ゲーム+α日記(2003年11月)

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11/30(日)

 きっかけは何だっていいのだと思う。それはその通りだ。
 例えば、先月末から『ファイナルファンタジーXI』に北米プレイヤーが参入し始めたのを好機としてもいいだろう。
 それにしてもこのサービス開始は、いきなりこれまでと異なる言語体系が本格導入されるという点で、これまでなされてきた数々のバージョンアップに匹敵する、ゲーム世界内の大事件だと思うのだけれど、意図的になのかその周知はあまり努力されていなかったように思う。
 週刊ファミ通の常設『FFXI』ページにある内輪の座談会を見ると、対処に前向きでない様子がありあり。レアアイテムの追加情報よりよっぽど切実にフォローが求められている問題だと思うのですが。

 それは一例に過ぎなくて、とうに英語の「勉強」などという習慣から離れて久しい個人に、いっちょやってみるか、と重い腰を上げさせるのに功があれば、その形態はさほど重要ではないのだろう。
 というよりこれはむしろ、どのような付加価値が傍らにあろうとも、目移りすることなく頑張る、そんな集中力を身につけさせることを目標として編まれたのではないだろうか……?

 『萌える英単語 もえたん』(三才ブックス)は、「英単語帳」「女の子のグラフィック」「へんてこな例文」で構成された、学問への意欲と煩悩とがせめぎあう混沌の書でありました。公式サイトがあるって時点でどうかしてると言わざるを得ない。
 ここで、誰もがまず注目し最重要とするのは「女の子」なのでしょうけれども、さりげなく三番目の要素もインパクト大。
 参考書というのはすでに積み上げられた普遍の学問から切り出されて構成されているものだと思うのですが、本書の例文は極めて限定的。日本のごく一部でしか通用しない事柄が英語圏の人々との橋渡しになるという矛盾ぶりにくらくら来ます。
 元ネタが分からないものに出くわしたとき、胸をなで下ろすべきか残念がるべきか。それでもときおり爆笑したり困り果てたりしながら、英訳の練習をしてみたりしました。

 で、この本にどこまでその役割が求められているか分からないけれど、実用上気になったことをいくつか。実用とはこの場合もちろん勉強のためであり、単語帳を目の前にして他に何を指すというのか。などという正論の無力さ。
 レイアウトはすっきりしているし、字のフォントもかわいいし、どうしても肌身離さず持ち歩きたい人のために裏カバーの工夫に抜かりがないし、といいところばっかりのようですが、文字サイズが小さくて見づらいのが残念でした。読みとりにくいのは参考書としてちょっとどうかと思う。
 あと、日本語と英語の対応関係が日本語側に傾いているというか、訳文として若干ずるい(日本語が一文なのに英語が二文だったりする)のが目につきますが、それも切り抜け方の一つと思って納得しましょうか。
 そういうことを気にかけるのは、英単語帳を使った自分の勉強法が、英文を隠して単語と和文だけから英訳し、しかるのち英文と照らし合わせるというものだからです。
 ってこの英文、ほんとに信じていいのかな?

 あと、応募はがきに今後の展開についてのアンケートがありましたが、理科だったら『マンガ 化学式に強くなる―さようなら、「モル」アレルギー』(高松正勝/鈴木みそ、ブルーバックス)という強敵がいますな。
 あちらはきちんとストーリーを学習内容と絡めてきていたし、あれには敵うまい。


11/28(金)

 そんなふうに感情を揺れ動かしている合間に、少しずつ『式神の城II』を練習していて、もう少しでノーコンティニュークリアできそうなところまで来ました。難易度very easyで。
 分かっちゃいることだけれど、末永く楽しめる腕前なことだなあ。

