ゲーム+α日記(2002年10月)

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10/31(木)

 いや、『My Merry May』に限ったことではなかったかも知れない。

 自分がゲームを遊んでいるとき、自分の意識がゲームの中の全体に溶け込み、画面内で目が行き届く限りどんなことも分かるように、さらにはその場面で確率上発生しうるあらゆる可能性を把握して、隅々まで目が行き届くようになっている、と感じることがある。個別にどんなことが起ころうと、変わらずゲームが進行していく、安定した状態。
 操作をマスターして、操作について思い煩うことなく半ば自動的にゲームを進めていける段階に達したアクションやシューティング。イベント発生条件を全て知った上で遊ぶロールプレイングやシミュレーション。また、分岐が少なく、ボタン捌きに気を取られることの少ないノベルゲーム(漢字や熟語に引っかからずに文章を読み進めていくのは、習熟した操作で自機を制御するようなものじゃないだろうか)。そういうときに、安定した状態が訪れる。自分はそのような、不定形に漂った状態が好きだ。
 やがてゲームをやめると、自分が元の世界に、実体を伴って帰ってくる。ところが、急に世界間を移動するものだから、実体化がうまくいかず、元通りになれないでいる感覚がしばらく残る。

 自分がゲームのことを言葉にするのには、つかみどころのないものを形にすることで何とか現実の自分をも再成型しようとする、リハビリの役割があるのだと思う。整った形を見ることで、整えるための鋳型を持った自分を確認するというような。
 それができないとき、形の決まらない不安定さは不安を呼び込む。今回たまたまそれが『My Merry May』の番で回ってきた、だけなのかもしれない。
 たとえそうだったところで、不安が消えるわけじゃないけれど。なんとか頑張らなければ、形を取り戻せない。

 そんな気持ちで『My Merry May』、幼なじみのおばちゃん声・ひとえ編へ。しかし、これはまた困ったことに。
 気のおけない旧知の仲という点が強調され過ぎのせいか、本当にありふれた存在になってしまっているひとえ。彼女の部屋に出かけて女の子三人に主人公一人、なんていうイベントがあるのに、うち二人が遠慮のない幼なじみと親友の彼女であるおとなしいメガネっ娘、という組み合わせはあまりに地味で、彼女たちが織りなす普段着感覚というか華やぎのなさはただごとではありません。
 こんなにもキャラの魅力に頼らない展開が、果たしてこの先どこまで可能なのか? に今後の興味は絞られつつあります。一発逆転のストーリーに期待(するしかない)。


10/29(火)

 どうもおかしい。『My Merry May』の話をしようとすると調子が狂う。このゲームで感じたことを、言葉に表しにくい気がします。
 このゲームの丁寧な作られ方がその原因なのではないかと思う。あの丁寧さの中に、牙が潜んでいるように感じられてならない。

 あのゲーム世界が優しいのは間違いないです。
 それは、心当たりのない贈り物を好奇心に負けて起動してしまったうっかりものの主人公に、それでもハッピーエンドがやってくるあたりに見受けられる。刹那の興味の先にどんな希望も見えてこない、ゲーム開始直後の切羽詰まった主人公の立場を思えば、それは奇跡といっても良さそうだ。
 あるいは、これまた粗忽にも三つも年下の子を好きになってしまった主人公に、それでもハッピーエンドが訪れてくれるのだって、その証だろう。

 ただ、あの世界は優しいばかりじゃなくって、ときには手のひらを返したような厳しさを見せるし、救いようのない暗闇の用意も抜かりない。この世界は、登場人物を翻弄し尽くせるよう整備されていて、隙間が見つからない。さっき例に挙げたような優しさは、世界の一面でしかない。
 プレイヤーが飛び込むのはそういう世界で、その中でいいように喜ばされたり落ち込んだりしたところで、ゲームをやめた際にはその中から外へ持ち出せるものがない。レゥがかわいかったような気がすると思ったところで、そういうことは形にできず、状況をそっくり引用するか、さもなくばただ「かわいかった」くらいしか言えない。
 ゲーム世界の破綻嫌いはミニゲーム風のイベントで特に顕著で、どうやっても亮に負けることができないのには唖然とした。セーブ・ロードによってその場面を繰り返しているうちに、世界の中に閉じこめられているのを意識して息苦しくなった。
 そのように出口をふさぐよう徹底された箱庭に、いつしかプレイヤーも封じられていたのではないかと、日記が脊髄反射的なネタバレばかりになっている最近を省みて思いました。

