ゲーム+α日記(2004年2月)

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2/28(土)

 ゲームを終えた後も、頭がぽーっとして普段以上に働かない。
 何をするにも集中できないし、車の運転なんかはかなり危なっかしい。
 『ファイナルファンタジーXI』で、ようやくそういう状態になることができています。
 単純に、パーティープレイに入れて楽しめているというだけなのだけれど、こんな日が来るのを待っていた。

 ここで思い出すのは『こころナビ』(Q-X)の冒頭で、主人公の述懐に納得できなかったことです。彼は、ネット上では「別の自分になれる」というのでした。
 別の自分、そんなに短い言葉の中で、すでに矛盾してるんじゃないのか。別だったら自分じゃないだろう。そんな気軽に、なったり戻ったりするものではあるまい。
 場が変わったことで、普段は出さない性質が顔を覗かせるなら、その性質はもともと自分を構成していたものであって、新しく生まれ・消えるものじゃない。彼はきっと最初から、自己表現の術を身につけていたに違いない。
 自分はひとつしかない。もし新たな性質が得られたというなら、それは外からの授かりもので、それによって自分は別の自分に「変わる」はずだ。

 今の自分には、パーティーに参加したいと表明する選択肢があります。
 ゲームに実装されていても、使う側には備わっていなかったこの機能、これを得て、自分は少し変化しました。新しい扉を開く鍵をくれたのは、きっと一月前あのパートナー
 そして、その扉の先は、持ち帰って言葉しにくく、またそのせいで飽きもせず似たようなことを繰り返していると感じられてしまう、もう一つの世界なのです。
 ゲーム後の頭の働きが鈍いのは、ひとつの自分が異なる世界を行き来できているからでしょう。まるで時差ボケのようだ。


2/22(日)

 『ファイナルファンタジーXI』を遊んでいて、ふと悟った気になりました。
 悟り、っていうのは、損得勘定で見たら大損なところをそうでもなく思わせる考え、ってことでいいんだろうか。

 このゲームでの自分の役割が鉱夫から職人に転じかけているのは既報の通りなのだけれど、その技術を少しずつ上げていった現在、それ以上に腕を上げるためにはどうやら多額の持ち出しを覚悟しなければならないらしい。
 何を作っても、材料費よりも売却費の方がかなり安く、このままずるずると続ければ文なしの危険さえある。
 さて困った。どうしたらいいだろう。

 ここで浮上したのが、先述した「悟り」につながる考え方なのです。
 例えば単価5千ギル(ギルは『FFXI』の通貨単位)の素材を3つ使って、相場1万ギルの武器を作ったとしよう。お金の動きだけで見れば大赤字、ゆえに商売道具としては食指が動かない。
 しかし職人となれば話が少し異なってくる。果たして職人は、単純にお金のためだけに何かを作り上げるのだろうか?

 買う側は一般に、それがどのように作られたかに関心を示さない。職人入魂の一品であろうが武器屋の量産品だろうが、はたまた敵からの戦利品であろうが、言ってしまえばどうだっていい。まして、そのアイテムの素材がいくらかなんて、全くもって購買層の興味の外にある。いくらで買うかだけが重要なのだ。
 1万ギルといえばそこそこの大金である。それを出そうというのだから、そう粗末には扱うまいし、おそらく戦いのたびに持参していくだろう。しばらくの間、その武器は持ち主とともにあって、彼の命の幾分かを預かる。
 さらに、その武器が成長を遂げた使用者から暇を出されるとしても、その行き先はゴミ箱ではなく、二束三文でしか引き取らない店でもおそらくなく、ほとんどの場合は競売場になる。買ったときの額とほぼ同じだけの価値が、時を経てもたいていその武器には残っている。
 こうして、次の持ち主、またその次の持ち主、……と、ひとたび作られた武器が世界を巡るのである。下手をすれば、製作者より長生きしそうだ。
 そんな想像が、差額の5千ギルを埋めてはくれないだろうか。

 くれませんでした(←台なし)。
 まあ、そうとでも思わないとやってられないんだけどねー。そういう現実逃避(?)、嫌いじゃないです。


2/20(金)

 いや〜、もう無理無理。
 仕事のほかに振り向ける力が残せない一週間でした。いつも気持ちに秘めていたつもりの「ゲーム+α(その他)」の配分が逆転してしまい、まことに無念。