 プレイ前は何らかのジャンルの一員と意識しているゲームが、遊んでいくうちに独自性を見せてくる過程が好きです。
 『式神の城II』で言えば、初めはシューティングとして接したのだけれど、敵を倒すことよりも弾を避けることのほうが楽しいと感じられて、今は最初とは少し違う「弾を避けるシューティング」になっています。
 このちょっとした違いが、自機の操作に反映されるようになりました。弾避けを楽しむために、画面内の弾幕の密度が適度なものになるよう調節するプレイになっているのです。

 弾は敵が撃ってきます。だから、画面に出たそばから弾を撃たせる間もなく敵を倒していけば、画面内の弾の密度は薄くなります。当然、死ににくくもなります。
 しかしそれでは面白くないのです。ゆったりと襲いかかる、一見逃げ場のない弾幕の中から綻びを見出す、その連続によってピンチを切り抜けたとき、非常な充実感が訪れます。せっかくのその機会をみすみす自らの手で潰すのはもったいない。
 一方、避け切れないくらい高密度な弾幕では、ミスによってストレスが溜まってしまい、楽しみどころではありません。そういうときは弾の元凶となっている手強い敵をいち早く間引いてやる必要があります。

 今の自分はこうして、楽しみと攻略との狭間で揺れながら『式神の城II』に取り組んでいます。
 最適な解は、ハラハラしながら何とかノーミスで抜けられるくらいの弾幕を生成させるようなプレイのしかたとなるはずで、たとえ弾避け能力がさっぱり成長しなくても、攻略要素をほどほどの匙加減で加えることでそれは実現するはずです。
 それを、「なんか俺、上達した?」と気持ちよく錯覚し続けられるうちは、このゲームと楽しくつき合っていけるでしょう。
 ……しかし、そろそろ難易度最弱モードくらいはクリアしてもいいんじゃないだろうか? 初めてからもう一月、いくら何でものんびりしすぎだろう。


11/26(水)

 自分が『月は東に日は西に』茉理シナリオの展開に怒った理由は、おとといちょろっと書いた、「おそらく普段の性格との対比というだけで、この話のヒロインに選ばれた」というところに集約されるのだろう。
 これは推測に過ぎない。確かなことは分からないし、分かりようもない。ただ、頭に浮かんだ時点で致命的な推測ではある。
 悲劇が起こるのに原因が探せないのなら、主人公と同じように嘆くだけだろう。しかしそこになにかが、それもゲーム世界の外側の事情が嗅ぎ取られるとしたら、主人公のように嘆いてばかりはいられない。振り向ける対象を見つけたとき、やり場のない嘆きはやり場のある怒りに変わる。

 それが誤りかどうかを知るために、早いとこ他のルートに進みたいところではある。もっとも、こんなふうに引っかかっているから進行が遅くなるのだ。

 あと、昨日のネタバレの中で、ネタバレを飛び越して妄想になってしまっていた部分を削除しました。本格的に自分語り(というか、自己紹介というか)がやりたいなら、別に場を用意してやらなければ。


11/25(火)

 昨日の自分は、ちゃんと怒ることに成功していたのかもしれない。大事なことを見落としていたのだから。
 怒っていれば、その怒りに気を取られて、ほかのことが考えられなくなる。それなら、怒ろうとするのに気を取られて、他のことが見えなくなっていたのなら、怒ることの効用が現れているのだから、それをもって怒れたことにしてもいいのではないか。
 以下、『月は東に日は西に』茉理シナリオのネタバレなので、反転します。

 茉理がマニュアルを探し、型にはまった行動を取る様子が、専用ルートでは頻繁に描かれる。それは、ゲームの展開と関係なく通期的に登場する。容態がよくないことがはっきり分かってきたクリスマスでさえ、その性格は変わっていない。
 茉理は、恋愛について、固定観念に沿って演じることを第一の目標にしていた。それらはおそらく、茉理が好きだと言っていた少女漫画の知識を援用したものだっただろう。
 繰り返し出てきたこの性格が植え付けられたからこそ、ラストで茉理の日記の最終ページを目にしたときに思いが去来する。普通、口紅で字は書かない。たとえ茉理が、姿見に書き置きするルージュの伝言の用法を知っていたとしても、それをこの場面に使うにはイメージの枠は狭すぎて、切羽詰まったあの状況は収まらない。というか、それは自分が思い浮かべただけだ。
 この土壇場で、ついに茉理は、彼女を律していた固定観念の縛りから解放された。それがあるからこそ、エピローグ後の茉理が一段と充実して暮らせるであろうことが予期できて、祝福を送りたくなったのだろう。

