ゲーム+α日記(2002年5月)

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5/30(木)

 や、やったー。
 『ミスタードリラー』でミスタードリラーの称号をもらうことができました!

 全然話に出さないから遊んでいないのかというとそうでもなくて、上達はゆっくりながらもちまちまと続けておりました。
 そういえばクリアはできたけれどタイムが遅かった、ということで、素早く地下1000mまで降りられるように頑張った結果が今回の称号。縮まったタイムの分がスコアに加算されて称号の条件を満たしたようです。
 これでうちのホリ・ススム君もただのススム君ではなくミスタードリラーのススム君。かつて、ファミコン版『星のカービィ』でカービィが最終的にただのカービィではなく星のカービィとなったように、その称号は彼の中で誇りとなって生き続けるでしょう。
 もちろん自分の中でも!

 ところで、クリアタイムを短縮するためには、行く手を遮る×ブロックをむりやり壊すのが手っ取り早いのですが、この方法がタイムのために、ひいてはスコアのために効果的であることは今回試みて重々承知ながらも、どうもそのやり方に割り切れなさを覚えるのです。
 ×ブロックを壊すとAir(体力のようなもの)が20減ります。さらに、壊すためには5回ドリルを当てなければなりません。そういう設定は、このゲームからの「×ブロックは壊さないで欲しい」との思いを感じ取らせます。
 そこを敢えて壊す方がプラスになるところは、プレイヤーが発想を転換させてつかんだ勝利でもあるのだけれど、ゲームの中で得点システムとパズルがぶつかり合っているところでもあると思うのです。
 自分はどちらを取るか。×ブロックを壊さず、どかしたり消したりがきれいに決まったとき、それが狙い通りならうまく立ち回った(当社比)自分のプレイに酔い、偶然なら道を開けてくれたゲームの神に感謝する、そこをこのゲームの醍醐味と感じる自分なら、プレイスタイルはエレガントさを優先させるべきだろう。

 ということでこれからは、「×ブロックを壊さず、できればノーミスで称号ゲット」を目標としようかと思っています。
 スコア序列の太い一軸に乗り切れない。自分にはやっぱりアーケードは似合わないようです。


5/28(火)

 Keyのサイトで見て興味を持ったので、GARNET CROWのセカンドアルバム『SPARKLE』を聴いてみた。
 初めから4曲が畳みかけるように良い。特に4曲目は『AIR』の「夏影」三拍子バージョンといったところで、大変好ましく思いました。耳がそういう曲に反応するよう教育済みという理由もあるだろう。ところで、こういった曲調は夏のものなんだろうか。そのイメージは一般的? ちっとも暑苦しくないのに。
 ナムコのRPG『テイルズ オブ エターニア』が彼らの曲を採用したと聞いたときは、前作がDEENだったからこちらも有名どころなのかと思っていたけれど、それから一年経って二枚目ということなら、当時は駆け出しだったのだろう。そのころは(というかつい最近まで)ユニット名をGARNET GROWと勘違いしていて、やけに材料系なネーミングだと思ったことであった。
 ファーストアルバムも探してみるとするかー。


5/26(日)

 気を取り直して。

 ドリームキャストにプレイステーションのコントローラーをつなげられるアダプターを見つけたので買いました。DC用アーケードスティックって売ってるのを見たことがないのですが、これがあればPS用のスティックでDCのシューティングが遊べるというもの。PS用のスティックなら滅びることはあるまい。これでいつ『斑鳩』がDCで出ても大丈夫です。
 さらにこのアダプターはDCにPC用のキーボードまで接続可能という優れもの。本当なのか調べたくなりました。しかし手元にはキーボードが必要なゲームがない。
 そこで買いました。
『タイピング OF THE デート』。もうあまりといえばあまりのネーミングと近所のゲーム屋で投げ売りされていたことで、個人的には印象度抜群な本作でしたが、まさかこんなところで出会いがあるとは。しかし『斑鳩』の先行投資と思えば安いものです(あまり『斑鳩』をダシにすると怒られます)。

 早速プレイ。夏休み中に三人のクラスメートのうち一人と仲良くなろうという設定で、主人公は顔さえ覚えてもらえてない底辺からのスタート。始めに一人を選び、5回のデート(初日は偶然の出会いとかでデートとは呼べそうにないが)で交わす会話が三択で出現するのでそれをキーボードで打ち込む、という形で進んでいきます。
 先に進むほど長文が出てきて難しくなる、と思いきや、会話にぶつ切りなど存在しないとばかりに最初から結構ハード。「君が今着てる服もよく似合うよ」「いっぱいハナシできてうれしいよ」こんなのが最初のステージから目白押し。その代わり難易度曲線の上昇度は緩やかで、やや制限時間が厳しくなる程度のようです(現時点での感想)。
 一応練習モードもありますが本当にささやかなので、タイピング練習ソフトとしての実用度はかなり薄め。

