ゲーム+α日記(2002年12月)

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12/30(月)

 昨日の段階で『スイートレガシー』をクリアできなかったので、プレイ再開までしばらく間を置かなければならない。年末年始は帰省します。
 こうなることは見えていたけれど名残惜しい。かといって、実家にPS2を持ち帰るのはばかばかしいし、ソフトがこれでは大問題だ。諦めて年始の再開を待とう。
 更新も年内はこれでおしまいです。よいお年を。


12/29(日)

 うーむ、考え直してみたけど、彩香は衛くんのことを男だからどうとか、最後まで全然気にしていなかったみたいだ。気にしていたのは自分だけ。
 一緒にいたいとか、大事な人だとか、キスだとか、別にそこに相手が男かどうかは絡んでこない。と、そういう結論に至るまでに、けっこう時間がかかりました。
 彩香シナリオでは、男か女かは、女学校に在籍するための条件でしかない。あくまで衛くんは衛くんとして扱われる。そうでなかったら彩香さん、衛くんと一緒にお風呂に入ったりしません。
 そういうイベントがあるのです。その辺を彼女が気にしない理由を、立場を使い分けずに一人芝居的に物語が作られたからだと解釈することもできるだろうけれど、それじゃ興が醒める。あくまで彼女の考え方がそうであったから。そう捉えていきたい。
 だから、衛くんはラストのキスシーンで、いつもつけているカツラを外して男に戻ったりはしない。そんなこと、目の前にいるのが衛くんであることに比べたら、彩香にとっちゃ取るに足らないことなのだ。訂正訂正。

 そういう受け取り方は、否応なく男女の別が露わになってしまうようなアダルトシーンがあったら成り立たなくなる。その意味で、『スイートレガシー』は移植によってひとついい方向に進んだと考えられる。
 これは、パティシエ専門学校を舞台に繰り広げられる、コミカルな『トーマの心臓』である。といったらものすごく褒め過ぎだと思いますが。いや、ちょっと前に読んだので出してみただけです。

 衛くんのその立場は、ブルマ姿の修行者・桃子のシナリオでも同じ。それにしても文字にしてみると滅茶苦茶な設定だ。
 ただこのシナリオは、あまりにも無茶すぎた設定を扱いかねた様子。それでもエピローグとそこでのイベント絵には、本ルートの価値が詰まっている。衛くん、体操着+ブルマ(見えてないけど話の流れから間違いない)で相変わらず女の子姿、そしてそれが「僕の望む姿」だというのです。

 ところでこのゲームにはパティシエファイトなるお菓子作りの試合があって、そこでは『ミスター味っ子』ばりの味に関するウンチクが垂れ流しになります。それを読んでいてうらやましくなってきていたところだったので、今日はシュークリームを買ってきて、食べながら遊んでみました。皮の固めなパイシューというやつです。
 うん、普段食べないけどなかなかおいしい。でもゲームに出てくるシュークリームは、クリームが生地で覆われていない、見た目で言えばハンバーガータイプなのだった。高級になってくるとそっちの方が定番になってくるのだろうか。
 さて、さくさく進めようと次は年端の行かぬ双子・みつき&むつきシナリオへ。しかし、この幼女双生児というキャラクター造形はやっぱり『はじめてのおるすばん』(
ZERO)から受け継がれているのだろうか。いやな潮流ができてしまったものだなー。
 などと警戒感を強めつつスタート。
 しかし。
 これはシュークリーム食べてわき見してる場合じゃありませんでした。
 以下、若干ネタバレを含みます。

 まず、このシナリオでは衛くんの性別が重要視されます。それが、このゲームの基本設定である「女の子でいなければならない」からもう一ひねりしてあって、この双子にとって、衛くんは男でなければならないのです。なぜなら、二人にはお兄ちゃんが必要で、お兄ちゃんは男だからです。
 しかし衛くんは外見がかわいいので、言葉だけでは二人を納得させることができません。さあ、どうする?
 『はじるす』もこれくらいの展開を見せてくれたら納得できたのにと思わせる、エロゲー方向に全力疾走する話の流れであります(いや、あれをコンプリートしていないので、もしかしたらそういうイベントがあったのかも知れないけれど)。幸いこれはコンシューマなので、えげつなくならない解決策が用意されています。衛くん、彼女の手を取って導くけどな!
 で、二人の望みがそういうことなら混浴だって問題なし(三人にとって)。こんなイベント絵がお茶の間のテレビに映し出されていいんだろうか。『はじるす』的な興味に応えて、よく頑張っています。驚き。

