ゲーム+α日記(2002年9月)

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9/30(月)

 すっかり汚れきった自分を立て直すべく、己の腕だけが頼りのアクションゲームに取り組む。折から広告が目について気になってしまったゲームがあった。ゲームボーイアドバンス『メタルガン・スリンガー』。多彩なアクションを駆使して進む横視点ガンアクションゲーム、との触れ込みは、当方の希望そのものであります。
 いつものゲーム屋では売り切れ、次の店では入荷せず、三軒回ってやっと入手。待たされた分、期待も広がるというものです。

 …が、うーむ。頑張ってほしい点があちこちあって、やや残念な出来と言わざるを得ません。
 まず、キャラの当たり判定がおおざっぱです。プレイヤーキャラは敵弾や敵そのものにかすっただけであっさりダメージを食います。敵についても同様で、小さな敵は当たっていないように見えるほどの流れ弾で死んでくれます。
 次に、武器の銃「メタルガン」の連射性能がいまいち。最高二連射で弾速もほどほどでは、撃ちまくりながら進むにはやや実力不足です。
 三つ目、無敵の特殊アクション「ガンアーツ」が思うように出せません。発動条件が「Rボタン→十字キー」なためです。これが「Rボタン+十字キー」だったら、移動中に流れるようにガンアーツに移行できるのに、先にRボタンを押してからでないと技が出ないため、一度十字キーを離して行動を止めなければなりません。
 四つ目、アクションが固いです。一つのアクションのモーションが終わらないと、次のアクションに移れません。また、ジャンプ中に銃を撃つと自動的にジャンプがキャンセルされて落下する(ジャンプショットが一発に制限されている)という動きの挙動は、アクションゲームとしての評価まで急降下させます。
 五つ目、使い回しが目立ちます。敵の種類、地形、強制スクロールの形式など。同じものがあってはならないとは言いませんが、これは種類が少ないのではないかと思いました。

 以上五点が主な欠点です。  ただ、それらへの対策も用意されているようです。「回復アイテムがたくさん出る」「耐久力の高い敵がボス以外にはいない」「『ガンアーツ』なしでも通常アクションだけでゲームが進められる」「それほど厳しいジャンプアクションの場面がない」がそれぞれ、自分が感じる四つ目までの欠点に対応しているように思えます。
 でも、それって、特徴のないアクションゲームってことではないだろうか……
 なお、五つ目はシステムだけではどうにも改善できそうにありません。こういうときはストーリーに頼ってみたいところだけれど、なんだかよく分からない話の流れだったし。

 普通に遊べるゲームだったとは思います。また、ステージのどこかにいる隠れ中ボス「賞金首」を探し出して討ち取る、という収集要素は面白かった。
 きびきびしたアクションで楽しませてもらえればもっと良かったのにと、いま一歩ならぬ五歩くらい惜しく思いました。

 あと、オープニングとエンディングで歌が流れたのには驚きました。今やGBAでも主題歌が入る時代なんだろうか。
 このゲームはメディアミックスを目指しているようで、おそらくそこからの流れでこの歌も入ってきたのでしょう。しかしどうにも垢抜けない印象が拭えず、ゲームの雰囲気とも合っていないと感じました。
 他のメディアで人気になれれば、付加価値も上がるかも知れない。ただ、こういうジャンルなら特に、単体でも生き残れるゲームであってほしいと思います。


9/28(土)

 何だか妙な具合にやる気が満ちてきたので、散らかった部屋を整理する感覚で『水月』残りを一気に片づける。
 すなわち、こどもまみれ。ああもう、「みそぎ」をしに行きたい気分です。ゲームに出てきた、山を越えた先のあの川へでも。やっぱりそこにはナナミがいるんだろうか。できれば花梨がいいんだけれども(そんなんじゃみそぎになるまい)。

