ゲーム+α日記(2003年2月)

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2/28(金)

 今日で区切りを、の決意が実り、ついに『ゼルダ』クリア。やー何とか2月中に収まった。ラスボスを倒したのは28日の25時くらいだったかな(全然問題なしと思えているところがいやだ)。
 そんなの覚えてないよ、だったラスボスの倒し方といい、このゲームをよく自力で最後まで解けたものだと、自分を褒めてやりたい。まだちゃんとゲームできるんだと、自信がついたような。
 しかし、このストーリーの進め方には全力で異議を申し立てたい気持ち。前半・後半それぞれで唐突に現れるあの救済者たちはいったい何なのだ。かゆいところに手が届くカメラワークが、ここではドッキリまでも大演出、かと思わせる展開でありました。ホントにこれでいいの?

 自分を『ゼルダ』に向かわせたのは、正月に遊んだ『伝説のスタフィー』とそれについてのまとめだったのではないかと、今になって思う。あのゲームが持っていると想像した別のアクションゲームに向かわせる力が他ならぬ自分に働くとは、想定外だった。
 結局、自分に関する事柄からしか始めることができなくて、つまりゲームとは自分にとってのゲームでしかなくて、だからゲームについての文章は、自分が思ってしまったことがどれだけ他の人にも分かってもらえるか、という姿勢で書かれるべきものなんだろう。ゲームを主観から切り離して語ることなんてできやしないし、それを求める限り、そこにあるゲームそのものには絶対に勝てない。逆に、データベース的なものを除く、ゲームについてのあらゆる文章が、それを書いたその人の考えを反映したものになっているはずだ。それを意識しようと、しまいと。
 だから、別々の二つのゲームが、遊んだ人を通じてつながり、あたかも関連を持っているかのように働くのだって、その人にとってはちっとも不思議じゃない。それが他の人にとっても不思議じゃない、とまで行かなくても、不自然ではないかも知れないと感じられるように、思いを表すことができたらいいと思います。
 問題なのは、自分では客観だと、常識だと思っているのに周りにはそうじゃなかったとき。書く段階で予測する(できる)ものじゃないし、読む方にしてみればそれが面白いところでもあるのですが、その「面白い」が、得てして「笑わせた」じゃなくて「笑われた」的な面白さになるのはいいのか悪いのか。
 そういうものだと覚悟する限り、それでもよさそうな気はするのですが。

 ところでクリア後のメッセージによれば2周目があるようなのですが、もう十分、お腹いっぱい。
 あの大々的な予約キャンペーン(ゲームキューブ版を予約すると64版のマップ変更&キューブ移植バージョンである裏『ゼルダ』がもらえる、という企画)につられなかったのも、一本遊ぶのに精一杯なのが目に見えていたからです。
 そもそも表も解いていないのに裏は遊ぶまい。それに、もう一つの64版、『ムジュラの仮面』も残っている。
 遊びたいときに違うゲームまで手に入ると興味が拡散するので、良くないと思います。必要なときに、必要なだけ手元に置くのが一番いい。
 未プレイのゲームを山積みしている自分が言っても説得力のかけらもありませんが。さーて次は何にしようかな。禁欲の反動が出るんじゃないかな〜(←馬脚を現した)


2/26(水)

 ちょいちょい、と。さすがに全く同じ手は二度と食わないってもんです(少しだけ違う手はやすやすと食らう口)。
 てな感じで、どこか『グラディウス』シリーズ的な盛り上げ方のラストダンジョン(だよな?)も佳境。『ゼルダ』は今月中にめでたくクリアできる……のか? 週末まで2月だったら間違いないんだが(←この期に及んで自信ないらしい)。

 ところで、このゲームの主役がカメラであることに、先頃ようやく思い当たりました。こいつはただの重要じゃない、最重要な役回りであります。さすがに、「リンクの仕草が謎解きの手がかりになりうる」というシステムを活用したら、いくら鈍い自分でも、そりゃどうかしていると思います。気になっても視線を飛ばすのが精一杯で身動きは取れない哀れなリンク。
 それまで気づかないのだから、まったく遅すぎ。『Ever17』を思い浮かべていたんだから、その理由なんかすぐに分かってよさそうなものだ。応用力のなさにはほとほと呆れます。
 リンクは初めから世界の一員。プロローグにもあったけれど、彼は勇者様ですらなかった。以前心配していたのは、世界の外からやってきた自分までもが、考えることをやめ、あのゲームの中でのんべんだらりと日々を過ごすようになってしまうことだったのだ。
 だから
これは間違い。まあ、自分のピンチにあわてていた様子が見えるからいいのかも知れない。