 問題のギャルですが、ギャルゲー地理としてはかなり辺境の地にありそうなグラフィックのため、見ていて嬉しい気持ちになれません。かといって、注目するのは文字だから絵などどうでもいい、と割り切ることもできません。選択肢によって表情が微妙に変わり、それが好感度アップかダウンかの判断材料となるので、絵もじっくり見ないわけにはいかないのです。
 とりあえず一人目の「サバけた性格」の持ち主、皆川真琴嬢をクリアしてみました。会った初日からお近づきになりたい一心で馴れ馴れしいトーク全開の主人公ですが、「サバけた」というよりは荒れ気味の性格の彼女に鼻であしらわれたりと、思ったよりは会話として成り立っている感じでした。

 つーか面白かったです。笑えた、の方が近いか。「過去のことは忘れてしまえあるのは未来だけだ」などという心にもないことを、文章が出てきたからという理由で一生懸命打ち込み出す自分が、かなり面白い。
 長文の方が打ち込むのが大変な代わりに話がいい方向に展開する、とかの上達要素は、やはりあまり考えられていないようです。短かろうが場にふさわしい会話がグッドエンドへの近道。まさにキーボードを使ったギャルゲーと言えます。
 ラストの一問にはちょっと唸らされました。多分ああしなければバッドエンド行きだったんだろう。タイピングソフトなのにそれでいいのか、という大技を見せてもらいました。一度しか通用しそうにないけれど。

 これで絵にもっと親しみが持てれば。惜しい。あと、本家『THE TYPING OF THE DEAD』より日本語入力システムが劣っているのはいただけません。「どのローマ字方式も受付可能」っていう本家のシステムは、今後のあらゆるタイピングソフトに搭載されるべきです。
 ん、でも長文が短時間でスラスラ打てるようになっている気もする。やはり効果はあるのか。腕だるいし(遊びすぎ・日記長すぎ)。


5/24(金)

 この一週間で、自分が恐ろしい勢いで現実に接着されていっているのを感じる。

 原因ははっきりしている。勤務先で自分に後輩ができたのだ。
 これまでそんな経験はなかった。学校生活など集団内の年齢別集団という意味でならともかく、一対一で面倒を見るなんて初めてだ。自分の属するチームに最近新入社員が配属されてこなかったこともあるし、大事な人材を下手な人間に預けたりしないように、きちんと配慮してくれてもいたのだろう。しかし、いずれ避けようのない事態ではあった。
 当然のことだが、彼は社内のことについて何も知らない。そこで教える。作業するにあたっての考え方についても、今後独自に行動できるようになるための準備段階として、現時点での前提を教える。
 自分が、他人のために行動している。
 その意識が、頭の中でたまらなく強い現実感に変わっていく。

 彼を見ていると、やはり現実世界は人間が、もっと言えば他人が作るものだということを実感する。そして、彼に働きかけることで自分は現実とつながるようになっていることにも気づく。
 教育だけが自分の役割ではないし、彼と同じことをするわけでもない。実際、立てるべき予定や計画は二倍になり、自分の作業はほぼ二倍になった。この倍率は今後減っていくだろうけれども、これまで自分が送ってきたような生活のリズムには戻るまい。
 振り回されている感じがする。疲れる。確かに疲れるのだけれど、でも、それは今までにない疲れ方で、変な言い方だが現実的に疲れているのだ。現実に接する時間が急に長くなったからだろう。その疲れが新鮮でもあり驚きでもあり、そして恐ろしくもある。
 さらに、このような苦労を自分もかけてもらったのだということにも、改めて思いが及ぶ。過去からのつながりも、自分を現実に引っ張っていく。

 彼がうまいこと結果を出せば自分は嬉しいだろうし、凡ミスをやらかせば腹を立てるだろう。こうしたことが続き、この流れに任せたら、そのうち自分は完全に現実に取り込まれるかも知れない。彼の、もっと広くは他人の一挙一動に反応し、互いに干渉し、周囲からも一人の他人として見てもらえるような行動を取るようになっていくかも知れない。
 今は、自分が嬉しかったり腹を立てたりと感情を働かせる際、その仕組みに考えを巡らせる。うまく行ったにせよ行かなかったにせよ、自分が手の打ちようがないことに対して感情が働くのだ。でも、そのうちそんなことを考えなくなるかも知れない。ただ笑って怒って悲しんで、感情のままに日々を送るようになるかもしれない。誰かを好いたり好かれたりすることだってあるかも知れない。それが無理だとしても、好きになる人が現れないことに対して悔しさを覚えたりするかも知れない。