 しかし、アダルトシーンはともかく、がきんちょ・鈴蘭のシナリオは、この子がその性格によって他のキャラを救ってくれる存在であることを改めて示したものだったので、読んで良かったと思いました。
 誰にも制御できない天真爛漫さが、ついには話を横断し、設定を踏みにじるまでに暴走するのを見て、胸がすく思いです。
 この子は、他の誰もなしえなかった、「みんなを幸せにする」という偉業を成し遂げた。それは、「誰かを選ぶことで別の誰かが不幸になる」というこのゲームの流れの中で、ひときわ光り輝いています。


9/26(木)

 考えて工夫して各自の攻略パターンを編み上げよ、という『斑鳩』を遊ぶにあたっての心構えは、そのままこのゲームのストーリーになっている。たぶん。
 ノーコンティニュークリアかプレイ時間の累積で現れるという物語をまだ読めていないので、結末に関しては何とも言えないのだけれど、GD-ROMをPCに入れて読み出せるプロローグを見る限り、そうとしか思えない。
 必ず終わる(死ぬ)と分かっているのに、それでも君がゲームを遊ぶ(戦いを挑む)のはなぜか? 限られた命なら、主人公の立場としては精一杯の努力をすべきではないのか?
 それが考え方の一つに過ぎないことまで含めて。

 ゲームスタート時の主人公は、戦いに己を駆り立てる力の源をつかめていない。実際のところそれはプレイヤーの事情によるので、彼が知っている必要はないし、知ることはできないのではないかと思う(せいぜい割り切るくらいしか)。ただ、ゲームの中で死ぬのは主人公で、それは大変に損な役回りだ。だから、せめてその分、プレイヤーが自分の役割を自覚しておくのが、彼に対する礼儀であるに違いない。
 彼が全力を尽くすはずの実戦には取り組まず、今はパターン作りのための練習モードに専念して、彼には死んでもらいっぱなしだ。ごめんよ。


9/24(火)

 今の今まで『斑鳩』のことを誤解していたのだと、懺悔せずにはいられません。

 前作に当たる『シルバーガン』、あのゲームにはまだ、いくぶんかの自由度があった。同じ色の敵だけを狙い撃ち続けてチェーンボーナスをつなぐというスコア稼ぎシステムでは、他の色の敵を倒したり、あるいはミスしたりでチェーンが切れることはあっても、同じ色の敵を倒しきれずに逃すことではチェーンは切れなかった。そういうミスならパターンは基本的に同じで良くて、総得点は下がるけれどもチェーンが切れるほどの害は被らずにすんだ。
 しかし、『斑鳩』では敵を逃すことも許されない。敵を一機倒せなかったら、その直後のパターンを変えて修正する必要がある。さもないと、チェーンが切れる。違う色の敵を倒す手順がその中に含まれている以上、どこかで調整しなければならない。そして、その対応を計算するには、今のところ敵の動きが素早すぎると感じる。
 そのようなミスを起こさないようにするためには、プレイのパターンが揺らがないよう、完全に自分のものとしておかなければならない。考える余地などないくらいに。

 思えば自分は、いくら口では悟ったようなことを言っていても、結局『斑鳩』をアドリブで楽しもうとしていた。3/3に目指していたのは、属性変更ボタンを戦況に応じてスムーズに使い分けられる、アドリブ対応のプレイだった。
 そうやっていては駄目だ。プレイヤーの進歩の問題だけでなく、アドリブを入れていたらパターンが揺らぐ。
 このゲームはランダムの要素が薄い。撃ち返し弾は数少ない目立ったランダム要素だけれど、自分が取り組んでいるイージーモードにはそれさえない。パターンの固定化が目指せるし、そうやって遊ぶべきゲームなのだ。どんなパターンを見つけて自分のものにするかを楽しむゲームなのだ、『斑鳩』は。
 属性は画面を見て臨機応変に変えるものじゃなくて、このタイミングでと決めつけて変えるもの。それならば自機の属性について迷うこともなくなる。その都度の属性が完全に決まっているなら、迷うことなんてできない。

