ゲーム+α日記(2003年4月)

'03年 3月 2月 1月
'02年 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
'01年 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
'00年 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
'99年 12月 11月 10月 9月


4/27(日)

 やった休みだ〜ということで『モエかん』を本腰を入れてプレイ、アンドロイド娘・リニアのルートをクリア。
 彼女の話に入るであろう選択肢の前では、けっこう悩んだのだけれど、そうしてもしなくても変わらないのなら、そうしてもいいのではないかと思えて、突入を決意(っておおげさ)。
 決意したからには後は一本道。いや、選択肢はこの後にも出るけれど、あれはこの辺で一息入れてセーブでもいかがですかという心遣いに違いない。長い話だから。
 途中で霧島嬢に泣かれたときは複雑な心境ではありました。

 制服組みんながアンドロイドに見えるというのは、それだけリニアが他のキャラと変わらないように見えることの裏返しでしかなくて、ゲームを始めて最初に出てきたのがリニアだったのか他の誰かだったのかで変化する見方だった。
 こんなにも人間のような彼女が作り物だというなら、作り物でないものなどなかろうという意味合い。
 二重否定でなら書く内容の恥ずかしさも薄れるのだろうか。いや、最前のゲーム中における己のみっともない行動に比べたらどうということもないと思うから表に出せるんだろう。

 自分はついこの間、二人の夢が一致することの美しさ、それがどれだけ心を揺さぶるものかを体験したばかりだ。ここではそれが、ゲームの外ではなく内側で劇的にフィーチャーされている。
 ゲームを終えてようやくそのことに思い当たる自分の学ばなさに、今は感謝したい。いつだって後から思い出すばかり。同じものだと思ってかからない限り、何度だって同じ手に引っかかることでしょう。
 遊んでいる最中にメモを取らなかったのは久しぶり。アンドロイドだからこその遠慮ない演出に畳みかけられたこともあって、一旦ゲームから離れて思いを文字の形に整えるだけの余裕を、このシナリオは与えてくれなかった。
 これには撃沈しないわけにはいきません。涙腺の弱さは自負するところですが、盛り上がる場面ではもう大泣きですよ。しゃくり上げですよ。参った。
 物語を収束させる丁寧さが現実へ戻るためのかなり長いクーリングオフともなったはずなのに、まだ半ば放心中。やられましたです。


4/25(金)

 あれ、これは昔懐かしい『To Heart』(Leaf)方式なのかな? と、三択で空振りの時もあるイベント選択場面に頻繁に会って思いながら、『モエかん』を遊んでおります。
 秘書さんを追っかけようとしても、傍流のキャラだけに向こうに用事でもないとなかなか出会えず、かわりに娘型の旧式アンドロイドとばかり出くわす。
 この子はこの子で楽しいのだけれど、この子に慣れてくると他のメイド服着用キャラがみな作り物に見えてくるのは少し気になります。普通なら、あの子は人造に見えない、というふうに思うところではないだろうか。
 このロボット娘も合わせて、『To Heart』リスペクトな部分はあるのかも知れません。イベント進行の類推が間違っていたらどうしようもないけれど。

 そんな中、積極的に起こしたのではないと思われる図書館司書(以下、メイド服着用はデフォルトなので省略)による朗読イベントに、くらくらと気持ちが揺り動かされました。
 イベント絵固定、選択肢不在、クリックし続けるだけと、ノベルギャルゲーの典型的な非ゲーム的イメージに乗って、萌えっ娘島の図書館に新着したという童話が語られます。
 もともと声の演技も極上なこのゲームで、その声に全てを委ねるイベント。救いを探し求めるような音声の起伏で薄幸の少女の行く道が語られ……やがて物語は書物の不在によって途切れる。
 落ちがつかない宙ぶらりんの仕打ちは主人公をも落ちつかなくさせ、ついには彼をこの物語の補足へと駆り立てる。ぶっきらぼうに見せかけてひねりを利かせたこの締めに感謝したのは、朗読者だけではありませんでした。
 やるなあ『モエかん』。


4/22(火)

 ところでここ最近、まともなギャルゲーとご無沙汰していることに思い当たり、そろそろこのあたりで萌えを補給しても良いのではないかと思い始めた。
 そうだ萌えを我に! 登場キャラが総出でプレイヤーを萌やしに来るようなゲームを! 寄ってたかって、組織ぐるみ・会社ぐるみでかかって来るような皆の意気込みを受け止めたい!

