ゲーム+α日記(2004年6月)

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6/29(火)

 あー無理、絶対無理。
 『Dicing Knight.』のラストダンジョンをまともにクリアしようとの試みは、断念せざるを得ませんでした。
 1ステージクリアの所要時間がおよそ5分なので、1000面なら5000分。完徹続きでも3日半。一日5面でいいやーと弱腰なら、半年以上かかりきり。
 44面で挫折していておいて、99面エンドだったら頑張れたのにな、といった引かれ者の小唄ぶりでありました。
 なんか一発逆転はないのだろうか。アイテムが出やすくなる装備をつけられるだけつけたなら、一気に100面先へ進めるワープアイテムが特別に出るとか(←まだ諦めきれてないのか)。

 しかしこのゲーム、ダンジョンの自動・ランダム生成が売りの一つになっていると思うのだけれど、それはマンネリ化を避けるためのシステムというよりは迷路探索を怠らせないため、つまり楽しみよりは障害として、より強く働いているようです。
 毎度新しい迷路ができるなら、クリアが絶望的な深いダンジョンなんてなくてもいいのだから。


6/24(木)

 何をしたらいいのか分からない、何をすることが許されていて、何が禁じられているのか分からない。自分が引っかかっているのは後者の方だったと気づいた。あるいは、前者は後者から導かれるのか。
 他人が入って、系が変わるそのたびごとに感じるのは、自分が今その人から禁じられていることをしているのではないかという気持ち。
 しかしその感覚も、さらに前提を置くことで解決するのではないかと、何となく思えている。「これこれをするために」何をしてはいけないのか。
 一般的には、目的とは必ず存在するものなのだろう。それは盲目的なことがらなんだろう。

 例えば、『Dicing Knight.』ラストダンジョンを漫然と3ステージ分くらいプレイしてゲームオーバーになり、まあいいや今回の成果はセーブできるから、続きはまた今度遊ぼう、オールクリアまでのステージ数は999だから、えーと……
 と指を折ってみようとして初めて、己のペースの悠長さを思い知らされ、そしてそこで目的が生じるのだった。クリアするために、装備品をどのようにすればよいのか、どのようなアクションを主体にしていくべきか。
 目的がなければ、装備を変えようなんて思わない。選択に入ってこないという意味で、それは許されていないことなのだ。

 おそらく多くの人にとって、目的がない状態なんて考えることもできないのだろう。そして自分もいつの日か、かつてどんなことで頭を悩ませていたのか分からなくなるのだろうか。
 そんなことがあったとして、過去を掘り起こさせるのが有益だとも思えないけれど、そういうものがいた記録を残しておきたいとは思う。


6/21(月)

 というように、あふれんばかりのゲームの中で迷いながら、他の人は全員、自身がやるべきことを分かっているのではないかと恐れているのだけれど、自分が何をやりたいのかが分からないことよりもそちらの方が気になるというそのあり方は、自分がやりたいことを確定できないところから来る必然なのだろうか。
 なんのこっちゃ。

 ただし、何でもできるからそういった状態に陥るのであって、ひとたび自室を離れてみればせいぜい携帯機しか持ち歩かないので、選択肢も自ずと制限されるというもの。
 それが目的というわけではちっともないけれど、今思えば、ここ数日の長距離移動はそういった気分転換に有効に働いてくれたように思います。
 お供にしたのは
『Dicing Knight.』。こういうちょこまかしたアクションゲームは好きです。歯が立たなかったボスに始めて勝てたとき、より正確には、この戦法で勝てると思った瞬間から実際に勝てたところまでの盛り上がりぶりが気持ち良い。
 それにしても我ながら、通販専売の謳い文句に弱すぎだね。面白いからいいんだけれども。


6/15(火)

 うん、やっぱりそうなのかもしれない。
 このへんで一度、うずたかく積み上がった順番待ちのゲームの列をリセットして、遊びたいものを絞らなければならない。復帰待ちを山ほど用意しておいてはいけないのだ。目移りする状況を自ら作り出してはいけないのだ。
 まずは、『ファイナルファンタジーXI』への姿勢から。いかに惰性でなくこのゲームとつき合うかを決めなければならない。ゆったりプレイをするにしても、積極的にゆったりしに行くべきであり、その日のプレイが思い出せなくてただ時間だけが過ぎた、結果的ゆったりプレイは好ましくない。

 ……ほんとうにそうなのか。いや、好ましくないなんていうけれど、こういう好ましくない状況は、ゲームとは切っても切れない関係にあるのではないだろうか。ゲームから好ましくなさを取り除いて頑張って遊ぶことに、どれほどの価値があるんだろう。

 あーもう、こんなごちゃごちゃしたこと考えずに、ゲームを遊ぶことに専念したい。一体どうしたら、脇目も振らず遊んでいた以前のように戻れるんだ。
 ひょっとして、自分は遊び方を忘れてしまったんだろうか?


6/10(木)

 一時期のどうにも切羽詰まった状況は抜け出したのだけれど、復活にはほど遠い。気持ちが盛り上がってこない。
 そんな折にぴったりなのが、『FFXI』における釣りという行為であって、これは海辺か川岸か池のほとりか、とにかく水のそばにたたずんで定期的にボタンを押すだけという、こんなことでゲームしていると言えるのかはなはだ疑わしいほどにプレイヤーの関与度合いの乏しい、一連の作業なのだった。
 魚がかかった際には「釣り上げる」ためにボタンを押す必要があるから、完全なルーチンワークにはならないけれど、そんな些細な違いをルーチンワークと呼びたくないくらいに、今の自分は変動に倦んでいる。
 なにもしなくていいということの大切さを感じながら、のんびりと釣りを続ける。でも、こんなふうに少しずつやる気を消費するのは、復帰を先延ばしにするだけなのかも知れないとも思う。
 どっちが正しいか、やってみなければ分からないのだから、心配してもしかたないのだけれど。

 エネルギーがたまったら、力の向けどころは山のように用意してあるからなー(それが良くないのでは)。


6/4(金)

 『ファイナルファンタジーXI』をプレイし始めてからもうぼちぼち1年になろうとしている先日、ついにレベル30に達することができました。
 レベル30は、選べる職業の数が増えるという点で一つの区切りであり、『ウィザードリィ』でいうならばレベル13といったところか。いや、『FFXI』で初めて転職を意識するのはレベル18のときだから、もう少し高めで、えーと……

 ……と考えたあげく、『ウィザードリィ』に例えてもしょうがないとの残念な(主に自分の話の作り方が)結論に。
 とにかく言えるのは、自分のペースはこのゲームを続けている人としては極めて遅いんだろうな、ということだけです。一緒に始めてレベル60とかの仲間がいるからなあ。いやはや、みんなのゲーム好きにはかないませんよホント。
 なお、新職種といったっておいそれとなれるものでもなく、それぞれに手続きが設けられていて、いやそんな表現では身もふたもないから、このゲームの用語に則って専用のクエストを受けることができるようになると言い直そう。それをクリアしてようやく転職の権利が得られるわけです。
 まだ相当遊べそうですよ。それも善し悪しかもしれないけれど。



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