ゲーム+α日記(2003年3月)

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3/31(月)

 唐突に、新しいハードウェア環境への移行が進行中。『フロレアール』が現状での最後のPCゲームになるかな。マシンパワー不足に泣いてから一月足らず、はやリベンジの時は来た(気まぐれに)!
 折しもブロードバンドの波がこの田舎町にも押し寄せてきてくれたようで、ネットワーク的に陸の孤島だった当地に橋が架け渡されました。さっそくそちらも対策しており、PC空間が一挙に様変わりしつつあります。
 やること山積、ゲームが遠いものに。今後5年ほどその苦労をしないで済むために今頑張っているのだと自分に言い聞かせる。変化を拒み、現況のまま緩やかに死んでいくよりも、死ぬ気で広がりを求めようではないかと。いやそれは大げさ過ぎだ。
 こういうのって楽しめる人には楽しくてしかたないものなのだろうけれど、もうこちとら面倒くさくて辛いです。朝起きたらパッと最新PCに変身していればいいのに(←オールインワンノートでも買ってろ)。


3/29(土)

 作者がらみで縁を得たところで『フロレアール』に舞い戻る。そのように大きく助走をつけないと挑めない、ハードルの高いゲームであります。見て読むだけだが、それが十分きつい。
 エンディング4つめに到達。確かにああなったら主人公は終わりだろうけれど、こちらにとっては思いっきり「続く」なシナリオ。

 相変わらずメルンをいじめている主人公。ところで、感覚の強度ということなら痛みでなくてもよさそうな気がする。例えば痒みでも良かったのか。蚊に刺されあうのが彼の原体験だったとしたら、折檻シーンは毛虫や漆やスギ花粉が乱れ飛んでいたのだろうか。
 …少しでもゲームの内容よりマシになればと思ったのに、それはそれでイヤな場面になってしまいそう。想像するだけで痒くなってきました。


3/27(木)

 ということで、可能性を削る効率の良さあるいは美しさを評価する、麻雀のルールに準拠したテレビゲーム用の「一人打ち麻雀」ができないものかなーと想像します、というところで、一週間引っ張った麻雀の話題はお開きにしよう。

 あるいは、一人用麻雀に至る経緯を物語仕立てで展開する、とか。
 「お兄ちゃん、ボクとまーじゃんしよ?」
 「(東からの)風が吹いている」
 「こんな点数計算もできないなんて、おにーちゃんはお馬鹿さんです」
 「対面がどんな手で上がろうって思ってるのか、大体判っちゃう」
 相手のことを考えない「それがどうした」なるキーワード(コミュニケーションの扉を閉ざす鍵言葉)によって個々の世界に閉じこもるキャラクターたち。しかし目を閉じることでそこには、いつだって仮想の対戦相手が。
 「楽園麻雀」が始まる。

 うー、忘れてるなあ『未来にキスを』(otherwise)。


3/24(月)

 麻雀の牌は、同時に複数の役割を持っている。四筒は、もう一つの四筒、もう二つの四筒、三筒・五筒、どの組み合わせと同居するかで意味合いが変わる。それがほとんど全ての牌について成り立つから、持ち手の牌は数え切れない場合の数の重なりで溢れんばかり。
 それら可能性の絡み合いを、何の指針もなしに一つ選ぶことは大変に困難だ。というより無理だ。意志がないとき、人は可能性の前で立ち尽くす。
 そこへ与えられるのが「相手に勝つ」という目的なのだけれど、それはまだ具体性に欠ける。状況や持ち手と組み合わせて、「低得点でも早く上がる」「大きな役を狙ってみる」などの二次目標はできるだろう、それでも手を動かすには役不足だ。
 最終的に必要なのは、「膨大な可能性を減らす」という目的になるはず。上がりとはただ一つの、これ以上変化しようのない形を指すのだから、先の二次目標によって幅はあっても、大局的には、可能性が削られ、もう悩まなくてすむ喜びを目指していくことになる。

 なぜこんなことで引っかかっているかというと、麻雀に対戦相手が必須なのかどうか、疑わしくなってきたからなのです。
 自分は前回の最後で、麻雀を楽しむためには敵の手を読む術を学んだ方がいいと書きました。それは反射的に、刷り込み応答的にそう思ったのだけれど、もし重なった可能性の選択による削減を楽しむことに集中できたなら、そこに相手の存在、勝負の意識が割って入る余地はないんじゃないだろうか?
 目の前に広がる「膨大な可能性を減らす」のが最重要課題であるなら、目の前よりは遠くにいる相手のことを構うゆとりは、どうしたって後回しになる。それは勝負の面では不利になるのだろうけれど、そこで「それがどうした」と開き直ることはできないものだろうか?