 という想像を手に、『モエかん』(ケロQ)始めました。モエかん=萌えっ娘カンパニー、と来れば、それがもたらすイメージに乗るのが礼儀だろうと思います。
 パッケージを見てメイドさんしか出てこないゲームかと思い、職務において三歩下がってかしずかれる内容かと一抹の不安は覚えたものの、メイド養成機関が舞台のようだったので一安心。つまり彼女たちはプレイヤー用のメイドではなく、またそもそもメイドになってすらいないはずだと思えたことが、プレイに向かう自分の背中を押しました。

 スタート直後に妙に精緻な世界設定を垣間見せられたので目をくらまされかけましたが、ここはメイド服が制服の女学校なのだと気づき、なるほどと思いました。ここまで現実から浮いていれば、年齢設定などという野暮な重力には引かれずにすむ。そして主人公は学内の見回りも業務とする校長先生なのでした。
 冒頭のシリアスさと主人公の威厳を全力で打ち消すような女の子たちとの柔らかな会話に、序盤から大いに引き込まれます。
 どの女の子も看板に偽りなしの魅力っぷりですが、その中でも、今のところ唯一メイドさんルックでない、主人公の秘書を努める霧島香織嬢に大注目です。きびきびてきぱきと仕事をこなす有能なひとでありながら、語句の末尾の「し」が「ち」に、「す」が「ちゅ」に自動的に置き変わる発語癖の持ち主。
 真面目な仕事の話を真顔で「でちゅね」「しまちゅ」と締める彼女、それを自然なものとして応対する主人公、どちらのあり方もたいへんに素晴らしい。
 こちらは主人公ほどこの状況に慣れていないので、彼女の一語一語に細心の注意を払い、一句たりとも聞き逃さぬ心構えで台詞を拝聴。
 「失礼しまちゅでちゅ」なんてのを聞くと、彼女が厳密な変換規則に沿って話していることに胸打たれもするのですが。
 「行かなければなりませんでちゅ」
……それは、語尾を聞かせるためにわざと付け足しただろ?


4/20(日)

 実は『フロレアール』のことは、あんなに嫌なものを見せておきながらあそこまできれいにまとまっていいのか、という形で、まだ頭の中に残っている。二度と遊び直したくないけれど、遠巻きにその光を眺めていたくなるような感じで。
 つまりは、そんな話だったと自分以外に向けて言い切ることのできない思い込み。

 だから、いつもにも増して、次の段落の各文末に全て、「と思う」をつけて下さい。

 あの話を裸CDだけで遊んだとしたら、今の状態には届かず、やりきれない思いが勝っていたに違いない。
 マニュアルのあの一文が、ゲーム全体を説明しているように感じられる。「わたしはいつも、ご主人様の夢を見ます。」これがあったあのマニュアルは、まさに説明書の名にふさわしかった。
 『フロレアール』がメルンの見る夢の中の世界で、しかもその夢は「ご主人様」が必ず出てくる夢なのだと、この文章は言っている。それだったら、主人公の運命があのように決まっているのも無理からぬところだ。主人公は、メルンという神の見る夢の中の一登場人物であるというのだから。愛犬のクラマスと同じ位置づけだ。
 自身が何かに操られていることに勘づいた彼は、天才的な直観でメルンを神の代理と見なす。エンディング5に至る教会のイベントで、彼の想定には以前の職業の色がつきすぎているけれど、対象は的中させていたのだった。
 その結果(←この接続語が今日一番の思い込み)、主人公もメルンから離れて独自に夢を見られるようになり、一旦はメルンの夢から退出する。しかし、数ある夢の中から彼にふさわしいものを検討した結果、最後の最後で、彼はメルンと二人で過ごす夢を選び取る。
 互いが独立に見るはずの夢が完全に一致するという奇跡を迎えて、物語は閉幕する。
 こんなにメルヘンチックな締めでいいのでしょうか。

 あ、化粧箱にも書いてあったか。今確認しました。
 どこまでがゲームなのか。確かにそのあたりはグレーゾーンだと言えましょう。


4/17(木)

