ゲーム+α日記(2005年7月)

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7/27(水)

 『戦国BASARA』で弱者の立場に追いやられ、底知れぬ恐怖を味わう一瞬がありました。

 主役に織田信長をチョイス。この歴史上の主役にBASARA界が与えた役どころは魔王、まずは納得の待遇と思われます。
 もっとも、いざ操作したところ、広範囲に途切れなく攻撃が出せる一方で一撃がやや軽く、これは役の重さに見合ってないのでは? と一旦は思いました。しかし、そんな雑感を吹き飛ばす凄みが、ステージクリア時に用意されていたのです。

 低い位置の固定カメラに視野外から、セリフよりやや遅れて信長登場。
 ゆっくりと接近しつつも、まっすぐ向かっては来ない様子。
 …と思いきや、ふと顔をこちらに向け、睨め付ける。
 刀を抜き、緩い動きで振りかぶり、
 「天下布武、ある、のみ!」
 セリフの締めとともに一閃、斬撃音とともに「画像が消える」
 真っ暗な画面に、「勝 利」の極太文字。

 このシーン、気分はまさに敵の雑兵。
 ゲーム中でも、戦意を喪失した敵が腰を抜かして動けなくなっているところにたびたび出会います。先を急ぐときは相手にしないけれど、敵を斬ると増える必殺技ゲージを貯めておきたい、倒した敵の数を増やしたい、爽快なので斬りつけたいなどの理由で、そういう敵を手にかけることもままあります。ありました。
 それが相手にとってどう感じられるかを、このシーンは如実に示しているようです。

 歯牙にもかけずに殺される気分、そして殺されると分かってから最期までの長い一瞬。さらに、足軽が一人死のうが何の影響もなく合戦は続いていくという事実。
 こんな思いを味わわされては、魔王だと認めざるを得ません。なんと恐ろしい見せ方だろう。


7/25(月)

 しかしこの7月は買うべきソフトが多くて困るなーと思いつつ、その中の一本『戦国BASARA』に大喜びしております。
 ざくざく敵の大群をなぎ倒して進む楽しさもさりながら(「一騎当千系」とはうまいこと名付けたものだ)、このゲームの見所は何と言っても濃いキャラクターたち。
 「キング・オブ・伊達男なので英語に堪能」
 「サッカーでゴールを決めたときのように勝利のポーズを決める(立て膝で滑り込むアレ)」
 「最強の名をほしいままにするメカと、自慢のおもちゃに対するノリで嬉しそうに命令する子供の主君」
挙げていけばきりがありません。

 ところで、たった一人で大立ち回りというこの手のゲームの設定をそのまま受け入れるには、自分の度量は小さすぎたようで、それなりの解釈やら理由やらがあって初めてそそられるものとなってきました。
 これまで遊んできたものは今回を含めて3本しかないけれど、今思えばいずれも、無茶なシチュエーションを納得させる背景を用意していたのです。
 『真・三國無双』:プレイヤーは中国の豪傑だから。
 もっともこの観念は、雑誌「CONTINUE」0号における同作の紹介に感化されました。そこではプレイヤーが強いわけを「なぜなら、(大げさが多い中国の物語における)英雄だからです」と評しており、その受け取り方には深く感じ入ったものです。
 『メタルウルフカオス』:プレイヤーはアメリカ大統領だから。
 そしてこの『戦国BASARA』では、BASARAという語がそれを担っています。

 ……なんて、婆娑羅と傾きと伊達の違いも分からないで何を理解したでもないけれど、とにかく暴れ回るすごい奴らがいるのだ、という表示には十分なっていると思います。
 きっかけがあればそれで良し。後は楽しむだけです。


7/17(日)

 おおっ?
 およそ予想外なことに、『エスプガルーダ』イージーモードでノーコンティニュークリアできてしまいましたよ!?
 自分の実力ではまだまだ、特にラスボスの各形態を練習しなければならないと思っていたので、たとえその場面で3機死にながらの力押しとはいえ、突破できたとは夢のようです。
 うれしい!
 さて、難易度ノーマルでどこまでやれるだろう。一段上で戦えるのが楽しみです。そんな資格、自分には取れないと思ってた。

 ときに、得々と説いておきながら、7/3からもまだ自分が勘違いしているようだったので、ここで補足しておこう。
 自機から目を離して弾を見るとき、ある場所「だけ」を見ていてはだめだ。それでは自機を見ているのと変わらない、どころか、やられ判定を直接見られない不利が残るばかり。
 知りたいのは弾の軌道であって、そのためには「点」ではなくある程度の「線」、つまり「長さ」を見なければならない。やってくる弾の流れを目で追うことで、初めて行き先を推定できるのだ。

 自分のプレイを思い返すに、どうも、自機から目を外すことばかりを守ろうとして、少し前方の一点を凝視して避けようとしているきらいがありました。
 それじゃ避けられるはずもない。


7/16(土)

 思い出したように、しかし思い出せばそれなりの熱意で、『エスプガルーダ』に取り組んでおり、ようやくラスボスの最終形態を拝めました。
 ……イージーにしてなお、コンティニューしないとクリア未達成。ずいぶんと気長に遊んでいるものです。好きで停滞してるわけじゃないけれど。
 クリアへの進展はこのように遅くても、発見めいたところがぽろぽろこぼれ落ちてきて、いったいこのゲームはいくつの顔を見せてくれるのだろうと感心します。

