ゲーム+α日記(2004年8月)

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8/30(月)

 一日経っても、すっきり晴れない気分を抱えて、半ば途方に暮れている。しばらく暮れ続けかも知れない。

 昨日、実に久々に『ファイナルファンタジーXI』でパーティープレイをした。レベル30に上がったことを嬉々として報告した6/4以来だから、ほぼ3ヶ月ぶりになる。
 そこでの約2時間を振り返ってみても、おぼろげにしか記憶がない。
 滅多にないプレイ形式に加え、初めての前衛役(敵を殴ったり殴られたりする係)であり、相当に緊張していた。そんなことは覚えていても、ひたすら剣を振るい状況を報告し次の獲物を探す、数十回繰り返したはずの一連の行動を、ほんの断片しか思い浮かべられない。
 そして、パーティーが解散した後には、一人プレイでの3倍くらいの効率で経験値がたまっていて、それを確認して初めて、自分があの中で役に立ったということが実感できたのだった。

 あの状況は、水の中に入ってしばらく過ごしたようなものかも知れないと思う。絶えず水が跳ね、波が立ち、渦が巻くかのように、周囲の雰囲気がことごとくいつものようでなく、どの瞬間にも特筆すべき点があった。ところが、なぜか自分はその特別さを気にしないでいられていた。
 そのときの環境の特殊さに、少しでも意識を向けていたら、その途端にあらゆる意味が四方八方から自分に襲いかかり、どうにも身動きが取れなくなり、ついには溺れてしまっていただろう。
 そうならなかった自分は、そうならなかったことに心から感謝する。まさにそうならなかったことによって、自分だけでなく、その場にいた他の5人にも、等分の経験値が振る舞われたのであり、他の人の「役に立てた」と感じられるのだから。

 それでも、少しだけ引っかかるものがあって、それが自分を完全な感謝の気持ちから遠ざける。自分がどうであったかを知覚できないままの行動が、「役に立つ」ことにつながっている、という結果に対して。
 そして他方では、そのことに深く納得する自分もいる。それがまた忌々しい。


8/23(月)

 抜け出したいのに抜けられない、恐ろしい闇にとらわれていた。退屈だとかつまらないとかもうやめたいとか思っているはずなのに、それを実行に移せないでいた。

 『ファイナルファンタジーXI』でチョコボに乗って、あてどなくさまよっていた。
 いや、行き先がないのは間違いないのだけれど、目的はあった。だから、無駄にさまよっていたわけではなかった。
 我々を乗せて高速移動してくれる鳥であるところのチョコボに、彼が好む野菜を与えると、その見返りにとの思いからか、地面をほじくり返す。その行為はたいがい徒労に終わるが、たまに埋蔵アイテムを掘り出してくれることがある。
 そのアイテム目当てに、走らせてはエサ、走らせてはエサとチョコボを酷使していた。

 この鳥の上にいる限り、敵から襲われることがない。そこで、どうせならと思い、普段行かない土地まで出かけた。
 観光気分は楽しかった。何度となく道に迷い、初めて見る魔物の姿に驚き、そんな合い間に土を掘り起こした。
 やがて、その地のほぼ全域を踏破した。マップを把握し、迷わずに行動できるようになってきた。
 そこから先が闇の中だった。

 もはやチョコボは移動手段ではない。移動することに意味はない。
 いわゆるチョコボ掘りの特徴は、どこにアイテムが埋まっているかが分からない、というか決まっていないところにある、と、徘徊しながら思った。
 目的地がない。移動しているのに、しかも移動のためのシステムなのに、どこへ向かえばいいのかが定まらない。おかしな話だ。
 そしてそのうち、おかしいというよりは恐ろしく思えてきた。目的がないだけに、やめどきが見つからないからだった。

 目指すアイテムが一つ取れたから終わり、という性質のものではない。取れたら取れただけうれしい。だから目指し続ける。
 どこにいるかは重要ではない。ただ歩き続け、そして掘る。
 以前に精力的に活動していた鉱夫稼業では、目指すポイントがあった。それを見つけることが当たりへの入り口だった。
 最近メインに取り組んできた釣りには、場所・道具・時間を選ぶという工夫の余地があった。それを面倒くさがることもあったけれど、何かできることがあるのはかけがえなくいいことだった。それを思い知った。
 チョコボ掘りでは、プレイヤーができることがない。