 そんなこんなの『My Merry May』、寮母代理のお姉さん・たえ編クリア。今どきの娘にたえという命名は新鮮でした。あと、たえさんの影が薄くて、完全に主人公が主役の話であったことも。
 ……感想はそれだけか? 思い出の持ち帰りをゲームが妨げるなら、抵抗しなければなるまい。


10/26(土)

 『My Merry May』みさおエンド2種到達。
 選択肢がその場面に適していながらもヒロイン攻略の分岐として分かりやすい、主人公が好意を持たれる理由がしっかり説明されている、レゥとの関わりも多い、など、よくできたシナリオだった。
 というくらいの感想に留まっていただろう、みさおちゃんが中学生でなかったなら。

 自分の狙いと同調するかのように、年少だからとの特別扱いもなく積極的にみさおにアプローチする主人公。二人が休日を一緒に過ごしていて、あまつさえ晩ご飯を作ってもらう予定でいることを、寮母さんに自分から告げる主人公。
 その際の彼の台詞も毅然としていて、それ自体は大変男らしいと言えるけれど、いくら彼が男らしくても、中学二年生とデートする高校二年生の図が不問に付されたりはしません。
 寮母さんとの会話シーン前後たるや、恥ずかしさ悶絶級。というか悶絶(ゲーム放り出して寝っ転がって、布団かぶって痙攣笑いをこらえる)。こんな劇物にはとても耐えられません。
 『みずいろ』むつきシナリオに接したときの照れ(
4/10など。って参照の必要はまるでありませんが)を思い出す一幕だった。相変わらずシチュエーション萌えです。

 もっとも、意識し始めたらイベントが一から十まで大問題になってしまう年齢差については、どうやら自分の思い過ごしだった模様。ゲームの世界は二人に優しくて、周囲から騒がれることもなかった。
 あちらでは歳の離れたカップルが珍しくないのかも知れません。あの様子ならきっと、これからもうまくやっていけるだろう。

 クリア後にショートカットモードに入ると、まだ見ていないはずの「みさおエンドAエンディング」が。どうもこのモードは管理が甘い。
 もちろん見ません。ただのタイトルミスかも知れないけれど。


10/23(水)

 ひとりの人がひとりの人の全体を覆い包むことができるものだろうか。
 もしそんなことが起こったなら、内側の人にとって外側の人はもう人なんかじゃなくて、その実体を認識することなんてできなくて、そこにあるのは一つの世界とその中の人なんじゃないだろうか。
 ひとりを丸ごと抱え込むためには、対等でなくなる決意、内側の人から人と見られなくなる決意が必要になる。そんなもの、そう簡単には用意できまい。
 主人公がその全てを委ねようとした対象が人間ではなかった『My Merry May』の隠しシナリオ(もう隠さなくてもいい気がしてきたけれど、そこでなお断り続けるのがこのゲームへの敬意)はだから正しいし、主人公にとって対等なはずだった幼なじみにその決意を促した『水月』のシナリオは厭わしい。

 ここで、『My Merry May』のレゥグッドエンドに至るまでを振り返ってみると、主人公の未熟ぶりが呼び起こした悩みに共感を覚えていたことに気づきました。ひとりを独占するのは、それを貫き通す自信のなさ以前に、人であるためには許されないことなのでしょう。
 ゲームの序盤、主人公と二人だけの空間で独占的にレゥの様子を見続けていたいと願っていた自分のあり方のまずさも気づかせて、レゥグッドエンドも後からじわじわ来る良さを持っていたようです。


10/21(月)