 自分はそうあることを望んでいた。そうなれればいいと、今年の正月にも祈った。そのようでいられれば幸せだろうと、今でもそう思う。
 ただ、そうなっていくことへの恐ろしさもある。恐れを感じているのは、他でもない、これまで自分の大部分を占めてきた、現実に対して傍観者でいるつもりの自分の一部だ。それを「私」と呼ぼう。
 自分が現実に埋め尽くされたとき、「私」の居場所はなくなるだろう。そうなると、「私」によって更新されているといってもいいこのサイトも終わる。もっともここで問題なのはもちろんサイトの寿命ではなくて「私」自身の寿命だ。現実に根を下ろす自分(「俺」にしよう。こういうふうに別人格めかすのは痛いが)に押されて、「私」の居場所が狭くなっている。すでに時間の上では圧倒的に不利だ。今や「私」が顔を出せるのは夜の僅かな間だけで、昼間には登場しにくくなっている。
 自分の全てが「私」だったら、社会に不適応な使えない人となって一生を送るだろう。それがいずれ自分のたどる道かと思っていた。一方、全てが「俺」になったら、小さな波乱はあってもおおかた大過ない人生を送れるだろう。つまらないかも知れないが、それが幸せともいえる。もし「俺」がサイトを引き継いだら、その日食べた夕食の話やこんなテレビ番組を見た、なんて話に終始したりするんだろう。
 実現する可能性は後者の方が高そうだ。「私」は不利を感じてあわてている。自身の存在が考えるまでもなく当たり前だったのに、ある時突然「消えるかも」「避けられないかも」と感じるようになり、実際に時間が削られていく。ゲームができない。いろいろ考える時間もない。
 やがて最後の時が近づいて、もしその場にお気に入りのキャラクターを感じたりしたら、「私」はそこに絆を求めてしまうかも。消える前の最後のつながりをそこに。えいえんなんてなかったんだ。
 ……という感じで、逆『ONE』が成り立ちそうな気がします。いや、あれは本当に逆なのか。手をさしのべてくれたのがキャラクターであったのは、あのゲームでも間違いではなかったはず。
 と思ったりするくらい「私」はあわてています。

 自分の希望を言えば、「私」にも「俺」にも消えて欲しくない。二つは共存すべきです。今は両者は反目している。「俺」は役立たずな「私」を蔑み、「私」は平凡な「俺」をあざ笑っている。
 でもそのことは、双方が持たざるものを持っていることを知っている証拠でもあるはず。「俺」の適応力と「私」の視力は、どちらも自分が欲しているものではないのか。
 自分としては、二つが認めあって、ともに生きていけるようにしたい。しかし具体的にはどうやって? 少しずつでも、混ざり合っていくようにする? 言うのは簡単だが、そんなことできるのか?(←反目の表れ)


5/21(火)

 うん、鬱だ。
 気がふさぐとか重苦しいとか、息詰まるとか気が滅入るとか、話す声まで小さくなる(実話)とか、『TALK to TALK』みさきシナリオプレイ中〜プレイ後の心理状態およびそれが行動にもたらす影響を一言で表すとするなら、鬱というのが適当だと思います。
 多分、はっきりとは言えないけど……俺はみさきシナリオを見て、鬱になっているんだと思う。

 鬱という言葉を知っていても、それが何を指すのかまで知っているとは限らない。また、鬱という言葉の表すところを知らなくても、鬱にならないということはない。『TALK to TALK』の主人公が「好き」という言葉を彼の中の感情と結びつけていく過程はそのようなものなのだろうと、今の自分の経験から想像し類推することができます。
 また、このように、自身の経験から想像し類推することによって、主人公はみさきの気持ちを知ることができるようになったのだと、これも想像し類推することができます。
 かくして彼の感情への理解は想像と類推の織りなす無限ループへさまよい……、と思いきや、ループしてるのは自分だけでした。
 一度理解できれば、彼はそれを使ってみさきを好きになる。自分は二人の幸せを祝福しながら、ぐるぐると止めどなく思いを巡らせる。いつまでも好きなだけ回っていればいい、鬱なことはそのうち浄化され、笑顔だけが何度でも思い出されるだろう。どんなつらい恋愛でも、そのうちいいことしか思い出せなくなる、と、みさきの姉は言っていた。二人の恋愛も、また然り。


5/19(日)