 それも当然なのだと、ある時気づいた。主役はチョコボなのだ。プレイヤーではなかった。
 チョコボに乗って、あるパーティーの戦闘場面の横を通り過ぎようとした。そのとき、彼らと戦っていたモンスターが、辺り一帯の全員を眠らせる攻撃を放った。それが、パーティーに加えて、自分をも襲ってきた。
 自分はそこに棒立ちとなった。攻撃をされないことを知っていたけれど、まさか寝てしまうとは思わなかったから、初めは焦った。しかし予想通り、それ以上自分に不利になるようなことはなにも起きない。そこで思い立って、チョコボに野菜をあげるコマンドを入力してみた。
 鳥は平然と地面をつつき始めた。

 チョコボは無敵だから、その背に乗ったからには主役はチョコボ。当方の都合で切り上げられないのも当然かも知れない。
 そしてきっと、チョコボは野菜を無尽蔵に欲しがっている。あげればあげただけ食べるのだから。
 何のことはない、酷使なんてお互いさまだったってことだ。って表現が悪いか、持ちつ持たれつ、くらいにしておこう。

 意志が弱いってのは前提条件ですから(←いばるところじゃない)。


8/17(火)

 能力が同等以下のハードへの移植であれば新たな工夫の余地が多いと感じられるのに引き替え、上位機種がエミュレートに近い余裕で旧来のゲームを蘇らせるのを目の当たりにして、ノスタルジーに浸るにしても温故知新の精神にしても、できるだけ実機に当たるのを是としていく方針でいた自分だけれど、このタイトルだけは別格だ。
 BGMに深い思い入れがあるのです。最悪、ゲーム内容が違っていても曲さえ聴ければそれでよし。
 そんな思いでファミコンミニシリーズに、初にしておそらく最後になるだろう手を出しました。獲物は
『パルテナの鏡』

 最近はこういう、何となく普通げなアクションがなくなってきたものだなあと思いながら遊ぶ。「タナトス」「セイレン」「メデューサ」といったまともな敵たちと、イカ状の「カイメルース」、目と鼻で構成された「メガネハナーン」(「ハナーンメガネ」?)といったあんまりなネーミングが共存しているところが緩やかでいい。細かく辻褄を合わせた設定なんてくそくらえだ!(言い過ぎ)
 もっとも、本格的なゲームプレイの前にはもちろん、敵の出てこない環境下で、最も好きなステージ1の曲を延々とループし続けて堪能し、さらにその前にはディスクシステムの起動画面におけるマリオ兄弟の追いかけごっこを眺める時間がありました。満足満足。
 特に後者は誰だってやると思う。どこまでが1ループなんだろう? 当時からの謎を今も引きずっています。

 しかしこのゲーム、こんなに難しかったっけ? 上への一方向スクロールなのに落下で即死という非情ルールが身に沁みます。自ら死に場所を増やしていくというこの矛盾。主人公ったら天使だというのに、背中の羽が泣いてます。
 敵の攻撃も実にいやらしい。一定の点数でライフ枠が上がるので、さっさとクリアせず、無限に敵が出続けるところで点を稼いでステージ序盤でライフを増やすなんてせこい手があります。ただ、昔は点稼ぎそのものを目的に、半ば余興でやっていたものだった。今はそれがあって抜けられるかどうかという情けなさ。
 ああ、昔はよかったなあ……(ゲームが、じゃなくて自分の腕前が)


8/15(日)

 盆休みだし本でも読むかーと、誰が買ったか実家に置いてあったミヒャエル・エンデ『はてしない物語』(岩波書店)に取り組んだ。
 ああ読んでませんでしたとも、ご高名は伺っておりましたが。そりゃ有名でもあろうというもの。最高。

 前半だけだって、『Ever17』を思い浮かべながらこの上なく楽しく読みました。
 と、ネタバレを気にしながら書いてみたその後で、両者の裾野の広さを取り違えていたであろうことに思い当たる。むしろこう書くことで『Ever17』のネタバレになる恐れが大きいだろう。ん、ならいいか(←『Ever17』に手ひどい仕打ち)。
 しかもここまでで半分だというから恐ろしい。飴とムチというか人生そう甘くないというか、手を換え品を換えの空想の上に必ずしも心浮き立たない話が運ばれてくる。そして話の収束の見事さ。

