ゲーム+α日記(2003年12月)

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12/30(火)

 モニターを新調して、あまりの快適ぶりに言葉もなく、歓喜しながら『FFXI』を遊びました。今まで使ってたのは、やっぱり古かったんだなあ。
 ちょっと遅くなった、自分へのクリスマスプレゼント。そんな気分です。喜びがしぼむから、必需品なのにとか思っちゃダメだ!(少し思ってるな)

 それではみなさま、よいお年を。


12/29(月)

 まったく何にも知らない、正確には知っているか知らないかという問いさえ立てられない次元で知りもしない状態と、行動によってそのことを体得している状態との間に、読んだこと、聞いたこと、見たことがあって、それについての知識は持っている、という状態がある。
 その中間的な状態では、それについて知っているとも言えるし、知らないとも言える。逆に、知っているというのも知らないというのも正しくない(「知っている」の意味が異なるのだが、それぞれに対応する適切な一語が思い浮かばない)。
 そんな宙ぶらりん状態にあって、それについての話題が出てきたとき、どう反応すればいいのか。
 答えはその人の生き方から出てくるんだろう。

 自分は大半がそういう中間状態からできていて、だからこういう二択にしょっちゅう出会ってきて、そのつど沈黙を通してきた。
 それは知らないことの消極的な表明のつもりだったのだけれど、それは自分に都合のいい解釈で、思えば質問がなければ理解していると見なされるのは学校からの基本だった。
 そういうことが度重なり、「いかにも何か知ってそうだけど、何の役にも立たない人」というポジションに進みつつあることを悟る。怠慢だった。
 このだだっ広い中間状態を埋めなければならない。しかしできれば、「何も知らないし何の役にも立たない人」というのとは逆の方向にしたい。

 自分は辞書が好きだ。そこには知識が山ほど積み込まれていて、分からないことなど何もない気にさせてくれる。
 しかし辞書は他人の経験の集まりで、知識の断片から経験まで得ようとするのは欲張りだ。断片はせいぜい、その知識を体得したものに変えるための手がかりでしかない。
 知識をわがものにするためには、いわばゲームであらかじめ謎の答えを知ってから、あらためてイベントを解くような体験が必要だ。
 体験することで得られるものこそが求められている場合、それは知っていることの追体験にはならない。そもそも知らないことなのだから。

 そういうわけで、攻略本を見ながらゲームすることの意義が、思いもかけず判明しました。自分はあまりにも解答尊重主義に陥っていた。
 答えが載っている本を忌避するのは、答えこそが全てであってそのほかはいらない、攻略本を読むのはゲームをすることの代替になる、との考えの裏返し。そんなよくできた攻略本などありゃしないだろうに。
 答えだけをかき集めてできたような、辞書のような(ずいぶん薄いけどな!)自分から、とっとと抜け出さなければなりません。応用が利かないのは、さすがにもうまずいだろう。
 とにかく出力してみることだ。他の人に向けて。

 年賀状を書きながら、そんなことを考え続けていました(←遅いよ。いろんな意味で)。


12/26(金)

 『ファイナルファンタジーXI』についての雑誌情報を比較するに、どうもファミ通の記事は余裕がないというか閉鎖的というか、読んでいて楽しめないことが多く、電撃系ゲーム誌の記事と読み比べると優劣がはっきり出てしまうのだけれど、その印象を助長する攻略本が出ました。『ヴァナ・ディール研究白書 Ver.031111』(エンターブレイン刊)。

 この本は「公式ガイド for EXPERT」と銘打たれており、だから自分はそのターゲットではない、この本の価値が分からないのはそのせいだ、という弱みはあります。
 確かに、戦闘に関するデータを取って有利な戦法を導こうとする第1章では、それがどれほど重要なのかピンと来ない結果が多くあります。だから、この仕事の善し悪しを評価することはできず、するつもりもありません。
 ただし、段階を経て積み上げていくべき過程を一足跳びにしたり(「敵対心」を初めて用いる概念として定義しておきながら、「揮発型敵対心」「蓄積型敵対心」があるということを自明のものとしている)、一点だけの実験から結論を導いていたり(「魔法攻撃力アップ」は本当にどの段階でも等しい効果なのか?)、私見がはさまっていたり(「期待したほどの差ではない」ならどれくらいを期待したのか、その根拠は何か)と、信頼を損なう要素が散見されたのは気になるところでした。
 前書きにあるように「学術書」の性質を身につけさせようとするなら、「マニアック」さではなく、足取りの確実さがより求められるのではないかと思います。