 弾を撃ったり、属性を変えたり、力を解放したりを決める場は、ゲーム中ではなくゲームの外だった。
 アドリブで遊ぶ限り、『斑鳩』は面白くならない。

 先々週のファミ通に、『斑鳩』を「試練を受けさせられているよう」だとの形容を見つけた(ライターの意見ではなく)。その通りだと思う。そして、準備なしで臨む試練は辛くて楽しめないばかりだろう、とも思う。ただ、辛いばかりじゃない試練だって世の中にはあったのだ。
 例えば、雑学が強い人にとってのクイズ番組。あるいは、テスト勉強をこなした上で迎える試験。何を聞かれても答えの見当がつくなら、テストって楽しいものじゃなかっただろうか。

 考えを改めた自分は今、『斑鳩』をゆっくり遊び始めている。やっと1面で評価Sが取れそうな気がしてきた。
 8割(それ以下?)から先へ進む(進める)かどうか、将来のことは分からない。でも、遊び方、楽しみ方が分かったのは間違いないから、今は『斑鳩』を遊んでいて楽しい。

 半年前の自分は、『斑鳩』のどこを楽しんでいたんだろうね。


9/22(日)

 『プリズマティカリゼーション』SuperLite1500版発売決定、の衝撃(証拠のリンク先ってここしかないのか)。
 それは、同じゲームでありながら明らかに違うと分かる『プリズマ』が、正規PS版・ドリームキャスト版に加えて3バージョン存在してしまうということへの、今となっては全く個人的な動揺なのです。
 まいった。廉価版発売日以降は、DC版『プリズマ』について以前に書いたものに、消費期限切れの印をつけておかなければならない。

 『プリズマ』にとって最良の販売形態は、ジャケットの絵柄か何かを変えただけの二種類を同時発売することだったと、昔夢想したことがある。次点が他機種への完全移植、そして廉価版はあり得そうにないと思いつつ三番手に挙げていた。
 自分の思いつきを守るつもりなら、SuperLite版は買ってはいけない。しかしそれは、このタイトルに固執するあまりの、なんと狭い心の表れだろう。


9/18(水)

 「どうして〜しないのか」という質問の答えは、質問者の中にある。

 もし、質問された側が「〜する」ことを知っているなら、「〜しない」ことに理由がある可能性がある。「〜しない」ことを選び取ることができる。でも、「〜する」ことを知らないなら、「〜しない」ことが自然な、唯一な状態なのだから、そこに理由は存在しない。
 「〜する」ことを知っているかどうかに関心を払わない、この単体の質問には、「〜する」ことをこちらは知らない、という態度で臨むことができる。つまり、答える必要がない(答えられない状態にあることを示す)。
 本当はそれしかできないはずだ。ただ、質問の欠陥に気づき、そこに突っ込んでやり返すことだけを目指すなら、「〜することを知らないから」が、質問への答えとなる。もちろん、そう答えられることを知りながらわざと答えない、というのもありだろう。
(もっとも、選んで「〜しなかった」場合は、「〜しないことにした」というのが正確だろうから、否定形にはならない。ただ、「〜しない」と「〜しないことにする」を同じものと見なすくらいには、話し言葉は幅を持っているように思う)

 しかしそれでは、表面的な問いと答えの形にこだわるあまり、両者に溝が空きすぎる。
 そこで一歩譲歩した返答は「もう少し質問を限定して欲しい」となるだろうか。例えば「〜することをこれこれの理由で知っているはずなのに、なぜ〜しないのか」と。それになら、付け加えられた方に答えるという形で答えることができる。
 答えを質問者から引き出そうとしているこの返答は、質問に対応する返答ではないという点では質問に対して(論理に対して)不誠実な反応ではあるけれど、質問の不備を示しつつ問答する姿勢を示したのだから、質問者に対しては誠実であると言えそうだ。

 あるいは、そもそも答えるという形式を放棄するやり方もある。もし問われた側が「〜する」ことを知らなかったり忘れていたりしたなら、質問の形を取ったそれは、意識になかった可能性を教えてくれるヒントだと受け取れる。だから「ああ、なるほど。教えてくれてありがとう」と返して、「〜する」ことを検討し始めればいい。英語のWhy don't you〜が提案の意味を持つのは、実に筋が通っている。
 問答は無視されたけれども、お礼を言われたことで質問者も矛を収めてくれるかも知れない。

