて赤くなるのを見てるだけなので、それを受けて自分はどんなニヤケ面をしてるのか、赤面攻撃にどんなふうにうろたえているのかは知りにくい。そこへ、あたふたしている主人公の絵ではなく、妹の目で見た事実という形で、二人の醸す雰囲気の気恥ずかしさがプレイヤーに伝えられる。えっそりゃ俺はむつきちゃんのこと好きだしむつきちゃんだって俺のこと憎からず思ってくれてるだろうけどそれが表に出てるとは思わなかったよ、ってなもんだ。もうバレバレですがな。
 他人から見てどれだけ二人が熱っぽいのかを教えられ定義づけられるのは、自分たちのことだけに、自分で判断する(させられる)よりも確かに響く。そして主人公は、そんな状態を共有しているのは二人だけであることを思って、照り返しによるなお一層の恥ずかしさとともに幸せを感じるのです。たぶん。

 やっと入り口を見つけた「ちびっこ」清香ルートでは、そんなさっきまでのヒロインが開幕から暴れまくり、当方の浮かれた気持ちを冷ましてくれます。よかった。このままのむつき熱があと一週間も続いたらどうなることかと、多少心配ではあったから(←どうにかなるつもりだったのか?)。
 しかしこのルートも話に乗って行きづらい。二人が本当に仲悪く見えます。日和の目で二人を見てみたい。


4/7(日)

 『みずいろ』むつきルートやっとこ終了。
 このシナリオはダメである。ただし、ダメであることに目をつむればとてもいいと思う。と、筒井康隆節を借りてみる。
 まさか本当にあの謎一つでラストまで保たせるとは思わなかった。突っ込みたいところは山ほどある。それでも。
 エンディングの後、すぐに次(の女の子)に取りかかろうという気にはなれませんでした。余韻が漂っていて、しばらくはそれに身を任せていたかった。
 確か雪希ルートの後でも似た感じだった。そういうゲームなのだろう。
 しかし、そんな幸せ気分に再度浸るべく「回想モード」でイベントを見直そうとしても、見たいところは入っていないのでした。せっかく雪希に冷やかされたかったのに。使えないモードじゃ。

 何かのネタになるかと、ポール・モーリアだっけ? とか思い出しながら「恋はみずいろ」をレンタルCD屋に探したけれど、見つかりませんでした。動機が不純だからだろう。


4/5(金)

 うむむ、こういう健全な男女交際もよろしいのではないでしょうか。
 と、『みずいろ』むつきルートを進めるうちに考えが改まってきた。

 ここでも雪希が起点となる。このルートでは、雪希は自分が「妹」に持つイメージ通りの妹なのだ。むつきへの主人公のほのかな想いを育てるようにお節介を焼く雪希を見て、そのことに気づいた。
 幼なじみの日和のことを「日和ちゃん」と呼んだのもその現れだった、と、それを目にしたときすぐに気づいてもよかった。
 雪希ルート・日和ルートでは、雪希は日和を「日和お姉ちゃん」と呼ぶ。それに対して、このルートでは、雪希はそういうキャラではなくなっている。近しい人間を、近しいという理由で「お姉ちゃん」と呼ぶ必要がなくなっている。そんな雪希にとっては、「お兄ちゃん」もまた同様に、もはや特別に定義された存在ではないのだろう。兄と友達とのつきあいを邪気なく応援するむつきルートの雪希は、兄離れできている。
 さっき使った「健全」とは、そういう意味です。

 話の流れにも、このルートの印象を改める変化が生じる。ルート前半の、「進藤さんが打ち明けようとしていて、主人公もそのことが気になっているのに、なぜか曖昧なまますれちがってしまう」という流れは気に食わなかった。本当に、なぜか、とか、いつの間にか、としか言いようのないおかしさを推進力として話が進んでいることが、いらただしかった。
 しかし、むつきが隠そうとしはじめたことで、話の受け取り方も変わってきた。彼女が隠そうとするのなら、それは知らない方がいいことだ。それなら、私も知ろうとしないようにしよう。という、割といつも通りの応対が、この話でもできるようになってきた。
 自分が彼女のことを「進藤さん」ではなく「むつき」と表せるようになったのも、このおかげだ。私はまだこのルートをクリアしていない。だから、この話がどういう結末を迎えるか分からない。ただ、少なくとも今は彼女はむつきと呼ばれており、そうであることによる不都合を彼女は隠そうとしている。それなら、私も主人公と同じく、むつきと呼んであげるべきだ。

 前提の不自然さが気にならなくなれば、その前提の上に成り立つ二人の、「男女交際」と呼びたくなる数々の現場を突きつけられて、恥ずかしさに悶えることができる。一つ一つがベタベタにベタなのだが、そのベタさがぴたりとはまるときがあって、そんなときはたまらなくむず痒い。主人公たちがレストランで、一つのジュースにストローを二本差して飲むカップルに当てられるというシーンがゲーム中に出てくるが、その気持ちがよく分かる。
 いや、それ以上かも知れない。件のカップルがそんなことをするに当たっては、他人の視線が必要だった。わざわざ人目につくレストランでそういうことをする以上、見せつけ、見られる快感がそこにあるのは間違いない。一方、主人公とむつきの間に他人はいらない。相手のクラスへ様子を窺いに行ったり、手を握ったり、雑炊を食べさせてあげたりすることへの照れは、二人の間だけを行き来する。
 恥ずかしいことをあえてやるという意識が、特にむつきの側にはない。ペースは完全にむつきのもので、その波に巻き込まれた主人公からも、赤面ものの発言が飛び出たりする。そんな、他人が見られるはずのない甘い光景を、しかし自分は目の前にしているのだ。この恥ずかしさをどうしたらいいだろう。さしあたり、悶えるか、さもなければ、こういう恥ずかしいことを書いて発散するくらいしか思いつかない。


4/3(水)

 ああもう4月ですよ。月が変わってるのに未だに『みずいろ』ひとつ突破できないなんて。
 今週も帰って寝るだけの生活な上に、時間切れで夕飯にありつけず、自販機に金入れてみれば吸われて品物が出てこないと、もう散々だ。
 そんな調子では自然とやり場のない怒りが湧いて出てくるものですが、しかしこの「やり場のない怒り」ほど無駄なものはないので、最近はそういうのを出さないようにしています。

 怒るのは仕方ない。ただ、怒っただけでは何も変わらない。ある人が怒っていることそのものが、別の人や別のものに影響を与えることはない。それはその人の心の中だけの問題だから。
 ただ、放っておいたらやり場のないままどこかへ消えて、もやもやだけが残る怒りでも、何かをするための燃料にはなる。それに沿って何かをしてみて初めて、怒ったことは報われる。それが、夜も遅いけどちょっと遠出して飯を調達しに行こうとか、眠いけど頑張ってゲームの続きをやろうとかになれば良し。他人に当たる、つまり「自分が怒っているのを見せることで周りに変化が現れるのを期待する」のは最悪なので、是非とも回避していきたい。
 知らんよねえ、「オレは今怒ってるんだ」って言われたってそんなの。

 そんな感じで『みずいろ』も頑張って進藤ルートをちょっと進めるも、途中から、分かったから次行こう次ってな気分になっていく。ただそれは当方のすさみがちな気分のせいだけではないと思います。
 一つのネタを引っ張りすぎ。思わず現在の主人公の立場を離れて、自分一人で彼の過去にヒントを探しに行きたくなります。そんな態度は、物語にとって不本意なことだと思う。



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