ゲーム+α日記(2002年8月)

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8/31(土)

 職場にアメリカからの客人がしばらく滞在することになって、ここしばらく一緒に仕事をしている。彼は日本語が全くだめなので仕事上のやりとりを英語でするのだけれど、始める前は敷居が高くても、それが意外と自分に合っているのかも知れないと思い始めている。
 数えてみると、三つくらい理由がありそうだ。

 一つは、伝えることについての心構えの問題。日本語で話をするときには、それがいつものことだから、特に「日本語」なんて意識しない。話の内容に集中する。障害なく分かり合えることを前提として話をする。それで議論がかみ合わなかったり、誤解されたりすると、なぜ伝わらないんだろうといらだったりする。
 それに比べて、英語を使うときは、初めから伝達性に疑問を持っている。自分の表現力が普段より乏しいのが分かっているので、はなから全部伝わるなんて思っちゃいない。そこで頷いてもらえたりすると嬉しくなる。伝わったことを喜べる。
 実際に伝わっているかどうかは分からないけれど、それはこの際問題じゃない。日本語だろうが英語だろうが、「実際に」自分の思っていることを相手も同じように思っているかなんて確認できない。ただ、伝達に関する自分の合格ラインが下がっただけ。たとえ伝達量が減っていても、基準がそれ以下ならプラスが生まれる。
 当たり前のことが喜びに変わる。同じことをするなら喜べたほうがいい。

 残り二つは言葉の性質の問題だと思う。
 英語だと受け身の形が使いやすい。さらに無生物主語という素敵なスタイルがある。両方とも、使うと何となく英語らしいものをしゃべっている気がするので頻繁に使う。適当にものを主語にとって、あれこれは受け身の方がいいのかな、と思ったら受け身にする。
 何が楽って自分が出てこない。日本語じゃ主語を曖昧にできるが英語では省略不可、ってのはその通りなのだけれど、だからといって自分のすることを表すのに主語がIでなきゃならないわけじゃない。「自分がそれをそうする」のは、「それがそうされる」でいい。文章も短くてすむ。
 受け身。無生物主語。ポイントが二点あるから理由も二つ、と数えたけれど、自分にとって楽、という点で根は同じだった(それを言うなら最初のもくくれるけれど)。
 いや。自分がそう習ったからそう思っているだけで、「何でこいつはいつも受動態ばっかり使うんだろう」とか思われているかも知れない。今度聞いてみようか。

 要するに、自分は普段から伝えるべきことを伝えられなくて、いつも受け身で、ものっぽいのが主役なのに憧れてます、という自分語りでした。
 やれやれな結論だ。


8/27(火)

 愛染:男女の愛欲にとらわれること、また愛染明王の略
 愛染明王:弓矢を持ち、恋愛成就の神として信仰される明王
なのだそうで。
 そんな言葉を持ち出したのは、『水月』エロシーン回想モードで花梨シナリオのそれに「愛染」ってタイトルがついているのを見たからですが、弓道部、巫女さん、場所と条件が揃っているところが理詰めだと思いました。萌え要素を並べるだけだったら、こんな言葉は出てこない。

 ところで、花梨はほんとうに意地っ張りだったのかどうかが気になり始め、逐一台詞を拾い集めながら性格を追っていくなどという手間のかかることを試みたところ、散らばっていた感情の断片が集まって、花梨という形が自分の中に作られつつあるような気がします。
 また、その作業の成果なのか、ゲーム前半の花梨から、かわいさが感じられなくなってきています。
 基本的にかわいい絵ばかりでできあがっている、世界の全てが外側から見てかわいいものでできているはずのゲームで、あるものをかわいくないと認めるためには、その世界の中の判断基準を自分も備える必要があります。彼女が自ら言うようながさつさを、額面通り受け止められるようになっているとしたら、それができつつあるということなのでしょう。
 なるほど、キャラクターっていうのはこうやって作り上げていくものなのかも知れない。
 と納得してばかりもいられなくて、このまま花梨が完成し、自分の中に住みついたりしたらえらいことだ。主人公に取り戻しに来てもらわなければなりません。


