ゲーム+α日記(2005年6月)

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6/26(日)

 その手の、あるタイトルがいかに自分にとって大切かといったことがらは、ゲームとつきあう力の源になってくれる。でも、それと上達とはまた別物のようだ。
 というほどに『エスプガルーダ』の腕前はなかなか上がらず、ここでしかたなく妥協することにしました。
 
例の弾消しシステム「覚聖」を、弾避けのためだけに使うという妥協を。つまり、弾をスコアアイテムに替えることなく、敵を倒す前に「覚聖」を解除するのです。

 弾消しに適用しないことで、せっかくの発見がなんだか無に帰してしまう気がして、最初は抵抗がありました。
 でも、そのせいでゲームが楽しく遊べなくなるくらいなら、そんな意固地さは捨てるのがいい。もともと自分が楽しむための考え方なのだから、そこに囚われて楽しめなくなるのでは本末転倒というもの。
 そうでもしないと、長く続くボスの攻撃をしのぐことができそうにない。そう納得できたのなら、それで十分ではないか。
 何も考えず適当に「覚聖」を織り交ぜるプレイより、つきあい方の質はずっと高いに違いありません。

 そう言い聞かせながら練習に励んでいます(納得してないのか)。
 しかし、これホントに簡単なのかな? すぐクリアできるゲームとはとても言えないのでは……
 と思っていましたが、このゲームから「覚聖」を抜いたのが他の弾幕シューティングだと思えば、やりようがあるだけ比較的易しいと言えることに気づきました(←個性を見つけてあげられてない「他の弾幕シューティング」がたくさん)。
 「ボムごり押し」「頑張って避ける」以外に手段があるのはすてきなことだ。


6/20(月)

 いくら元気がいいと言っても、これはおいたが過ぎるいやらしさだなあと思いながら『プリンセスうぃっちぃず』を楽しむも、その一方で、『エスプガルーダ』を引っ張り出し、PS2にて奮闘しているところです。
 きっかけは、『エスプガルーダ』が難易度を抑えたゲームだと聞いたところから。おいおいあんな弾幕シューティングが易しいわけないじゃないか! と首を傾げながらの再スタートでした。

 これまで自分は、ケイブ製のシューティングゲーム全般に対して、「敵弾いっぱいの中をすり抜けながら進む」という唯一の遊び方で接してきた。
 『怒首領蜂』以降、確かにそのような特徴を、どのタイトルも備えていた。ただ一作『プロギアの嵐』にだけは当初から別の態度を取ったけれど、それはこのゲームが横スクロールで、他とは見た目で分かりやすく違っていたからでもあった。
 今思えば、それも一つのヒントだったのかも知れない。違うことを認識したところで、ようやくそのゲームとのつきあいが始まるのだ。

 通れるかどうか分からない狭い隙間を見つけてくぐり抜ける、それを続けている間、どのゲームも同じに見えた。あったはずのシステムの違いをまるで気にしなくても遊べた。
 クリアは当然できなかったが、そのことで悔しさも腹立ちも覚えなかった。弾と戯れるのがメインで、クリアは別の次元の出来事だった。
 あたかも反射神経を養成するためのツールのように、これらに相対していた。弾を多量にばらまく敵が現れたとき、即座に撃墜すれば展開は楽になるだろうけれど、たくさんの弾に囲まれていた方が時間効率よくテストできるので、無理に早く倒す必要はなかった。
 そして、次々と新作が現れる中、それとは関係なく、どれか一作がゲーセンにあれば遊ぶけれど、どれか一つのタイトルにこだわることがないままでいた。

 だから、久々に遊んでみた『エスプガルーダ』にも同様の態度で臨み……あえなく2面で全滅となった。
 ……そのとき、腹立たしく感じていることに気づいた。
 これはいったいどういうことだろう。易しいんじゃなかったのか。

 実際には進化などせず、従っていつでも同じ境遇にいられる反射神経テストの枠から、なぜか今回ははみ出しているようだった。
 先へ進めないことがいらだたしかった。
 すぐに練習モードに入り、先ほど全滅した2面のボスに取り組み始めた。

 それなりの時間を過ごし、このゲームを「弾幕シューティング」のジャンル呼称から解放する差異を見つけた。
 このゲームでは、ボタン一発で敵弾の速度をスローに落とすことができる。作用時間には制限があるが、その間は生き延びるチャンスが増える。だから、このシステムを「敵の弾を遅くするためのシステム」だと思っていた。
 でもそれだけではなく、弾足が遅くなったこのモードで敵を倒すと、弾をスコアアイテムに変えることができる。つまり、敵弾を消すことができるのだった。
 スピードは遅いが大量に弾が残っている状態と、弾がなくなった状態とでは、どちらがより安全か。後者に決まっている。

 そして、この弾を消せるのは、その弾を撃ってきた敵を倒したときなのだった。
 それで、ようやく理解した。このゲームは、「敵弾のいちいちに敵の名札が付いているゲーム」だったのだ。
 このときから、自分にとって『エスプガルーダ』は無名の「弾幕シューティング」ではなく、特別な名を持つタイトルとなった。

 敵弾を足止めし・消し・スコアに変えて得点1UPに近づける「覚聖システム」、緊急回避にも攻撃にも使えるボム、そしてイージー設定の後押しまでも受け、最終面までどうにかたどり着いた。
 何とか、「クリアできたゲーム」の1ページにこのタイトルを刻みたい。その思いを胸に、修行を繰り返しています。

 といったことを、取り組んでから1週間も経ってようやく文にする。そんな後出しじゃんけんの日々です。


6/18(土)