 『My Merry May』公式サイトのゲーム紹介ページでオープニングテーマの歌詞を見て初めて気づきましたが、この曲は「日本語の歌詞と音を似せた英語の歌詞を用意して、それぞれを同時に歌っている」のですね。
 てっきりただの合唱かと思っていました。ヘッドホンして聴いてみれば確かに。ギャルゲーの曲でそれをやるか! 後半で英語パートがローマ字になってしまうのはご愛敬としても、凝ったことするもんだ。


10/20(日)

 『My Merry May』レゥ関連エンドを二つ見る。

 一つはレゥバッドエンド。なるほど、グッドエンドを自分が「普通に良い」と感じた理由がよく分かりました。
 ゲームスタートから主人公はレゥと一緒にいる。つまり、グッドエンドでレゥとともに過ごす生活は、スタート地点と同じ、いわばギャルゲー世界的にあるべき姿、日常なのだった。失われた状態から見れば貴重でも、復帰してみれば、心地よさに慣れた普通の状態。そんなふうに考えていたから、自分は特別にありがたがることもなく、まるで当然の権利のようにレゥグッドエンドを受け取ったのだと思う。
 それが傲慢だということが、このバッドエンドを見て分かったのでした。

 このエンディングの章名は「元通りの日々」。しかし、主人公にとってはそうかもしれなくても、彼が一人で過ごす生活は自分にとって元通り以下です。
 レゥから別れを突きつけられ、ゲームスタート地点以前に置かれたことを、やるせなく思いました。そのことで、自分はレゥ離れはできてもこのゲームからまだ離れられそうにない、とも感じたのでした。
 スタート地点以前とは自分がゲームをしていない段階。そこにいるのが嫌だと思うくらいの吸引力で、『My Merry May』は自分を引きつけています。

 続いてもう一つ、説明書のキャラ紹介には出てこないし(さりげなく表紙には写っているが)、オープニングでも名前が伏せられているので、隠しキャラということになるのだろう、そのエンディング。
 やられた。強烈に来ました。
 以下反転表記にて。参考資料は『水月』。

 人にあらざる、なんでもできるメイドさん、さらに身のまわりの世話だけでなく、主人公の全てを包み込み受け入れてくれる、彼専用のメイドさん。
 主人公の本来の希望をはるかに上回る完成度で甘やかす、完全版レプリス、リース。このエンディングはとてつもない後ろめたさを持っています。
 これが自分に効いたポイントは、
・基本的にバッドエンドであること
・選択肢がほとんど現れないこと
の二点であるようです。

 リースエンドはレゥエンドの裏として現れ、リースを選ぶことがメインヒロインであるレゥを捨てることと同義になるため、本作の位置づけはバッドエンドです。ゲーム内では「バッド」という表現はないけれども、スタッフロールが漆黒をバックに流れ(レゥエンドではCGあり)、担当が「きゃすと」「ぷろでゅ〜す」などと平仮名で表れるという、尋常ではない様子で終わることから、悪いことをしたようなイメージを受けます。
 そしてシナリオの内容は「悪いことをしたような」どころではなく、読み終えた後は、一人のダメ人間養成に力を貸してしまったとの非常な決まりの悪さに満たされます。

 リースと出会って日の浅い段階で二つ、ややリースの側に踏み込んだ選択をした後、一切選択肢は表れません。その間、主人公が少しでも主体的に行動しようとすると、必ずリースか主人公の兄・恭平のストップが入ります。
 意志の芽が摘み取られていくさまがつぶさに描かれます。もう彼には選ぶことなどできないのです。ただひたすら、リースとの閉じたエンドに向かって一直線。その流れを主人公も感じていて、しかし抗えません。抗うための起点となるべき自主性が、丁寧に潰されていくのですから。
 最後はリースの胸元に顔を埋めるように抱きしめられ、彼女の心音を聴きながら、安心するとともに画面が暗転、そのままスタッフロール、という流れ。

 彼はなにも決断しませんでした。居ながらにして周囲を遮断し、リースだけを見て生きていく自分を認めたのです。
 そんな主人公に、恭平が別れ際にかけた言葉も痛烈でした。アンタがそうしたんじゃないか、と、正論であっても本人が吐けば逃げとしか見られないそんな台詞さえ、この場面での主人公には用意されていないのです。