8/25(日)

 『水月』花梨ルート終了。

 主人公が感じている事柄のいくつかは、本来プレイヤーが感じるべき事柄だ。それが混ざっているのは、主人公が記憶喪失になっているからなんだろう。その状態は、『水月』の世界のことを知らずに遊びに来たプレイヤーの立場と重なる。
 でも、重なるのは最初だけでいい。物語が始まったら、主人公にはプレイヤーから独立したゲーム内のキャラクターとして動いていてほしい。先回りされた、あるいは役目を取られた、いくつかの主人公の台詞はプレイヤーにそう思わせる。
 特にエンディング。無事ラストまでたどり着くのにも二種類のエンディングがあるけれど、グッドエンドよりもノーマルエンドの方が、ストーリーの終わりかたとしては切れがいい。ここでは、しおり型のセーブデータ上にそのキャラクターの話を終えたマークが現れるほうを便宜的にグッドと呼んでいる。しかし、話の流れはノーマルエンドに向いたものだった。というより、グッドエンドにつなげるには無理があった。
 グッドエンドのような終わり方はキャラに気を配りすぎだと感じる。グッドとノーマル、それぞれスタッフ紹介の直前の3〜4パラグラフは、単語をいくつか入れ替えただけ。そして、ノーマル時の美しさに対してグッド時の文章はどこかちぐはぐ。この話はノーマルエンドが基本になっているのだと、これを読んで思った。
 グッドエンドの後の「ごほうび」も、ノーマルエンドの後につけてこそしっくり来るというもの。ああいう羽目の外し方は、悩みなんかすっきりとどこかに置いてきたノーマルエンド後のバカップルに似つかわしいと思うのです。
 この話をたどってきた自分が、起こったことを覚えている。それだけで十分じゃないか。

 そうそう、ここぞの場面で主人公のかっこつけた台詞がさまになっているのも印象的でした。僕は花梨が好きだ。見せつけてやろうよ。嫉妬の前に呆れるくらい。僕たちの事なんて、みんなにとっては、ぜんぶ今さらだよ
 写していてさえ赤面もの。こんなこと言われたら説得もされるだろう。


8/23(金)

 ということで『水月』、花梨一点集中で2周目。
 和泉ルートに逸れたくらい、花梨がらみのイベントはちょびちょびとしか起こしてこなかったようで、それでも満足できるほど、二人のべたべたぶりは好きだった。
 それがメインになるのだから、悪かろうはずがない。
 二人の距離を近づける物質的な道具である包帯や弓矢、設定上の利便である幼なじみやクラスメート、そういったものたちを深く愛します。

 花梨にとってそうでなくても、記憶を失った主人公にとって彼女は見知らぬ人。花梨はそのことを知ると、上記の道具を駆使して主人公につきっきりになる。
 ただし、彼女は、それらの道具の限界、ものを介在させている以上、二人の間隔はあるところ以上には縮まらない、という限界もまた利用している。
 できるだけ一緒にいたいはずの彼女にそれが必要なのはなぜかと言えば、それは彼女が意地っ張りだから。その点が自分とは違うところだけれど、違ってはいてもそれらの道具の両特性(近づきたい、でも一定の距離は置きたい)とも欲しているところは共通なので、彼女の振る舞いにそういうところを見て自分は喜んでいるのだろうと思うのです。
 そう、ただ夜道を手をつないで歩いていたら、まるで男の子と女の子みたいだ。夜道を帰る幼なじみへの心配をその手の間に挟んで、気持ちの距離を広げなければなりません。


8/20(火)

 『水月』のこの上なく柔らかそうなキャラたちに囲まれてふわふわ漂っているうちに、いつの間にか話は終わっていた。
 といった感じで、めがねっ子・和泉ルート終了。バッドエンドを見て後戻りした後に。