 製品のパッケージを見て初めて、タイトルに他の意味があるのを知りました。
 少しこじつけかとも思うけれど、タイトルロゴにごく控えめに添えられた、ダブルミーニングを示す英文は嬉しい不意打ちでした。これはおそらく話の展開と関連しているのだろうけれども、それに加えて、このジャンル特有の「プレイヤーが誰を好むか」という問いとも受け取れて、好感度はさらにプラスです。

 身近に感じたきっかけは、やけに丁寧な作りの公式サイトを見て、アニメーション紹介で「祈り、詠唱、念じて――」というキャプションに出会ったことでした。
 そして、実際遊んでみれば、魔法戦闘シーンにおけるチュートリアルのBGMがファミコンの『ロックマン』シリーズを彷彿とさせます。
 たぶん他にもネタはたくさん仕込んであるのだろうし、これくらいしか気づけなくて肩身が狭いけれど、こういうのは好きです。
 もちろん、絵がかわいいとか、主役らしい子の一部セリフがやたら元気がいい(「子供のような」の婉曲表現)とか、惹かれるところはほかにもありました。

 そんなこんなで、『プリンセスうぃっちぃず』(ぱじゃまソフト)を遊んでおります。
 現在2話終了まで。楽しいねー(ヒロインとともに、童心に返りながら)。


6/12(日)

 何やら評判がいいので、『脳を鍛える大人のDSトレーニング』を試してみました。
 うむ、興味深いソフトです。

 ここで出てくる「脳を鍛える」諸説については、真に受けてよいものかどうか判断つきません。そういう研究もあるのだ、くらいに受け取っています。いうなれば『マインドシーカー』級に(←失礼すぎ)。
 と、それはともかく、まず注目すべきことに、このソフトはニンテンドーDSを縦に持ってプレイするのですね。そして、横配置になったタッチペン画面が、プレイヤーの利き腕方向に来る。左利きにも対応。その場合は画面が上下反転する。
 利き腕設定を変えてみて、画面が反転したとき、また、縦持ちして2画面を「半分がペン書き可能な1画面」として使っているのを目にしたとき、ちょっと感動しました。
 まあ、後者は、それまでDSでは『メテオス』しか遊んでいなかったのが大きいかも知れない。上の画面を見る余裕がなかったからなあ、あのゲームは。

 各種筆記・口述試験をタイムアタックで撃破していく内容も楽しい。なんと口述ですよ。『たけしの挑戦状』から、思えば遠くに来たもんだ。
 文字も大きく読みやすいし、テストの指示なんかをしてくるポリゴン先生(顔のみ)もいい味を出しているし、これには他の人に話題を振りたくなる楽しさがあります。他のゲームの話題ほどには煙たがられないだろうし(煙たがられるほどその手の話を振らないように)。


6/6(月)

 約1ヶ月前に結論を導いてから、気持ちを前向きに持って、『ファイナルファンタジーXI』のパーティープレイに取り組みました。
 この一月で計3回。
 半年間の触れ合いブランクからは想像を絶する飛躍だと、胸を張って申告できます。

 不安要因があるならば、最低限のことだけを気にし、その他はないものとする。そうやって、これまでも過ごしてきました。何か大切なものを忘れている気分から抜け出たことがありません。
 遠足を前日に控えて忘れ物が不安だったら、弁当のことだけを考える。テニスをしに行くのに何となく後ろ髪引かれるなら、ラケットと靴だけに着目する。
 そうやって切り捨てていかないと、気にすべきことが多すぎて、何にも集中できなくなる。情報処理能力の貧困さを、そのような作戦で補ってきました。
 今回の冒険においても同じ方針で、何をしたらいいか分からない不安はできるだけ潰すよう心がけました。
 すなわち、自分は白魔道士である。それゆえ、まずは他のメンバーの体力を回復することに注力するように。

 しばらくは、その立ち回りでうまくいっているようでした。パーティープレイへの別世界的な印象が、少しずつ和らいでいったりもしました。
 しかし、つい最近の3度目の結成で、この作戦には欠陥があることを感じたのでした。

 一度の戦闘で、他人を最大限まで回復させた状態を保つのに全力を傾ける。その場限りではそれが最も有効な行動です。
 しかし、戦いは単発では終わりません。次々に標的が現れ、間をおかずに倒していくことで、より効率よく経験値が得られます。そのことが、早くレベルを上げて強くなることを目的として一致団結しているみんなの、最大の目的なのです。
 一方、直前の戦闘で回復力を使い果たした魔法使いは、しばらく戦力になりません。時間を置かなければ魔力は回復しないからです。余計な時間を取らせると戦闘が間延びし、集団としての目的達成の障害となるのです。

 己の信じる最善の行動が、チームにとって最善とは限らない。
 パーティーにとって、回復要因である白魔道士に求められる役割は、体力を高い値に保つことではなく、戦闘をスムーズに進められるよう回復していくことである。

 こ……これが、部分最適と全体最適の違いというやつなのか。両者を遮る壁は、あまりにも高く感じられます。
 この3回、決して短いとは言えないプレイ時間を費しました。しかし、チーム内の役割を、たとえ頭で理解できたにしても、それを実行に移すまでに、さらにどれだけ時間がかかることか。
 それも、レベルアップに応じて習得する技術をもその都度活用しながら。
 今後の自分にそれができるのか? はなはだ不安です。

 もっと、一レベル分の戦闘が長ければ、慣れることもできるかも知れないのに。
 素早く成長し、早く攻略されるのを防ぐため、戦闘に時間をかけさせるシステムのこのゲームで、こういう感想を持つひとがどれくらいいるかは知らないけれど、これが今の自分の偽らざる本音なのです。



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