 『TALK to TALK』みさきシナリオ終了。
 終わってみれば良かったと振り返ることのできるシナリオでしたが、プレイ中はもう気がふさいで、重苦しくてたまりませんでした。自分が対話に関してチキンハートであることを実感させられます。
 こういう、直接話さないと誤解が解けないのにどう話していいか分からず、会えば気まずく押し黙る、という雰囲気はたまらなく応える。そこに、主人公のせいではないのに背負わなければならない設定上のトラブルが加わる。みさきを主人公の部屋に呼んで話をしようとする段階で耐えられず、昨日はそこでゲームを止めてPCの電源も落としました。うろたえぶりは昨日の日記にも現れています。「該当」は変だろう。
 ただ、プレイしないでいても重苦しさは頭の中で居座り、結局話を先に進めなければ気が晴れないと分かったので、今日起きて早々に続きを済ませてしまった次第。
 ハッピーエンドでは、主人公もみさきも痛みに耐えてよく頑張った、感動した!(古)という感じの祝福を送りました。ついでに自分もよくこらえた。ふぅ。
 そうそう、このシナリオに入ってからは誤字や妙な文章がなくなったので、正直、ほっとしました。

 さすがはメインシナリオ、主人公の設定を物語によく生かしてある。しかし、樹里先輩シナリオでの問題点はこちらでも残ったままでした。実のところ、それも仕方ないのかも知れない、と今では思い始めています。
 主人公に与えられた課題は、がつがつ求めても得られる種類のものではない。かえって、それを意識していたら普通の生活が送れない。で、意識しないで暮らしていき、やがて目的を達成しそうになるときは、主人公の意識から課題のことが抜け落ちている。相手のことを考えるようになっているとき、彼を創造した『システム』とやらが決めてやらなくても、主人公はもはや特殊ではない。彼は実験が失敗に終わることを考えなくてよい、むしろ考えていてはいけない。
 実験は失敗したときだけでなく、成功したときにも終わるのではないか、という疑問も出てきますが、まだ完全に成功したとは判断できない、という逃げ道もある。だから彼は、たとえゲームの外側がエンディングなどという線を勝手に引いたとしても、それとは無関係にあの世界で暮らしていけるはずなのだ。あちらの世界にエンディングはない。
 ということにしました。自分が納得できればそれでよい。

 ちょっとだけネタバレ(これまでのはネタバレじゃないことになっている)。
 ハッピーエンドを目前に控え、みさきへの気持ちを本人から聞かれた主人公は、「多分、はっきりとは言えないけど……」/「俺はみさきちゃんのことを……好きなんだと思う」と答えます。いくら正直者の主人公でもこれは煮え切らない、と一旦は思いました。でもこれは、「今自分がみさきに抱いている気持ちが、おそらく一般的に好きという言葉で表せるものなんだと思う」という意味なんですね。そこで主人公は己の「好き」を定義づけた。彼の課題が達成された、感動の瞬間であります。
 こういうことが分かる記述に出会うと嬉しいです。今回のはやや分かりにくかったが、それは自分の読解力の問題だから。いうなれば、自分の感情に「名前をつけてやる」(スピッツの同名のアルバムより)といった気分。いや、あの曲自体は印象に残っていませんが、題名が最高なのでつい引っぱり出してみました。

 それにしても、みさきの幸せそうな笑顔を迎えられたとはいえ、途中のどんよりした空気はまだ自分の気持ちの中にわだかまっており、どうにもすっきりしません。そこで、ゲーセンに行き、運動不足解消も兼ねて数年ぶりに『ダンスダンスレボリューション』をやってみました。とにかく体を動かしてみれば解決することだってあるだろう。
 ややすっきりしたし、運動不足が深刻かも知れないということも分かったし、良かった良かった(いいのか?)。


5/18(土)

 樹里先輩シナリオをクリアしてから一日経った。
 新しいこととか予想外のこととかに出会ったとき、すぐに反応しようとしても、自分の場合うまくいかないことが多い。ただ適応能力がないだけなのだが、そのできごとを過去のものにするまでに時間がかかる。

 まず、自分が『TALK to TALK』にかけていた期待は、『プリズマティカリゼーション』に似たものだった、というところから始めよう。ゲームを始めるきっかけとして、そういうものがあるのはいい。でも、実際にそのゲームに触れている最中にまでその意識が入ってくると、そのゲームを楽しむ邪魔になる。どうしても『プリズマ』的なゲームしか遊びたくないのなら『プリズマ』を遊ぶしかない。そうでないことが分かりはじめてなお、当初の思い込みに義理立てする必要はない。その思い込みはもう十分役に立ったのだ。捨ててしまっても一向に構わない。
 さて、樹里先輩シナリオのエンディングに納得がいかなかったとして、それは自分がかけた勝手な期待に応えてもらえなかったからなのか、それともこのシナリオ自体が疑問なのか。