 あっという間だった。ゲームの進行が早いのは台詞に声がついていないせいでもあるけれど、このルートが大事なことをいくつも置き去りにしてエンディングに到達したと感じたためでもあった。
 主人公と和泉がくっつく過程は、それ以外のものが次々に注目されなくなり、消去法的に残った最後の選択肢だったように思う。さらに、そういう経過を彼女の言動や出自とすり合わせてしまえるのが怖い。これは偶然としか思えないけれども、それにしてははまり過ぎている。
 このシナリオを、ハッピーエンドと物語の伏線を秤に掛けて前者を取ったもの、と単純に取っていいのかどうか、判断に迷う。実は伏線もある程度回収しているのだ、と捉えるかどうかで、和泉への(和泉ルートへの)評価が大きく分かれる。
 ただ名札入りのスクール水着だけが際立って印象に残るシナリオだったのか、どうか。
 この辺の事情を一般化することができなかったので、以下やむを得ず、ある程度ネタバレにて説明します。

 つまり。和泉が戻ってきてから、なぜ那波と花梨が相次いで調子を崩したのか。それも極めて深刻に。
 主人公は自分の気持ちにたいへん正直で、いずれ劣らぬ熱意で彼を好いていてくれるかわいい女の子たちの中から一人を選ぶことがなかなかできない。和泉ルートがどこから始まったのか分からないけれど、そこに入っても当分の間、主人公の心情は揺れ続けて、どっちつかずのままでいたはずだ。それを和泉も感じ取っている。
 そこで彼女が決心したとしたら。戻ってくると同時に以前より少し強くなった彼女が、幸せをつかみとるために何らかの働きかけが有効であると思いついたりしたら。
 それが極端に直接的なために受け入れにくいとしても、この歳で(って年齢は不詳だけど)早くも見合い話を持ちかけ続けるほど強烈な家庭からのプレッシャーをはねのけ、彼女が自分の想いを伝え、あるいは言葉で伝えなくても態度で示し、家族がそれを了承したとしたら。その場合、彼女が特にそれ以上何もしなくても、娘の幸せを願う力が秘密裡に働くのではないだろうか。

 二人の変調に理由があるとしたら、そしてその理由が、物語上とは別の伏線により回収されうるとしたら、彼女はそのことを知っている、もしくは察することができる。それでいながら恋人と甘いひとときを過ごそうとしていると考えたとき、和泉という娘をどういう目で見たらいいだろう。
 彼女の笑顔のために物語を語りやめたことがかえって、表立っては語られない裏の物語を彼女と結びつける。そんなことがあるだろうか。
 バカげているとは思いながら、一度頭に浮かんだその結びつきが、徐々に、そして否定しきれないほどに、自分の中で強さを増していきます。

 和泉ルートを終えて、あれ、もしかしたらこの子のこと好きになれないかも、と珍しく思ったのですが、その理由を探しているうちに、そんな結論に。
 ゲームの外側からの理由は探すまでもなくて、自分はヒロインのなかで最もまともそうな幼なじみ・花梨狙いで進めていたのになぜ、というに尽きます。和泉ルートでは花梨が不憫すぎるのです。
 次は必ず。


8/19(月)

 エンディングを迎えて少し遊ぶ間を空けたところ、『リヴィエラ』が他のゲームと同じ位置まで退いてしまっていることに気づいた。
 自分のよく思い描くイメージ、餌を等距離に複数置かれた羊(合ってるのかな?)の心境。近くに目立って一つあれば、あるいは一つしかなければ、そこへ向かって走っていく。しかしどれも同じ遠さにあると、どれか一つを決めかねる。今や『リヴィエラ』もその一つに。
 優柔不断な羊は、どの餌を取るか決断できないまま餓死してしまうのだけれど、自分はそれを避けるべく、何か理由を見つけようする。どれでもいい、特定のゲームを今、他のものを差し置いて遊ぶべき理由。例えば、季節が夏だからそれに合わせて夏のゲームを、といったような。