3/22(土)

 『でじこ麻雀』におよそ予想外の情熱が注がれています。

 アイテムコンプリート後に再スタートしたところ、引いてくる牌がことごとく一萬という豪快なニセ麻雀がいきなりスタート。どうやら敵も同じ目に遭っていたようで、ただし一度不要と見なした牌は捨て続けるのがコンピュータの悲しい性。一種類4枚のルールはどこへやら、画面をつもられ・捨てられる一萬が埋め尽くしていきます。
 もちろん当方は集めまくって、一萬だらけの四暗刻で連戦連勝。ってそれは四暗刻なのか。オール一萬ならむしろ清老頭?(そういう問題でもない)
 さすがにそればっかりだと飽きてきますが、役満で上がるとそれ専用の祝福のメッセージが用意されているのが分かったりして、意外にきちんと作られているのかもと、と改めて感心しました(バグまみれの中で)。

 しかしながらまともに遊べないのはバカバカしいから、もう売ってしまおうか、バグの件は内緒にして、と怪しからんことをたくらみつつ何度か電源を入れ直していたら、いつの間にか正常復帰。
 あるいは、グッズをいろいろまとめ買いしたのが影響したのかも知れない。説明書を見ると、このグッズにはプレイヤーの牌の引きをよくする幸運が込められているようで、これがグッズを集めさせるための工夫だったのかと今頃気づくわけですが、一方これらイカサマグッズは買った回数(個数)がカウントされている。ということは、10個買ったら10倍の引きの良さが備わるのかも知れず、それが麻雀の大元のルールを逸脱するまでに強くなってしまったとしたら、あるいはそのような異常現象の原因となるのかも知れないと、憶測しました。
 そうだとしたら前言撤回、もっときちんと作ってくれとお願いしたい。そうでなかったとしても、こんな派手なバグはいただけません。

 原因はともあれ、とりあえず元通り遊べるようになったので、シナリオを離れて個別のフリー対戦としゃれ込んだのですが、もう負ける負ける。
 引きがいいのはこっちだけじゃないだろと思うほど、敵の上がるスピードが速い。でじこにはハコテン負けを食らい、犬耳?(と思ったら
こちらも猫耳でした)のおちびちゃんにまでコテンパンにやられ、挙げ句の果てに「にゅ」とか語尾についた愚弄台詞を浴びせられ、すっかりのぼせ上がりました。
 おおお前ら、客をもてなす心が足りん! それに引きかえ見よ、あのうさぎ耳嬢を! 善戦しながらも相手に花を持たせることを忘れず、自爆チョンボもつたない技量ゆえと納得させる言動が実に好ましい(麻雀はあまり得意ではないとの談あり)! 二人とも見習うがいい、まずは言葉遣いから矯正はじめ!
 というか、普通っぽくしゃべってくれるとは思わなかったこのうさぎ耳嬢(←そろそろ名前呼んでやれよ)が、その、なかなか好ましいと思いました。自分の上がり役を読み上げる声は彼女担当で固定になっております。

 そんなわけで、負かすまで帰らない意気込みで延々と挑み続け、やっと二人に一度ずつ勝てるまでに、数時間に及ぶ時が過ぎていきました。
 その間に、決して巧みとは言えない、むしろ正真正銘のタコレベルと言える自分の打ち筋が、もしかしたら少し上達したのではないかとさえ思えて来だした始末です。いや、気のせいでなくうまくなってると思う、だって多面待ちができるようになってるよ!
 だいたいこの麻雀というゲーム、一手進むだけで役の組み合わせががらりと変わるので、次の手を考えようとするとそれらが重なり合い、まるで見通しが立たないように思えて、それが苦手なのです。これが将棋なら、数手先まで整備された道が延びていて、そこから先が枝分かれ、という具合に変化が割合緩やかなのでついていけるのですが。
 余談ですが(そんなこと言えば全て余談だけれども)、可能性の重なり合いと瞬時の判断・選択という意味で、麻雀と格闘ゲーム(相手の行動に対して瞬間的に変わり得る技の組み合わせ、その可能性の重なり合い)は共通していると思います。そしてそれが自分の苦手とするもののようです。
 それが上達の兆しを見せたというなら、自分にとって革命的に喜ばしいことだ。何だか麻雀が面白いと思えるようになってきました。よし、次は相手の捨て牌を見て狙い手を予想してみよう(というくらいのレベル)。