 自分はこれを菊判バージョンで読んだのだけれど、そのことに心から感謝しました。文庫になっているようだけれど、装丁はいったいどうなっているのか。
 あの感銘の与え方を台なしにしてはなるまい。きちんとした装丁でもって、かつ、ふと手に取ってしまったという巡り合わせが必要なのだ。自分のように。
 と、もはやそれ以外の読み方ができなくなった現在から振り返って、好きに自画自賛してみる。
 こういう出会い方には特別なものを感じずにはいられない。そう感じさせるのが、この本の最もすごいところなのだと思う。
 自分はファンタジーも入れ子も大好きなんだなあ、ということを再認識しました。


8/12(木)

 今にして思えば、始まりは1年ほど前からだった。

 それまでは、やりたいことはできていた。問題は、いつやるかという点だけだった。すぐにできなくても、後回しにしたり多少無理をしたりで、やることを減らさずにすませることができていた。
 やりたいことの幅が狭かったのは否定できないにしても。

 それが1年前を境に変わった。ちょうど体調を崩したのと重なったこともあって、当時は一過性のものだと思っていた。でも実はそうじゃなかった。
 気がつけば、どんなに時間をやりくりしても、全てをフォローすることができなくなっていた。無理もできなくなっていた。すれば必ず後に響き、トータルで損になった。効率よくと思って平行して作業を進めて、どちらにも集中できず、一兎も得ずじまいになったりもした。

 『ファイナルファンタジーXI』が決定打になったのは間違いない。
 これまでゲームのためにいろいろ捨ててきたはずなのに、今それを強く無念に思うのは、知らず知らずのうちに捨ててきたか意識して捨てるかの違いなんだろう。
 どれかを意識して捨てない限り、やっていけない。そのことが、無性に悔しい。


8/7(土)

 最近の『ファイナルファンタジーXI』では、合成と魚釣りがすっかりメイン活動の座に就いている。
 特に魚釣り。ちょこっとボタンを押すだけで、メッセージが出て、引きに応じてコントローラーが振動したりして、たまに本当に釣れたりして水産物やら錆びたアイテムやらがもらえる。
 こんなシンプルな操作でいろんなことが気楽にできるなんて、すばらしい……!

 といったダラダラぶり。
 これがひとたび、釣果を狙ったり腕前を上げたりを意識し出したりすると、釣り場・エサ・竿選びに頭を悩ませ、上級者は引きの強さなんかまで気にするらしく、そのくせちっとも当たりが来ず、手みやげを作れぬまま空しく帰途につく、といったように、どうにも労力に見合う成果が得られない様子。
 いや、もうそれを労力と感じていることが問題なのだ。
 仮想空間を気だるさが跳梁しています。体を動かす動かさないの違いはないようです。

 そんな気合いのこもらないプレイなので画面を注視し続ける必要もなく、操作の合い間にちょろちょろと『ファウスト』(講談社)3号を読んでおりました。
 その中の『ワールドミーツワールド』(元長柾木・著)。
 いかに自分が三度の飯より「世界」という言葉が好きで、そろそろそこに「人間」を足した「社会」を好きになってもらいたいと思うくらいであっても、そんな直球なタイトルはどうだろう、と読む前は思っていましたが、出会うその瞬間というお題が話の短さと合っていると感じ、納得して読み終えることができました。
 2つめのエピローグのところなんか、うちの部屋を思い起こしました。ただしこちらは一つどころじゃない。収納箱を開ければ、数のチェックさえ諦めるほどのゲームたちが、己の未プレイ行為を責めてくる。うめき声にも聞こえるかも知れない、あれは自分を呼んでいたのであったか。
 って、どうしてもそういう連想になってしまうなあ。


8/2(月)

 うらやましい?
 そう、『月は東に日は西に』(
オーガスト)の告白シーンに出会った先月の自分は、主人公と美琴のふたりがうらやましかった。
 それは、好きとか嫌いとか、口にする前に立ち止まったりしなかったから。

 無自覚にそう言える、その感覚が沁みついている、というのが納得できるように描かれている様子が良い。それはキャラクターとして好ましい。一方、好きであることについて考えを披瀝するゲームにも、これまでいくつか接してきた。それらは、話として好ましい。
 どちらのスタンスにせよ喜んで受け入れられるってんだから、自分にはこのジャンルがよほど合っているんだろう。

 そんなことを思ったり思わなかったりの、短い実家暮らしでした。ゲーム進んでない。
 しかし、我ながら行動に前進のかけらも見当たらないことだなあ。『Dicing Knight.』を持ち込んでちょっと頑張ってみたら、次の日に目をしたたかにやられていて、もう無理は利かないお年頃であることを自覚したりとか(←完全に後退してる)。



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