 ただ、この本のその後の章はもっとひどいので、ここはまだましなのかも知れない。
 合成に関する章ではトップクラスの合成職人たちが苦労話を語るというコーナーがあって、それは別世界を垣間見た瞬間ではあったけれど、話を取材してそれで終わりなのは大いに問題があります。
 相変わらず合成のデータが明らかになることはなく、これにはソフトメーカーの意向以上に、この本の制作意図が疑われる点になっています。
 せっかく各(合成)界の巨匠を招いて、ただゲームの雑談をしてもらっただけなのか?

 さらに、効率よくレベルを上げるためのモンスターリストに至っては、なぜそのようなものが入っているのかさっぱり理解できません。
 網羅されたデータからそれらの情報を読みとって実行に移せるのがエキスパートというもので、与えられた指針をなぞるプレイヤーはその対極にあるのではないか?

 この本はサブタイトルが間違っていると思います。「for EXPERT」ではなくて「by EXPERT」。登場するのは最高レベルのプレイヤーばかりだから、それならよく分かる。
 そして、もしこれが「for EXPERT」のつもりで編まれたというなら、「自分たちと同じようなプレイヤー=EXPERT」なる式が成り立っているのでしょう。
 この本を読んでその通りを実行するプレイヤーの少ないことを祈ります。同じ方針のもとで最高の効率を求めてプレイする、そんな「一人の巨人」が住む世界は、他の多くの人にとって居心地が悪いに決まっています。

 もしそういう遊び方をしたいなら、『ウィザードリィ』っていういいゲームがあるんだけどなあ。6人パーティーが組めて、みんな自分だから完全に統一された戦闘が楽しめる。
 あの気持ちの良さは知ってます。ただ、それを他人との間に求めるのはちょっと違うと思う。
 効率でなく楽しさを追求する方向でないと、このゲームはうまく扱えないんではないかなあ。たった一度のバージョンアップでこの「白書」はあっという間に古びうるけれど、楽しいと思う気持ちは更新されることなく残るだろうから。
 ……はっ。まさか、古びることこそが本書の狙いなんだろうか?


12/24(水)

 いやー参った参った。参りました。
 購入から5年間、実によく働いてくれた液晶モニターからの映像がぷつりと途絶えてしまい、てんやわんや。
 おそらくは当時の最高級品であり、今に至ってもこれといった不満点もなく使えていたものが、一瞬にして文字通り見劣りする残念品扱いとなってしまいました。
 何とかならないのか思案中。そんな中でふと、ビデオカードからテレビに出力できる端子があることに気づいたのが昨日の晩。
 映った。文字を読みとるのが甚だしく辛いけれど、しばらくこれでやりくりするかなあ。

 しかし、長らくの習慣から勝手に、液晶=PC、CRT=お茶の間、というイメージができ上がっていたことを、テレビで『月は東に日は西に』を試しにプレイしてみて知りました。
 移植されていないバージョンをモニター上で見るのがすごく気まずく、落ち着かなかったのです。先入観というのはあるものだ。


12/19(金)

 通販で発注しておいた『プロギアの嵐 オリジナルサウンドトラック』が到着したので、さっそくあのときの興奮に浸らんと聴いてみたのだけれど、案に相違して曲の流れについていけない。
 それもそのはず、プレイ中は大半が爆音で覆われているのがシューティングゲームの常というもので、またアーケードにおいて周りの騒音を遮断してゲーム音楽を聞き取るのはかなり困難。その結果、ほとんどの曲が記憶になかったというありさまでした。残念。
 数少ない例外はラスボス直前。これは最終決戦前ということで静寂のひとときが演出されており、ゆっくりと強敵が現れるのを待つ間、流れる曲とともに集中力を高めていたものでした。
 その意気込みが報われたことは少なかった、それでも、ふがいない己の腕前でもやりおおせたことがあった、そんな一時期もあったのだと、このトラックでは少し遠くを見る目つきになったりしました。