 そして、プレイヤーのそっち方面の期待に応えるばかりでは終わっていないのでした。
 二人に独自の役が割り振られ、どっちも主役になっている。他のキャラクターも脇役として登場、全員が余すことなく機能している。
 パティシエファイトの笑いをスパイスに、二人の、そして衛くんの思いが重なり合い、大いに盛り上がるシナリオ。そしてついに、衛くんは二人のお兄ちゃんになる。お兄ちゃんであるとはこういうことなのだと思わされます。パティシエファイトの審査員にならって、自分も叫ぼう。お兄ちゃん、かっこいいぞ!
 さらにエピローグでの収束もすばらしい。泣かせます。まさかこのゲームで感動するとは思ってもみなかった。
 それこそ、用意された食材を持ち味を殺すことなく使い切り、一つの作品として完成させた、一流の仕事であります。
 自分の選択は間違いじゃなかった。これを買った二日前の自分を褒めてやりたい気持ちでいっぱいです。

 具体的にどこがどんなふうに良かったのかは、後でゆっくり考えよう。今はこれで精一杯。
 もう、もっと進めるつもりだったのに、お腹いっぱいで今日はもう遊べないや(シュークリームのせいではなく)。


12/28(土)

 『スイートレガシー』ってエロゲーからの移植ものだったのか! パッケージの分かっちゃいない紹介文、
「かわいい彼女をゲットしよう」
は、そこから来ていたのかもしれない。

 女の子でいることがかわいい女の子たちと仲良くしていられる条件だというのなら、主人公には女の子でいてほしい。その考え方は、近くにいられる特権を捨てられない幼なじみの葛藤に似ている。
 ましてや、主人公・衛(まもる)くんの願いはパティシエになることで、同輩や先輩と一緒での料理なんていうイベントも、まず第一に己の腕前を高めるためにある。
 料理と性別、二種類の橋を架けた先に、衛くんと相対する女の子たちがいる。二人の間にはどちらかの道がある。そういう大義名分があればこそ、安心してお近づきになっていられるというもの。衛くんには悪いけど、彼は女の子になり続けていなければならない。ゲームが終わるために正体が明らかになるそのときまで。
 エンディングで二人の間には別の橋が渡されているかも知れないけれど、その意図は、ゲームスタート時の彼にはなかった。

 最初から男の子として彼女を欲しがるような、パッケージにあるような意識の衛くんであってはだめですよ。彼女を作りに女子校に入ったわけじゃないんだから。
 話の途中では、あくまで結果的に、行きがかり上やむを得ずみんなとふれあう。そんな受け身な主人公像が求められています。自分に。

 そういっておいていきなりの例外、彼の正体を知っているメインヒロイン、押しの強い世話係・彩香シナリオ。
 彼女が主人公の性別について最終盤まで気にも留めないのはまったくありがたい。そのことに関心が行かないほど、彼女の自意識や抱える悩みが強いのだとも言えます。衛くんのことなんか見ちゃいない。
 恋人、なんて口にしたのも言葉遊びでしかなくて、その時は、後からその意味にのしかかられて痛い目を見るなんて知る由もなかった。勝ち気な子の話は好きです。
 一旦表舞台から下ろされるなど、ゲームに振り回される後半での彼女の役回りは気の毒としか言いようがないけれど、きちんとお菓子で締めたラストはきれいだったと思います。
 ところでエンディング直前のキスシーン、絵だけ見れば完全に女の子どうしなのだけれど、見ていて妙に和んでいる自分に気づきました。一方が男の子と承知の上とはいえ、自分の何か新しい面がこのゲームで開発されたのではないかと恐れています。