 いや、上のどの答えでも満足してもらえないことだってある。質問者が(質問してきているくせに)問答気分でないときには。感情のつきそいとしてだけの質問なのかもしれない(「どうして〜しないのか、このバカモノ!」)。それならそれでいい。聞く気がないのに話しかけたって報われない。
 困るのは、そういう難しい質問を投げかけられて、とっさに対応できず言葉に詰まったりしたとき、「答えられない=非があることを認める」という結びつきでさらに責められる場合。そのような悪意を質問者から感じたなら、こちらも応戦の準備を整えなければなるまい。
 その結びつきは、まともな答えを用意できる質問を出した上で活用してほしい。そして自分も、その問いがまともな答えのあるものかないものか、場の流れに呑まれることなく区別できるようになっておきなさい(←今後のための理論武装だったらしい)。


9/15(日)

 休日になぜ15時間働かねばならんのだ、と、事情を頭で分かってはいても鬱屈がたまってきて、それを、あー人間くさいなーと考えをそらすことでやり過ごしていた折、「『約束の地リヴィエラ』のキャラと対戦タイピングができるサービスを始めました」なるメールがスティングから送られてきた。
 速攻で買ってきましたよ、元になるソフト『悠香タイピング』を。よ、この宣伝上手!(←はまりすぎ)

 『悠香タイピング』はその名の通りタイピングソフトで、ヒロイン悠香たちが話しかけてくる言葉を打ち込んでいくもの。言葉が枠の中に流れてきてたまっていくので、枠を埋め尽くす前にタイプして消していく。
 ほとんど全ての言葉が、時をおいて何度か現れる。一文を打ち込むと、その時に枠の中にある全く同じ文章が一緒に消える。それがコンボボーナスとなる、というのがゲーム的な仕掛け。高得点&クリアタイム短縮のためには、まとめて文章を消していけるように枠の中にため込む必要がある。
 レベルが上がると標的が複雑化していく、とともに内容の親密度も上がっていく。
 同じ文章がいくつも並んでいるのは、「女の子が秘めた打ち明け話を繰り返し語ってくれる」という理由付けではカバーしきれないくらいに見た目奇妙だけれど、こっちは時間切れの焦燥感に追われつつ、文章が効率よく消化されたときの爽快感を追いかけるのに精一杯で、そこまで頭が働かない。なんとデリカシーに欠けた態度でしょう。そんなんじゃ嫌われちゃうよ。

 ひとまず元のゲームを遊んでみるも、全6面があっという間に終了。最高ランクは取れないまでも、とりあえず終わりを迎えてしまう。悠香さん悠香さん、これはちょっとあっさりし過ぎてませんか?
 ほかに常駐モードで悠香さんとコミュニケーション、なんて遊びもあるけれど、いつもPCが立ち上がっているわけでもなく、個人的には魅力の薄い要素。つーか悠香さん、今(午前1時)だと寝てるし。相手してもらえず、クリックで起こすのも悪い。常駐はひとまずやめておこう。
 ……と、ここまでならまあ価格(定価2980円)相応、しかし前置きはここまでだ(本編だけど)。お待ちかね、スティングのサイトから落としてきた『リヴィエラ』仕様対戦モードに大突入! 今回のお相手はルゥリ嬢であります!

 ルゥリといえば元気いっぱい愛嬌たっぷりな台詞の数々が『リヴィエラ』プレイヤーの記憶に新しいところでありますが、『悠香タイピング』ルゥリバージョンではその中から選りすぐられた発言集が襲いかかってきます。
 もともとこの試みは『リヴィエラ』販促活動の一環で、プレイ画面には『リヴィエラ』パッケージとゲーム画面が載っかるPR仕立て。そして、普段は悠香が出ているウインドウもルゥリのイラストが占拠。宣伝用に表に出るキャラクターのいの一番がルゥリであるのは、至極当然の選択と言えましょう(←イチ押し者の思い)。
 そうである以上、ここに現れる台詞もまた、メーカーの「ここに注目して欲しい」との期待を担った精鋭ばかりでなければなりません。
 しかして、その選ばれた言葉たちとは。