 自分の予想では、彼は固有の感情を持たず、女の子と接しても情緒を示さないはずだった。それは、ゲーム内の『システム』なる設定がゲームそのものに、作られた存在だという主人公がゲームの中で生まれる「プレイヤー」に当たるという自分の勝手な解釈から生まれていた。
 ところが、彼は普通に感情や意志を表し、樹里先輩と一緒にいたいと願っている。だから、自分の解釈は間違いなのだ。彼は普通の人間と同じように感情を持つようにできている。ただし、それを何と呼ぶのか知らない。また一方で、感情を表すいくつもの単語が実際にはどういう感情に対応するのかが分からない。ただそれだけのことだった。ことばと気持ちが結びつくかつかないか、そこが主人公と他人との違いだった。

 そうすると、主人公の生い立ちに関する設定は、純粋にシナリオの中だけに働いてくるのだろう。それが有効であるならば、この樹里先輩シナリオにがっかりすることはない。このゲーム独自の良さが感じ取れれば、それはそれで嬉しいことだ。ただ、エンディングに至るまでにそれがよく生かされていたとは思えなかった。
 樹里先輩の事情が終盤で出てきて、それは樹里先輩の葛藤を挟んで首尾良く解決された。でも、主人公の事情はどうなる? 二人が一緒にいるためには、二人の事情がともに解決されなければならないのだが、主人公側の問題を、主人公は重く感じていただろうか? 樹里先輩に話すわけにはいかず、一人で抱えるしかない問題と、予想されるだろう結果の重大さに見合うほど向き合っていただろうか?
 どうもそれは避けられていたように思えるのです。そしてエピローグの状態は、問題の先送りでしかない。またいずれ、同じ困難がやってくる。それは物語の幕を下ろすには中途半端な状態だと思います。
 樹里先輩とともにいられるかいられないかが主人公の立場を決める、というのでは、主人公の設定はなくてもいいのではないでしょうか。
 いや、自分だって樹里先輩に、主人公のそばで笑ったり驚いたり呆れたりと、ころころ表情を変えていてもらいたいとは思う。すごく主人公にお似合いな人だと思います(互いに変わり者だという点で)。でもそれとこれとは、やっぱ別。

 その後、バッドエンドらしいものを見た。こちらは、当初の自分の期待にちょっと沿ったものだった。それがまた、グッドエンドのどっちつかずぶりを強調している。あるいはバッドエンドは全キャラ共通の終わり方なのかもしれない。

 ところで、「好きってなに?」てな疑問にばかり出くわしているうちに、大好きという言葉に強い違和感を覚えるようになっていることに気づいた。すごく好き、だったらいいのだけれど。
 大って何よ、みたいな感じです。大赤いって言わないように。

 ということでちょっとテンション下がり気味にセカンドプレイ、パッケージにもタイトル画面にも顔を出していてメインヒロインっぽい後輩・みさきのシナリオを。年下がメインというのは意外か?
 ……ええと、みさきシナリオを進めている途中なのですが。なるほど、こっちはメインだけあって、主人公の設定を効かせたストーリーが待っていた。
 ちょっと効かせ過ぎです。息詰まる。休憩を入れざるを得ません。『君が望む永遠』体験版の該当シチュエーションにはそれほどショックを受けなかったけど、こっちはきつい。これが序章と本編の気合いの差なんでしょうか。『君が望む永遠』本編遊んでない者の言う事じゃありませんが。


5/17(金)

 『TALK to TALK』初回クリアは絵描きの先輩、樹里だった。
 ゲームが進むにつれて息を吹き返したおかしな文章の勢いは、台詞による懸命の話し言葉化(と同時進行の推敲)でも止められなかった。文章が声の校正力に頼りすぎです。そして。
 自分がこのゲームに自分の話をどれだけ重ねていたかを思い返すと、ここ数日の日記が恥ずかしい。期待で塗りつぶし、内実を見ようとしないまま、勝手に評価して事足れりとしていたその姿勢はいったい何ごとだ。
 エピローグにおける主人公の立場とプレイヤーの立場の離れぶりを見せつけられ、何のための設定だったのか首を傾げました。いや、ただ期待しすぎだっただけとも言う。このエンディングに対して、自分はうまい解釈をつけられるだろうか。自信がない。その終わらせ方はないだろう、終盤の緊張感を返せ。
 CGを全部見られたエンドだったからそう思うのか? あるならバッドエンドを見なければ。

 ま、ゲームの途中で何を言っても、その段階での真実でしかないのだけれど(←見苦しい言い訳)。


5/15(水)