 茉理の性格を丁寧に描いたのも、その茉理に運命を背負わせたのも、同じくゲームの中だ。どちらか一方を取ってもう一方は捨てる、そんな身勝手が通用するはずがない。
 それでも、ひとたびキャラクターが生まれたなら、その命は慎重に扱われてほしいと思う。生まれて、生きていると感じられるのが貴重であるのだから。


11/24(月)

 このままでは永久に『月は東に日は西に』をクリアできないのではないかと思えてきたので、気合いを入れて茉理ルートに挑み、クリア。
 これまで書いてきたのはどれも共通ルートのもので、いわば前フリ。そこから読了までの道のりは、長い長いものでした。

 茉理ルート前半では、不器用な話の進め方が印象に残りました。ゲーム進行の長さをもって、茉理の思いを代弁させていたからです。解の一つではあるだろうけれど、イベントでうまいこと消化する手がありそうな気もしました(例によって気だけ)。
 ただ、目的地までの交通手段がはっきりしないときに歩いてたどりつこうというような着実さが、話に説得力を与えているとも感じられ、おおむね納得して読み進めることができました。
 途中、別の人と考えていることが同じでも、考え方まで同じとは限らないだろうに、と感じたことはあったにせよ。

 問題は後半。
 これには怒るべきなんだと思う。これまでの話の流れを一変させる展開でありながらその登場には遠慮が感じられず、キャラたちはただそれに従うことしかできない。
 しかし、自分は最初にクリアしたちひろルートで、どんな設定であろうとも受け入れることを約束してしまっている。それと根を同じくしたできごとが茉理に襲いかかるのを、そしてみんながそれに沿って動いているのを、黙って見続けるほかなかった。
 たまらなく無力だと思った。ひとたび受け入れた以上、ゲームをやめて、すっかりなかったことにするという強権を振るえないのがもどかしかった。下らなく腹立たしい設定の罠よりも、それに捕らえられた茉理のふるまいの方がはるかにまともだったから、ゲームを進めるのが申し訳なくてしかたなかった。

 話の続きを見るために、意識して怒ろうとしていたから、きっと他人には見せたくない顔をしていたと思う。そうしなければ、押し流されてしまいそうだった。こんなにしょうもない展開に振り回されたくなかった。
 小道具の使い方が効果的で、それも許せないと思った。全てを認めることを前提とした上でそう思うのは虚しく、それでもそうせずにはいられなかった。与えられる情報から結論を導き出さず、ただ断片だけにしておきたかった。
 昨日は年のせいなんて書いたけれど、それはすり替えというもので、これしきに揺るがされるほど、気の持ちようが弱くなっている状態にあることは自覚しています。

 エピローグはご都合主義かもしれないけれど、それは火のないところに煙を立てるやり方で起こした問題に対するものとして相応だったと思う。
 あれこれと文句をつけることができるのは、あのエンディング以降があったからだ。安心できる立場に置かれて初めて、さっきまで味わわされた危機を振り返り、そのときの思いを語ろうとすることができる。
 そうでなかったら、いつまでも当事者のままだ。そんなくらいなら、筋なんて通さなくていい。もともと筋の通らない話なのだから。

 おそらく普段の性格との対比というだけで、この話のヒロインに選ばれた茉理のこれからが、幸せでありますように。
 二度の大役、本当にお疲れさま。


11/23(日)