 一人あたりのボリュームが小さいのでどんどん進む。音声をところどころスキップして2時間あまりでエンディング、これはテンポがいい。
 だから続いてうち解けないめがねっこ・蜜柑シナリオも余裕でクリアできました。こっちは後半からの登場なのでさらにプレイ時間が短い。って、この子も一人称が「ぼく」なのか。衛くんとかぶっているじゃないか。それとも、そういう女の子が多い世界だから彼も怪しまれずに済んでいるんだろうか。
 彩香以外の子は衛くんが女だと信じているので、暴露地点に向けてどう話を盛り上げるかが大きなポイントになるかと思いますが、このシナリオではその点で助走が足りないと感じました。あと、思いだけがそのままケーキの味に反映する展開は残念。逆に、そこが彩香シナリオのいいところでもあったのですが。


12/27(金)

 これはいけない。こんなロリ絵なパッケージはないだろう。これを店に置いといては情操教育によろしくない。隔離されなければならない。だれも手を出さないなら私が。

 12月26日はPS2ギャルゲー市場の激戦日と目されていましたが、最終的に『My Merry May』(ってあれ? 続編?)と『君が望む永遠』が撤退したので競争はやや緩和されたもよう。発売日はこのように調整されるべきです。こういうジャンルに旬なんてないんだから。
 売上げバトルはたぶん『みずいろ』『萌えよ剣』の一騎討ちになるんだろうなーと思いつつ、前者はもう遊んだし、後者のあの文字通り色褪せた絵で雑誌広告を押し通した男気に気圧された自分は、穴党感覚で『スイートレガシー』を選びました。今日はリンク貼りまくり。

 お菓子職人を目指して専門学校にわざわざ編入した主人公を待ちかまえていたのは、そこが女子校だという事実であった。
 ここで「お菓子職人」のほうに力点を置くなら主人公は女であるべきですが、ギャルゲーだったら当然とばかりに主人公は男。だからこそ、上述の設定にも深い味わいが出てきます。
 そして、入学を許可されたかわりに女装でいることになる主人公。
 最高です。これだけで割と元を取った気分に(買わなくて済んでるじゃんか)。最近の自分を覆っていたダウナーな雰囲気が一気に吹き飛んだ。盛り上がってまいりましたよ!

 しっかり似合った女の子姿で日常生活を営む主人公、でも本当は男の子なので一人称の「僕」が直りません。
 気をつけているうちにそれはいつしか「ボク」へ。
 あーなるほど、いわゆる「ボク女子」への理由付けが全ての発端なのかも知れないぞ、この設定は。でもそんなこと考えるとちょっと破天荒さが薄れてきて、楽しむ邪魔になるかもしれません。


12/24(火)

 怒ってるかって? 私が怒っているかどうかをお尋ねですか。それはどういう意味でしょうか。
 あなたが怒っているときの感情と同じものを私も抱いているかどうかを知りたいのですか。

 私がいま怒っているのか、正確にはそれが一般的に怒っていると呼ばれる状態にあるのか、私には分かりません。
 ただ、「怒っているかどうかについて」などということを問い返そうという気持ちには、普段はあまりなりません。今はそうなっています。今のこの状態は、普段はないエネルギーによって引き起こされたと思われます。そのエネルギーのことを「怒り」と名付けてもいいかも知れません。
 一つの対象に集中して何らかの行動を起こそうとしている・あるいは既に起こしている、普段は現れない得体の知れないエネルギーのことを、私の「怒り」と定義しましょうか。それならば、まず「私は、私の定義によって『怒って』いる」と言うことができます。
 問題は、それがあなたの言う、あなたの定義した「怒り」と一致しているかどうかにあるのでしょうか。もし私が判断すべきとお考えなら、あなたの言う「怒り」を教えてもらえませんか。あるいは、私が今述べた内容を手がかりに、あなたの中で両者を照合して確認を取ってもらえませんか。私が判断しなくても、あなたの目的にはそれで十分のように思えます。