 そうれ ざぶーん!
 だって 気持ちいいんだもん!
 あ もしかして! ルゥリたちの水浴び見ようとしてたりして……
 あーーー ばかばか ばかばか エクセルのえっち
 ルゥリ ぺったんじゃないもん!!
 ずいぶんと沐浴シーンに偏ったチョイスなんですが、これでいいのか? ちなみに「エクセル」は『リヴィエラ』の主人公の名前です。
 さらに、最後に引用した文はまるで別のシーンに出てくる台詞でありながら、ここでひとまとめにする漢っぷり。これでは、いかにも水浴びで比べっこなどといった一幕があるかのようで、実際思い描いてみると大変危険です。
 いやー良くないと思いますよこういうまぎらわしい宣伝は(これが『水月』ロリ娘攻略に二の足を踏んでいるものの言い草でしょうか)。


9/12(木)

 折から訪れた仕事の山にこれ幸いと乗っかり、『水月』から少し距離を置く。
 …と言えるようなかっこいい現実ではなくて、気分転換しようにもスピッツの『三日月ロック』を聞くくらいしか時間の取れないここ二三日だった。

 むむー。スピッツの新アルバムという先入観だけで評価が甘くなりがちなのは否めないところながら、どの曲もシングル級に聴ける印象。あれ、これ前奏曲? みたいな力を抜いたものがない。
 一番ひねりのなさそうな「水色の街」がよりによってシングルだから、どれがリカットされてもおかしくない。そういう意味では等質に聴ける。まるでベスト版のようにメリハリがありません(素直に褒めればいいのに)。
 曲自体とは別の理由でシングルに不向きなのもありますが。甘酸っぱいこと言っちゃう俺たちゃ柑橘系、みたいな見立てが面白くて曲も楽しいのに、曲名が「ミカンズのテーマ」じゃあ、ピンで売り出すにはどうだろうという気はする。こういうのはアルバム向きと言えそう。

 ああ、アルバム名が内容を補って余りある気抜けっぷりだった。あまりに重みがない。そんなことだから先週のファミ通に「純ポップ」なんて紹介されてしまうのです。ロックだって名乗ってるのに。といいながら自分でもロックとポップの区別なんてつけられないことに気づいた。
 たぶん、どっちでも(どうでも)いいと思っていることにうっかり触れてしまうくらいには、これを聴いて浮かれている、ということなんだと思います。


9/9(月)

 『水月』盲目の不思議キャラにしてボスの那波シナリオをクリア。
 ボスシナリオだけのことはあって、まき散らされた謎が回収されていく。一部、謎の解明のために上位概念を持ち出したところがあるけれど、それはきっと、そこから先は考えなくていいんだよ、と読者をやんわり押しとどめるためのものだっただろう。全てを語ろうとすると『月姫』になってしまう。このくらいの文章量でちょうどいいと思いました。
 タイトルの由来に異世界への入り口が開いた理由に登場キャラが年齢不詳な理由、それらが明らかになっているだけでもうオールオッケーです。特に最後のは、ストーリー序盤からあまりにもあからさまなものだから、てっきり「ランドセルが似合う姿でも実は18歳」というエロゲーならではの事情ゆえかと勘繰っていました。そうでなくシナリオ主導の設定だったことが分かったので満足満足。

 エンディングも割と好み。しっくりくる終わり方で良し。ギャルゲー的な普通とは心地よいものであります。
 あんなの那波じゃない、と思えるのはプレイヤーだけです。我々さえ信じれば、彼女は彼女でいられる。それは、そもそもそのような可能性を持っていない主人公にはできない、まさにプレイヤーの役目ではないでしょうか。

 ところで、ここに至っての大問題は、『水月』の残りキャラが揃いも揃ってこどもばっかりということなのです。先ほどの自分の勘繰りもそこに根拠がありました。
 プレイ最中ずっとゲームを見れども見えず、だった『はじめてのおるすばん』などと違って、なまじシナリオが絡んでくる(予想)分、始めてしまえばまともに向き合うことになるだろう。それが分かっていてなお、話を進めてもいいものだろうか。それとも逃げるべきか。どうしよう。助けて『斑鳩』(そんな文脈で持ち出さないで下さい)!


