ゲーム+α日記(2003年5月)

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5/31(土)

 本日にてめでたく『ゆめりあ』コンプリート。
 七瀬の戦闘ルートにおける不遇さの理由が明かされるなんて! そこら中に謎設定が散らかっているから、そのままで終わらせられたとしても謎が一つ増えるだけで、気にすることは全くなかっただろう(←ゲームに対して従属的すぎるだけ)。
 専用イベントでいきなりの泣かせる話。大いにとまどう。こんな方面まで手を広げるとは、懐の深いゲームでありました。
 しかし実のところ、主人公を守り抜こうとする決意が高じて、彼より上位の存在になっていたように思われる七瀬さんというひとに、恋愛感情なんて抱けるものなんだろうか。守る気持ちで覆い尽くされてしまったら、彼女は主人公の周囲どこにでも遍在して、彼が感情を向けるべき定まった対象としては固まらないんじゃないだろうか。話が終わって、未来が変わって、それでもう二度と守るなんて言わない関係になっていればいいと思いました。

 そういえば、自分の夢・他人の夢という規定は、このルートでも出てきていた。それはあるいは、広がりすぎた設定に一本の道をつけるための強引な導きに過ぎないのかも知れない。
 いや、そう思った方が気が楽になる。他人の夢の中にいるかもしれない自分なんて、そんな恐ろしいことは、想像しない方がいい。


5/29(木)

 『ゆめりあ』も残す一人、遠縁のお姉さん・七瀬ルートに向かっている最中。
 年上(主人公より6歳年長)より子供の方が優先順位が上になっている自分を直視しつつ、今回は必ずしもそれだけのせいでラストに回したのでもない(と言い訳めかす)。この人は、他のキャラが魅力を存分に発揮している戦闘モードで不遇な目に遭っているのだった。脇役としては味があっていいのだけれど。

 ところでこのゲームのシナリオで、疑問が二点ある。
 一つ目は、他のキャラたちがなぜ夢世界のことを「主人公の夢」だと説明されて納得したのかということ。
 「何いってるの、わたしが見ているのだからわたしの夢に決まってる、あなたがわたしの夢に出てきたんじゃない!」と反論するのが自然じゃないのだろうか。
 二つ目、これはネタバレになるけれどバラしても気にならないので字の色を変えずに続けると、主人公が他人の意志を変えてしまったのではないかと悩むのに対して、「自分がやりたくてやっているのだから気にしないで」と説得される場面。なぜ彼はそれで納得できるのか。それでは悩みへの答えになっていないではないか。その気持ちこそが変化の証ではないのかと、なぜ疑わない?
 どのみち答えは得られないから諦める、という描写があれば分かるのだけれど、彼はそうじゃなくて、これをそのまま受け入れているようだ。

 シナリオがこのゲームを支配しているとは思えないから、流していいのかも知れない(このネタバレをそんなには気にしないのもそのせいか)。ただ、何となくあの破天荒なシナリオに引っかかりを感じるのは、話の軸になっている、このゲームの主人公が持つ能力が、ゲームの主人公たるに値するものであるからだ。それが認められるから、他の部分にも何かしらの理由があるのかも知れないと思うし、あるならばそれを見逃したくないとも思う。
 さてしかし、これらをうまく説明する原理は見つけられていない。果たしてそんなものはあるのか。


5/26(月)

 しかしここへきて評価が下がるのは、下がるまで自分が評価を上げていたからで、いつの間にか冷やかしでなく本気でこれを相手にしていたのだなあ、と思い返しながら、『ゆめりあ』メインヒロインのモネルートをクリア。
 口に出せるのが基本的に「もね」のみ(「もねもね」「もねね」は可、らしい)という設定に対して、それを登場人物の誰一人としてハンデ扱いしなかったのはすばらしい。だから、エンディングのモネはどうなんだろうと思ってしまう。
 むむ、そのことばかりが印象深くて、話がさっぱり思い出せない。自分にはこの話の筋を追う力がありませんでした。