2/24(月)

 おっかしいな、どうしても一つ足りない。
 世界各地に散らばる重要なアイテム、計8つのうち7つまでは揃えた。あと一つも、目印のついた地図を持っているから、場所の見当はつく。
 ただ、その印に従うなら、目指すものはあるエリア内の海のどこかに沈んでいるように思える。より正確には、かつて自分がそれと知らずに海に沈め、場所を確認せずにそのまま放置したのではないかと思える(←全然違います)。
 それ以上範囲を狭めることはもうできない。一区画とはいえドブさらいには広すぎる。というか、そんなことってあるのだろうか。それを取らない限り、沈めたものは何度だって復活するのが、間抜けなプレイヤーに任天堂が施す手厚いサポートというやつではないのだろうか。
 ありえない。しかしそうとしか考えられない。
 ……

 悶々と悩んだ末、「そうとしか考えられない」うちは遊ぶのをやめることにした。
 一日置けば考えも変わる。実際変わった。他にできることを全て試してみようという方角に。
 そして解決。例の地図とは別の場所に、探しものは眠っていた。

 やっと! やっとクリアできそうな気がしてきた!
 しかしあの地図の謎は謎のまま。いや待てよ、地図をもらうとき、一ヶ所は特定できなかったというようなことを聞かされた覚えが。
 しかし、よく覚えていないけれど、確かあのメッセージで特定できなかったと言っていたのは、所在ではなく座標だったんじゃなかったろうか。座標不確定なひとつはすでに取得済みだから、あの話はこの問題のヒントにはならない。
 それにそもそも、自分がそんな貴重なものを沈めたまま取り逃がすはずがないと思えてきた(記憶が現状に適合するよう改変される例)……
 まあ解決したからいいか。先へ進もう。いよいよクライマックスだ。

 そんな感じの『ゼルダ』な一こま。素のゲーム日記になりました。
 こういうのって、遊んでいる間ずっと楽しんでいるわけではない(苦しんでいることも多い)にもかかわらず、後から振り返れば楽しかったことしか思い出せない(苦しんだことさえいつの間にか楽しさに変わっている)ものなんだろう。
 そのためには、あの地図の謎は解けなければならないのだけれど(おおかた何かをど忘れしているだけ)。


2/22(土)

 一時の不調から立ち直り、『ゼルダ』は着実に進められている。ゲームが進んでいる、クリアへの道を歩いていると実感できるのは幸せなことなんだろう。
 いや、『ゼルダ』がそう感じさせるゲームだということか。ナビ役の龍の船は、せき立てるように目標を示してくる。でも、それを達成するためには大回りもしなければならない。船はそれを結果的に認めはしても、内心ではもっと早く、一刻も早く達成してもらいたいと思っているんだろう。そう思うと、シナリオが進まない寄り道なんかに時間をかけている場合じゃないように思えて落ち着かなくなる。

 ところで、『ゼルダ』のような3D視点のゲームにおけるカメラワークの重要性については承知しているつもりでいましたが、主人公を快適に操作できるように、という以外の用例に頻繁に出くわすこのゲームで、これまで知っていると思っていたことが想像でしかなかったことを思い知らされました。そりゃそうだ、このタイプのゲームをほとんど遊んでいなかったのだから、知っているわけがない。
 たとえば、主人公を動かさずにしながら相手の動きを知りたいときがある。主人公自身が動けないから、主人公の視点の範囲には限度がある。そんなときは、主人公の近くから目線を外し、カメラを引いて相手を画面に映せばいい。主人公の目が届かないところをプレイヤーが気づくようにカメラを回せるようになっていて、しかもクリアのためにそれがほぼ必須であるようなイベントが、ときどきあります。
 また逆に、完全に主人公の視点でものが見えるようにカメラを設置することもできます。このときは、主人公の位置にプレイヤーの視点が「たまたま」いることになります。
 主人公とプレイヤーの違いを、これら一連のカメラワークが雄弁に物語ります。こうもはっきりと分かりやすくやられると胸がすく思い。確かに、情報が必要なのは主人公じゃなくてプレイヤーだものなあ。
 激しく今さらな感想ですが、やっぱり観念上のものが実用化しているのを目の当たりにすると嬉しいので、今さらに喜んでいます。


