ゲーム+α日記(2004年9月)

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9/25(土)

 バージョンアップに伴って新しい秘密がたくさん用意されても、それはしょせん限られた量でしかなくて、大勢が集合離散するネット上ではあっという間に白日の下にさらされてしまう。
 謎を残すことなど許さない勢いで攻略されていく、その怒濤ぶりから十歩も二十歩も退く。せいぜい一支流の流れが急になったとか向きが変わったとか、本流から遠く隔たったその程度の変化を受け入れるくらいしか、自分には許容量がないのだと分かっており、その判断は間違っていなかったのだった。

 ただ一方、秘密を探ること・謎を解くことを遊び方のメインに据える限り、終わりが来るのは目に見えていて、それを回避するための策は、その場限りしかないものに接していくしかないことも、体得しきれてはいないものの納得しつつある。
 ゲームを楽しませるためにあるはずの戦闘・合成・イベント、それら全てのシステムが、その確立したありさまゆえにかえって檻として機能する。そこをすり抜けて漏れ出るもの、ゲームの中にありながらシステムの束縛を受けずに済んだもの、そんな奇跡的なレアアイテムを求めてプレイするのも悪くはない、最近はそう思うことがあります。
 いや、なんてことはない、プレイヤーどうしの普通の会話のことなのですが。あまりに現実世界に密着した話題は興醒めだけれど、ゲームに関連しつつ、そこまではフォローしきれないと開発側が白旗を揚げるような重箱の隅をつつく疑問だとか。ぽろりとはみ出たそんな鬼っ子が、ゲーム内の言葉として場の中に認知されたとき、たとえすぐに失われるにしても、ゲームはひとつ豊かになっているのだと思います。

 なるべくなら、ゲームの話はゲームの中だけでしてほしかったんじゃないかと、『ファイナルファンタジーXI』拡張ディスク『プロマシアの呪縛』導入に伴うゲーム世界の変動を見ながら感じました。
 実際には、ネットの猛威には到底太刀打ちできないのだけれど。
 でも、知ったかぶりするのと無知でいるのと、表明して楽になれるのはどっちなんだろう? そう思うと、余計なことは知らなくていいやと思えてきます。
 知らなかったら、質問することで会話につなげられるんだと知った今は、特に。


9/19(日)

 新刊の『ユーゲー』15号を読み、サターン特集で懐かしさ一杯になる。
 思えば、一番がんばってゲームを遊んだのってサターンの頃だったんだなあ。あのときにかけた情熱、今とは比べるべくもない。
 そして、ドリームキャストやPS2のゲームを遊ぶとき、そのきれいきれいした画面と「ゲーム」の結びつきに未だに違和感を覚える自分がいることにたまに気づいたりもして、それは「サターンの頃」をまだ引きずっているためではないか。この特集に出てくるゲーム、もう一度、あるいは始めから、遊びたくてしかたなくなっていますよ。
 『ユーゲー』がしっくりくると心から感じられるのは、いいことなんだろうか? 今回の企画が性に合っただけかもしれませんが。

 ドリームキャストが死んで3年経つことになってるという世間に自分が追いつくのは、いつになるのだろう……
 ところで
『Lien』はいつ出ますか(←追いつこうとしてない)。


9/9(木)

 シングル曲でもあり『ユグドラシル』に収められてもいる「ロストマン」の歌詞については、何かを分かったという感覚が得られないまま長いこと経っており、腑に落ちているとは今も言いがたい。
 それでも、納得できる一部を抜き出して自分に都合のいい場面に当てはめるという原作への冒涜を今回もあえてするなら、後半部のなにか良い展開を見せているその状態でさえ、
「ここが出発点 踏み出す足はいつだって始めの一歩」
なのであり、二歩目のない場所を歩みながらも、歩めること自体が新展開なのだと語るくだりが、それまで落ち込んでいたところの深さをさらに底なしに見せているように感じられる。どん底より一つプラスというその状態が理解できるような気が、最近はしている。

 脱け出すにはまだほど遠い、それでも少しはいいことがある。そんなあり方に自分をなぞらえるのは、それで終了するならあまりにもばつが悪すぎる。あくまでそれは、抜け出す方向へ、1+1が2となるような方向へと歩き出す様子と引き比べて、脇役としてやっと意識されるものに過ぎないものとしておきたい。
 目的に向けて歩き始める人たちを、自分はこの場から見送る。その旅の良いものでありますように。


9/6(月)

 曲の終わりの印象度では、こちらも全く引けを取るものではないぞ。
 と、『ユグドラシル』の実質3曲目にあたる「ギルド」にも大いに傾倒中。
 声がフェードアウトして、伴奏もメロディーが薄れていって、最後まで残るのが何だか金属的な打音。このリズムと響き、これはもしかして……!
 
『ファイナルファンタジーXI』において鍛冶ギルドに属する自分には、それが熱した刀身を打ち付けて鍛える音に聞こえましたとさ。鉄は熱いうちに打てってことだろうか。
 もっとも、自分で言い出しておいて何だけれど、そこまで露骨にメッセージが込められてほしくはない。というのも、この曲のもう一つの魅力が、人間離れしたという形容が文字面通りであるような状態を表しているようだからなのです。

 人間の感情で好きの嫌いのとあっさり言ってのけて、それで説明不要、他人に通じて当然、みたいな驕りを振りまくのなんて、見ていて面白くも何ともない。
 「乗車権」「ギルド」と続く『ユグドラシル』の収録曲は、その点で大変好みです。しかも、何と言ってもアルバムの題名が木だ。いずれは木が主役の曲、歌ってくれるんじゃないだろうか? 大いに期待しています。
 って、もうあったらどうしよう。


9/2(木)

 最近は自分の届かない境地を歌う曲が増えたと感じられはするものの、それは楽しみが残されているのだと考えることにしたらいいのではないか。
 そんな気持ちでBUMP OF CHICKENの新アルバム『ユグドラシル』を買ったのだけれど、このお話作りのうまさは本当に大したものだと、その中の「乗車権」を何べんも繰り返し聞き惚れているところです。
 アルバム全体を通過する前に、気に入った曲に引っかかるのが自分の常。これすなわち一曲集中というやつ(←帰れ)。

 話を成り立たせるための罠がたくさん散りばめてあるようだけれど、それでもこの曲を好きだと言おう。荷物として運ばれていく主人公、彼の無力な叫びの後で、その行き先の遠さを響かせるような曲の終わりが余韻を残します。
 あと、これはこのバンド名義には珍しく、自分がメロディーから入った曲でした。跳ねるような音の配置も好み。音の彩りを得て歌われるのが真っ暗に救いのない様子だなんて、皮肉にできているものだなあ。



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