 そしてもう一人、ねねこルートも踏破。大きな耳帽子をかぶって首輪をつけて、魚を食べてこたつで丸くなって(本人談)、感情表現が「にゃーん」で名前がねねこ、よくぞ揃えた! 数え役満!
 本体と独立して動く帽子が気になってしかたありません。考え中のポーズで片耳だけ垂れたりするのを見て、技術の進化に思いをいたす今日この頃。
 そんなふうにくるくる動くねねこだからこそ、話の後半との間にギャップができて効果抜群。それでも後半部は、小さい子に込み入ったことをしゃべらせるのに偏執的であるような匂いを感じずにはいられませんでした。
 って、ストーリーはどうした(覚えてません)。

 モネにしてもねねこにしても子供であり、ただし年齢は明らかにされていなくてそれはある意味とても嫌な感じではあるけれどそれはともかく、そのかわいさは小動物的(後者は文字通りか)で、それこそゲーム中に出てくるように、頭をぐりぐりとなでて反応を見るのが面白いと思います。
 そのような感じと大いに食い違っているのが戦闘シーンでのおさわりで、二人の全身像が映るだけに身長差が目立ち、これはまずいだろうと思わざるを得ない。
 二人のどちらも、最強パワーチャージにおいては抱きかかえられるのでした。というか、見つめ合う二人のアップからカメラがずっと引いて、抱っこされているのが分かるという塩梅。
 何やってんだ主人公。


5/24(土)

 『ゆめりあ』九葉ルートクリア。画竜点睛を欠くシナリオ進行によって、上がる一方だった評価が急降下。

 9話以降の九葉専用ルートの内容は、5/18の最終パラグラフのようなオヤジ思考の遊び方に鉄槌を下すものでした。
 そしてこれまでにないことに、戦闘シーン中にも特別な台詞が入り、ついには強制進行したりする。ここでは、もっぱらキャラルート選定場として機能してきた戦闘シーンが、正式にイベントとして組み込まれています。
 そこで自分は、プレイヤーがコマンドを入れる戦闘シーンでも、その戦い方によってシナリオが変化するものだと信じました。そう信じて、戦闘内容までも物語に取り込んだ意欲作だったかと大いに感心し、これまでの浮ついた心を反省さえしながら、割と苦労して想像した条件を満たすようプレイし、予想に沿ったハッピーエンディングを見ました。そこまでは満足満足。
 悲劇はその後、仮想した条件を検証したときに起きました。どうやら、条件なんてものは、自分の空回り、思い過ごしだったようなのです。
 勝手に想像して勝手に楽しんで、実際にはそうじゃなかったら落胆する。きっとわがままなんでしょう。でもそこは根幹じゃないのかと、そうじゃなかったら話が成り立たないんじゃないのかと疑う。うっかりミスじゃ済まないと思います。

 ネタばれにつき反転しますが、九葉が戦闘に参加することで事態が悪くなるという運命を変えるには、九葉抜きであの強いラスボスを倒さなければならないだろう。もし九葉の攻撃力に頼ってしまったなら、勝利はしても運命は変わらず、少し前に警告されたとおり、一度見た歴史を繰り返すことになる。そのことを、具体的に語りかけずにプレイヤーに悟らせるために、最初に強制イベントで失敗例を見せたんじゃなかったのか。
 運命を変えるなんて大がかりなたくらみのためには、日常会話の順番の入れ替えなんて些細なことではなく、九葉以外のメンバーで難局を乗り切ってみせるとの主人公の強い意志が必須だったと思います。自分は協力したつもりだった。なかなか大変だった、あと一撃食らったら全滅というところまで味方全員の体力を減らしながら、何とか勝って見せたさ、なんたってかわいい九葉を守るためだもの(←処置なし)!
 その後で、試しに九葉中心で戦ってみたらあっさり片づき、全く同じエンディングへ。それ以上干渉しなくても、世界の運命は既に好転していたってか。ここでみんなの思いを無にする、後味の悪いバッドエンドがあってこそ、ハッピーエンドが引き立つというものなのに。
エンディングを二度見て、九葉がエンディングの世界にいることの有難味が加速度的に薄れていくのを実感しました。

 あーもう、道中のイベントすべてが、計画通りでなく、その場の思いつきで並んでいるんじゃないかと思えてきた。九葉に会えなくなっている主人公の精神的彷徨を表した場面にはゲーム世界の悪意を感じて腹が立ち、起こったところでどうすることもできない我が身の無力さを呪ったものでした。ゲームに踊らされているという点でプラスだったその情念が、今やマイナスに性質を反転させ、ゲームの中から外に向かいかけています。
 この『ゆめりあ』不信、どうしてくれよう。さっさと他のシナリオを見て、作りの不確かさをチェックするしかないんだろうか(←結局遊ぶのか)。