2/19(水)

 大変です、リンクが情報の海におぼれかけています。
 全ての情報が等価に感じられ、どれを優先してよいか判断できなくなっているため、目についたものから手当たり次第に取り組み、期待と報酬のギャップにとまどっているようです。
 このままでは、やがてリンクは見返りを求めて行動しなくなり、あてどなくさまよい歩くだけになってしまいます。勝ち負けの判定を必要としない、世界の一住人になってしまいます。
 目的達成のために、力を貸してください。あなたが持っている情報を整理し、最も重要だと思われるものを選び出してください。それを彼に示し、次に進むべき道を教えてあげて下さい。

 ゲームの中の誰かのそんな声が聞こえたのか聞こえなかったのか、自分はこの間の失敗から立ち直り、手持ちの情報を総ざらえし、些細なイベントをふるいにかけた。そして、重要なアイテムがあると聞いていたのに行く手を阻まれていた場所があったのを思い出した。
 その後の旅で、今やそれは障害となっていないはず。そこへ急げリンク! 新展開が君を待っている。
 よかった、これでまた『ゼルダ』が楽しめる。白日のもとで健康的に繰り広げられるイベントとはおさらば。
 不気味に口を開ける迷宮に入るときのこの尻込みする感覚、懐かしい。思えば長い道のりだった。

 そんな脳内やりとりで、唐突だけれど『Ever17』を思い出しました。
 少し、あのゲームの理解の助けにもなったかも知れない。遊んだのが去年末、何を今さら感は否定しがたいけれど、なに、『プリズマティカリゼーション』をクリアできたと思うまでに丸2年かかった自分だ、半年くらいのスパンは牛の歩み的にはざらだと言えるでしょう。


2/17(月)

 ようやく『ゼルダ』の全容が見えてきた。といっても、世界地図が完成して、見知らぬ地が一応なくなったというだけなのだけれど。
 この地図を完成させなければゲームが解けない、というのは十分ではなくて、ある区画についての地図を完成させてから初めて、その区画がハズレであったことが分かる、そんな中に正解も隠されている、そういうゲームであったのだと、そろそろ分かってきました。

 たとえるなら、行き止まりがたくさんあって、視野が狭いから先の見通しが利かなくて、行き止まりには正解とハズレがあって、正解でもハズレでも行き止まりまでたどり着くまでに要する労力がそんなに変わらない、そういう迷路のようなゲーム。
 たとえハズレを引いても、選択肢が一つ消えるという以上に次に正解にたどり着きやすくなるようにはなっているけれど、やっぱりハズレはハズレなわけで、引けば士気が下がる。
 そしてこの『ゼルダ』はハズレ率が高い。マップの広さから推測されるイベントの量と重要アイテムの個数からごく単純に計算した正解率は8/49。8割以上がハズレ。
 ほんとか? 自分で出した数字がにわかには信じられませんが、体感的にはそんなくらい。
 マップは半分でもよかったのではないかと思えてきました。根気との戦いになりつつある。


2/14(金)

 よりによって『ゼルダ』で15パズルかよ!

 今日も今日とて『ゼルダ』にいそしんでいましたが、手持ちの情報を総合したところ、はっきりとどうでもよさそうなので無視の予定でいたイベントを解かなければいけない気配。
 半信半疑ながら、ゲームを進めるためにはしかたないと、目的と何の関連も見いだせそうにないかくれんぼを始める。

 が。
 それ自体を楽しむのではない、何かのためにするかくれんぼほど辛いものもありません。小さなガキんちょどもが見つからない見つからない。イライラする心を抑えながら3Dの街を西へ東へ。どんな死角も逃すまいと、高所に登って街の隅々までを見はるかす。
 さんざんな探索の末にようやく見つけたので捕まえに行けば、接近を察した彼らはその場から一目散に走り去り、ゲームは瞬時に鬼ごっこに変更。そんなのありか〜? と半泣きで、ちょこまかとかけずり回るチビを追いかけ回すリンク。
 これを四人分繰り返してどうにかクリア。途中、触れる位置まで近づいているのに何の反応も示さず、少し遠くからおどかしてやったら飛び出すのでそこを捕まえる(そっちが正解だったらしい)、という回りくどい手順を踏まされたときは、もはや我慢もこれまでかと思いましたが、よく耐えた。