 そんな調子だからか、ゲームにだけ注ぐべき種類の視線をうっかり現実に向けてしまいました。
 夕食にお好み焼き屋に入ったのですが、そこの給仕さんが、おそらくこぢんまりとした店ゆえ雇いじゃなくて店主の家族なんじゃないかと思うけれど、エプロン姿で振る舞う姿がかわいらしくて、いや、ことさら見目麗しいという意味ではなく、ええいもう、はっきり書くなら中学生っぽくて良いと思いました。せっかく更新できてこんな話もないだろう。

 材料を持ってきて混ぜるなどのひと手間をその場で加えてから、鉄板の上に乗せて焼くのだけれど、その子はまだ仕事に慣れてないようで、料理が台無しにならない程度に調理の手つきが覚束ないのです。その結果多少崩れた形で焼き上がったりしますが、そんなの全然気にならない。
 ほかにも重層構造タイプの一品で乗せる具の順番が若干間違ってたりしましたが、加熱されて口に入ればおんなじおんなじ。説明の際にちょっとばかり丁寧語がへんてこだったりしたのも問題なし。
 他にお客がいなかったせいで、全ての注意をこちらに払っているようであり、コップの水がなくなりかけると飛んできてくれる。そこにひたむきさがあって好ましく感じられる。

 要するにその子がやってることが全て許せる気分になっていたのですが、そのときの自分は脇から見たらどんだけやに下がっていたんだろう。これが自分のイメージする中学生なのか? それとも、これがオヤジってやつなのか?(←それ以前に品性の問題だと思います)
 もう寝ます。


2/13(金)

 始業に間に合わない、と急いで大学の構内を移動しているのに、なぜか5階あたりの非常階段に出てしまう。晴天に木々の緑が栄えているなあなどと思いながらも、階段を駆け下りて教室へと急ぐ。
 やっとたどり着いた大教室に後ろから入るとすでに授業は始まっており、自分が勤めている職場でいちばん小柄な女の子が教壇に立って現代文を講義していた。

 そんな夢を見ました。
 そこかしこで細かくアレンジされているのがおかしいものの、まぎれもなく『月は東に日は西に』の影響であります(大学→高校学園、顔見知りの女の子→結先生、現代文→古文。後者がゲームの設定)。しかし大学で現代文はないだろう。これらのアレンジに意味はあるのだろうか。
 更新などしないでゲームを遊べばいいのに、との指摘には、
・遊ぶならまとまった時間を過ごしたい
・変則的ながらこんな形で結先生と会えているから我慢できる
のどちらでも応答できるのです(←べつに答えを用意しなくても)。


2/9(月)

 『FFXI』の、特に平日のプレイスタイルが、最近大きく変化しています。

 以前に書いたように、自分はこのゲームの中でそこそこ長い間、鉱夫として過ごしてきた。
 採掘活動は、基本的には楽しい。掘り出されるものへの期待、鉱山内を巡回する効率の良いルートの模索、得たものが確実に資金に変わることへの満足感など、嬉しいことが多く用意されている。
 ただ、一方で、採掘で充足感を得るにはある程度時間がかかる。鉱夫の満足度は主に量で評価されるようで、高価なアイテムが掘り出せたところで、たった一つでは物足りなさが残る。それなりの時間とそれに見合った報酬、そのバランスが、採掘では時間寄りに設定されているのではないかと思う。自分は最低1時間は欲しい。

 ところで、採掘活動の支援のために、自分はいくつか準備をしてきた。以前に触れたかばんの拡張、工具をより上手に扱えるようになる衣類の装着、そして鉱石加工技術の習得など。
 このうち最後のは、単品ではかさばる鉱石をまとめて強熱することで一つの塊にするというもので、これによって持ち歩ける鉱石の量が、最大で実に48倍に増える。
 採掘を続ける上では是非とも手に入れたい技術であり、地道な努力の末に遂にそれを我がものにしたときの喜びは大きかった。

 しかし、このときすでに、単純に掘り出したものを市場に運ぶ鉱夫の役割を、自分は卒業しようとしていたのかもしれない。
 その技術はただ採掘に生かせるのみならず、もっと広く武具一般を扱える体系の一部だった。そして、初等とはいえ鉱石を加工できる技術を転用すれば、より短時間で、暗い鉱山に籠もることなく、世界と関わってなにがしかの利益を(時には損失を)出すことができるのだった。

 かくして現在、特にゲームに本腰を入れられない平日には、職人じみたことに専念している。
 寝る前の10分20分をそれに当てれば、とりあえずはゲームしたことになる。何もせずにたたずんでいるだけの状態ではなく、末端の末端とはいえ世界の中に居場所を持っているということで、そんな短時間プレイでも納得している今日この頃なのです。