 『水月』(F&C・FC01)始めました。
 セミの声、川のせせらぎ、寄せては返す波の音。そういった自然に属するものたちを効果音に使うなんてずるいと思うけれど、効果的なのは間違いない。空の晴れ模様と合わせて、湿度が低そうでいい。
 そんな田舎町に、主人公は専属メイドさんと二人で暮らしています。いや、確か彼女は主人公の専属メイドさんだと、さっき聞きました。それは、他の人の前では対等に振る舞う一方、主人公にだけはメイドさんの姿を見せる、というふうに受け取っていたのですが、そして実際、最初の方では普通の服装でいたのですが。
 家に戻るとさっそくメイド服に着替えて。いやそれはけっこう。長袖の黒服は暑そうだけど、和風の平屋にメイドさん、というひねりが好きです。でも、彼女はなぜその格好のまま、来客を迎えに出るのでしょうか。そのメイド姿は彼だけのものだと思っていたのに。
 彼が彼女からメイドとして奉仕を受けていることを、同級生を含めて町の誰もが知っている。いたたまれなく恥ずかしいと思いました。いいのかなあ、彼はそれで。

 新潟行を日記にしてみて分かったことの一つに、自分がとる行動に理由を見つけ、それを説明したがる、というものがありました。それは上記のように、何をするにも自分について回る性質のようで(以下、「理由を欲しがる性質を説明する」ことに言及した理由を延々と説明する)


8/17(土)

 一週間前のできごとを文章にする。日記らしくできごと垂れ流しで、長い。夏コミではないです。しかしこういうのって、写真がないと全く冴えないものですね。

 あったことをメモしていったらきりがない。終わりが見えてこない。どの瞬間にも、文字にする時間より多くのできごとが起こっているのだ。どれだけタイプ速度を上げても到底追いつけないと思う。
 逆に、そういうのは自動書記みたいで、区切りさえ決めれば量をこなすのに楽ではある。
 とか、あまり嫌味くさいのはやめよう。せっかく書いたのに。


8/14(水)

 こんな短期間にさしたる理由もなく二度も帰省することなんて、もうないんじゃないだろうか(真剣な理由はないほうがいいんだけれども)。
 たまには現地更新を、と目論んでみたものの、いざという段になって携帯電話につなげるケーブルを忘れたことに気づく。せっかくのモバイルもただの箱に。無念。

 地元の友人とゲーセンで遊んだ(そんなのばっかり)際の『つっこみ養成ギプス ナイス★ツッコミ』が最高に面白かったのが、ゲームに関する今回のビッグイベントと言えそうです(やれやれ)。
 遊び慣れている人は笑わせる方向で、ビギナーは笑われる方向で、どちらもギャラリーへのアピール力は激強。もちろん初プレイの自分は後者で、そうやって周囲に笑いを振りまけているんだと信じることで辛うじて、思うようにつっこめない恥ずかしさを堪え忍ぶことができました。爆笑してくれていた友人が心の支え。
 いやー、厳しいわ芸の道って(素直に感化されすぎ)。


8/12(月)

 うーむ、高信頼度キャラに何度死んでもらってもエンディングは変わらず。『リヴィエラ』で全員のエンディングを見るには、5回通してやり直さなければだめなんだろうか。それはちょっと困る。
 その時間と苦労に見合う萌えエピローグなら考えないでもないけれど、ルゥリ編の量の少なさを見てしまうと、気合いが入りません。これだったら見なくてもいいかも。