 ヒロインのルートがゲーム序盤で決まってしまう『みずいろ』に長く触れていたせいか、『TALK to TALK』で5人のイベントが次々に起きていくのを目の前にしていると、次第に落ち着かなくなっていく。さっきまであの子と結構親しくおしゃべりしていたのに今度は別の子が、といった状況は、楽しくもありいぶかしくもある。複数のキャラクターに関するイベントが連続して起こる、その脈絡のなさが、自分を落ち着かなくさせるのだと思う。そこには、イベントをつまみ食いしていったら、各ヒロイン専用のエンディングを迎えられずに終わるのではないか、という無粋な心配の成分も混ざっている。
 主人公はそういうことを気にしない。いや、気にできないといったほうがいい。彼(ひとまずこう呼ぼう)はできごとを関連づけて考えることができない。話し相手の発言が、直前の相手の行動を前提にしているということが、彼には思いつかない。彼は全ての可能性を考慮する。だから、その中の一つを選ぶことはできない。物語は彼の外側によって選ばれ、進んでいく。
 「なぜだか分からないが」という前置きは、正体の見当がついていることにしか適用できない。他人の動向について彼はそういった表現で疑問を持つけれど、そういう理由で自分はそのことには関心を持てない。それよりも、彼と友人たちとの会話のほうが、疑問を挟む余地もないほど「関連づけ」という事柄が彼から遠いということを表してくれる点で、ずっと強く印象に残る。


5/12(日)

 プレイ時間にあまり差はつかなかった。
 つい『ミスタードリラー』を一生懸命遊んでしまう。誰だ中毒知らずなんて豪語したのは。
 おかげで1000mを掘り抜けてしまいました。ラスト100mは地底目指してひた走り、当方のホリ・ススム君は地底人もびっくりの猛ダッシュぶりを見せつけました。エアなんて無視無視。空気は深く潜った先にあるものだとはジョナサン・ジョースターの教えるところであります(このゲームの場合、正解っちゃ正解だが)。
 これがアーケードの移植バランスそのままだとしたら自分としては出来過ぎ、と喜んでいたが、家庭用ではデフォルトの難易度がアーケード版より下げてあることがよくある。これはどうなんだろう、分からないのですが、これからはノーマルから一段階難しくして取り組んでみようか。

 そして『TALK to TALK』だが、思いついたことをうかつに口にするもんじゃないと思った。植物とか性別とか、ゲームに向けているようでいて、それは「プレイヤー」に対する自分の意識を映し出したものだったから。
 このゲームは、主人公と「プレイヤー」を重ね合わせようとしている。そこが『プリズマ』と同種の匂いをかぎ取ったところで、もちろんそれはいい匂いです。
 でも地の文はやっぱ男性っぽかった。女性は「〜なんだい?」なんて言いませんね。気のせいだったか。

 ※この「プレイヤー」は普段の自分ともゲームの主人公とも違っていて、ゲームの中にいるときの自分、みたいな存在のことです。おそらく一般的でないこういう使い方をするときは、鍵括弧をつけて区別してます。
 この先また使うかも知れないから注釈を。


5/10(金)

 『ミスタードリラー』と『TALK to TALK』を掛け持ち。寝るまで10分と決めたら前者に傾け、30分あるなら10分と20分をそれぞれに振り分ける。
 横移動できる、落ちてくるブロックが止まるかどうかに気を配る、×ブロックを消す、落ちかけている頭上のブロックを掘って時間差を作る、など一歩ずつ上達していく。そしてまた、こういう外側からの視点を持つことにより、『ドリラー』中毒に陥らずに済んでいる。
 いい関係だ。

 『TALK to TALK』との時間配分は、平日は拮抗している。この二日でどれだけ差がつくか?
 文章が気にならなくなった。自分が慣れただけではなく、良くなったように思える。読点の打ちどころはまだ目に付くけれど、開始直後の脱力テイストは感じられない。やっぱり演出だったのかなあ(←自分で言い出しておいて)。
 主人公の口調に違和感があるが、あの言葉遣いは男女兼用なのだろう。いちいちチェックしてないけれど。確かに、会話形式を幾通りも開発するのは面倒なことに違いない。
 そういや、主人公の性別について何か触れられていたっけか。パッケージでは「カレ」と呼ばれていたが、そのくらいだろうか。ゲーム内では?