 そういやまだ読んでなかったよなーと、『家族八景』(筒井康隆著、新潮文庫)を試したのだけれど、最後まで読み切れませんでした。挫折。
 短編集なので、読み通さないと筋が見えないといったことはない(はずだ)けれど、結果的に半分、家族四景で止まってしまったのは無念であります。
 心象風景の描写に耐え切れませんでした。きつかった。

 自分が文章に接するとき、内容を真摯に受け止めていることはほとんどありません。
 こんなことに正直であってもいいことなんて何もないと思うけれど、この際だから明らかにしておくと、たいていの活字の意味は、右目から入って左目に抜けるように素通りしていきます。頭の中に留まってその意味を深く考えることは、滅多にない。
 読む側が怠け者なのです。整列した文章を崩して、それが意味するところを自分の言葉で組み替えてみる、そういう作業を面倒くさがるために、意味はその場限りの意味でしかなく、同じことを異なる場面で出されてもそれに気づかず、それをいつでも新鮮に面白がっていられるメリットと勘違いして得意になったりさえする。

 といった自己嫌悪はこれくらいにして、ごくたまに、これは自分が考えたことが活字化されているんじゃないだろうか、と思うような文章に出会うこともあります。
 ただそれは、これまでの経験では思考内容が似ているものに対して感じたことだったのですが、『家族八景』は違っていて、予想もしないような感覚が、なおかつ自分のものとしてリアルに感じられたのでした。
 まるで、言葉の形を取らないものを形にしようとするいつものやり方の逆を、無理矢理にやらされたような感覚でした。
 そんなことどうやって、と思いますが、各短編共通の主人公であるテレパスの女の子が見た、恐ろしかったりおぞましかったりの心の風景を、あたかも自分が見たような気にさせられたのはまぎれもない事実で、一編ずつラストに近づくたびに気分が悪くなりだす始末でした。

 こういう恐ろしいものに耐性があって楽しめる、強い精神の持ち主がうらやましい。
 ただ、昔の自分だったらあんまり怖がらずに、案外あっさり読み終えられたのかも知れない、とは思います。
 年食って衰えるのは体力だけじゃないだろうからなあ。


11/20(木)

 主人公と茉理が、親が共働きで誰もいない自宅に帰ってくる。そこで、主人公が「ただいまー」と家の中に声をかけると、茉理が「まー」と続けるのです。
 同じ挨拶の繰り返しでもなく、挨拶→やりとりの連想から二人で迎え役を分担するのでもない(それは『みずいろ』だったっけ?)その様子から、二人が一緒にいるということが伝わってきます。
 茉理は、挨拶の構成要素のうち言葉成分は主人公に任せて、ただ挨拶の気持ちだけを出せばいい、というあり方でいる。普通それなしでは成り立たないものを、主人公に預けている。そして彼女はたぶん、そのことを意識してはいない。
 そんな場面がとても好きです。ここは、茉理単独でというよりも、そういう二人がほほえましい、という言い方にしたい。
 惜しいのは、そっくりの手が他のキャラとの組み合わせでも流用されていることで、こういう気の利いた小技は一回きりに限定しないと切れ味が鈍ると思うのです。

 しかし、この調子で進むなら、『月は東に日は西に』を自分はいったいいつになったらクリアできるんだろう。


11/18(火)

 相変わらず『月は東に日は西に』をちんたら遊んでいますが、茉理と主人公のやりとりの楽しさは、どちらもが潔く負けを認めるところにあるのだと思いました。
 あまりあっさり引き下がると掛け合いにならない。互いに譲らなければ嫌いなのかと思われる。言葉を端折りすぎると、キャラを越えて作り手の存在が気になる。その辺のバランスがうまくいっていて、この二人のツーカーっぷり、ともに相手を嫌いではない様子、対等な立場、総合すれば仲の良さが心ゆくまで楽しめるのです。