3/21(金)

 『ユーゲー』最新号(6号)を読む。2002年発売のゲーム特集に『Ever17』が出ていて、その紹介記事にゲームの愛され方がにじみ出ていた。キャラ別シナリオの紹介がすばらしい。「運命は、ココの声を上げる」なんて、ゲームのことを大切に思ってなけりゃ浮かんでこないと思います。
 特集の他のゲームには『斑鳩』『リヴィエラ』『メタルガン・スリンガー』と、プレイ済みのゲームが並ぶ(クリア済みと言い切れないのは痛いところだけれど)。ユーゲー的(ナイゲー的、の方が近いか)選択眼が半ば身に付いているようです。まあ『メタルガン・スリンガー』はダメだと思ったけど、それは人それぞれということで(←他の意見に耳を貸そうとしない)。

 本屋とゲーム屋が一体化した店で、『ユーゲー』のついでにゲームを冷やかしていたら、まず適正だと思える値段で中古品が置いてあったので、ゲームボーイ『でじこの麻雀パーティ』を買ってみました。
 このときの自分の心境を円グラフで表すなら、「携帯機用に麻雀ゲームが一本くらいあってもいいか」がほんの切れ端、扇形というには丸すぎる広大な残りのエリアを占めていたのは、「面白くなかったら売り飛ばせばいいや」というゲームに極めて失礼な気持ちでした。
 その気持ちを裏付ける絶好の資料が、いま手元にあります。『ユーゲー』の広告ページを開いてみれば、本作がその構成員となっている高価買い取りソフトのリストがある。その買い取り価格より低額で買えたのだから、そう思っても無理はないのではないかと、弁解をしておきたいのです。
 そうでもなければ、でじこのことを知りもしないのにこれに手を出したりはしません。同じハードのライバルである『ルリルリ麻雀』や『エヴァ麻雀』と『でじこ麻雀』を分けるのは、ゲームを彩るキャラのさらに外側にある、そんな泥臭い事情であります……って、『ルリルリ麻雀』もリストに載ってるじゃないか!(動機に説得力がなくなる)

 ということで、キャラの顔を辛うじて知っているくらいで本当に馴染みのないキャラ達と戯れるべく、久々にゲームボーイカラーを取り出し、電源を入れました。ところで、本名デ・ジ・キャラット略称でじこ、公式にそう決めるのはいいしユーザーがそう呼ぶのもいいと思うけれど、ゲームタイトルに使うのはどんなもんだろうか。『でじこミュニケーション』までひねってくれればそれもありだと思うのだけれど。
 でじこと仲間たちが働くゲーマーズでタイマン麻雀勝負、勝ってポイントを稼いでゲーマーズのキャラグッズを買おう、という、稼ぎを全て搾り取る方式のゲーム内容ですが、お金じゃなくてポイントという設定なのは生々しくなくて良かったのではないかと。
 負かせば気前よくポイントを振る舞ってくれるので、筆記用具だろうがCDだろうが好きなだけ買える。しかしながらコンプリートを目指す我々の前に大きく立ちはだかるのがトレーディングカードなのでした。

 一キャラあたり8枚で揃うこのカード、試しに2800ポイントで8枚買ってみました。さっそく検分したところ、新カードは2枚だけ。
 実はこのカートリッジ、中古だけあってセーブデータが入っており、今回買ってみたキャラのカードも1枚、すでに取得済みでした。そこへ8枚追加して、戦利品は2枚だから、ダブりは5枚。
 購入品が謳い文句通り完全にランダムであるとき、こうなる確率がどれほどか、片手間では計算できなかったのですが(頭萎えすぎ)、このペースではどんなに頑張っても揃いそうな気がしません。トレカ稼業の商魂を見せつけられた思いです。
 しかし嬉しいことに、そんな弱腰プレイヤーへの救済措置がちゃんとあるのでした。全種類完備のお墨付きセットが売られていたのです。気になるポイントは48000。8枚組を地道に買い集めるのに比べ17倍のびっくり価格。トレカ稼業の商魂を(略)です。
 このような苦労の甲斐あって、8枚そろい踏みの暁には、各カードが部分を担う図版が完成され、堂々二画面分に及ぶ人物像がファンの心を鷲掴み。
 実際、非常に良くできた絵だと思いました。これくらい大きくなれば、ドットによる非連続性が目立たなくなり、むしろキャラの輪郭の揺れをアニメ絵っぽく描いたものと好意的に受け取れる。