 そう、そもそもそんなことを私に尋ねないで下さい。怒っているかどうかは、その表情やしぐさや発言から読みとるもので、だからいつだって他人のもののはずです。自分が怒っているかどうかを本人が知ることなんて、できないのではないですか。
 あるいは、一般的な「自身の怒り」についての定義が存在するのでしょうか。それは今しがたの、私が定義した「自身の怒り」と同じですか。もし違うのなら、ぜひそれを教えて下さい。それと自分の今の気持ちを比較して、あなたの問いに答えたいと思います。

 そんな現実でのひとこま(自分の心の中の)。これだけ言えるなら立派なもんだがのう。
 あと、話がだいぶ逸れますが、熱心に仕事をしている人の表情がいつも怒ったようであるなら、その人はきっとこのように「自身で怒り」続けているんじゃないかと思いました。
 豊富な資源を持っていてそれを生かせば、仕事もはかどるだろう。自分は日記更新方面なんかに使ってしまうけれど。


12/21(土)

 『Ever17』が終わって、これから新たに別のゲームに取り組んだとして、今年中にそれをクリアできるかどうか微妙だ、中途半端に年を越すくらいなら、いっそ終わらないゲームを遊んだ方がいいのかも……とか思いながら『ダビスタアドバンス』に浸る。
 そしてその合間には、明日の有馬記念日の出走メンバー表を眺めたりして、まったくこの週末は馬漬けになりそうです。

 そういえば中山大障害を見に行ったことがあり、遠い昔のことのように感じられてもそれはたった一年前のことでした。そのときは兄弟ワンツーフィニッシュなんて小説より奇なる事実に出くわして興奮したものです。
 そんなふうに、儲けやら配当やらに目をつぶって、ただしあまり実際から離れない範囲で、勝手なストーリーを見つけてささやかに盛り上がることによって、そしてそれによってのみ、自分はリアル競馬と幸せにつながり続けていられるんじゃないかと思います。
 それが『ダビスタ』で競馬を覚えた自分のあり方で、でもそれだと馬券の売上げにつながらないから、主催者側にしてみれば期待される受け手像ではないのだろう。

 例えば、有馬記念に出走するナリタトップロードが、その直後のレースに二つ下の妹フローラルグリーンの出る(事実はここまで)のを知って、勇姿を見せる最後の機会とばかりに頑張りを見せる。それを見た妹が、偉業を祝うためにダート1200mを誰よりも早くかっとんで兄の消えたゴールに突撃する。
「おにーちゃーん!」
 でも彼女は決して追いつけなかった。偉大な兄を追いかけるうちにうっかり追い越してしまった弟がいて、一方では追えども追えどもレースの壁を越えられない兄妹がいる。

 いや、無理があるのは途中から自覚していたのですが(途中からなのか)。
 あるいは、口うるさい妹から遠く離れたい一心で逃走本能を出し切る兄、という見立てのほうが(←もういい)


12/17(火)

 『Ever17』についてまとめてみたいと思っているのだけれど、いざやってみようとすると、どうにも形が作れない。通りいっぺんの全体像は描けるものの、嘘っぽくて実感が伴わない。
 これが萌えに重点を置いたゲームで、特に萌えパートに注目して表すなら、振り返って総括するよりも、その場ごとの思いを積み重ねていくほうが適している(ただし、本人が萌え〜と口にすると、それは振り返っての評価として完結してしまう。いうなれば萌えと言わずに萌える、あるいは周りから見て萌えだと思われる形で当人は何も構えずに接していきたい。って、それが「その場ごとの思いを積み重ねていく」ことなのだけれども)。無理にまとめる必要はないし、まとめようとすると肝心の思いが失われてしまう。それに対して、萌えから遠いところに魅力が詰まっている『Ever17』は、一くくりにするのに好適なゲームではないかと思う。それなのに。
 設定やシナリオへの学問的な理解が深まっていないからうかつに手を出せない、という面はあるにしても、それは一面でしかない。分からなければ分からなりのまとめ方があるし(重要だと思えないなら無視すればいい)、本当に分からないことならそもそも気にすることもできないはずだ。