 ここで思い出すのが、リースとほぼ同じ設定および外見上の特徴を備えた『水月』の雪シナリオです。
 『水月』の主人公は、自ら進んで、何度も登場する選択肢の一つ一つを乗り越えて、雪さんとの生活を選び取りました。それも、今いる世界を越えて、二人きりの場所で。
 自分にはそれが、「雪さんに甘えに行く」ことを目的とした行動とは思えませんでした。彼の行動は、最終的には親友も認めざるを得ないほど確固としていて、これぞ主人公というべきヒロイックな雰囲気を醸し出していました。
 さらに、ゲームも雪エンドを一つのグッドエンドと認定していて、自分は雪シナリオをプレイ中、そこに進むのが正しいと背中を押されるようでもあったのです。そうでなければ、花梨たちを含む世界を置き去りにするのに、実際に必要だったのより何倍もの力を自分の方で用意しなければならなかったでしょう。

 本当にどうしようもない事態は、何も選ぶことができず、前方に破滅を臨みながら歩き続けなければならないことなのです。『My Merry May』のリース編を歩む主人公のように。
 そして、彼を滑らかで抵抗の許されないリース編に導いたのは自分です。その結果、彼があの甘い破滅を受け入れ、そこに身を沈めたのを見て、心からすまない気持ちでいます。

 この二作の発売日がわずか一日違い(『My Merry May』2002/4/25、『水月』2002/4/26)であることに、何か運命的なものを感じますが、それはただ自分の経験不足によるものでしかないのでしょうか。


10/19(土)

 『My Merry May』レゥ編クリア。いや、正式にはレゥ編Aらしく、そう言われればまだバッドエンドに当たるものは見ていない。
 というように、ゲーム進行をサポートするプレイデータも充実。CGリストは標準として、エンディングリスト、テキスト既読率、各章のタイトルリストと、チェックしたいものが揃っていて良い感じであります。
 ただ、ショートカット(セーブ地点とは別に、シナリオの分かれ目から遊べる機能)はヒントになり過ぎ。早い段階で閲覧すべきではありませんでした(うっかり見ちゃったよ)。

 しかしこのレゥシナリオ、通しで見るとまとまりに欠ける気はしました。専用ルート前での丁寧さあふれる描写が、ストーリー進行とともに増える情報を処理するのに追いつかなくなってきた印象。
 細やかな語りに代わって、要点を少ない言葉、というよりほとんど行間で示すことで、部分的に処理速度が高まっています。それでも、最終的には出した要素をこなしきれなかったように感じました。
 お話そのものは普通に良し。自分もレゥ離れができたことだし、すっきりと話を終わらせつつ次のルートへ進めそうです。でもそれって、レゥ編単独では褒めていることになるんだろうか?

 言葉少なに要点を語る例(エンディング間近につき反転表記)。

 失踪したレゥを「必要だから探しに行く」という主人公に対して、彼の兄にしてレゥの製作者でもある恭平が「レプリスが作られた理由」「そう、必要だったからさ」と半ばひとりごとのように言うところ。
 レプリスに限らず、全てのものは必要だから作られたんだ、という恭平の次の言葉が聞こえましたよ。

 あるいは(登場順が前後するけれど)、レゥ完全版ことリースの「意志」を見るために、ファミレスで主人公がリースに好きなものを選ばせる場面。リースの返答は
「それでしたら、本日のお勧めと書いてある『マグロづけ丼』などはどうでしょう?」
 リースがメニューの「本日のお勧め」を選択の手がかりにしたことが、端から見ればまるで「天然少女」(主人公の評)らしいさりげなさで描かれるのです。
 その場に手がかりがあるかどうかを探すのは、意志のないものが何かを選ばなければならない事態に陥ったときの解決策として適切です。
 余談ながら、もし手がかりが何も見つからなければ、ランダムで決めるに違いない。その選択が、悪くいえば適当になされたものかどうかを他人は判断できないから、だまされてしまう。きっとリースはそうする(ように作られている)と思います。

 こういうところ、ほんとにうまいです。思わずその場面を引き写したくなるくらい。


10/16(水)