 しかしその後も試練は続いた。
 目的地にようやくたどり着いてみれば、何やら隠されたダンジョンが。やっと苦労が報われる、と飛び込み、狭苦しい中をネズミやらゾンビやらに邪魔されながら、ついに巡り会った宝箱。出し方にも神秘の匂いがかぎ取れる。これこそ望んでいたものに違いない。
 と勇躍開けてみれば……あれ? これなの? 確かにこれも貴重な情報ではあると思うけれど、もっとこう、ソフトウェア的ではなく文字通り重みのあるアイテムがここで入手されなければ、話は進まないのでは?
 探し落としを再チェックすべく同じダンジョンをもう一周したが、新たに見つかったものはない。必ずこの周辺にあるはずと思いつめるあまり、ダンジョンを出て近くにある壁掛けの絵合わせパズルに挑戦までした。なにが悲しくてゲームキューブで15パズルに取り組まねばならんのだトホホ。それも予想外にクリアに手間取り、しかもご褒美がはした金と来た日には。

 手は尽きた。だめだ。降参。あきらめ。これ以上得られるものは、ここには何もない。
 ……ここには?
 自問自答ののち、記憶をたどり、地図を見返して現在地を確認したところ、一区画ずれたところを懸命に探していることに気づく。
 脱力。自らが作り出した幻の使命に踊るの図。

 これはこの前の脱パズル宣言がもたらした呪いなのか(と自分のおっちょこちょいをもみ消すストーリー作り)。
 いいよもう、目先にある謎を一つ一つこなすさ。塗り絵を潰すような感覚で。
 かくれんぼでの一件だけはいただけないと思いましたが。あれはバグと呼んでいいと思う。


2/11(火)

 ここ最近ずっと『ゼルダ』話だし、今月はこの調子が続きそうなので、たまには息抜きにギャルゲー話など。Memorial Games更新:スイートレガシー

 これに先立って、『スイートレガシー コミック&ファンブック』(少年チャンピオン・コミックス)を読んだりして、このゲームへの自分の思い出はゲームに限定しておこうと強く思いました。
 しかし、そんなふうにこの漫画のことを嘆く自分には、他のプレイヤーが感じ取れるだろう別の魅力(主人公のヒロイン視とか、アニメのパロディとか)がさっぱり分からないのだから、いいとこお互いさまでしかないんだろう。
 そこへ追い打ちをかけるような、PCへ逆移植(フロントウイング公式サイト)って話を聞いたときのやるせない感情が、今回の更新の原動力の一部になったのは間違いありません。勘弁してよと。

 今回のを書いてみて思い当たったのだけれど、自分が環(お姉ちゃん)シナリオに期待していたのは、主人公が弟として振る舞う姿なのだったのかもしれない。彼女は、このゲームにマッチしたシナリオとして自分が思い描いた、双子以外の可能性の核になり得たはずだ(主人公が心の底から女の子になりきる、という、ヒロインの属性に頼らない可能性もあるか)。
 ただ、そんなふうに思ったところで、自分は「理想のおとうと像」を持っていないことに気づきました。そんなんでは、差し出されてもそれと気づけない。環シナリオをいいと思えなかったのがそのためだったとは到底認められないけれど、今やその気持ちへの信用が揺らいでいる。
 ここは何か、ナイス弟が登場するゲームをそのうち遊ばなければならない。タイトルが思い浮かばないけれど。評判の姉が出てくるゲームでもいいんだろうか。

 Memorial Gamesのタイトル一覧がみっともないことになっているので、そのうち直そう(「そのうち」ばっかり)。各機種2〜3本という分散ぶりなら、機種別になんて分類しないほうがよさそうだ。


2/10(月)

 そんな感じで右往左往しながらも、どうにか『ゼルダ』は前半戦終了といったところか。
 後半はぜひとも、できるだけ先を急ぐ方向で進めていきたい。もっと言えば、パズルに必要以上にかかずらわない心がけで。