 それにしても、プレイ開始5分で至福の境地、女の子が一声しゃべるのを聞いてたちまち目尻を下げる自分には、こんなことでいいんだろうかと思わずにはいられません。
 この楽しさは、自分をどこへも連れて行かない。いつまでだってこの場へ縛り付ける。そして、ゲームを進めてエンディングを迎えるのはこの楽しさを自ら放棄することにつながるので、ちっとも先を急ぐ気になれないのでした。
 まったく手がつけられない。


11/16(日)

 最近はすっかりご無沙汰していたゲーセンに久々出かけて試した『クイズマジックアカデミー』が大変に興奮を誘うものだったので、ただいまその直撃を受けてノックダウンしております。

 全国のゲーセンをネットワークで介して、最大16人のプレイヤーが同時に同じ問題を解いてスコアを競うこのゲーム、途中3段階にふるいがかけられ、下位4名が脱落する瞬間がたまらなくスリリング。画面に名前とスコアが公表され、低成績ならそれだけでも恥ずかしいのに、懲罰とばかりにその上に稲妻が落ちてプレイヤーが消されていくのです。
 敗者にあまりにもむごいこの仕打ちは、アカデミーというより受験戦争。知識をつけることより競争を勝ち抜くことに主眼を置いておきながら、ぬけぬけとこのタイトルを名乗る辺りに、日本の教育制度の暗部が見え隠れします(←適当な言いぐさ)。

 それにしても、このゲームの完全対人仕様はフェアさというすばらしい宝をクイズゲームにもたらしました。これまでの類似作より格段に楽しめる。それだけに、人数の帳尻合わせなのか、コンピュータが担当するキャラが出てくることがあって、そのときはプレイ意欲が著しく疎外されます。そのまま席を立ってもいいくらい。
 コンピュータが相手だとひとたび知ってしまったら、どんなにうまくそれらしい結果が出ても、全てを知るものがうまいこと調節しただけとの後味の悪さがぬぐえません(と、ここで昔のドリームキャスト版『マジック・ザ・ギャザリング』のケースを思い出しました。やはり対人という前提条件があると受け取る意識がまるで変わります)。そもそも、1プレイごとに金を取るアーケードなら超反射して当然な気がします。かといってそれもできないだろう、それならNPCなど出さない方針で徹底するしかないと思います。
 良績を積んでいくとプレイヤーの階級が昇格したりしますが、賢者だろうが一修練士だろうが関係ない、我々はただ、ルールで公認された場で、堂々と他人を蹴落としたいだけなのです!

 とまあ、そんなわけで、蹴落とされた痛みを抱えてゲーセンを後にしましたとさ。
 ぐやじー。


11/14(金)

 『月は東に日は西に』の茉理を見ていて、一年以上顔を見ていなかった妹(リアルの。しかし注釈が必要だと当たり前に思ったのにはちょっと弱る)に久しぶりに会ったときのことを思い出しました。
 会わない間に社会に出て、他人に接する機会がより多くなったことを反映してのことだと思うけれど、自分が驚いたのは、久々に話した妹が感情を浪費しなくなっていた様子でした。っと、それじゃイメージが悪いか、性格が丸くなったと言うべきなのかも知れません。
 気に染まないことを目の前にしても、それを表情に出さず、さりとて黙殺というのでもなく、角が立たないように対応できる柔軟性が身についているのを、そのとき感じたものでした。

 茉理は、学園のカフェテリアに志願して働きに出ます。それを憧れと彼女は言うけれど、入って早々に接客業をこなせる様子からは、憧れだけでなく、彼女が実力も持ち合わせているのが伝わります。
 茉理の実力を示すイベントが、序盤にあります。茉理が漫画持ちであることが、ひょんなことから主人公によってちひろに明かされる。茉理にとってそれは隠しておきたいことがらだった。しかし、茉理はその場では反応を示さず、主人公と二人になってから抗議するのです。
 この場面では、茉理の描写が省かれたのでは断じてない。害した気分と、それを公にすることで変化するだろうその場の雰囲気を秤にかけ、後者を優先させられる度量の持ち主であることがここに示されています。
 だからこそ、茉理が遠慮せず気持ちをぶつけてくることの重要さが改めて認識されもして、この、主人公の幸せ者。もう彼女には頭が上がらない思いです。