 ところで、ついでといってはなんだけれどそういったポジションで同時購入した『ロックマン1〜6』サントラのほうは文句なしに盛り上がれ、どうやら予想外に良い買い物をしたようです。
 思い入れが強い2作目・5作目あたりを運転中に選曲したりするともう気分はノリノリ(車内だけに)。そして、聞き直すと音色の機械っぽさがロボアクションなゲーム内容と実によくマッチしていることが改めて実感されもして、至福のひとときでありました。


12/16(火)

 結先生、お待たせしました!(←誰も待ってない)

 ようやく『月は東に日は西に』(オーガスト)を再開、今回は真っ先に目につきながらクリア順で主人公の後輩二人に後れを取った小さな野乃原結先生を全面的にフィーチャーしていきたい。
 のですが、結先生はもう一人の先生、保健担当の仁科先生とつるんでいることが多くて、必然的にイベントも二人セットになりがち。ところが、これがまた息の合ったコンビで主人公を翻弄してきます。主人公をおもちゃにする様子が大変楽しい。
 ここに限らず、主人公一人に対して女の子(先生にそういう呼び方もないけれど)が二人組で相手をするケースがこのゲームでは頻繁にあります。それが、完全に独立した二人の畳みかけというよりは、共通のことをステレオで攻めてくるような会話が多くて、ただし、役の振り分けができてないだけか? と疑いが生じるところまでくどくないのは嬉しいところです。
 二人相手の会話で、相手の息が合っている、と感じることができれば、二人の仲がいいと受け取れて、見ているこちらもいい気分になることができます。

 ところで、役柄から相応の年齢であろうと思われるにもかかわらず、とてもそうは見えない若々しい容貌のキャラクターなど、ギャルゲーでは珍しくも何ともありませんが、それは画面を通してみている我々の受け取り方がゲーム世界とずれているということでしかないことを、先生コンビの一つのイベントから改めて教えられました。
 プレイヤー側が妙齢と見なしているにもかかわらず、ゲーム内において相応の年頃、相当の役柄にふさわしいと判断され、怒るやら呆れるやらの仁科先生と主人公。確かに、逆の流れだって当然あっていいわけですが、なかなかお目にはかかれない。そんな転倒を可能にしたのは結先生で、やはりその存在はすてきだと思うのです。
 その直後のイベント絵がまた凝っている。これでは、部外者がこの三人連れを家族と見間違えたって何の不思議もありません。


12/14(日)

 しかし、以前にも思ったことだけれど、自分が『式神の城II』を遊んで感じている、細かな弾避けの楽しさや得点アイテムを回収するビジュアルの爽快さや曲の良さ(これまで触れてきたのは最初の一つだけながら、このゲームには他にもいいところがたくさんあります)なんかは、全て前作『式神の城』に含まれていたって不思議はない。
 自分が新しい体験だと感じる分には前作のことなんか念頭に置かなくてちっとも構わないのだけれど、それが表明されて他の人の目に映ると、何を今さらということになる。
 あまりそう思ってもらわないようにするために、「これは業界初!」なんて力む愚は避け、驚きとか仰天とか見たことがないとかの個人的な感想に収めたとしたって、その思いが共有されない可能性を頭に入れてしまっている以上、頬かむりするのはちょっと気が引ける。

 例えば最新号(54号)のゲーム批評のソフトレビューで『伝説のスタフィー2』をお題にもらったライターさんは、さぞ困惑したのではないでしょうか。究極的には前作に全く言及することなく批評する何かがあればあると信じられてこその続編単体指名に、はたしてこれは適切なタイトルだったのかな?
 もし自分だったら、なぜこの続編が出たのかをスタート地点に置くかも知れないなーと思いながら、この項を読みました。そのためにはまずこのゲームを遊ぶところから始めなければならないのだけれど(←オチがひどすぎる)。

 話がそれましたが、「敵弾に近づいて強力ショット」「稼いで攻撃のレベルアップ」「アーケードでの異様な人のつき」という断片的な記憶しかない初代『式神の城』をプレイしておく必要があるかも知れないと思い始めたのです。
 『II』とは解像度が違ったはずだし、弾避けがそんなに楽しいとは感じなかった気がするけれど、ちょっと再確認しておこうか。


12/13(土)