 おそらく問題は、ゲーム終盤に姿を現す隠れキャラクターの立ち位置を、自分が把握し切れていないことにあるのだろう。
 プレイヤーにどれくらい近いのか、重なっているのか、シナリオ中のどの辺ではどのくらいの距離があったのか。それがはっきりしていない。
 少なくともラストでは両者は離れている、それははっきりしている(なにせ彼はゲームの中に出てきているのだ)。ではどのあたりで溝が生まれたのか。彼が初登場したときと割り切っていいのか。
 一方、「はっきりしている」なんて溝を過剰に言い立てる様子が意固地であるとも感じる。そのあたりを意識せず、閉じた物語として扱うこともできる。ただ、その方法でもわだかまりが残る。それだと、ゲームの最初からプレイヤーと彼が分離したものとして扱っていることになるからだ。実はバリバリに意識していたことになる。それが正しいのかも知れないけれど、どうも腑に落ちない。

 そこが分からないうちは、ゲームを俯瞰する位置に立っていられていないということで、だからまとめようとしても漠然としていて手応えがないのだろう。ちょうど、ゲーム世界の内で萌えのまっただ中にあるときに全体を回顧しようなんて思えないように。
 なかなか厄介なゲームです。


12/14(土)

 半年も経てば自分でも意味を覚えていられなくなるようなネタはやめた方がいいと思いました(←12/11の日記をちょっと後悔している模様)。

 『ダビスタ』は終わらないゲームなので、いくら時間を割いても終わらない。用意しただけの時間がそっくり費される。
 そういうゲームを遊ぶためにあんまり気張って時間をやりくりするのはよした方がいいんじゃないかと、かつてないほど強く思うようになってきている。
 いや、『ダビスタ』相手だから「かつてない」だけなのだけれど。『俺の屍を越えてゆけ』に接したときの
恐れは、まだしっかりと覚えている。あれと同質の感覚だ。
 記憶が薄れさえしなければ、用意できるだけの時間で、身の丈にあった遊び方ができるのに。ゲーム内の馬たちは、たとえ遊ばれなくても時間が止まったままで、勝手に死んだりはしないのだから。
 メモがやはり必要なのだろうか。記憶のバックアップだけは、カセットの中の電池だって保証してくれない。

 一応手元に血統などの情報を置いておこうと、攻略本『今日から始めるダービースタリオンアドバンス』(サラブレ編集部・編、エンターブレイン刊)を買ってみたけれど、内輪感あふれる内容に驚きました。
 担当者の個人名が押し出されまくりなのもさることながら、複数のスタッフが互いを呼び合う様子が馴れ馴れしくて、読者の視線を弾き返す。彼らがどれだけ親しいか・すごいかなんてどうでもいいから、抽出された情報を下さい。
 そして、表紙に徹底攻略と謳っていながら、そのような情報は載っていないのだった。ゲームと同時発売だからスケジュール的に無理っていうなら、そんなことは謳い文句にしなければいいのに。表題の「今日から始める」は、スタッフが本作の攻略にかけるべきものでもあったようです。

 ところで『プリズマティカリゼーション』廉価版がついに発売になってしまいました。この目で見るまでは信じないことにしていたのに、直前になってファミ通の新作スケジュールにも滑り込み、無事リリースを果たしたのを店頭でも確認。
 以前の文章にちょこっと書き足してその場しのぎとしよう。ああ。なんということだ。


12/11(水)

 電源オンオフを繰り返したりGD-ROMを何度かセットし直したりと虚しい努力を続けるうち、なんの弾みか立ち上がったので、これが最後の機会と思って『ダビスタアドバンス』の手を休め、『Ever17』ココ編再読&残りのエピローグ(ほんのおまけ程度だったけれど)回収に成功。
 現時点でこれ以上読み返しても理解は進むまいと思えるところまで読んでから、スイッチを切る。ドリームキャスト沈黙。渦巻き模様をトレードマークにした量産ゲーム機の寿命(Lifetime of the Manufactured Uzumaki)は、とっくに限界を迎えていた。よく持ちこたえたものだ。