 解いても解かなくても良くて、解ければちょっとしたアイテムが手に入る、そんなパズル。プレイヤーを追い立てるものは特にないのでじっくり頭をひねってください、と語りかけてくるようなパズル。
 本当にその手のが遊びたかったら、そっち専門のゲームを遊ぶだろう。
 『ゼルダ』をただのパズルゲームから隔てているのは、あの世界観、得体の知れない恐ろしさに満ちた空間で、それが自分の一番の憧れなのだった。ボスキャラや罠が怖いだけでなく、味方のはずの妖精や守護神も奇妙な造形をしていて怖い。普通の人々でさえ、何か変わった主義を持っていたりして底知れない。そんな、汲めども尽きぬ深い世界が、とてつもなく魅力的に感じられる。
 同じパズルを解くのでも、迷宮の奥深くで閉じこめられてそこからの脱出過程とか、おなじみの道具を奇抜に使うとか、ロジックが霞むごまかしがほしいと思うのです。それを、アクション面での圧迫感(敵に追い立てられながらとか、制限時間つきとか)に頼らずに実現してきたと思えたからこそ、自分の『ゼルダ』に対する今の信頼感がある。
 『ゼルダ』を一パズルゲームに貶めないために、安心したり、腰を据えたり、気持ちがそのような落ち着きに陥らないよう、緊張感を持って今後の冒険に臨む所存であります。

 そうしていかないとプレイが続かないかも知れない、という緊張感なら、いつだって消えずにいるのだけれども。


2/7(金)

 『ゼルダ』で罠にはまり通し。
 とにかくあらゆる場面でひっかかる。うまくいかなかった理由がミスした直後に思い当たって脱力することもしばしば。ただしそういうことなら、今度こそうまくいくとの意気込みが持続されるから、いいと言えば言えるかもしれません。自分が凹むのを別にすれば。

 ネタバレの少なそうなところで例を挙げると、孤島の岩肌に小さく開かれた平地に、パラシュートのようなもので着地を試みるシーン。
 首尾良くそこへたどり着くためには上昇気流に乗らなければならないという。その意味が分からず真っ正直に飛んでみたところ、着地予定地点を見上げながら海に向けてゆっくりと降りていくのを見ている自分がいました。
 海に落ちるのは失敗で、その際はライフが少し減ってもとの踏みきり地点まで戻されます。ライフ制のゲームでも普通は転落したら即死ですが、1ダメージ+振り出しに戻るのが『ゼルダ』ルール(スーファミ版から?)。どうやってそこまで這い上がってこられたのか不思議だけれど、ルールでは仕方ない。
 それはともかく。

 失敗したので再度挑戦。飛ばずにしばらく待っていたら、竜巻のようなものが目の前に現れた。さてはあれが「上昇気流」だったか、と勇んで飛び込もうとしたら、少し離れたところを放浪していたそれは目の前を通り過ぎていったようで、タイミングが合わず再び着水。
 三度目、今度はうまく気流をとらえる。舞い上がるリンク。あとは到着を待つばかりと気を抜いて、前方の目的地を目指してゆらゆら進んでいくと、視界に突然鳥の一団が現れる。不審者の接近に気づいたそれらは敵意をむき出しにしてこちらに襲いかかり、不意を突かれたリンクはなすすべもなく飛行状態を破られ、墜落。
 四度目。鳥に注目し、動き出すのを見計らってかわすようレバーを横へ入力。しかし、リンクが向きを変えるのに敵も同調してきた。もう逃げられない。追いかけてくるなんて、でも生き物ならそれが自然だよなあと、ほぞを噛みながら落下。
 五度目。鳥に目をつけられたらアウトと判断し、気づかれないよう遠回りをしてみる。作戦成功、妨害を受けずに上陸することができた。

 ただちょっとそこまで行くだけのイベントでこの騒ぎ。設けられた悩みどころにことごとく反応できるなんて、我ながら理想的(に間抜け)なプレイヤーだと思いました。宝物などじゃなくて罠要素をコンプリートする勢い。
 思えば『グラディウスIII』のときも
そんなだった。成長が全く見られません。


2/5(水)

 高いところが怖い(←子供か)。

 『ゼルダ』に、ジャンプ台からジャンプ台へと次々飛びながら上っていく場面があります。着地点のジャンプ台が出発点のジャンプ台よりも高所にあれば、次回のジャンプはより高みを目指せる、というコンボ。
 このときはジャンプ後の着地操作のために、上から見下ろしの引いた視点になるのですが、当然のことながら高度が上がるほど地面が遠ざかっていく。遠くであることを演出すべく輪郭がぼやけてきたりして、ますます飛翔感が煽られる。
 操作を誤るとゼロメートルまでまっさかさま、にはならず、リンク君はけなげに二本足で踏ん張るのですが、落差が大きければ着地後しばらく動けない(うめき声&踏ん張りポーズのまま)なのが悲壮です。ライフも減るし。
 痛い思いをさせてすまない。しかし自分も落下のビジュアルショックを受けたので許して。そんな感じでリトライに挑んでます。