 人に接する力を高めていたから茉理だからこそ、ちひろルートでの大役も勤め上げられた。
 そんな彼女が主役をどのように演じるのか、今から楽しみでなりません。


11/11(火)

 近頃にないやる気を見せて『月は東に日は西に』2周目に早速突入。それもセーブデータに目もくれず最初から、声も飛ばさずにつき合ってるってんだから、ずいぶんと入れ込んでいるものです。
 それでも、キャラ別ルート前の共通パートに入ってみれば、ゲームを遊び続けるでもなく、ゲーム内で日付が変わったあたりで割と淡泊に切り上げることができる。特に話らしい話のないこの辺りでは、遊んでいてもゲームを進めている感覚は薄く、めくられる日時くらいしか、進行状況を確かめる手がかりがない。
 遊ぶことがなにかの進展と結びつかないのなら、早く遊ばなきゃと焦る気持ちもそれほどは生まれてきません。

 そんな状態が好ましい自分にお似合いの会話を、ゲームの中に見つけることができました。
「日常に幸せを感じ始めたらトシだな」
「そういうヒネたことを言ってるうちは若いね」
 俺はトシだ。


11/9(日)

 『月は東に日は西に』、ちひろルートが終わ…、終わ…、終わらん! と相当長いこといぶかしんだ末に終了。長く感じたことだなあ。
 ちひろのかわいさは
この前の通りで変わらず。変わらないから、ただかわいいと繰り返そうか。
 そして、ちひろをかわいく思うのに飽きたら、茉理先生に改めて感謝の礼を。

 主役の可能性がなくなった茉理は、主人公とちひろの仲を取り持つキューピッドに転じます。万事につけ控えめなために思いを表に出してこないちひろと、彼女の近くにいてその性格を大事にしたいために現状を壊さない主人公。いつまで経ってもある程度以上には距離が縮まないけれど、それは二人の一致した希望のたまものであって、一つの答えであると言える。
 それが茉理には歯がゆい。別の答えもあっていいんじゃないの? と茉理は思っている。そして、どちらも叱咤する気持ちを込めて、二人をその答えの中に放り込んだ。それも二回も。
 お節介な茉理。お節介は、もしその結果が二人にとって良いものとなったのなら、感謝されるべきものとなる。そうなるかどうかは、焼かれてみなければ分からない。
 結果がいずれにしても、そこに至るための力は本人たちからは生まれてこない。そこを落としどころと感じている二人を引っ張り上げ、別の着地点に導く力は、外からしか訪れない。

 異なる人どうしを結びつける種類のお節介は、どうやら良いものとなることも多そうだ。少なくとも、まったくいつも駄目にはならない。
 そういう暗黙の了解の元に運営されている組織を、その組織の中で力が渦巻く場を、そんな「聖域」を、プレイヤーはこのゲームの初めから終始見続けてきた。それが教室であり、部室であり、つまりは学園だ。
 当人の意志なしに誰かと誰かが引き合わされてしまうシステム。

 茉理は主人公とちひろの間に、学園のように作用してくれた。二人きりになったとき、二人は茉理のことを思わずにはいられない。彼女はそこにいないけれど、その場を見守り、二人を励ます。二人は力をもらい、勇気づけられ、新たな段階に進む。
 キャラに対していただけない言い方をするならシステムとしての茉理が、より穏当には茉理の雰囲気とか影響力とか存在感とかが、このルートでは非常に強く印象に残る。
 だから、主人公とちひろとともに、もう一度、茉理に敬礼。

 なお、ストーリーに関しては、現時点ではやっちまったくささが極めて高いものの(違う「場所」にしとけば良かったのに)、主人公が「どんなことがあったって、ちひろちゃんの支えになる」とか言っていたはずなので、それを借用して暫定的な解決としたい。
 そう、どんな背景設定だったって。