 先輩に膝枕、という場面に一撃食らって中断。そこまでくっついているのに平常思考な主人公には、万歳三唱を贈りたい。


5/7(火)

 『プリズマティカリゼーション』の主人公像を引き継いだかのように見えたので、『TALK to TALK』(Clear)の「作られた存在」という主人公の設定を知って大いに期待した自分です。
 どうせならもっと思い切ってほしいけれども。性格的にという以上にどうにもならない主人公が出てくるゲームはないか。植物とか。ゲームとしての体裁さえ整えられれば(どうやって分岐させたらいいだろう)、それはすでに名作と言えるのでは。
 それはともかく。

 えーと、このナレーターは主人公だよな。それならまだ説明が付けられなくもない。一見、理路整然とした話しぶりの方がイメージに合っていそうだが、翻訳ソフトが迷文を生み出すように、この地の文章の問題ぶりにも理由があるはずなのだ。
 そう解釈させて下さい。主語と述語の対応とか、自動詞と他動詞の区別とか、いくら知識があったところで、実際使ってみればぎこちなくなるのは無理からぬこと。
 そうなんだろう? 頼むよ。


5/5(日)

 ゲーセン少年ではなかった自分にとってアーケード版『グラディウス』自体に思い入れはないので、そのゲームミュージックを聞いて喜んでいる様子はどうしても当時のプレイヤーとは違ってくるでしょう。むかし書いたようにここから自分のゲームミュージック人生が始まっているという事情から、『グラディウス アーケードサウンドトラック』は是非とも持っておきたいCDでした。
 『グラディウスII』の曲には全然馴染みがないなあ、ファミコン版がかなり違っているからなあ、なんて思いながら一通り聞きました。すると、初代の空中戦の曲をピアノアレンジしたものが、原曲に劣らずヒット。
 知らない人に、あのこれ久石譲だから、といって聞かせたらだまされるかも、というような安らいだ曲になっていて、しかも意外なほど合っています。
 しかしなぜ、ほぼ同じ雰囲気の曲が2トラック入っているんだ? と目録も見ずに疑問に思っていましたが、一曲はサターン/PSで出た『デラックスパック』(『I』『II』カップリング)のエンディングだとか。
 ほんと? 全然気づかなかった、というか真面目にクリアしてないのがこんなところで仇になるなんて思いませんでした。こんなにいい曲を聞き逃すなんて。

 ところで、『みずいろ』の楽園から抜けたからにはと、頭を切り替えるべくいろいろこねくりまわしてみた結果を載せてみます。Memorial Games更新:DC版『プリズマティカリゼーション』
 このところずっと日記ばかりで、せっかく作った更新履歴のページに何も加わらないのが気になってはいました。といっても『プリズマ』というのはちょっと新鮮味に欠けますが、それはまた次回の課題ということにします(次っていつだ)。


5/4(土)

 テキストアドベンチャーの後は、自分の力で道を切り開くゲームを! ということで、買い置いたDC版『ミスタードリラー』を掘り下げてみたところ、考え違いしていたことに気づきました。
 アクションゲームだとの先入観から、このゲームはプレイヤーに高度なコントローラー捌きを求めてくるものだと思っていたのです。
 ところがそうじゃなかった。多勢に無勢の中、辛うじて血路を開いて進んでいくゲームだったと、今回取り組んで初めて気づいた次第です。というか、一度でもゲーセンで遊んでみれば気づいて良さそうなものだが。
 そういえばプレイヤーにできるのは移動と掘ることだけだった。ブロックの落下・接着・消滅は全部コンピューターがやってくれる。そういう意味では、自機のちょっとした移動で敵に弾を撃たせる方向を制御するというやり方で間接的に抜け道を作って切り抜ける、シューティングに近いですね、アクションと言うよりも。

 画面の中央にいるプレイヤーキャラが、画面の外の上側から降ってきたブロックに反応できず、押しつぶされて死ぬことがよくあります。これがシューティングだとして、画面外からいきなり弾を撃たれて死ぬ場面を想像すると、割と怒りがたまりそうです。でも『ドリラー』の場合、憤りはゲームではなく、情けなく死んだ自分に向かいます。
 たぶん、潰される原因を作ったのが自分だと理解しているからでしょう。自分のひと掘りをきっかけにして、巡り巡って死んだのだと、だから責任は自分にあるのだと感じるのだと思います。ただ、ブロックがプレイヤーキャラの頭上に最終的に降ってくるかどうかは、ブロックの置かれ方によるところが大きく、それはゲームが決めているので、もっとゲームに怒りをぶつけても良さそうな気もします。
 でも続けちゃうんだよなあ。情けない自分を忘れるように、また、考え込むより体にしみこませた方が上達が早い、とでも言うように、ゲームオーバー即リスタートの繰り返し。これは中毒になる。危険です。