 プレイステーションが出てからこっち、三次元空間の表現法の進展は、その表現に接した遊び手側の受け入れ段階と一体でもあったのかも知れないと思いました(と、いきなり話が大きくなる)。
 積み重なったものの差は大きいということなのだろう。自分はその流れに乗らず、二次元のアクション→二次元のシューティング→二次元の女の子、と推移してきたからなあ。
 おとといの「最新技術」(自分にとっての)はせいぜいこんなところ止まりです。あとはスライムっぽい敵の光沢というか反射というか。あれはやりすぎのような気もする。


2/3(月)

 自分が64ゼルダを以前に放り出したことを思い出し(今ごろ)、あのときの二の舞になるのではとの恐れと、ゼルダシリーズが遊びたかったんなら64版を引っ張り出してくればよかったのではとの疑問が同時に生まれて、早くも幸先の良くない予感。
 いやしかし、あちらには妹はいなかったわけだし(多分)、『ゼルダ』(とか『マリオ』)に関しては最新作がそれまでの面白要素をこぞって引き連れてきているに違いなく、その他に最新技術も楽しめるのであればなおお得、自分の選択は間違っちゃいないぞ。

 大ムカデを倒すのに30分近くかかったゆえのこの弱気ぶりです。勝ってなお励ましの必要なチキンプレイ。
 その大きさと攻撃に怖気をふるって延々と逃げ回り、真正面から戦いを挑む勇気がなかなか出なかった。こんなことじゃ妹の救出なんて…(そればっかり)


2/1(土)

 『もじぴったん』では、高得点を考えずにひとまずクリア条件を満たそうとする限り、同じステージでも同一解が繰り返されることはほとんどない。そして、ゲームにできるのは意味のあるなしの判定に留まり、それがどんな意味かを判断するまでは手が回らないから、意味を固定するクリア条件の設定はほとんど不可能(長文のことわざを作る、など例外はあって、それがきちんと収録されているのはさすがと思えるけれど)。
 ということは、ただでさえステージ数がこれでもかというほど揃っているのに、そのうちのどれ一つとして遊び尽くしたと思えるようにはならない、のではないだろうか。できあがる意味の多様さがこのゲームを楽しくしてくれているのだから。
 そう思ったとき、このゲームはいつ遊んでも、つまり時間を置いた後で遊んでも、変わらない楽しみを与えてくれるに違いないと確信し、別のゲームに移ろうと思い始めましたとさ。

 次のものを買い置きから見繕えば、出費はゼロで済んだのに。ゲームショップに立ち寄って、こともあろうにゲームキューブのコーナーで足が止まってしまったのが運の尽き。
 かつて遊んだファミコン版、スーファミ版での冒険心、最近とんとご無沙汰だったその手の緊張感への郷愁とあこがれがあふれ出してきてしまい、「このゲームを遊びたい」という気持ちにまとまっていったのは、全く予想外のできごとでした。
 でもそんな偶然は大事にしたい。「買いたいときが買い時」という言葉が知らず浮かび上がったのも、必ずしもそうでないときに買ったものの在庫が積み上がっている現状だったからこそ、かも知れません。

 てな都合の良いストーリーが組み上がった末、『ゼルダの伝説 風のタクト』を本体ごと購入の運びとなりました。
 興味を引きそうな他のものには見向きもしない覚悟でまっすぐ帰宅、即ゲーム開始。
 そこで待っていたのは、あの独特な絵柄の中にあっても仕草などで十分にかわいいと思わせてくれたリンク(主人公)の妹が、吊り橋を渡る途中で兄貴の目の前で怪鳥にさらわれていく情景だった。
 我を忘れて誘拐者を追いかけ、崖から落ちそうになるリンク。去っていく鳥と妹を見つめる恨めしそうな彼の目。

 頑張ろうリンク、自分も手伝うよ! それより、いつの間に妹なんてできたんだリンク(って、登録名をリンクにしなかったからゲームの中で一度もそう呼ばれていないけど)!
 というか、ハードをキューブに替えてまで、なぜ兄と妹が自分の前に現れる(情報シャットアウトしといたから本当にびっくり)!



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