ゲーム+α日記(2004年7月)

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7/30(金)

 もはや懐かしささえ覚えながら、『月は東に日は西に』(オーガスト)を再開し、メインヒロインである様子のクラスメート・美琴ルートを進軍中。
 同級生のヒロインは他にもおり、しかもそちらは誰からも魅力的に見えように描かれている。そんな中、差別化を図るべく美琴の取る道は?
 ……ということで、彼女は三枚目キャラなのでした。言うのか、女の子に三枚目って。

 このゲームの特徴である以心伝心さが目一杯強調されていて、それが心地よい方向へ働いている。とりわけ、仰々しくて告白なんて言葉を使いたくない、さりげなさで一杯のそのシーンが大好きです。
 ネタバレとは、プレイヤーがそれをばらしたいかばらしたくないかによって決まる、との自分法則により、ここをネタバレ地帯と認定し、反転させて表記します。

 直樹「俺さ、美琴のこと好きかも」
 美琴「わたしも、直樹のこと好きだよ」
 直樹「……あっさりだな」
 美琴「直樹もね」

 これが、他愛ないやりとりの合間に挟まります。「直樹」は主人公の名前。
 口にしてもしなくても分かっている、とはいうものの口にすることに意義がある。そんな俗説を足蹴にするかのようなあっさりぶり。この軽さ、心底うらやましいと思います。
 ……うらやましい?


7/25(日)

 当社比で最弱状態、気息奄々たる当方を力づけるタイトルがやってまいりました。『グラディウスV』。気候に負けじと熱が燃えさかっております。

 自分はグラディウスシリーズ、特に業務用を忠実に移植したタイトルに対して、実に殺伐としたものを感じていました。3面ともなれば、「もう十分遊んだろ? さあ死んだ死んだ」とばかりの猛攻、抵抗むなしく陥落。四の五の言わずに殺しに来る、そんな一本気な性格を垣間見ていたのです。
 今回は違います。ずいぶんと手の込んだもてなしを受けることができるのです。とりわけボスステージにおいてそれは顕著であり、まるでプレイヤーを長く遊ばせようと企んでいるかのような仕掛けには、我が目を疑いました。
 なにせ、殺しかたに理が通っている。ここがこうなってこうだからキミ死亡、と、オブジェの動きが説明しているのです。感激。
 自機の当たり判定が小さいのも、この傾向に沿っているでしょう。以前『グラディウスジェネレーション』で苦労した記憶が頭をよぎりました。まさかグラディウスで弾避けを楽しめるなんて。

 かくして、3面ボスと延々と戯れ、あげく逃げられて、我ながらチキンだと思いつつも満足、みたいなプレイスタイルに終始した本日でした。
 問題はプレイ時間が長いことか。ボスがうまいこと攻略できれば縮むのかも知れないけれど。

 しかし、ちょっと『R-TYPE3』が思い出されました。あれもいいゲームだったな。


7/18(日)

 一旦冷めた『Dicing Knight.』ブームが再燃、久々にゲームに漬かった気分となりました。
 きっかけは、一通りクリアで追加される主役キャラ。アクションの性能ががらりと変わるのは予想の範囲内で、そう予想できたことがろくに遊びもせずほっぽり出した原因ともなったのだけれど、遊んでみれば敵の対応も変化していたのには意表を突かれた。
 これまでの忙しくも荒っぽい接近戦から一転、狙いを定めて投擲したり、イヤらしい軌道の撃ち返し弾(!)を避けたりかわしたりと、これまで遊んでいたのとはまるで別物。これを新鮮に感じているうちに、いつの間にか標準の5ステージを突破していました。
 そしてメニュー画面を見れば、クリアの印が銀星から金星へとランクアップ。これには永遠に気づけない可能性が高かった。自分にそれを出会わせた点で、このゲームは自分に対して勝利を収めたと感じた今夜でありました。

 もっともこの追加キャラは、最終ダンジョン攻略には相性が良くない様子。それを確かめるべく双方のキャラでプレイを試し、改めてやりやすい感触を得た当初のキャラで遊んでいたら、最終ダンジョンも100面に到達。プレイの方針も固まって、時間はそれなりにかかるがコロっと死ぬ不安定さはなくなり、適度な緊張感を持続しつつ遊べている。
 あと10倍? ……予定とか未来とかには最も縁遠いのが自分のスタイルなのは百も承知だけれど、もしかして、ひょっとしたらひょっとするんじゃないだろうか?
 少なくとも、以前ほど絶望的には思わなくなっているのです、恐ろしいことに。


7/13(火)

 どうにも死に体のこのサイトをさてどうしてくれようと、積極的に蘇らせる方向でぼんやり考えていたのだけれど、無理に何かすることはない、というか、無理に何かはできないというありきたりな結論に落ち着いた。
 「何か」ったって、この場において指し示されるのはゲームしかないのだけれど。更新のためにゲームをするといったことが。

 ここ数日で二度、やりきれない思いに満たされる出来事があった。その場でその出来事に限っては、もはや打つ手はなくて、今振り返れば滑稽なくらい、その打つ手のなさに呑み込まれて右往左往していた。
 自分には、自力でそのようなハマリから抜け出せる力はない。助けはいつも外からやってくる。今回の場合は二度とも、時間が強制的に解放してくれた。

 どうしようもないことだと認めるくらいしかできないのなら、せめてそれを認めよう。そして、何らかの外部からの働きかけを素直に待つことにしよう。
 それが、あがく力の薄れつつあることを自覚する今の自分にできる、せめてものことなのだろう。
 もしかしたら、いつの間にか何とかなっているかも知れないではないか。何とかならなくても、今がすでにそういう状態なのだから、改めて気にかける必要はないんじゃないか。


7/5(月)

 その日が前日までと違っていることが身に沁みて実感されるのは、決まってその日になってからだ。
 たとえ予告があったって、それは自分には縁のないこととしてさっぱり忘れ去ってしまうか、いいとこ頭の片隅に知識として引っかかるだけで、決して実感となって先取りされはしない。

 自分のこういう性質に気がついたのは、中学2年の終わりの頃だった。さらに遡れば、小学生だったいつかでも、言葉にはならないにせよ同じ感覚を味わっていた。あのどうにも不可解な、世界に裏切られたとでもいうような身勝手な思いが、おぼろげながら記憶に残っている。
 世界は裏切りなどしていない。いつまでも同じく続くと思い込んでいた自分が間違っていただけ。当たり前だ。
 そこからずっと今に至るまで、ちっとも成長しちゃいない。それは落ち込むには十分ではある。ただ、そんな記憶があるところは当時と異なっていて、だから待ち受けるこの先について、相変わらず実感は訪れないにせよ、予測はつくようになっている。

 どうか、時を置いては読み返させて下さい。そして、新しく発見させて下さい。
 他人の声に耳を貸せない自分が、自分と異なる見解を受け取るためには、読んでは時を置く、あるいは繰り返し読む、というやり方しかないようなのです。
 その日を迎えてようやく呆然とできる自分に、今言えることはこれくらいで、それが忌々しくてなりません。



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