 一応ゲームの核であるところの麻雀にも、チュートリアルから特定の役狙いなんていう追加ルールまで工夫が込められているのですが、それよりも注目したのはキャラの個性の出し方。いきなりチョンボをしでかされたのには度肝を抜かれました。
 対戦ゲームでコンピュータが自爆するなんて。これも、このウサギ耳のキャラの性格が反映されたりしているんでしょうか。このときばかりは、この面々のことを知らないのが残念に思えました。

 予想外に楽しめる一本なのではないかと思いました。上がり役をしゃべったりするし(ちゃんと4キャラ分の声で)。しかし、画面も音もこう賑やかだと、持ち歩いてのプレイはやっぱりやめた方がいいだろうなあ(なけなしの購入動機がここで崩壊)。


3/20(木)

 ぐったり疲れた体と気分に喝でも入れようかと、プレイステーションへの移植版『ナイトレイド』を立ち上げてみたら、これが逆に今のステータスにあまりにも沿ったものだったので驚きました。

 敵を撃破したとき、アイテムによってスコアが増えたり減ったりするという革新的な得点システムがこのシューティングゲームの特徴ですが、遊んだあと、やっぱり得点の秩序は一方向がいいと、割と身も蓋もない結論に達した次第。
 最も高得点な者が正義という厳格な絶対評価主義の中で、プラスとマイナスという性質上避けられない足の引っ張り合いは致命的で、増減どちらへも慌ただしく変動するスコアにはありがたみが感じられません。
 アクションに対する見返りを計算できない(文字通りの意味でも……マニュアルが端折りすぎ)ことからスコアに対する意識はついに軸上を脱し、正も負もない無の領域へ。究極プレイとしてゲームが推奨する「ゼロスコア」(厳しい弾幕を乗り越え、苦労してクリアした結果、スコアがぴたり0点であることが最高に望ましいという、たどり着くのに悟りか何かが必要な境地)とは違って、得点を超越した、そんなもの初めからなかったかのように振る舞う、そんな心境へといざなわれました。
 そんなわけでだらだらプレイ。それで正しいのかも知れない、どうせステージの大部分は共通の安全地帯(  )でのんべんだらりと進めるわけだし(←言語道断)。

 きっと、このヘンテコな得点システムには何らかの理由付けがあるんでしょう。おそらくはストーリーに関連した何かが。
 そうに決まってる。


3/17(月)

 しかし停滞していてもしかたないので、『フロレアール』を再開し、3つめのエンディングを見る。
 自分はこのゲームを楽しみにさえ思いながら始めていて、そこでメルンがどんな目に遭わされてもきっかけは自分にあるのだと思えるから、ゲーム内で繰り広げられる惨劇から目をそらすわけにはいかなかった。
 といいながら音声は飛ばしているあたりが覚悟の中途半端さを示していることに、振り返って気づく。その斜め聞きが日常のシーンから引きずった慣例であったとしても。みっともない。

 しかし分からない話だ。主人公の過去と非日常の登場がどのようにつながるのか、ちょっとつかめてません。エピローグの唐突さも同様。もっとも、自分に断りもなく主人公が自身の過去などというものを思い出してしまった段階で、彼の理解者ではいられなくなっていたのだけれど。
 それでも、無理にでも推し量ってみるなら。
 メルンが幸せだと言うから、あるいはメルンが幸せかどうか分からないから。どちらであっても、彼が端から見て不幸せな行為をメルンに強いる理由にはなってしまうのかも知れない。そのとき、メルンが不幸せかどうかは、見ている自分が考える。しかし、その判断には行き着く先がない。
 幸せについての基準が彼と自分とではずれている。彼とメルンの二人だけの世界では、彼が持つ物差しでしか幸せは測れない。どう転んでも、どのような転び方も、あの二人の中では起こりうるのかも知れない。判断材料を外部に持たなければ、進んだ方向が幸せな方向であると。それがたまたま自分と一致することもあれば、逆方向なこともあると。そういうことか。そのような気がしてきた。
 それにしても、扱う対象が幸せではなくて不幸であるところは、ひねていると言うほかないシナリオだ。