 いくつか謎が残る。でもそのうち、自分が納得できる解釈が組めるかもしれない。時が解決してくれるかもしれない。

 時間が経てば、過去を振り返ることができる。振り返ることで、全てを一望のもとに見渡せるようになる。過去にあったできごとは、経験していないことでも情報として手に入れ、既知のものとできるようになる。
 そのように全てを知っている様子は、自分が設定を整え、全ての初期条件が明らかなある環境において、今後起こりうることを予想できる状態と比べられる。過去と未来の違いは、過去において起こった事実の「それが起こったこと」の確かさと同じ強さで、未来において起こるできごとの「それが起こること」を信じられる立場に対しては、意味を持たなくなるだろう。それでも、たとえ意味を持たなくても、時間の違いは厳然としてある。
 以上のような戦略によって自分のいる世界を越えたものを自分のレベルまで引きずり込むという形を取りながら、しかしそれは一方で、自らが世界を越えた存在に成り上がってそこにいるものと対決していることでもある。『Ever17』は、そんな一人の女性の孤独な物語だったようにも思えます。

 もし、ココ編のラスト二日に地の文が全く現れず、絵と他者の台詞だけで進んでいったとしたらどうだっただろうか。それはまるで訳の分からない混乱やめまぐるしさによってせっかくの設定の美しさを台なしにして、その損失と引き替えに、シナリオの本筋からやや外れたところで強烈なショックをプレイヤーに与えられたかも知れない。
 ただ、想像するほどにその賭けはリスキーで、ほとんど勝つ見込みがないように思えてきます。『Ever17』の取った道は正しかったのでしょう(別の『Ever17』があるわけではないから、「正しかった」としか言えないのですが)。


12/8(日)

 まだピンと来ていないシーンも多いので、取り逃したエンディングを一つ回収しつつ『Ever17』を回想しようと思ったら、またも発作に見舞われた模様。さっぱり起動しません。
 もうちょっと頑張ってくれ! そしたらじっくり放牧休養させてやれるのに。

 と、激務を離れてのんびり骨休めするドリームキャスト号がイメージされるくらい、『ダービースタリオンアドバンス』に漬かりっぱなしの週末。
 携帯機でダビスタが遊べてしまう日が、ついに来てしまったのだなあ。これは恐ろしいことです。終わりがない上に場所を選ばない、こういう始末の悪いゲームが出てしまったら、他のゲームがさらに売れなくなりませんか?(半分本気)
 今回のGBA版はさらにゲーム進行の加速化が図られていて、画面の切り替わりのレスポンスが素早いし調教の様子がスキップできるしと、わき見している暇もありません。ボタンの機能を覚えたら、アクションゲームのように連続的に操作して、快適にレースまでまっしぐら。
 レース場面だけは飛ばせず、また結構な時間をかけて行われるので、息をつくならこのときに。それでも、このレース場面がなかなか良くできており、特に新潟直線1000mの一部始終が見ていて面白いのは予想外の収穫でした。
 まずいな、楽しすぎる。


12/6(金)

 どんな盛り上がりを見せていても僅かな隙をついてゲームを中断し、規則正しく明日の生活に備える心がけは崩さない習慣を作り上げていたつもりだったのに、今回は例外だった。
 「とりあえず終わらしとく?」くらいの軽い気持ちで再開した『Ever17』ココ編、翌日の寝不足が約束されながらのクリア。
 あまりにも壮大な「非減数分裂」の企てっぷりに、まずは最敬礼であります。