 ところで、ボス戦で延々自滅していると、徐々にボスの体力が減っていきます。最大10000以上あったのが、十数回もリトライした暁には100以下と、剣の一振りで片がつく虚弱ぶりに。
 なるほど。このゲームではアイテムの持てる数および使用回数が制限されていて、下手にゲームを進めると武器がどんどんなくなっていくのですが、このシステム(と、使用回数無制限の武器を一つ用意すること)は、難易度を考慮していると見せかけて、実はハマリ対策なのですね。
 でも、それに頼っているようでは、すでに遊んでいてつらいだけのはず。そこまで極端でなくても、アイテムを使い切ってしまったことでの不利、逆にアイテムがなくなるのを恐れるあまり無駄な在庫を抱える苦しさ、そういったアイテムがらみの問題には、ゲーム中悩まされ通しになります。その辺、ちょっとこのシステムは悩みやすくできているように思います。
 そこを解決するにはリセットしまくってちびちびやり直すのも手だけれど、で実際自分はそのように進めてきたのだけれど、やり直さずに進めてそれほど困りもしないプレイヤーのセンスがあれば話は違ってきます。
 面白くなくなるようにも遊べるシステム上で面白くあり続けるための遊び方は、後から振り返るとかなり微妙な綱渡りをしているはずで、その辺の割り切りが効くセンスはぜひ持ちたい、これからはそういうものも鍛えることにしよう、と思いました。

 優柔不断だとつらい、っていう話です。
 話の分岐に対してだったらリセットはかけないのだけれど、損したことがはっきり見えるものだから、ついつい。


8/10(土)、8/11(日)

 別掲


8/9(金)

 あれ、前提を書くのを忘れてるよ。

 『リヴィエラ』では主人公を取り巻く仲間は女の子ばかりで、最終的には4人に囲まれたハーレム状態になる。その状況やそこから生まれるイベントが、ストーリーを追いかけるのとは別ベクトルであることを感じながらも、それをあざといと思わないのはなぜだろう。
 という疑問があって、それについて考えたのが昨日の日記なのだった。

 ギャルゲーでかわいい女の子が出てくるのって当たり前だけれども、それと同じように、『リヴィエラ』でも女の子が出てくるのを自然に受け止められる。彼女たちがいることが前提になっていると感じているのが不思議だった。『リヴィエラ』ってのはそういうゲームなんですよ、その「そういう」ところに文句なんか言ったって始まらないんですよ、と思うくらいに。
 さすがに、ギャルだらけであることに違和感を覚えないまま、普通にロールプレイングゲームとして楽しむ、というのは無理でした。そのことには、純粋にゲームする立場ではいられていないと自覚させられます。


8/8(木)

 『リヴィエラ』の主人公は天使で、仲間の女の子たちは精霊。プロローグを見ると、天使は神とともにあるものたち、精霊は神に忠実であるものたちとなっているようだから、天使は精霊より神に近い存在。そのため、神を軸にすると天使は精霊より格上になる。
 たとえ普段から意識はされなくても、二つの種族の間には抜きがたい差がついている。主人公がいかにリーダーシップから遠い性格をしていようとも、どうしたってこのメンバーではリーダーにならざるを得ない。イベントの戦闘から外れることはできないし、使い減りしない専用の武器を一人だけ持っている。
 みんなの利益になると思われることがあって、それを主人公がやりたいと表明したら、みんなも賛成してくれる。そういう制度上の保証が、主人公にはある。

 主人公は魔族と戦うために特化された「告死天使」であり、魔族を倒すのが使命となっている。一方、精霊たちも、住みかであるリヴィエラの地を滅ぼされないようにするために、魔族と戦わなければならない。
 立場は違えど目的は同じで、その目的がパーティーを結びつけている。旅の途中で個人的な思いが表れることがたびたびあるけれど、あくまで基本は目的を遂げるための旅で、各自の行動はその範囲内にある。
 パーティーを支配する規律は、目に見えなくても確かにある。たとえ実際には彼らにそんな心配をする暇はなかったにしても、この使命が果たされたら一緒にいる理由がなくなるかも知れない、と思わせる規律が。