 ところで結局この話は、技能を身につけると生きるのが楽になるという教訓性に満ちているのが癪です。
 ゲームする時間が少ないのより、よっぽど忌々しい。


2/6(金)

 一週間分は保つと予想したとおりであって、突っ込んで思い返せばきりがない先週の『ファイナルファンタジーXI』体験であったので、思い出せたところをかいつまんで記録しておきたい。
 このゲームのプレイヤーには、目新しいことは何もないはずですが。むしろ、いい年こいて何ほざく、と笑い飛ばすことができるはず。

 最初にパーティーを組んだ彼女(あえて見た目で呼ぶ)は、とにかくよく声をかけてきてくれた。
 その話はまったく他愛のないことが多く、でも自分にはとても貴重なものに思えた。大ごとの方がどうしたって話を作るきっかけになりやすいのだから、些細な興味で話の糸口を作れる彼女は、対話レベルが非常に高まっている人なのだった。パンチ攻撃で両手を使う様子を、実際に「左、右、左、右」と表現しながら戦う人に、今まで出会ったことはない。
 自分がそれら全てに答えることができなかったのは返す返すも残念だ。ちょうど同時に発言してしまい、どちらかが身の危険に関する、つまりは公的に重要な話であったりすると、もう一方はせっかくの話題を引っ込めざるを得ない。ごめん、近くにいるかも知れない強敵への注意よりも、チョコボ(FFシリーズを通して登場する鳥型生物)への憧れについての話の方がよっぽど大切だった。
 そして驚いたのは、彼女がいろんな人に、それこそ会う人ごとにといっていいくらいの頻度で語りかけることだった。ここで自分は大勢の中の一人であることを否応なく思い知らされたのだけれど、「あ、あのひとかわいいー」という理由で話しかけてしまえるのを目の当たりにして、どれほどうらやましく思ったことか。

 そんな彼女でも、もしも周りに誰もいなかったら、何も口に出さなくなるだろう。彼女は誰かに向かって話をするのだろうから。話を聞いてくれるのを期待して話しかけるのだろうから。そこが自分と違うところだ。
 自分は話しかけないけれど、他人に対するときも一人でいるときも、同じくらい話をしないと言うことができる。ということは、他人に対するときも、自分に対するときと同じくらい話しかけているということでもある。
 自分の発言はたとえ誰かに対するときでもひとり言で、聞いてもらうことを期待しない。
 そんな自分が彼女からの呼びかけに対する際には、やってきた光を反射するようにして返す。彼女はそれを受け止めて、新しい話を生み出す。
 うーん、振り返ってみれば対話とはいえない。自分から話を振らなければならないし、来た話は広げなければならない。しかし、その力はどこから生まれる?

 どこかから、としか言いようがない。あの日、小さなそれらしき力を振り絞って、そのあと自分はパーティー参加希望を掲げた。それはあの日の後半の6人パーティープレイへとつながる。
 このゲームを始めてからもう8ヶ月近くになって自分が初めて出した、赤の他人を求めるサインだった。

 力はどこかにあるのだ、としか言いようがない。どこか分からないままそこにあるものを使える人、どこか分からなくて探している人、いろいろだろう。どこにあるか分かっていて使い放題の人もいるかも知れない。
 自分にそのありかは分からないけれど、あの日、彼女からそのかけらをもらったのだと思う。


2/2(月)

 ドリームキャスト版発売に先を越されちゃうよ、と尻に火がついた心地で『月は東に日は西に』(オーガスト)を遊ぶ。
 しかしアルケミストは頑張るなあ。ニッチな商売を理想的にこなしていると思う。キッドあたりも見習って、もう少し楽に生きてほしいものです。

 それはともかく、結先生シナリオ……やっと個別ルート。おそらくこの1ルートにかける時間の長さでは誰にも負けてない(自慢になりません)。
 キャラクターにとって、またプレイヤーにとっても、世界設定に逆らったりそれをなかったことにしたりなんてことは、冗談以上のレベルではできないものですが、説明のつもりが新たな疑問を多数呼び込んでしまっているこの設定群には首を傾げずにはいられない。結先生のことを、そんなにもありのまま認めたくありませんか。そこに先生がいることに、何の理由が必要だろう。
 あと、ちっちゃな女の子が刺激的で云々と抜かした主人公には一発退場を宣告したい。これまでの積み重ねが台無しです。結先生を何だと思っているのか(さっきからそればっかり)。



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