 このゲームの遊び方を間違えたなと思う。自分は『Ever17』を、他のギャルゲーに対してしてきたのと同じように遊んできた。毎日少しずつ進め、一つのエンディングを終えたら一旦休憩し、と長いスパンをかけて。
 そのように長く時間をかけるうちに、通常は更新の種になる何らかの思いが生まれてくる。それはストーリーに沿っている必要はなくて、自分の中だけで勝手に完結する。そういった遊び方は楽しかったけれど、いつしかそんな遊び方しかできなくなっていたのかも知れない。
 『Ever17』は、たとえば、結局は全くの的はずれであった、記憶喪失の主人公の名前についての自分の想像などを受け入れる余地はない。ゲーム内の事実と、事実かどうかは置いといて「もしかしたら説明書に前もって書いてあったのかも?」てなことを思ったこと自体とを秤に掛けたなら、バランスは比べものにならないほど大きく前者に傾く。全体を貫く構想の前では、他のものは霞んでしまう。
 このゲームは、流れに乗って一気に遊び抜くべきだったのだろう。そして、まとまりの強さに感じ入り、各シナリオの記憶が新しいうちに伏線を思い浮かべて検証などしてみる、そういう取り組み方が良かったのではないかと、今にして思う。
 そうすれば、何を言ってもネタバレにしかなれそうもないゲーム内容について過剰に触れずに、短期間でゲームから離れることができただろう。その方がよっぽどスマートだ。

 どっしりした楽しみ方の柱があって、それ以外の遊び方の枝葉度(?)が高くなるものを「本格的」と呼ぶのだとすれば、『Ever17』はものすごく本格的なゲームだ。
 これがクリアできるなら、チュンソフトのサウンドノベルだろうが神宮寺三郎だろうが余裕でついていけると思える。当分お腹いっぱいだけど(←ついていけそうにないじゃんか。あと遊んだことのないゲームをイメージで語るのはやめなさい)。

 ゲームの側からプレイヤーにちょっかいを出そうとする試みについて。
 真に隠された黒幕が登場する場面を迎えて、ああ自分は相互の干渉といっても双方向ではなくて一方通行の重ね合わせを喜ぶんだな、と改めて感じた。
 呼びかけよりも祈りを、応答よりも影響を、遡行よりも循環を。互いにあさっての方を向きつつ、その思いは実は届いている(どっちがあさってかなんて分かりゃしないのだけれど)、そういうあり方に惹かれます。
 ストーリーはプレイヤーの全体像ではなく断面を追い、さらにそれをゲーム内向けに仕立て直すように進んでいくため、遊んでいて始終喜び続けというわけにはいきませんでしたが、自分のそういう気持ちに沿っていると感じられたシーンを何度か目撃できたのだから、そんな試みのあるこのゲームのことを、それらのシーンをもって好きになってもいい、と思うのです。


12/3(火)

 ここまででも、もう伏線は『水月』(F&C・FC01)なみには回収されてるんでは? と思いつつ、『Ever17』ぶっとび少女・ココ編へ。
 うわー、この可能性に思い至れない俺もバカだよなあ、といった展開に。なるほど、主人公が二人なのはこういうわけだったのか。
 もっともここでゲームを中断し、これまでに見ていたイベント絵などをアルバムモードで確認する、などは野暮というもの。気づかないことに気づくということは、その一点で世界は異なっているということで、異なった世界のものは異なって見えるのが当然と言えば言えるから。今改めて見返したその画像が、以前に見たものと同じだと、どうして断言できるだろう?(訳:そんなふうに自分は野暮です)


12/1(日)

 やっと時間が取れた〜。
 ということで
『Ever17』、まずは空ルートクリア。
 主人公と空がガラス越しに手のひらを合わせるシーンがありまして、これがたいへんに美しい。遮るものがあってこそ相手の存在を実感できるという構図が、たまらなく好きでした。
 続いて、とりつく島のない不愛想者・つぐみ編。
 あらまあ。こりゃ彼女の話を最初に読んでおけばよかった。彼女の事情を知っているといないとでは、ゲームを進める駆動力が段違いだったろうに。

 さて、残すは一人。
 しかし、事前に想定した本体の稼働期限が、もはや尽きようとしています……!
 なんか大丈夫そう。どうしようか。予測に幅を持たせて、17±7日にしてみてはどうだろう(←広すぎ)。まあそれでも間に合わなかったら通算プレイ時間119時間とかにすれば(いいからさっさと続きを遊べ)



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