 自分が『リヴィエラ』に見るギャルゲーっぽさはこの二点にあるようです。
 前者は主人公であるということ、後者は例えば学校のクラスメートみたいなもの。
 後者はすぐ見当がついたけれど、前者の対応を思いつくには少し時間がかかりました。ギャルゲーのそういうところが自分は好きだった、ということに気づいて、ちょっと新鮮な気分です。


8/6(火)

 す、すげえ。
 レビューを二つ並べて、説得力のない方をよりによって表紙の見出しに持ってくる、というゲーム批評最新号の豪快な構成には驚かされました。
 表に出された方も恥、その横に並ばされた方も恥、そんなものを買った当方も恥、という三方痛み分けの図がここに。
 他に理由を求める必要なんてない、表紙とこの二つを読み比べれば、この雑誌を評価するには十分です。なんだか「立ち読みするのも恥ずかしいから買ってひっそり目を通す」存在に成り下がってしまったのだなあ。夢破れしなんて、こっちが言いたいよ(←夢を抱いていたのですか)。


8/4(日)

 『リヴィエラ』クリア。記録上は23時間、そこにリセット分の数時間を足すほどの間、ぶっ続けでやりました(ぶっ続け:他のゲームを挟まない、くらいの意)。
 正直、ストーリーについてはピンと来ないところはあります。神罰って何だ、天使ってどういうものだ、とか。でも、このゲームは精霊たちの物語。よく分からないけど恐ろしいことに巻き込まれた精霊たちが、考えを改めた一人の天使とともに平和を取り戻すために戦う、そういう物語。分からなくたっていいことがあるし、分からないなりに精一杯頑張った。その結果、危機は去り、平穏な日常が戻る。
 クリアして、そういうふうに思えました。分からないことをそのままにして、それで十分楽しかった。

 直ちに2周目に取りかかりたい気持ちをグッと押さえて、進行方針など考え中。
 2周目を遊ぶこと自体は確定。なにしろ隠し要素の取りこぼしが多すぎ。スコアランク・サウンドテスト・特別ステージと、6つある隠しの半分しか出してないありさまです。
 また、マルチエンディングを楽して見ようと、ラスト直前の戦闘で5回ほど全滅してみましたが、展開は全く変わらず。ルゥリとの信頼の絆は、5度死んだくらいではびくともしないみたいです。
 この段階まで来てしまうともう無理なのかな? そこを確認しておきたい。最初からやり直す前に、いま一度、さらに10回ほど死んでもらおうか(ひどい)。


8/3(土)

 帰省していたこともあり、この3日は他のゲーム機に惑わされることもなく、『リヴィエラ』に集中してました。クリアまであと少し…のはず(まだかよ)。
 頑張って沐浴シーンその2も見ました。どうも条件がはっきりしなくて、一度はイベントのかけらも現れなかった。十分条件じゃなくて必要十分条件が知りたいものです。
 そのための攻略本だろう、と、またもや金を払った者の権利とばかりに難癖を付けようと思っていたけれど、ようやく拝めた沐浴シーンが本で紹介されていた画像と違っていたのに虚を突かれてしまい、攻撃の手も緩みがちに。

 というのも、攻略本の絵は露出度が激しいのです。あれ、おしりはいいの? バンダイのチェックって甘いのな、つうか社名的には寛大? なんて思いついて一人で喜んでいたのですが、ゲーム内では草が! かんじんなところは草で隠されていました。
 で、どうもこの本、ゲームの細かなデータは後回しにして、とりあえずあるだけの資料で作られた物なんじゃないかと想像する次第です。必殺技の数値データがないのも、攻略本の製作段階ではまだ数値が定まっていなくて、載せたくても載せようがなかったんじゃないのだろうか。
 だからって載せないことにするなんざ本末転倒ですが。

 売り上げだけでなく発売後のフォローもこんなふうに不遇だと、このゲームにちょっと肩入れしたくなってきます。
 まずはクリアしよう。考えるのはそれからだ。



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