11/5(水)

 自分の冒険が一番だと誰だって思うだろう、だからこういう本って果たして売れるものなのかなあ、と疑問ではありながら、プレイしづらい現況から魔が差したか、小説版『ファイナルファンタジーXI〜祈りの風〜』(はせがわみやび著、ファミ通文庫)を読んでみましたが、楽しんで読めたのは予想外でした。

 自分がプレイしたイベントが大半を占めており、用意されたイベントをクリアすることがごく一部でしかないこのゲームにあっても、つながればきちんとした物語になっていることがよく分かります。こんなにもストーリー主導だなんて、これはまるで『ファイナルファンタジー』シリーズのようじゃないか!
 もっともそれはおそらくこの種の本に課された最低限のノルマだと思いますが、本書はそれに加えて、「シグネット」「居住区」「挑発」「戦士とナイトの違い」などのシステムよりの設定に対して世界観からの解釈を加えて、物語の中に溶け込ませてあります。
 「採掘」ひとつ説明するのに
必要と考える字数のことを振り返ると、これら全部に意味を割り振るなど、考えただけで気が遠くなる。どこまでかに公式設定の息がかかっているんだろうか、ちょっと分からないけれど、もし全部自力だというなら相当うまくやっていると思います。
 さらに、「とてもとても」「丁度いい」などの用語もそつなく挿入され、戦闘における「連携」「マジックバースト」の例までフォロー。ここまで欲張ってくれれば、ゲームしないときの代用に読むのに適切であります。
 ネタバレを嫌うゲーム開始直後の人には全く不向きですが。シリーズものらしいけれど、まだ解いてないイベントの話が出てきたらと思うと、次の巻へ進む気にはなれません(あとちょっとで追いつかれそう)。逆に、攻略本片手にイベントの再現を目指すタイプのプレイヤーには特にお勧めと言えるかもしれません。

 それにしても、キャラの強化にも力を注ぐのは仕方ないことなんだろうか。『FFXI』に出てくるキャラの中にとりわけの美形がいると思わせるには、あのゲームには美男美女があふれすぎているから、ちょっと引っかかるところではあります。
 のみならず、ヒロインの勝ち気ぶりを描写するのに、「あまり豊かではない胸を反らして」(p16)なんてあって、それはやっぱり違和感があるなあ、と思っていたら、「当然の知識とばかりにない胸を張る」(p95)繰り返してるよ! なるほど、このための仕込みだったのか、納得。


11/3(月)

 ああ、ちひろちゃんはかわいいなぁ…
 と、『月は東に日は西に』(
オーガスト)で、一つ下のおとなしい後輩・ちひろが出てくるたびに、穏やかながら確かな喜びに満たされています。
 花が好きという彼女が、たった一人で放課後の園芸部活動にいそしんでいると思えば、たとえ頼まれなくてもクラスメートなんかほっぽり出していそいそと手伝いに馳せ参じたくて、文字通り浮き足立ってますよ。
 そんな彼女は主人公のいとこ・茉理(まつり)と仲が良く、しばしば二人が行動をともにしているのを見ることができます。そして、それを目にしている以上、主人公も三人目としてその集団に加わっているのですが、活発な茉理と人見知りなちひろのがっちり噛み合ったコンビネーションが、ちひろのかわいさをより引き立てているのでした。引き立て役の茉理に感謝。
 いや、茉理とてヒロインの一人には違いなく、こちらはこちらで魅力的ではあるのだけれど、まずはひねりのない方向へ進もうじゃないか。どうも目移りしていけない。

 そんなちひろのイベントをいくつか見るうち、ちひろの顔立ちが、次第にあの小さな結先生とかぶって見えてきました。おおそうか、二人はきっと似ているに違いない。
 似ているように「最初から見える」のと「見えてくる」のの違いが伝わるでしょうか。目が二つ鼻が一つ口が一つあるのが共通、というのが前者の極端な例なのですが。