9/7(土)

 立ち上がらなくなったPCは、電源ユニットを入れ替えることで復活した。
 4年使ってきて最初に壊れたのが電源か。今使っているのは、パーツを見繕ってもらって組立だけ自分でやったという、自分が胸を張ってそう呼ぶのは憚られる自作機で、今までの平穏は当時の見立ての良さによってもたらされた。当時つきあってもらった人々に感謝。
 そしてこのPCにはこれから先も頑張ってもらおう。能力がエロゲーの必須スペックを下回るその日まで(最新作が下回ったところで、旧作ばっかり遊んでいそうな気もするけれど。というか『水月』がすでに怪しいラインに来ているけれど)。

 今回の事件に出会って、自分はハードウェアに関心がないことが身に沁みて分かった。新しいのを買うことも検討したが、それは特定の機能が欲しいからではなく、現状と同等以上の状態を取り戻す方法の一つとして、他の方法がダメだった場合に消去法によって選ばれるべく並んでいただけだった。
 とにかく動けば何でもいい。それがなければそもそも何もできないいわば空気のようなものについて、いろいろ考えたくない。
 何しろ自分はゲームが好きだから。できあがった世界の中で、ルールに従って動いているのが性に合っているから。世の大枠を作るタイプではないから。ゲームが好きと言っても作る側ではなく遊ぶ側だから。
 というよりも、自分のそういう性質のせいで、自分はゲームが好きなのだ、と言える。

 新PC購入も覚悟していたのが電源代だけですんだので、別に収入があったわけでもないのに余り金ができたような気持ちになり、気楽にGBA『伝説のスタフィー』を買った。同じ使うならソフト代に当てた方が断然好ましい。ところでもともとゲームボーイ用だったとは知らなかった。
 任天堂ブランドだから店から消えることはないだろうけれど、スター好きとしては押さえたい、と名前(&見た目)買い。遊ぶのはだいぶ先になると思いますが。次の帰省の際にでも(四半期先か)。
 まずはDC『斑鳩』。そして『水月』の残り。考えてみれば『斑鳩』は今のところ自分にとって没頭するタイプのゲームじゃないから(その段階まで行き着けてない)、二作の平行プレイは十分可能なのでした。


9/4(水)

 しかし、自分で言い出しておいてなんだけれども、「花梨萌え」という形容は自分の今の状態には合わないようだ。
 そういう言い方には評価が入ってくると思うのだけれど(「○○萌えである」=「○○が萌えキャラであると評価している」)、自分は評価しているわけではなくて、つまり立場の異なる地点から一方的な視線を浴びせているわけではなくて、近いところにいる感じ。花梨に感情移入している、といえばそれで片づくか。
 和泉のように決して「わんわん」泣いたりしないキャラと比べて、花梨はそのように大泣きし得るだろう、ただしそれはやはり滅多にないことで、そのときの彼女の深刻さが想像できる。そういった感じ方は、萌えとは違うだろうと思う。
 萌えというのはもっとこう、万人から、というのが言い過ぎなら何人もから等しく好かれる特性なんじゃないだろうか(何人もから好かれる特性を持っているキャラが萌えキャラと呼ばれるのではないだろうか)。
 ただ、萌えとは違うからこそ、違っているのにも関わらずそう呼ばれても構わない、と言いたくなるような気にもなるのだろう。自分が何かを犠牲にした気分を味わえるから。

 そんな中。
 ドリームキャストを舞台にした祭りを目前に控え、少しでもプレイに精を出そうと思っていた『水月』の前に突如として立ちはだかった壁。
 PCの電源が入らない。起動しない。まさかこんな展開を迎えるなんて。あまりに意外な幕切れです(幕切れなのか?)。


9/1(日)