5/21(水)

 戦闘シーンだけでこのように楽しめるくらいなので、そこにイベントが加わった『ゆめりあ』九葉ルートは鬼に金棒の勢い。

 九葉の登場は全キャラ5人の中で一番遅く、それだけで主人公争奪レースには出遅れていますが、それは彼女の立場とも重なるものでした。
 彼女は8歳のときに主人公と別れて海外へ引っ越しますが、それは幼いなりに考えた身の処し方であったのだということです。もともと彼女はレースから降りた人だった。
 その意識を引きずってか、九葉は帰国してからも、主人公のいる家に居着いたりはしません。そこは彼女の実家だというのに(主人公は遠縁の親戚の家に居候中の身なので)。
 でも、一度は表舞台から姿を消したはずなのに、なぜか彼女は主人公とよく行き会ってしまいます。ときには二人きりになったりもします。いつもならにぎやかなはずの夢の中や学校の前で、打ち合わせもなく。
 専用シナリオに至るまでの九葉イベントの裏には、ゲームに(プレイヤーに)フォローされた、彼女の敗者復活的な気持ちがあるのではないかと思います。そして、それまで自信が持てなかったのに対して、復活の権利を勝ち取るきっかけを、ビーチにおけるイベントで彼女はつかんだのではないか、と妄想したりもするのです。

 みんなで海辺で遊ぶイベントにて、集合に遅れた主人公は、まだ気づかれないうちにそっと、もう全員集まっている女の子たちの様子をのぞき見(ることができ)ます。3D表現を生かして拡縮・回転可能なそれぞれの水着の装いをしばし観賞していると、やがて時間切れとなり、主人公が来ていることがみんなに伝わります。
 このとき、ほかの4人を凝視していた場合は、主人公のそんな態度が格別突っ込みの対象にはならないのですが、九葉を選んだ場合だけは、本人直々の応対が待っています。
「ズバリ、堪能していただけました?」
 これは彼女の勝利宣言だと思う。そして、裏を返せばそれは、このようなことを書かざるを得ないと思う自分の敗北宣言にほかなりません(そんな形式ばるところでもない)。

 日曜以来8話から先に進められていないので、これまでのおさらいなどしてみました。
 ああ、こんなことではオールクリア前に5月が終わってしまう。


5/18(日)

 文句は垂れながらも直ちに取りかかるあたり、結局は楽しみな『ゆめりあ』、お次は2つ年下で遠縁の帰国子女:九葉(くよう)に照準を合わせて再開。
 攻略相手をあらかじめ決めておくのは自分としては結構珍しい遊び方です。しかし本来、この子が真っ先にクリアされるべきでした。登場が他のキャラから一歩遅れるハンデがあったばかりにみづきが先に回ったけれど。
 なぜなら、登場人物の中でこの子が一番かわいいから。
 もうだいぶどうかなっている様子が、この辺から窺えます。何だその「かわいいから」って。もう何しろ、まとまった時間があったしそれほどの長話でもないであろうと思われるのに、九葉ルートを本日中にクリアできませんでした。キャラ別に話が分岐するという8話、そこまでで既にお腹いっぱい、これ以上は消化不良を起こします。中断。

 九葉のチャームポイントは目にあります。あの大きな目の描かれ方は『ゆめりあ』のネタっぽさを引き立てていますが、それが九葉の場合はみごとに魅力に転化されている。
 というのも、この子は「目を微妙に細める」演技が巧みなのです。もともと目が細いのではなく、目を「細める」。これは、始終動きっぱなしをコンセプトとしているらしいこのゲームに打ってつけの感情表現だと思います。
 彼女が悪意を持ってそれを用いれば、その視線はこの上なく冷たい、汚いものを見る目つきとなってテレビの前の我々を刺し貫くことでしょう。しかしながら、九葉は主人公に好意を持っています。諸刃の剣と言うべきその威力をプラス側に発揮してもらっていることに、ことに戦闘シーンでは必ずと言っていいほど感謝するのです。
 それまで手前勝手に敵と対峙していたのが、好意の上昇とともに主人公の指示を仰ぐようになってくる。それがこのゲームの戦闘時における約束事ですが、このとき、その元気さにふさわしく、防御や回復ではなく攻撃を指示することで、微妙に目を細めるあの満足の意思表示が拡大表示で見られるのです。
 いやー大したもんだ。感心するしかありません。