11/1(土)

 『ファイナルファンタジーXI』でできることの一つに「採掘」がある。これは、何ヶ所かある鉱山につるはしを持って籠もり、壁を掘って鉱石を手に入れるというもの。
 金属成分が含まれている石が、市場を巡り加工のプロの手を経るうちに、最終的には立派な武具や高級なアクセサリーにまで変化していく、そういう流れがこのゲームには確立していて、その最上流の行為がこの資源集めということになる。
 技術がいらないので手軽にできる分、収入もそこそこ、まあゲーム初期に汗水流して得られる報酬としては妥当なところ、という位置づけ。しかし、ごくたまにレアな鉱石が出れば小金持ちになれるなど、宝探しの要素もある。ということで、街のすぐそばにある鉱山には多くの冒険者が集い、つるはしの音を盛んに鳴り響かせている。
 自分も、一山当てよう……いや、加工業者のもとへ資源をお届けしようと、たまに、そして一人プレイが常習化した最近はちょくちょく、この鉱山に足を運ぶ。

 鉱山の中はそれなりに入り組んでいるけれど、やみくもに掘りまくったりはしない。採掘できる場所は限られている。
 それは、時間を置いていろんな場所に突然に現れる。そのポイントを探し、そこで一回掘る、すると基本的にはその場所では掘れなくなる。資源はいったん涸れるのだ。他の掘れる場所がどこかにあるので、それを探すことになる。
 いろいろ歩き回って、さっき掘り尽くした場所に戻ってくる、すると再び掘れるようになっていることがある。資源は、時間が経てば再生するのだ。
 そんなふうに、鉱山内に十数ヶ所ある掘れるポイントを求めて鉱山の中を走り回る、それが掘削のシステム。そう思っていた。

 しかし、走り回るのは面倒くさい、でも鉱石は欲しい、と考えた人がいる。考えるうちに、時間が経てば掘れるようになるなら、動き回らずともポイントが現れるのを待てばいいとの結論にたどり着く。
 かくして、鉱山のところどころで、壁に向かってじっとたたずみ続ける人が出ることになるのだった。

 初めてそれを目にして、その意味するところを知ったとき、工夫に対する感心の気持ちは、ずっと遅れてやってきた。先に感じたのは、どうにも割り切れない、正直に言ってしまえば腹立たしい気持ちだった。
 探し回るのは確かに面倒くさく、しんどい。ぐねぐねと曲がる道、暗くて見通しの利かない視界、見つからないときの落胆。
 しかし、もともと掘削は力仕事であり、辛いのは仕方ない。プレイヤーは普段ボタンを押すだけで楽をしているのだから、キャラクターの労働を少しでも感じられる手段として、たまの苦痛だって受け入れなければなるまい。そしてそれがあるからこそ、見返りが嬉しく感じられる。
 ときおり目を回しながら、それでも掘削を頑張り、行動への解釈も含めて総合的な結果に満足もしていた自分にとって、果報を寝て待つ先述の姿勢は、認めがたいものだった。

 今回の例では自分の利益が絡んできてしまっているから、どうにも話に最後の説得力を持たせることができない。楽して儲けるなんてずるい、というんではただの負け犬だ。うらやましければやってみたら? そう返されておしまい。
 では、掘削というものの中に抜きがたくあるはずの「体力仕事」という役割を果たしていない怠け者だ、という批判はどうだろうか。ロールプレイングゲームでロールプレイしていない不精者だと指弾されたら、どのような答えがあるだろうか。
 それには興味がある。今の自分には、その立場から有効に反論できるとは思えないから。

 そういう点では、魚釣りはいいんですよ。あれはじっとしていることがシステムに含まれていると思うし、釣りとうたたねは相性がいいと思うし。
 ただそれも、釣りポイントはそこら中にあって邪魔されないから気にならないんだろう、と指摘されると弱いのだけれど。釣りは川・池・海、どこでもできるからなあ。



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