 付き合っている時間が違うから当たり前ではありますが、『ドリラー』と自分とは、この前までの『みずいろ』と自分よりも距離を置いているように思います。『みずいろ』式に『ドリラー』に接すると、例えば黄色ブロックの表面の凹凸がどうだとか、もはやゲームと関係しないレベルの密着ぶりで語ることになりそうです。
 やっぱりこの二ヶ月は、異常というかやりすぎだった。日記に書き続けることでさらに接近してしまうという効果もあったでしょう。


5/3(金)

 楽園終了〜。
 あと一人、あと一人、という脳内の声援を一心に受けて、『みずいろ』ついに完結。ラストは日和新ルート(この命名もどうかと思う)。冬佳ルート同様、雪希の声がやや甲高くなっているため、読むのに専念して早々にクリアすることができた。
 『未来にキスを』には感謝しないと。いちいちこれとの比較でシナリオを見ていることに気づきます。
 ネタバレがらみでちょっとだけ。

 ルート開始直後に主人公が起こされる場面で、いくら何でも声変わりしすぎだろう雪希、と思ったあたり、まんまと引っかかっている。
 しかし日和の使う「お兄ちゃん」は、真似したようでも雪希の「お兄ちゃん」とは違っている。雪希には呼び名を変えることはできないから。二人の関係を何よりも先に作って、そこから世界を広げていった主人公と雪希、それに対して、数ある関係の中から「お兄ちゃん」を選んだ日和。
 ラストで主人公をあだ名で呼んだ日和を見たとき、他に選択の余地のない雪希のことを思って切なくなった。コピー(新日和)はオリジナル(雪希)を越えられない。

 しかしこのルートは他のものに輪をかけて導入が不自然だ。どのくらい不自然かというと、主人公や雪希や日和や他のキャラクターたちが、いきなりプレイヤーに日々の生活ぶりを何通りも観察されることになるくらい。ゲームを始めるにあたっては、そんな不自然が当たり前に必要とされる。
 不自然でもなんでも、そうやって積み重ねた土台があって初めて、その上に安定な「普通」ができる。だから普通を作るのは大変だ。普通ってどういうことですか、なんて問われたら、そりゃ日和でなくても考え込む。とにかく普通を定義して、それを作り上げたんだから、これはすごいことです。

 果てしなく薄い記憶だけれど、高校一年だったか、国語の教科書に「水のごとく淡く」という短文が載っていた。喉が渇いたとき最も適しているのは水である、人づきあいも変に構えず、水のように淡く、自然にしているのが長続きしやすい、といった内容だったと思う。これへ、淡くしていようと心がけるなんて構えていて作為的じゃないか、と返したクラスメートがいた。
 彼には羨望のまなざしを送りましたよ。その目で『みずいろ』に接したなら、このゲームの作為的なところが浮かび上がってくるに違いない。


5/2(木)

 帰省してみた。

 数日間で一年分はテレビ番組を見た気がします。その中にはドラマもありましたが、俳優の名前が誰やら全く分からないことに気づきました。さんまを除いて。キムタクさえ言われるまで分からず。ああ広島カープじゃない方の、ってのがギャグになりません。
 そんな状態では登場人物を見分けることから始めなければなりません。ということで、髪型や声、目の吊り・垂れなどにまず注目しました。そのようにして、彼らをそのドラマ専用のキャラクターと認めた上で、ようやく話の筋が追えるようになりました。
 そういう見方は、自分がゲームに接するときと同じ。どうせ見るなら、余計な情報なしでドラマを見たい。それができていたのがちょっと嬉しかった。あと、ドラマ自体もなかなか面白かったと思いました。もう見る時間は作らないだろうけど。

 地元のゲーセンには『怒首領蜂 大往生』『もじぴったん』があってうらやましい。
 『大往生』は……敵弾が速いなあ。ボムっぽいアイテムを取って使うと弾がさらに高速化するという罠仕様が悩ましいです。取らずに逃げた方がいいんだろうか。ところで、キャラ設定の雰囲気がどことなく『エスプレイド』っぽいと思いましたが、どうしてだろう。少なくとも『プロギアの嵐』っぽくはない。人間っぽさの問題?
 そして『もじぴったん』。なんと素敵なクロスワード的パズル。最も易しい方からの2ステージは大喜びで遊びました。ただし3面からは文字を選ぶ段階でハードルが課されて意気消沈。このパズルだけをストレートに遊ばせてほしくてしかたありませんでした。「作りたい単語を作るために文字を探す」という方針はダメなんだろう。次の機会があるなら対策も考えるが、「次」は当分来そうにありません。残念。

 まるでゲームしに帰ったようですが、もちろんそれだけじゃないにしろ、ゲーム的にも気分転換できた感じです。
 さて! 残り少ない『みずいろ』に集中するぞ(この話題で延々引っ張り続けて、もういいかげん愛想尽かされてる頃だろうし)。



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