 このところ時間が取れなかったけれど、今日は久々にゲームして、やっと『式神の城II』のvery easyモードをノーコンティニュークリアすることができました。やった!
 いやーこれでようやく、楽しい楽しいラスボス「ワールドオーダー」との一騎打ちを堪能できる。表示だけ見れば避けようがない弾密度に見えながら、実は落ち着いて対応すると逆に当たる気がしないほど粗く、しかしながらプレイ中は平静さを欠いているためちょうどよく緊張できるという、なんだか極めて限定された条件で気持ちよく遊べるこの最終ステージが最高です。物言いが回りくどいけれど、バランスがいいと一言で片づけるには自分の条件設定が微妙すぎると思う。
 ノーコンティニューで到達したステージは練習モードで切り出して遊べるのですが、これまではラス前で全滅していたため、ラスボス戦は練習できなかったのでした。

 ところで、敵を狙い撃つ楽しさは一つの正解を追い求めるところにある一方、弾避けの楽しさは一つの不正解を回避する点にあって、両者の違いは積極性と消極性に分けられるのかなあとふと思いつきましたが、この思いつきはうまいこと発展しないだろうか。


12/9(火)

 『ファイナルファンタジーXI』には、共に戦う仲間を見つけるときに便利なように、自分とレベルの近い冒険者を探すために使うキャラクター検索コマンドがあるのだけれど、これにはコメントを書いてアピールする機能もついている。
 レベルアップまであとどれくらいだとか、どんな武器が得意だとか、こんな職業も使えますとかの自己申告によって、パーティーに参加できる率は高まるだろう。
 他人のコメントを読むのは結構面白くて、時間つぶしの時なんかにコメントをしらみつぶしにチェックすることがあるのだけれど、そんな中に、japanese onlyという但し書きがちらほら見られるようになった。いうまでもなく、海外プレイヤーが参入したのを受けての対応だ。
 これを見て、お決まりの突っ込み「英語使えてるじゃん!」の次に想像したのは、それを見て理解し、この人をパーティーに誘える日本人の多さのことだった。
 こんなバリバリの英語なのに、それを平然と分かるくらい、この国のプレイヤーは英語の理解者だらけってことになる。けっこうすごいことじゃないだろうか。

 ところで、なぜ自分はこのメモの書き手が日本人だと決めつけられているんだろう。日本語を練習したくてたまらない実践派の外国人かもしれないのに。
 それがちょっと不思議でしたが、あのjapaneseはもしかして日本語じゃなくて日本人だったのかな? と、ここに至って初めて思い当たり、なんとなく疑問が薄れると同時に、少しつまらない気持ちにもなりました。
 よし、今度まとまった時間でソロプレイするとき、「エイゴ ダケ ワカリマス」とでもコメントしておいてみよう。それで無粋な日本語使いが誘ってきても断るのにためらいはないけれど、もし英語が飛び込んできたら……負けを認めて参加するしかないよなあ。


12/7(日)

 『キャラクター小説の作り方』(大塚英志著、講談社現代新書)を読んでいる途中で、物語の主人公には「欠落」と「回復」がなければならない、足りないと感じて補おうとするところからお話が作られる、という一節を読んで、ふと我が身を省みて納得するところがありました。
 自分が人生の主人公であると思えないのは、何かが足りないと感じることが少ないか、あるいは感じたとしてもそれ以上を追求しないせいなんだろう、と。

 しかし、あれ? この節の主題は読者が物語の主人公を作るときの手法のはずなのに、なぜ自分自身のことについて思いを巡らすはめになったんだ?
 と疑問だったのですが、目次を見て見当をつけ、最終章に飛んでそこだけ読んだ限りでは、そのような受け取られ方も織り込み済みのようす。
 「キャラクター小説を作りたい」という目的を持った人に、その一つの目的に一人で立ち向かうなら多面的でなければだめなんだと諭すその過程で、そんな目的をちっとも持っていない人も本書の対象になっているところが面白いと思いました。


12/4(木)