 昨日は雷が近場で鳴りまくりで、停電こわさにPCを立ち上げられなかった。大事な作業中に落雷を食らったらどんな目に遭うか、『My Merry May』を遊んでいれば、そのリスクにいっそう敏感になることができます。

 そんなデータ破損の恐怖から逃げて、少しずつゲームを進める(←こっちのリスクは?)。終わらん終わらんと思いながらプレイ時間2時間を越えたころセーブ画面を見たら、いつの間にかオープニングは通り過ぎていたらしい。
 レゥの存在が周囲に知られ、主人公から引き剥がされたのを目の当たりにして、悲しいったらなかった。いつまでも二人だけでいてほしかったのに、周囲と対決し続けてほしかったのに。シナリオはそれを許さず、自分が気にすべき世界とキャラクターの裾野は広がった。

 分からないことを楽しいと感じるためには、訓練が必要だと思う。未来のことが予測でき、できごとが予想の範囲に収まる、その理由で楽しいという感覚は、予想もつかないことが起こる、その予想のつかなさが楽しいという感覚とは違う。本来は、二つを同じ「楽しい」で表してはいけないのだろう。内にある落ち着いた感覚と、外からやってくる落ち着かない感覚。むしろ両者は正反対だ。
 レゥと主人公との生活は前者で、たとえ思いがけないことが起こっても、「それでも好き」とか何とか、そんなたわいのない収束で、ばら色の生活は続いていく。
 そういった展開(展開してないけど)を予想し、それにどっぷり浸るつもりでいた自分に、このシナリオの運びは、レゥが公開されたときの主人公と同種のとまどいをもたらした。
 これから先どうなるのか、楽しみより不安が先に立つ。主人公は自身とレゥの未来に対して、自分はシナリオの行く末に対して。ともに、閉じた系での安定な状態を奪われて。

 不安を楽しさに変えるためには、話を終わらせて後から振り返るしかないのではないか。終わってみれば、全ては確定したことで、振り返り回想するときの状態は安定している。
 話が始まって終わる、その経験の積み重ねによって、話の途中の、見通しの利かない不安定な状態、つまり登場人物でいることに慣れていけるのではないか、さらに、それを楽しいと言えるようになれるのではないか。
 不安定な段階にいながら、安定した状態がやがて訪れると信じられるようになっていく。そういった未来の先取り能力を習得するに至る過程のことを、分からないことを楽しいと言えるためになされる訓練と呼んでいいのではないだろうか。
 人生経験が乏しいことが丸分かりな推測であります。「楽しい」以外の呼び方が思いつけるなら、そっちを採用してすむ話なのだけれど。

 ゲームの途中で(それもほんの序盤で)いろいろ先のことに思いを馳せるのは、そうしていないと不安だからです。このゲームを遊んでいると、そういう気分にさせられます。
 それにしても、うう、起動させることがそのまま「レゥに会いに行く」ことにはつながらないゲームだったなんて(←よほど無念だったらしい)。


10/13(日)

 気を取り直して、『My Merry May』を再び最初から始める。
 オプションで実に多岐に渡る設定が出来るのに驚く。さっそく、台詞の文章と口パクおよび声との同期を外す。
 三位一体はやりすぎでしょ。発言の意味が、耳に入ってから時間を置いて徐々に理解されてくることがあるように、形と意味はセットでなくていい。それなら、意味を伝えるのに特化した文字情報は、他の二つからずれていたっておかしくない。そして、現実がそうであるように後ろへずらすだけでなく、前方へも動かすことが出来るなら、そうすることで意味だけを先回りで受け取ってしまい、形を後追いで観賞したっていいだろう。絵と声はあちらの世界のものだが、文字はこちらの世界のものなのだ。
 むしろそれがあるべき姿のはずだ、それによってゲームがテンポよく進むのだから。そうでなければならんのだ。ゲームの内と外とは、内どうし外どうしではあり得ないテレパシーでつながっている。そうだそうだそうに違いない。
 ……意味が先取りできない不安定感を楽しめるほど、気持ち(&時間)に余裕がないだけでした。それで後悔したりして?