 ところで、主人公とプレイヤーは、違うものでありながら同じものを見、同じものを聞いている、ということをもっと意識すべきだと、最近少し反省しています。
 自分は今まで、「違う」ということばかりに注意を向けすぎていたように思う。それを発見だと感じるのは、もう卒業してもいい時期だろう。


3/14(金)

 そうは言ってみたものの、時間が経つにつれて何やら得体の知れぬもやもや感が胸中にわき上がり、落ち着かない。
 それは「悔しさ」なのかも知れない、と結論を出し、覚悟を決めて『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』と向かい合うことを決めました。
 そしてゲーム開始から2時間。ノーコンティニューで最終ステージクリアという予想を上回る戦果を前にして、確かな達成感に溢れております。頂上を制覇したという類のではなく、このゲームの楽しみ方を見つけることができたという形の。
 遊んでいたひとときを振り返れば、そこに当てはまる言葉は「楽しんでいた」以外の何ものでもなかったから。

 覚悟を決めたときに初めて受け入れられたもの、それは、最も大きな違和感であった「斜めの足場でジャンプすると斜め方向に跳ぶ」、つまり地面が水平でない限り真上へジャンプすることができないというソニックの挙動でした。
 それまで遊んできた主に任天堂系のアクションからは全く異端なこの法則を、『ソニック』世界の約束として了承したところから、遊びへの道が開けたように思います。
 逆に、ジャンプという最も基本的なアクションに納得できていないようでは、これまで楽しめなかったのも当然だったと言えます。
 跳び出し方向が常識はずれなら、宙に浮いたリングが思うように取れないのもしかたのないこと。それを把握した上で、狙ったところへ確実に着地できるよう集中することで、どうにかフィールドを先へと進めるようになりました。

 先へ進むことを優先するプレイスタイル。それが『ソニック』を遊ぶ上で正しい姿勢であることは、次々にステージを突破できていくことで実感されていきました。
 ちょっと突っ走ってみようかと思わせる地形(なだらかな下り坂など)を見つけたら、号砲を鳴らされた気分でダッシュ。思い通りにソニックの動きが制御できず、危険であるはずの疾走が、そのようなコースにおいて実際に危険であることがほとんどないのが驚きです。ジェットコースターは安全だから楽しい。その楽しませ精神が、ここではしっかりと息づいています。
 そのころには、リングに対する見方も、「持っている限り一度なら敵に当たってもミスにならない」という特性を重視して、「そこら中に落ちている、一つあれば十分役に立つ鎧」と変わっていました。鎧なら、むしろその場に残しておいた方が、ミスしたときの保険になるというもの。
 もちろん、敵が油断すればいつの間にかリングは溜まっていき、100個集まってソニックが1アップ。1アップとは何と懐かしい響き。もう死語かと思っていましたが。

 もともと攻撃力の優れた(ジャンプ中はほぼ無敵の)ソニックが、地形に気をつけて注意深く行動するようになった今、タイマン勝負で敵に負けることはまずなくなりました。
 そんなソニックを待ち受けるのは、単体ではどうということのない敵や仕掛けの絶妙なコンビネーション。水中をゆっくり移動するだけの雑魚に、息継ぎの間だけできる僅かな無防備状態をベストタイミングで突かれたときなど、あまりの見事さに感心の笑いが漏れました。
 大がかりな舞台装置のからくりもいいけれど、このゲームではこうした積み重ねで丁寧に死に所を作り上げていて、罠にはまるのが大得意の自分としては、幾重にも張り巡らされた伏線が一つに収束してソニックに襲いかかる様子が、ときにパッドを投げたくなるほど腹立たしく感じられるのでした(嬉しそうに)。

 隠しアイテムを集めきっていなかったため、真のエンディングには辿り着けませんでしたが、それがどうした。
 
『ソニックアドベンチャー2』ではついに成し遂げられなかったソニックへの理解の実現が、そんなことを気にさせないほど自分の気持ちをいつになく和やかにしているのです。
 と、言及するくらいには気にしている、ということか。