 『水月』(F&C・FC01)は専属メイド・雪ルートを終了。
 最近ギャルゲーを遊ぶスパンが長くなったのは、一人クリアするほどの時間が週末にしか取れず、また一つのシナリオをクリアしても直ちに次へは進めず間を置きたい、それだけの理由だった。そうすると、単純計算でヒロインの数に週を掛けただけの時間が必要となる。このゲームで残すはあと4人、うちストーリーの根幹に関わると思われる一人だけは外せない。少なくともあと一週間はかかることに。
 今回はちょっと頑張って、週の半ばから取りかかっているのだけれど、それでも結局いつもと同じスパンになってしまった。読むのに比べて、メモを取るのに圧倒的に時間を食う。そんなことしなければ早くクリアできるが、それでは面白くないんだからしょうがない。
 今回は特に、メモを取ったことによってゲームの受け取り方がだいぶ変わってきたと思う(メモを取らずにこのゲームを初プレイすることはできないので、想像でしかないのだけれど)。具体的に言うと、花梨の台詞を中心にメモっていったため、自然と花梨に対して、他のキャラよりも馴染んでしまっている。何だか深く付き合っているような感じがある。このゲームに対して、自分はそういう偏見を抱えて接している。

 雪シナリオには工夫があった。ゲームオーバーという形でプレイに区切りをつけること、それから時間の連続性というのは遊ぶ側が感じるものであって、それは必ずしもゲームの側の感じとは一致しない、ということ。これらゲームの特性に、物語の設定から理由がついている。ゲームであることをうまく利用して表現されたシナリオだった。
 ただそれは、ゲームと喧嘩することなく(ゲームからはみ出ようとせず)、ゲームの内側に留まったシナリオでもあった。どうも自分は『プリズマティカリゼーション』の呪いなのか、ゲーム世界の中にプレイヤーの役割を示唆するものが隠されていないかと、どのゲームを遊んでも血眼になって探してしまう悪い癖がある。そして、実にしばしば、今遊んでいるゲーム自体から目を背けた結論を出して満足する。本当に悪い癖だ。自覚して直さなければならない。
 『水月』の雪シナリオはプレイヤーを閉め出している。プレイヤーはゲーム世界に関与できない。行動を選択しているのはあくまで主人公で、彼が記憶喪失であるという設定はゲームを始めた自分に近くはあっても決して同じではない。自分は遠巻きに、ゲームの進行を眺めるだけなのだ。もちろん、それが悪いということはない。これがそういうゲームだ、というだけ。そして、このシナリオは面白かった。

 ただし、自分にかかった呪いは強力なので、それを知った上でなお、自分ができることはないか、探してみたいと思うことがある。それならいいだろう。
 それがあるかどうかは、このゲームを遊んでいるのが自分であることの当然の帰結であるように思う。残念ながら、自分が遊ぶ以上、それは仕方ないのだ。他の遊び方は、他の人に任せるほかない。
 もうローテンションなんて装ってられません。以上、言い訳終わり。言い訳というのは、これからちょっと暴走することへの。
 反転表記にするのは、ネタバレになるからが半分、恥ずかしいからがもう半分です。

 またも。和泉ルートに続いてまたしても、花梨が不憫すぎます。
 雪に専用のハッピーエンドがあるのは分かる。彼女を幸せにできるのは主人公しかいない。そして、彼女が幻の世界でしか生きられないのなら、主人公だって後を追うしかない。そのためには他の全てを捨てなければならない。それはよく分かるしそうすべきだ。
 しかし、花梨はどうだろう。主人公も葛藤していたけれど、彼が花梨の手の届かないところに行くことで、花梨は主人公と同じ苦しみを味わうことになる。それがいやで、花梨は「わんわん泣く」のである。

 親しみの湧かない女の子に大声で泣かれたってうざったいだけかも知れないけれど、幸か不幸か、自分は花梨の性格の基盤を自分の中に作り上げかけている。花梨がそうやって泣くことがどれほど異常なのか、肌で感じ取れる気がする。なお、この「わんわん」という擬音語で、花梨ルートでの初回アダルトシーンにおける二人のやりとりを思い起こしてしまった自分は馬鹿者だ。反省。
 気を取り直して。花梨(と庄一)が主人公を説得する場面は、正直言って泣けた。単純に女の子が泣くのに弱いということもあるけれど、この手のシーンで専用CGなしで揺さぶられたのは記憶にない。このシーンは、花梨ルートラストでの主人公と花梨の立場をひっくり返したもので、花梨の真剣味はあの時の主人公の真剣味そのままだ。あの時は主人公の必殺トークに感心して終わったけれど、まさか逆の立場を見せられるとは思わなかった。こんなふうに見せられると本気で動揺する。