 そうはいっても作者がらみで縁を得られるという、この日記にとってだけの独り遊びの得はあったもので、その勢いを得て『フロレアール』(13cm)をようやく終わらせることができた。
 ラストがあまりにもきれいに、説明書の最初のページの「わたしはいつも、ご主人様の夢を見ます。」という一文を回顧させるかたちで決まったことについては感心するほかない。しかし、そこに行き着くまでの辛さも容赦なかった。エンディング前の最後のイベントでは、専用グラフィックが登場して文章が二三行出てきた段階で、体温が上昇してくるのを感じた。めまいもしてきた。
 この理由はいけない。そんな理由づけは、理由がないのと同じだ。ないような理由は、理由をつけられない意志のようなものと変わりない。そんな流れで、主人公が好んでかつ本気でメルンをあのような目に遭わせようとしていると思い込み、ここでゲームを中断した。
 そのままプレイを断念しようとも思った。これ以上、彼の行動でメルンがいたぶられるのを見たくはなかった。でも、もう既にイベントは始まっていたのであり、このまま止めてもメルンは永久にあの状態のままなのだろうと想像したとき、先を読む気が湧いてきた。アルコールの力を借りて(弱虫)。
 結局、想像される最悪の展開ではなく、そのこと自体は歓迎すべきことだったけれど、ゲームが終わったときもっと安堵したのが正直なところだった。そんな主人公でも慕ってくれているメルンは彼に任せる。自分はこのゲームには居たくない。

 一言でまとめれば痛い目を見たのだけれど、痛い目の待つように枠をはめられればその範囲で何か考えたりするあたりが、所詮はソフトの国の人である自分の限界なんだろう。
 ああ、そういえば一つ、気になることがあった。祈りとは、誰かに頼んで効果を出してもらうものなのだろうか。
 自分は誰かに助けてくれと祈ったことはないような気がする。自分が何かに向かって祈るときは、その何かは自分とは関連のないもので、また、祈りが直接影響を及ぼすのではなく、対象が確率的に良い目を引いたようなあり方で結果的に願いがかなう形を取ればいいと強く思う。
 それは一般的ではないのかも知れない、というか、それは「祈り」ではないのかもしれないという思いを、『フロレアール』は自分に残していった。このことは頭の隅に置いておこう。


4/14(月)

 DVD版『ピンポン』を借りて観た。

 ゲームが持つ競技と遊戯の二面をそれぞれ受け持った二人がこの映画の主役になっている。遊戯は常に閉じた遊びであって、敵を、外部を、他人を、必要としない。でも、そんな彼スマイルが世の中と接点を持てるのは、この二面を兼ね備えたゲーム、この場合はピンポンがあったからだった。
 もっとも、他人に才能があるかどうかを判定できるくらい、彼には外側が見えている。そんな彼の断言が、本心から出たものであるといいと思う。外界を遮断するための、反射的な、それゆえに厳しい形を取って出る、社交辞令ではないことを祈る。それが本心であれば、逆に、ピンポンへのスタンスについての「暇つぶし」という自己言及の方が誇張であることになるから。それは、彼にとってとても幸いなことであるだろうから。

 結局世の中は対戦型で、彼もそれに組み込まれざるを得ない。最後の試合に向かうあたって、彼は容赦しないことを誓った。
 それまでの彼のスタイルは相手の事情を斟酌して(たとえ意識的でなくても)攻撃の手が緩むというもので、そういういわば負けに行こうとするあり方は、勝ちに行こうとするのと同じくらい遊戯にとって不自然だった。「勝ちに行こうとする」のは試合では当然のことなので誰も口にしないけれど(強引なやり口で「勝ちに行く」のはまた別)、遊戯の最大の目的は遊び続けることにあるはずで、勝とうが負けようがそこでゲームが終わってしまうのだから、遊戯にとっては排除すべき態度なのだ。彼は自らの意に反して外部からの影響を受け、それにどう対処したらいいのか分からない、丸腰で戦いの場に立たされる人だった。
 勝敗をついてくる結果として認め、遊べる範囲内で全力を尽くすという態度は、遊戯の側にできる最大の武装で、それがあってようやく両者が同じテーブルにつける。それを身につけた彼は、遊戯の側に自覚的に足を一歩踏み入れたことになる。このまま彼がその状態に留まっていられれば、彼の方針を持続させつつ対戦社会に参加し続けられるだろう。社会はきっと彼を受け入れる。
 もし彼が自己の立場に徹底的にこだわったなら、試合をする必要はなくなり、他人と関わることもなく、ひたすら壁打ちに明け暮れる日々が彼を待っていてもおかしくなかった。あるいは、それを是と主張する強さが彼になかったのかもしれない。そしてその分だけ、物事は良い方向に回っていったのかもしれない。時間内に映画が終わるという事情を抜きにしても、彼のためだけにも。