 え、『メガコレクション』内にはシリーズがあと三本待っているって? さてどうしたものかな…(そう思って満更でもないらしい)


3/11(火)

 『ソニック』シリーズのどれにも惹かれないけれど、☆好きの身としては『リスター・ザ・シューティングスター』は遊んでみたい。
 そんな思いで、『ソニック メガコレクション』を買いました。しかし、豪華なんだけれども胸を張りにくい収録ゲームの面々であることだなあ。今はどうなっているか知らないけれど、かつての中古取引価格でなら当代屈指の豪華さではある。
 中古屋さんは、こんなふうに売られた喧嘩は文字通り買うんだろうか。『メガコレ』を買い占めれば中古メガドラソフトの値段が保てるし、『メガコレ』までプレミア化できて一石二鳥というもの。おまけにセガも救済できるかもしれず、いいことづくめのような気がします。
 それにしても、れっきとしたメンバーであるはずの『カオティクス』が漏れているのははなはだ遺憾です。せっかくサイト名にちなんで取り組んでみようと思っていたのに(訳:当サイト名とは何の関連もありません)。続編(『ギガコレクション』か?)では忘れずに入れていただきたいところ。
 こういう趣旨で、トレジャーのメガドラソフトもまとめて出ないものだろうか。タイトルはもちろん『トレジャーボックス』で。でもあのメーカーはそういう気風じゃないからなあ。

 さっそくゲームを立ち上げたものの、残念ながら起動回数制限とかで『リスター』は最初からは遊べなかったので、今日は初代『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』ですませることにしました(←何でもよかったのか)。
 かつてちょこっと遊んで投げ出した相性のよくないタイトルであり、再度つき合ってみて相性の悪さを再認識した次第。
 アイテムは集めておいた方が得だとのちのち分かってくるシステムと、先へ先へと勢いをつけて突っ走らせようとする地形やソニックの挙動との狭間を、楽しみがさまよっているように感じられます。
 自分の気持ちは前者の楽しみ方に傾いている。多分それがいけないんだろう。クリア優先でかっ飛べば、違った楽しみが見えてくるはずだ。
 でも、最もありふれたアイテムであったとしても、見えているリングをステージに残したまま先へ進めるか? そのたびに、リングの残りが心残りとなって蓄積されてしまうのです。


3/8(土)

 『フロレアール』エンディング二種到達。
 心の平穏が乱されるのを、主人公も恐れているようだけれども、その場を乱したくないのは当方とて同じ。そういう心構えでゲームを進めていったら、それに沿った終わりを迎えることができて、安堵しているところです。
 説明書が勧めるとおり、二度目も最初から通しプレイしたのだけれど、どうでもよさそうな選択肢ばかり初回とは別のにしてみて、肝心そうなものは慎重に最初のと同じというチキンプレイ。それで別のエンディングにたどり着いたのは、嬉しい不意打ちでした。

 主人公に終始付き添う女の子、メルンの、二番目のエンディングで初登場となる立ち絵を見たとき、それに自分だけでなく主人公も気づいたのが印象に残っています。プレイヤーと主人公は決して同化し得ないけれど、一点でも何か同じことを思えたなら、それは二つをつなぐものとして十分であることでしょう。
 このエンディングのタイトルそのままに、二人に「祝福」を。それにしてもメルンは、屋外であっても、室内と変わらずメイド服のままですか?


3/6(木)

 ん、んー?
 身構えていたこちらの虚を突くように、あまりにも淡々と、平和な生活が展開される『フロレアール』。今のところ、先行きに関して想像できることは何もない。のんびりと一日が過ぎていく。
 そんな平穏な日常の中で、主人公は退屈ですることがないと時折思う。ただ、そこで本当にすることの何もない数時間を与えられることはない。暇があれば寝て過ごせるように、主人公は虚弱にできている。それは話のテンポの良さのためということもあるのだろうけれど、そんな事情のおかげで、彼は心底から退屈と向かい合わずに済んでいるのかも知れない。少なくとも、彼は退屈を嘆いてはいない。
 そして、そんな彼の生活を見ている自分も、それを特に嫌がってはいない。強いて探すなら、そこが彼と自分との現状での共通項かも知れない。