 花梨は終盤でいろいろな役割を背負わされる。明るくて活発な本来の(少なくとも雪ルートでは)幼なじみに加えて、精神的な庇護役、さらには身のまわりの世話まで。オリジナルの役割以外はもともと、主人公の母親・ナナミ・雪と、何人もが分担していたものだ。それが全て花梨に降ってくる。それがどれほど彼女の負担になっているだろう。雪ルートの最後の選択肢で花梨たちの説得を受け入れ、雪を選ばなかった場合、そんな彼女の様子が描かれる。
 花梨がそんな負担をあえて受け止めるのは、そこまで主人公のことが好きだからだ。しかし、花梨ができること、捧げられるもの、考えられるおよそ全てをもってしても、得られた状態は花梨にとって決して満足のいく状態ではないはずだ。
 花梨たちを選んでくれたにせよ、主人公の気持ちにはまだ雪のことが深く根を下ろしていて、半ば心ここにあらず。それをつなぎ止めたい一心で彼女は主人公に身を許すのだけれど、その様子はたった一ページしか語られない。花梨ルートでは延々と描写されたそのシーンも、今の主人公にとってはその程度しか言葉にならないできごとだった。それが彼にとって重要だったのは間違いなかったにしても。そしてそれ以来、花梨は主人公の世話に忙殺される。

 花梨はそれで幸せなのか。あの説得場面では、主人公が花梨ルートで主役であったように花梨は主役であったのだから、花梨視点で見れば同様に長く語られていいイベントだったはず。大事な人を自分のそばにつなぎ止めることに成功したのだから、これはいわば花梨によるハッピーエンド・その2であるべきもの。その結果がたかだか一ページ。
 ゲームの中からは、彼女が本当に幸せなのかが伝わってこない。笑顔は見せてくれる、幸せだと言ってはくれる、でも、他のキャラの身代わりとしてあまりに便利に使われ過ぎたその笑顔、その発言は、それらが持っているはずの重みを自分に感じさせてくれない。彼女が本当に幸せであってくれているのか、信じることができない。
 このルートの最後で、主人公は雪のことを思い、彼女のために祈る。その祈りは、雪のことを覚えているご主人様の祈りにしては軽すぎるきらいがあるけれど、とりあえず別ルートから彼女の幸せを祈る用意がある。
 しかし、花梨のためには? 雪ハッピーエンドで置いてきぼりにされた花梨のために、あるいは雪バッドエンド(上で説明した、土壇場で雪を選ばなかったルートのこと)で強烈な重荷を背負う花梨のために、どこか別の場所で主人公は祈ったことがあっただろうか? 彼は自分の幸せをつかむのに手いっぱいで、花梨のことまで気を回したことなんてなかったんじゃないだろうか? あるいは、彼はその余裕をゲームから与えられなかったのではないか?

 だから。このゲームに関して傍観者でしかなかった自分はそこに、待ってましたとばかりに出番を求めたい。プレイヤーを排除するゲームの壁を破り、割り込みたい。主人公がゲームの中で花梨の幸せを祈ったことがないのなら、その役割は自分が引き受ける。
 それがゲームのうちそとを越えて、雪バッドエンド、または花梨ハッピーエンドでの花梨のところに届き、花梨を本当に幸せにする力を与えると信じて。
 花梨萌え? それで花梨が幸せになれるなら、その烙印、進んで押されよう。

 ゲームを終えたのが昨日の深夜。こんな興奮状態では寝付きが悪いだろうと、半ば覚悟してはいましたが、結局一睡もできませんでした。まったく困ったものです(←さっさと寝ろ)。



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