 ときに、その戦闘シーンで喜んでばかりもいられない事態が、自分の気持ちの中に起こり始めていました。
 主人公のおさわり攻撃補助行為「パワーチャージ」は、誰にでも気安く施せるわけではありません。基本的には攻略対象キャラだけに発生するイベントなのです。攻撃力が上がるので、さわるの見たさを脇に置いても、戦闘メンバーの組み立てが自然とその子中心になってきます。
 しかし戦闘に出れば敵からも被弾するので、ダメージが次第に溜まっていきます。今回の九葉の場合は特に撃たれ弱いので、強敵相手だとふらふらになり通し。
 そこで、
「うーむこれで四連戦か、彼女ももう傍目にも分かるほど疲れている。しかし本人は大丈夫と言っていることだし、若いからまだチャージにも耐えられるだろう、よしGo!」
 …「若いから」。知らず知らずのうちに心に巣くうそれはオヤジ思考。恐るべし、戦闘シーンのメンバー選択システム。これが自分のエロオヤジ性を密かに開発しつつあります。なんとお節介なソフトだろうか。


5/17(土)

 あー遊んだ遊んだ。『ゆめりあ』幼なじみの、というよりクラスメートのみづきルートクリア。
 クラスメートという属性はすばらしいと改めて思いました。好きだなんて表に出さなくても近くにいられて、それでいて話し込んだりしていると立ちどころに冷やかされる、つかず離れずを保証する環境が、自分は大好きです。
 しかも後半、主人公と同じ家に引っ越してくる始末。やむを得ない理由だ、悩んでいるみづきのためとあれば受け入れなければ。さらに「同じ夢の世界で一緒にいてしまう」という基本設定も足して、三重の束縛が二人を結びつけるのでした。
 はあ。

 ところで戦闘シーンのみづきさんは、敵と戦う興奮に酔いしれ、きっと何を口走っているのか分からなくなっているに違いない。
 攻撃力を上げるためのおさわりを「さあ、一緒に!」とねだるわ、戦闘が有利と見るや決定打を加えたい一心で「アレをするときね」とより謎めかせて(おさわりを)迫るわ、挙げ句の果てに敵にとどめを刺すときの「痛くしないでね」はもはや場面とかみ合っていません。
 ゲームの雰囲気は決してそれを推奨していないだろうと思いつつ、みづきに悪いからと攻略対象オンリープレイ(=みづき重点おさわり)を通したことで、自分の小心者ぶりを再認識しましたが、そんな惨めさも、これらの場面を見られたことで報われた思いがします。
 ゲーム完成まで騙され続けたナムコは偉い。いやそうなんだろう、と思うくらいの信頼を、ナムコブランドには持っているつもりです。

 シナリオが概念拡張化の連続で訳分からないのを差し引いても予想以上に楽しめたので、他のキャラのシナリオも是非進めていきたい。のだけれど、あのタルい戦闘シーンを繰り返すのかと思うと、リスタートへ向かう勢いも鈍りがち。
 攻撃のたびのエフェクトが長いし一ターンごとにメンバー選定しなきゃいけないし。主人公の他には二人しか戦闘に参加できないのはなぜだ。全員で撃ち込めよと言いたい。
 弱るとちゃんと台詞が変化するとか、面白いところはあるんだけれども、とにかくテンポが悪い。ビームを撃つモーションなんかどんどんすっ飛ばしてくれればいいのに。おさわりシーンは何度見ても笑えるからいいけど(←そんなに気に入っているのか)。


5/16(金)

 あれ? 『ゆめりあ』が面白く感じられるようになってきたぞ?
 どうやらこのゲームの、主人公が疎外されることで話を進めていくやり方を理解したのではないかという気がします。
 思えば、ギャグを投げかけた相手の反応を期待せず、代わりにそれを見る側が面白がって、それでその場が済んでしまうという形で展開していくパターンが、これまで遊んできた読み物ゲームでは多かった。そんなふうに扱われたとき相手がどう思うかが、このゲームで人の話を聞かない面々に向かわなければならない主人公の気持ちから推察できるように思います。
 このゲームでもいつもの話の推進力はあって、ただそれが攻守ところを変えているのだろう。