 まだあれこれ考える段階じゃないようです。が、時間がなくてゲームがちっとも進められないのです。こっちは退屈どころじゃない。


3/3(月)

 そんなこんなで一呼吸置いたのち、次に遊ぶゲームを決定、早速始めたものの、凝ったインターフェイスと演出の受け入れ態勢が整わなかったようで、開始早々、ゲーム内の教師の「静かに!」の一喝とともに、教室だけでなくPCまでもが黙りこくる体たらく。
 ゲームの楽しげな雰囲気にこちらの遊ぶ気も高まっていただけに痛恨。マシンパワー不足を実感しました。
 今に見てろよ。ところでこの「今」ってのはやっぱり「近々」の意味なんだろうか(リベンジの気配なし)。

 いいさいいさ、(PC)環境にやさしいエコマークつきのゲームにするんだから。
 ということで、きらびやかで丸くて「18」と書いてある新型エコマークのゲームを新たにチョイス、すぐさま代わりにインストールしました。これを見つけられたおかげで秋葉原へ行く理由がなくなったと感じたものです、『フロレアール』(
13cm)。
 何とも落ち着いた、絵と文章のあっさりした佇まいには好感が持てます。オープニングらしきものが見あたらないので、冒頭の目覚ましのベルを開幕の合図になぞらえて、いざスタート。
 いやーやる気がたまって良かった。いつになったら遊べるんだろうと気になってしかたなかったんです(←つける薬なし)。楽しみ楽しみ。


3/1(土)

 最高ー。「ヤツケー・シゴゥトゥ」最高ー。
 椎名林檎の3rdアルバムの具合が大変良いので聞き続けているのですが、最初にフィットしたのが「やっつけ仕事」でした。
 リメイクであるところのこの曲だけれど、以前のバージョンを聴いたときは引っかからずに流したくせに、今回のアレンジ版には大喜び。
 最初にノイズっぽい人の声が混じり、そのうち曲名紹介→イントロを経た後、おもむろにノイズを打ち切って本番、という流れの趣向になっています。どうもラジオか何かから流れてきている演出のようです。
 これと、舞踏会ででも流れそうな曲調(←音楽のジャンルに関する無知の表れ)とが重なることによって、自分の頭の中には洋館を掃除するメイドさんの絵が浮かびました。歌詞カードのどこにも、メイドのメの字もないのに(この曲の歌詞に添えられているのは白装束の巡礼姿(?))。

 雇い主は第一線から身を引いた初老の紳士、晴れた日のこととて散歩にでも出かけ、館にはメイド一人残された昼下がり。日課の掃除に取りかかるも、このメイドは今ひとつ仕事に気が乗らない。それでも物憂げに仕事を始め……ようとして、せめてもの気晴らしにと思いついたか、ラジオに手を伸ばす。
 目当ての番組などないので適当にしばしチューニングしたところ、声に焦点があったのでそこで止め、己の本分に戻る。ほどなく掃除機のスイッチが入り、その裏でラジオの中の異国のパーソナリティは曲を紹介し、続いてイントロが流れる。やがて掃除機は止まり、何か別のボタンが押され、それを合図に曲の舞台と洋館が一致する。メイドさんがボーカルとなって、露わになった伴奏のもと歌い出す。

 という感じの情景がぱあっと浮かびました。すごい勝手に。そこはいったいどこの国だと言いたい。ラジオっぽいのと掃除機らしき効果音のくだりはいちおう事実ですが、それ以外は妄想。メイドさんのやっつけ仕事ぶりに萌え。萌え?
 だいたい、実物を見たこともないメイドさんの働きぶりなどがなぜ思い起こされるのか。フィクションでだって『月姫』と『水月』くらいじゃないだろうか。それだって動いているのは見たことがない。あんな重たい服で家事ができるものだろうか。
 でも多分そこから来ているんだろう。まだ『月姫』の方か。ゲームから結びつけるのは大間違いとしか思えないけれど。というか、ゲームのメイドさんは職務に熱心だし、何から何まで合わない。
 そんなわけでルーツはよく分からないにせよ、
「愛妻家の朝食」に次いで2曲目の自分認定メイド曲登場。まだあるのかなあ。あと数曲あるならひとまとめにしたい。題は「私家版『メイドさんベスト!!』」あたりでひとつ(『ゼルダ』終えたらもうこの調子ですか)。



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