 遊戯を積極肯定するばかりではどれもこれも『未来にキスを』(otherwise)になってしまう。『ピンポン』のようなものが大勢であってほしい。
 あと、このタイトルを性懲りもなく引き合いに出す自分もそろそろ大概にしたらどうかと思う。


4/12(土)

 『彼岸過迄』読了。
 むむむむ。設定でがんじがらめにされながら、その設定に見合う感情を持てない男の物語。そしてまた、冒険や事件の話を目の当たりにしながら、自らは決してその舞台に上れない、無色な主人公の出てくる物語。
 ノベルタイプのギャルゲー以外では、自分はこういう内容の表現物にお目にかかっていなかったんじゃないかと思う。ここはまあ、笑うところだろう。

 思えば、話が走り始めるまでの序盤は軽妙な台詞回しで楽しみ、後半は話の中身を味わう、というのは、まさに自分が好んでいるギャルゲーの受け取りかたなのだった。ストーリーを仕込んでいる最中なのでお待ち下さいと、お茶請け代わりに出される文章の面白いこと。
 やがて展開される物語は、破局の表だった辛さまでにはいたらず、その分だけ穏やかに痛い。やがて来るその痛みを予感して怯えながら読み進めると、そのような痛みと引き替えに訪れる種類の萌えポイントがあったりして、その直撃に沈むのだった。
 自分の意志に拠ることなく、二重三重もの外来の条件のおかげで近しくしていられる女の子と、二人羽織ばりの共同作業で電話に応対するシーンがあって、これが超強力。おそらくは明治時代のこととて送話部は本体に据え付けな旧式のものなのだろうけれど、うっかり黒電話でも想定したりした日には、ほっぺたが密着するのが思い浮かんだりして、ちょっと考えてみれば長続きし得ない風景ながら一瞬のイメージで間違いなく萌え死ぬ。まったくひどい小説だ、こんなにも自分を苦しめるとは!
 そして、本作の主人公役は物語的には決して主人公などではなく、ただ読み手に近いからという理由でその地位が与えられているに過ぎない。彼はなんと終盤では姿を消してしまうのだ。いったいどこへ? ここか! 自分のもとへ来ていると、この書かれ方はそう主張しているのか! どうも姿が見えないと思ったが、それもそのはずだ。
 部外者であるからこそ一定の安心感を持ってこれらの事象を眺めていられる。主人公と自分の立場の類似が、ここでは有無を言わさぬ一致にまで高められているのでした。
 「ストーリーなんて半ばどうでもいい」とはつくづく暴言だった。馬鹿丸出し。

 大変に面白かった。また、改めて、ノベルギャルゲーという形式もすごいと思わされました。
 なになに、巻末の解説を読めば『彼岸過迄』は割と低評価なのだとのこと。このデキで? ならばもっとずっと面白いものが他にあると期待していいというのか(あくまでギャルゲー的に)?


4/9(水)

 ゲームを遊ぶゆとり(時間の・気持ちの)がなくても本を読む時間なら少しずつ取れるというのに加えて、最近自分の使う語彙のひどく乏しいのを実感してそれを補いたいという下世話な望みから、ちょっと昔めの小説など読んでみようと思い、『彼岸過迄』(夏目漱石著・角川文庫クラシック版)などに手を出してみました。
 これが大変に面白くて、それも狙い通りに、いや期待をはるかに上回って面白いので大喜びしています。出てくる語句も言い回しもいちいち、意味は通るけれどもそんなふうには自分は使いそうにない用法で、目から鱗が束になって落ちていく思い。一ページごとに「Yes! Yes!」てな感じです(←この辺が勉強の必要あり)。
 そのうちあれもこれも使ってやろうとたくらんでおります。何せ漱石先生のお墨付きだ、間違いなどあり得まい。こちらが語釈を間違えていたらどうしようもないけれど。