 うー、しかし前向きに捉えられるようになったというのに、未だに肝心のゲーム進行は3話終了どまり。せっかく短尺な一話ごとに話が区切られ、切り上げ時が明確になっているというのに、それに沿った毎日一話ごとのプレイさえ時間が許さない。
 結局、週末に勢いをつけて突っ走るしかないのだろうか。


5/12(月)

 『ゆめりあ』に接しようとすると、以前に『セガガガ』を遊んでいたときと同じ気持ちになる。
 この存在自体がネタであるようなゲームを、自分は十分に楽しむことができないかも知れない、いや楽しめないに違いないという残念な確信が湧いてくる。
 きっと、自分が気にも留めずやり過ごす台詞やしぐさのいちいちが何かを参照していて、違いの分かるプレイヤーを爆笑の渦に巻き込んでいるのだろう。
 ちくしょー!
 いじけながらゲームを遊ぶのは正直切ない。
 そういうコクのあるゲームに、月末に本命を控えた状態で手を出すのは避けた方がよかったかも知れない……

 そんなふうに疎外感を弄びながらゲームを進めていたら、夢世界での戦闘シーン解説なる場面に出くわした。
 主人公の16歳男子は夢の世界で、現実世界の知り合いたちと一緒に、巨大な幾何学模様と戦います。よく分からないがとにかく襲ってくるので倒す。今のところそんな理解。
 で、彼は仲間に力を与えるという特殊能力を持っています。なんと、対象に触れるだけで驚異の戦闘能力が付加される。そして当然のように仲間は女の子。
 考えるもんだなあ。キャラのモデリングや、夢世界における各人の変なスーツなども含めて、いやらしさよりもいかがわしさが想起されます。このいかがわしさは面白さの半歩先を行っていると思いました。

 疎外と言えば、主人公も現実世界では疎外されている。彼のあまり物を考えない性分が本人を救っているから、現状では共感のお呼びはかかっていないけれど。


5/11(日)

 もしかしたらこれもまた、最新技術なのかもしれない。
 遅れを取り戻すために、ここで思い切って跳躍を。
 していいものだろうか。

 店で「なぜ俺はこのゲームを持ってレジに向かっているのだろう」と自問自答せずにはいられなかったけれど、この光沢の強い、目のパッチリしすぎたキャラクターたちの描かれ方への期待が、最後にはためらいを押し切りました。
 
『ゆめりあ』スタート。
 造形には割とすぐ馴染めたのだけれど、『まじかるで〜と』を許容したのと同じような、ユニークな生物を不躾に観察する意識に混じって、幼なじみが首を傾げた際の、垂らした髪がふわりと揺れつつ肩に掛かって静止するまでの一連の動きなどに目を奪われたりしているのも否定できず、ああこのようにして3D星人たちに侵略されていくのだろうか。
 いや3Dじゃないか。2Dの中の3D。ややこしい。


5/8(木)

 いつものペースよりずっと急いで遊び終えたものだから、まだ書き足りない。ということで、Memorial Games更新:モエかん
 しかしこれ、考えてみれば、先月遊んだ『フロレアール』(13cm)の、説明書や陵辱にもきちんと意図があるという教えをそのまま引っ張ってきているのだよなあ。分かったと思う範囲で何かを書くとき、その範囲が直前の教訓をもっとも色濃く残し、それが何に由来するのかバレてしまうというのは、特に我が身のことであれば、成長の印であるなどと胸を張ることはできません。影響されすぎで恥ずかしい。
 PS2移植版は無難な泣きゲーになってしまうのだろうか。

 ときに、汚れた顔を主人公に拭いてもらうなどという驚くべき受け身なシーンで、リニアが上げた「あにゅ」「あにぁ」という声の反応を思い出すと、もうたまりません。当方にとっての『モエかん』一押しの萌えポイント。
 なんていうふうにそこだけ取り出して浸ることも、自分で戒めてしまったことになる。このゲームでは、その遊びはあの辛い調教シーンを引き連れてくるのです。
 萌えが駄目なわけではない(いやダメなのは確かか)けれど、今回ばかりは胸の内にしまっておくしかないだろう(←全然しまえてない。あと、胸の内でも結局萌えてるのはいかがなものか)。