 いくらニッチなジャンルだからといって、ドリームキャスト版とプレイステーション2版を同時に出しただけじゃ売り上げにそう変化なんてないだろう、ハードが何であったってそのゲームを欲しがる人のためにまずはDC版を出し、若干時間をおいてからおもむろにPS2版で潜在顧客の残りをすくい取ることで、何となくDCユーザーを大切にしているような印象を与えることもできて一石二鳥。
 主にNECインターチャネルが営々と努力して築き上げてきたこの戦略は、もはやセガハードのギャルゲープレイヤーには刷り込まれているに違いないので、他のメーカーも積極的に利用するといいと思うのです。
 別にDC版を早く出せと要求しているわけじゃない。PS2版を延期すればいいだけなのでそれほど難しいことではないはず。

 まあそれはともかく、DCユーザーにとっての問題は、しぶとくリリースされるソフトたちをDCだからという理由だけで何でもかんでも購入候補に挙げるのかという点で、まさか2004年に入ってもシューティングが出るとは思わなかっただけに、『サイヴァリア2』DC版発売決定の報にはうろたえました。
 なにせタイトルがタイトルだからなあ。アーケード版を一度遊んで、前作からのあまりのセンスの崩れっぷりに、もう二度とお目にかかるまいと思われた一作だっただけに、本当に頭の痛い決定であります。

 つくづく、自分は弾幕の中に突っ込んで無敵になるその瞬間瞬間を楽しんでいて、かすり無敵のシステムと無縁なところでだらだら生き延びようとは思っていなかったのだと、『サイヴァリア2』の幕間デモを見ながら再認識したものでした。その上で、PS2の廉価版『サイヴァリアリビジョン』を遊んでいればいいやと思っていたのに。
 ちなみにこの廉価版のパッケージの裏には、「面白かったので続編作ってください。」というプレイヤーの意見が載っていて、続編の出来映えはこの意見が祟ったんじゃないかとちょっと思いました。
 「面白かったです。続編出たらまた遊びます」なら分かるんだが、その「ので」は一体なんだ?


12/2(火)

 それにしても、『ファイナルファンタジーXI』に費す時間が少なくなって空いた時間で、自分の遊び方を振り返ってみると、赤魔道士が似合っているというよりもっと根っこのところで、自分はそもそも冒険者ではないのだな、と強く感じる。

 冒険者とは、謎を追い求めるものだ。未知の出来事に対して胸躍らせるものだ。秘密を探ろうとするものだ。洞窟の奥底に潜む怪物なり宝物なりを想像して期待をふくらませるものだ。
 それに引き替え自分ときたら、別の職業でレベル1の最弱段階からプレイし直すのを楽しんでいる。完全一本道のお話をたどるのではないにしても、起こるのはかつて何度か経験した出来事ばかり。
 予測できる範囲内での多様性の中に身を置いているときの気持ちの安らぎは何ものにも代え難い。仮に先行きが全く不透明なダンジョンに足を踏み入れた日には、不安がいや増しに増していき、その状況を楽しむ余裕が失われている。
 そして、おそらくパーティープレイも同じ理由で足を踏み出せないでいる。体調不良だけが原因ではない。成り行きが予測できないことを楽しみにせよと、自分の頭の中に植え付けられてはいない。
 そんなわけで相変わらずソロプレイの安定状態にあるのだけれど、そんな中でも、ほんのちょっとした変化をつけてみたりする。例えば、戦闘でA→Bの順で呪文を唱えていたのを、B→Aと逆にして敵に浴びせてみる。そして、その方が従来より少し効率が良いことが分かったとすると、そのことを発見と感じる。
 それから当分の間、その新発見の喜びを反芻しその恩恵にあずかるべく、わずかに変化した手続きの中に身を沈めるのだった。

 たぶん、自分にも冒険心はあるのだろう。ただし、その冒険心は実に些細なことで満足してしまい、滅多なことでは尾を引かない。そんなものは他人から見れば冒険心にはほど遠いちっぽけなもので、だから冒険者と呼ばれるにはふさわしくないだろう。
 もし『FFXI』の職業の中に、日々を戦いではなく商いで暮らす帽子屋があったなら、自分はそれを選んでいたかも知れない。そして、品揃えの一端に、召還士が必ず額につける角が邪魔にならないよう工夫した帽子を並べるかも知れない。
 自分の冒険心は、せいぜいその程度のものだ。だいたい、ギャルゲーでさんざん日常を楽しんでおいて、冒険者もないもんだ。



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