 それにしても、親切なオプション群、丁寧な序盤の展開、しゃれたオープニング、ビジュアルメモリの遊び心。これがあのキッドだというのか。違和感がある。
 かつて体験し、ショックとともに雑多な形で封じ込めた、「痛い目に遭うキッド」という印象。『My Merry May』が、そのイメージの塊から剥離されていく。
 そしてさらに。かつて手ひどく痛めつけられたことによってその印象の中核をなすに至った『6インチまいだ〜りん』からもまた、ゲーム内容と設定とが分離し始める。悪いのはゲーム内容であって、そのコンセプトは気に入っていたのではなかったか? 知られないように保ち続ける二人だけの暮らし、というものは。
 さらにそこへ、かつて『ひざの上の同居人』で味わった「頭が子どもな女の子との同居生活」の追憶が押し寄せる。これはまた強烈な……

 主人公の部屋で一緒に暮らすことになった、年頃の女の子の容姿を持つ「人工生命体」レゥ。主人公はそのことを隠さなければならないし(なにせ彼は男子寮に住んでいるのだ)、レゥは(彼にとっては不本意なことに)分別がまるでなかった。
 この環境に、そしてレゥのこどもっぷりにくらくら来ます。ひらがなでしゃべるし繰り返すし無防備だし。ビジュアルメモリの指振りなぜなにレゥ(ゲームとまるで関係なく(!)プレイヤーに質問をぶつけ続ける)と合わせて、幸せをここに感じる。何と不覚にも、と、解体されきらないキッドへの怨念が漂う中で。
 このまま何も起こらなかったら、どんなにいいだろう(だからゲーム中断、ですか)。

 ところでレゥを起動させるときのPCを介した手続きって、5年後とかに見たら歴史を感じさせたりするんでしょうか。
 あと、そこからふと、確かに自分もついさっき、レゥ(を含むゲーム)を起動させたのだ、と思い当たりました。
 あー、えーと、余計なことは考えないようにしよう。


10/10(木)

 寝不足で荒み気味の気持ちが、なぜか「たまったゲームを片づけねば」という焦りを呼び、たまたま時間が出来た平日の夜に引っぱり出したのはドリームキャスト『My Merry May』。キャラデザやら設定やらにそこはかとなく漂う『6インチまいだ〜りん』らしさが不吉な、キッド謹製ギャルゲーです。
 買ったときは、まさかPS2移植版が出るとは思わなかった。滅び行くDCを看取る一員として手に入れておいたもので、だから遊ぶのはいつでもいいはずだった。もはや特別さを失ってしまったこのゲームは、さっさと片づけるべき対象へと変わる。
 だから遊ぶのか。そんな理屈でも必要か。

 立ち上げたはいいものの、操作系について事前に説明書にあたっておかなかったせいで、各ボタンに割り振られた機能に頭がついていかず、パッドを直視しながらあれこれ押しているうちに文章は読み飛ばすわ最初の選択肢ではどちらを選んだか分からないわ。バックログには選択肢の文章も出るといいのにと切実に思いました。
 さらに、いきなり登場した幼なじみがなんだかおばちゃん声だったことにも背中を押され、新たにゲームを始めるのにつきもののはずの高揚感(ゲームの中で盛り上がりを迎えるまでプレイヤーを支える推進力)とは無縁のまま、静かに電源オフ。
 こんなことで、果たしてこのゲームを遊び続けられるんだろうか。よく寝て疲れを取れば大丈夫かな?


10/7(月)

 昨日、久々に会った遠い親戚のおじさんが、こんな話をしていました。
 おじさんの息子が結婚することになったとき、両親同士の顔合わせの席で、そのおじさんは、息子の奥さんになる人を「養子にしたい」、と申し出たそうです。
 嫁に来るからには我が子のようにかわいがりたい、との思いがそこにはあり、加えて、遺産相続の際には息子だけでなくその奥さんにも権利が生まれるから、とのこと。
 それを聞いた相手方の親は二つ返事で引き受け、その日のうちに、自分の娘に
「明日からおまえはうちの子じゃないから」
と、追い立てるように嫁がせた、とか。