5/5(月)

 『モエかん』終了。
 楽しみにしていたものの結果的にラスト攻略となった秘書・霧島のシナリオがへなちょこで、またも別の意味で泣きそうになりました。こんなにバラエティに富む泣きの種類が味わえるとは。
 しかしイベントの出方は『To Heart』(
Leaf)方式ではなかったのだなあ。期日固定タイプだったか。順繰り消化方式はいい発明なんだから使えばいいのに。
 日付の辻褄合わせが面倒かも知れないけれど、思い切って一度バッと飛ばしてしまえば気づきゃしません。いや気づくか。それでも、今回のように「起こしていないイベント内容が後日のイベントで参照される」ことの不自然さに比べたら被害は小さいと思います。

 ゲームを終わらせてネット巡りを少ししてみて、世界設定の伏線が多数未回収だったことに気づかされた。見逃していました。それを気にしなくてもいいと、どこで頭に叩き込めたのだろう。
 探してみたところ、面白いことが説明書に書いてあるのを再発見しました。
 ゲーム画面紹介のページで、AESなるシステムについて記述されている。AESとはオルタナティブ・エモーション・システムの略で、「キャラクターの内面・幻覚・夢などを表現するシステム」とのこと。で、実体はといえば、画面下方の枠の中に収まっていた文章が全画面表記になり、背景のグラフィックが若干暗くなるというもの。新しいシステムかと思いきや、かえってレトロになってます。
 直後に「AESモードでは画面が暗転し、ビジュアルノベル的な表現手法になります」と自らオチをつけているので、これが狙ったものであると分かり、安心して笑うことができます。類例としては、と遊んだことのないものを引き合いに出して気まずいのだけれど、『里見の謎』というクソゲーとして名前だけが売れてしまったゲームの「プログレッシブ・マップ・リンク・システム」ネタが思い出されます。2次元マップを縦にしか移動できないシステムのことをこう呼ぶのだそうです。以上『超クソゲー』(太田出版)より。
 仰々しい設定はあまり気にしなくてもいいと、ここで学んだんじゃなかっただろうか。


5/4(日)

 『モエかん』(ケロQ)に全力で取り組んだものの、結局時間切れで4月中にはクリアできず。途中、裏ルートとおぼしき連続調教場面に突入したときには、表ルートとは正反対の意味で泣きそうになりました。
 そんな笑ったり泣いたりの忙しいひとときが中断されたので、その穴埋めになるかと思い、帰省先で『動物化するポストモダン』(東浩紀・著、講談社現代新書)を読み直したりしました。『モエかん』の冒頭に出てくる「大きな物語」ということばで思い当たり、以前は無理でも今度は少しくらい理解できるかもしれないと思って。
 本書に至る自分のこういうきっかけを、「大きな物語」という語でデータベース内を検索するうちに一つの論説にたどり着いたと解釈できるのだろうか?

 この本が説くところの「データベース的動物化」というのは、ゲームを確固とした目的なしにだらだらと遊ぶプレイヤーでいるときの自分に当てはめて共感できるものでした。
 一方、その例がよりによって『Kanon』『Air』(Key)でなくてもいいのに、とも思いました。どうも自分は、この話をどちらも、ストーリー抜きには始まらない、キャラクターがストーリーに従属するゲームだと捉えているようです。これが『みずいろ』(ねこねこソフト)とかならまだ納得できたのだけれど。
 あと、この本の題名は大変いただけないと思った。これを見て「ポストモダンというものが動物化していくのだ」と解釈するのは無知のそしりを受けても仕方ないところだとして、実はここで言う動物とは「データベース的動物」であり、対義語は「物語的動物」である、なんて明かされるのにはびっくり。どっちも動物じゃないか!
 ここは余計な「小さな物語」を作らないよう、「ポストモダンと動物化」みたいなタイトルにすべきだったと思います。七五調で語呂もいいし。

 語の使い方、合っているんだろうか。まあどっちみち、行動の分析なんてものは専門家にお任せすればよろしいのですが(と逃げを打つ)。



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