 あんまりそちらの楽しみ色が強いので、もうストーリーなんか半ばどうでもよくなり、それにこのペースではいつになったら読み終えられるかも分からない。
 あと、冒頭の、言い訳がましさの中に自信がないようなあるような調子を含ませた前書きには驚かされました。
 こんなに面白いんだったら、もっと早くに読んでおくんだったなあ(面白がりかたが正当かどうかはともかく)。


4/7(月)

 やっとめどがついた。もうへとへと。自分はソフトの国の人(=無力)なんだと再認識しました。
 それでも、
PS2版『怒首領蜂 大往生』プロモーションムービーがあまり苦労せずに見られたときは、慣れないハード(というかインフラ?)いじりを頑張った甲斐があると感じました。
 うーむ。このゲームを自分で遊ぶことはあんまりないんじゃないだろうか。


4/4(金)

 考えてみれば、PCの新調にしても高価なゲーム機を買ったのと大差なくて、買ったまま結局現在まで使えるように調えていないのは、可能性を手元に置いた時点で満足していることの現れなのだろう。
 ゲームソフトを買って遊ばずに積み上げておくのと同じ。忙しいとか暇がないとか、いくらでも言い訳は生まれる。現状ができてしまえば、理由なんか後からいくらでもつけられる。
 もっとも、そんなことを言い訳なんて感じる時点で気分が正調でないとも言える。じっくり構えてゲームを遊ぶ意欲が訪れるのを待つか、無理矢理にもゲームの中に自分を叩き込んで再生させるか。

 総じて活力減退の今、前者の方法でいつ立ち直れるかそもそも立ち直れるのか不安だったので今回は後者を選ぶことにし、未開封の中から廉価版『月華の剣士ファイナルエディション』を立ち上げてみました。
 封を開けようと手に取って初めて、このタイトルがドリコレ版ではなくメーカーの自発的な価格設定によるものだったと気づくし、ソフトを入れようとドリームキャストの蓋を開けた際には修理以来ほとんどまともに立ち上げてないことが思い出されて、一事が万事この調子、全くやりきれない。

 格闘ゲームの駆け引きやら連続技やらコマンド超絶入力やらにはとんと縁のない自分であってみれば、キャラクターの皮を剥ぎ取ったこのゲームの面白さについて述べる資格はなく、ただひたすら、購入の引き金になったグラフィックの渋い色遣い、細やかさと大胆さがない交ぜられたモーション、剣技・妖術・控えめな舶来要素が不思議に調和した「幕末」世界、などなどを、難易度を最低に落とし、デモ画面も飛ばすことなく、ゆるゆると静かに鑑賞していた……のだけれど。
 一閃。決。
 勝負が完全につく二本目(デフォルトでは)のとどめに「超奥義」なる必殺技を決めると、キャラによっては相手が一刀両断されるのでした。
 一太刀から遅れること数瞬、肩から腹へ斜めに入った斬り跡から鮮血が吹き出る。ここまでは一本目も同様、しかしこの後、無念のつぶやきとともに上半身がスライドしはじめ、そして二つに分かれてくずおれた体は点滅して消えるのだった。それに続くは爽快さとはほど遠い、悲壮感にあふれた勝利デモ。勝ちをちっとも喜べません。
 それを見て密かに震えながら、自分はどこかチャンバラごっこじみた楽しさが見たくてこれを選んだのかも知れないと思いました。真剣勝負だもんなあ、そんなのお門違いだ。

 もっとも、そういうニーズに応えているかのようなちびっこキャラもいるにはいます。そして彼女は、たとえ切り捨て御免キャラに致命傷を食らったとしても、どうやら分身の術か何かを発動させるようで、無惨な目からは逃れられている。
 その仕草や、関西弁(と一緒くたにするのはおそらく間違い)でありつつ英単語をひらがなで(説明書表記より)発音する二重のミスマッチさに和みかけつつ、いや待て、もしかしたら妖怪を操るこの子は自身がもはやこの世のものではないんじゃないのか、他のキャラが身にまとう戦いの凄惨さとこの子が無縁でいられるのは文字通りそんな浮き世の縁がすでに無いからじゃないんだろうか、などといったことが設定を全く知らない無責任さで想像され、やはり背筋が寒くなるのでした。

 荒みがちな気持ちが、似通った雰囲気のゲームを引き寄せたのかもしれません。
 スタンド使いは引かれ合う、とでも言いたくなるような巡り合わせで。



Back
inserted by FC2 system