 自分が書くと、何だか新婦の父が冷たい人のように取られてしまう。そこは話し手の力が大きく与っていて、おじさんの申し出に心打たれた親御さんの気持ちが、その言葉のうちに冗談っぽさとして確かに込められているのを、話を聞いた自分はしかと受け取ったのでした。
 しかし、感銘を受けながらも自分は同時に、新しい夫婦の間に生じた状態、つまり
「好き合っている二人が兄妹(あるいは姉弟)として結婚する」
というあり方のほうにも衝撃を受けていたことを、告白しなければなりません。
 当事者にとまどいはなかったんだろうか。


10/4(金)

 おとといのあの力、一日経ったら出し方をあっさり忘れていて、腑抜けた日常に戻ってしまっていました。
 今振り返れば、あれは意志の力だったんではないだろうか。何とかしてやるぞと思ったときに、その思いを現実に及ぼすための。自分が求めてやまない意志、それがかりそめにも宿ってくれたのではなかったか。
 逃した魚は大きく感じます。

 そういえば『斑鳩』は、意志をテーマにしたゲームだった。それは、地中深くから掘り出されたという「石」の破壊を試みることで幕を閉じる。
 そんなことくらいしか思い浮かばない、腑抜けた日常であります。


10/2(水)

 今日は自分史上に残る発見をした。
 文章にしにくいけれど、という時点でそれはまだ発見されきっていないと言えるのだけれど、少なくとも断片をつかまえた。
 怒りというものの正体について。

 感情は自分の思うようにならないものとして現れる、というのはこれまでも分かっていた。今回、それに付け加えて、怒り方面に傾いた感情は、「何をしているかを自分で把握していて、たとえそれが下らないことだと気づいていても止められない」ように体の活動を促すのではないだろうか、と思い当たった。
 地団駄を踏む、歯がみする、怒鳴る手を出す悪態をつく。ああそんなことしても何にもならないなあと思いながら流されるままになっている、なぜなら俺は怒っているから。
 ちなみにこれが「何をしているか分からず、それでも体が動かずにはいられない」と、うろたえになるのですが。自分に最も良く現れる行動。多分このとき、自分はうろたえている。

 本式に怒りモードに入ってしまうと、行動は発散し暴走する。それをひとしきり終えると怒りも収まる。しかしこれでは何も残らず(せいぜい息切れするくらいで)、面白くない。
 もし、何をしているのかが認識できているのなら、行動が制御できる、熱くなってしまわない段階で出力先を一本化して、以後のお腹立ちパワーをそこに集中させることが出来るんじゃないだろうか。それはもはや怒りの形を取っては見えないだろうけれど、体内に宿る力の源は同じもの。
 つまり、怒りの元を活力として、行動に反映させてみよう、という試みです。

 さしあたり、自分に向けられる怒りを一つ灯して、それを持続させながら半日行動してみました。
 時間があっという間に経っていき、眠くもならずいろいろ動けたので、効果があったのではないかと思います。
 用いているのが怒りの原型であるため、行動中あまり愉快ではないのが気になるところですが、終わってから振り返れば満足できるはずなので、それは我慢します。
 やらなければならないが始めるきっかけのハードルが高いとき、気が進まないときに、おそらくより有効。また使ってみよう。やり方を忘れていなければいいのだけれど(毎日やってみなければ忘れてしまうか? でも結構ばてるんだよなあ)。

 ところで、おとといは『メタルガン・スリンガー』についてケチをつけるばかりになってしまいましたが、別に評論家じゃなし、減点法など取らず、面白いと思ったところを優先したほうがいいと反省しました。
 ただ、あのゲームを擁護してみようと思ったものの、それって自分がアクションゲームに飢えているだけと違うん? てな結末を迎えそうな気がしてならなかったので、結局あきらめ。そういうときは、それ以上何も口にしないのが良さそうです(けなしかたが遠回しに)。

 というか『斑鳩』のランクにS+なんてあったのか! Sが頂点かと思っていたのに。初めて知りました(←早くイージー1面を卒業しろ。あと話にまとまりなさすぎ。最後まで集中しなさい)。



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