 今日のお題は、最終ステージ(より正確には、最終ステージの後半、か)での敵の攻撃について。
 開幕早々、画面の四方八方からザコが無数に現れ、自機を目がけて途切れない連弾を撃ち込んできます。自機が一方向へ動くと、そちらに向かって弾の大群が流れてくる。弾と弾の間に余裕がないので、簡単に追い込まれてしまいます。
 隅や上方へ動かざるを得なくなったらもうアウト。敵の攻撃はしつこくて、待ったところで道は開けたりしません。そのうち他の敵の攻撃にも追われてしまい、最後は無敵のボムに頼るしかありません。せっかく弾の動きを遅めたり消したりしてくれる「覚聖」も、既に画面に出ている攻撃に空間をこじ開ける働きはなく、またショットの届く範囲に移動できない(=敵を倒せない)ので、生かしようがないのです。
 対策は、できるだけ弾を撃たせないよう、出た敵を早く倒すこと。また、画面下側へ回れる道ができるように弾を誘導すること(そのように動くこと)。
 ここで、生き残るための動き方を模索する必要が出てきました。
 逆に言えば、少なくともイージーでは、どうしてもパターンを作らなければならない状況はここまで現れてきませんでした。

 ここでいう「パターン作り」は、「このタイミングで『覚聖』を」とか「この敵から先に倒そう」という「方針作り」よりもっと細かく、「最初はこっちへ動いて、これを倒したらこっちへ動いて……」と、行動に位置的・時間的な縛りをかけるものです。
 それまでとは大きく異なる遊び方を求められ、最初はとまどいました。パターン作りなど、スコア稼ぎを狙わない限りこのゲームには縁がないと思っていたからです。

 とにもかくにもパターンを作らなければ生き残れないシューティングは、あまり好きではありません。覚えて対応するのは没個性的で、遊ぶのは特に自分でなくてもいいと感じられるほか、こちらの行動を知らない敵に対してアンフェアだとも思うからです。安全地帯に身を潜めているとき、今遊んでいるのはシューティングではない、と強く思います。
 しかし、『エスプガルーダ』のこのパターン作りには、納得して取り組むことができました。それは多分、このステージに至るまでに、このゲームで自分ができる弾避けの限界を把握できていて、ここはパターンを作らないと切り抜けられない、と自然に感じられたからではないかと思います。
 『エスプガルーダ』がパターン作りを強要してきたのではない。あくまで自発的に取り組んでいるのであり、弾を避ける実力がもっとあれば、違った解決策があったはず。

 結果的に、プレイで実行することが毎回同じパターンの実行になったとしても、その裏には個人的な事情に基づく方針があります。それはゲームとの取り引きのようなものであり、そのようにして自分とゲームが固有の関係を結んでいるところから、自分にとって『エスプガルーダ』が特別なものになっていることが分かるのです。
 この感覚を、自分は『エスプガルーダ』を好きである、と言い換えても全く差し支えないと思います。


7/13(水)

 たまには電車の長時間移動も良いものだと、心から思える読書をしました。『西の魔女が死んだ』(梨木香歩、新潮文庫)。
 1冊に2編入っていて、表題作は女の子が魔女修行する話(もう1編は後日談)なのだけれど、この内容を「魔女修行」と捉えたのに喝采したくなりました。重要ですてきな日々なのに世間からは決してそう見られない、しかしその偏見は、この概念で読者から追い払われるのです。
 題名と冒頭で終わりが予告されているのが疎ましく思えるほど、それは主役の女の子にとって楽しくもためになる充実した毎日であることが、傍目からも感じられました。

 それと同時にこの修行の要が、我が身を省みて痛みを覚えさせるものでもありました。
 ここでは、変化し、成長していくこと自体には、全幅の信頼が置かれている。それが「魂の本質」とまで言われています。ならば、変化を望まないものに「魂」はあるのか?
 変化したいときにそれを間違いなく実行させるのが重要であるとするなら、そもそも変化したいと思わないものに何の意味があるのだろう?

 ……ま、決めつけるのは良くありません。
 まかり間違ってそういう思いが訪れたとき、千載一遇のチャンスをものにできるよう、魔女には絶対になれない自分も準備をしておくことにしようか。
 なんと、そんなふうにも思わされるくらい、この話、それから後日談、2編合わせて、修行の実践と結果が細かく表されていて、ついその気にさせられる面白さなのでした。
 さーて、まずは規則正しい生活から。あんまり夜更かしはしないことにしようっと(←ほんとうに主人公レベルからスタート)。

 しかし女の子の名前はずるいほどにポイント高し。初期の「ひとりでできるもん!」がしばしば思い出されました(心底どうでもいい)。


7/7(木)

 この日に『プリンセスうぃっちぃず』(ぱじゃまソフト)を起動したら、タイトル画面が出る前に女性陣が勝手に登場し、主人公抜きで七夕話に花を咲かせ始めたのに出くわして、そのサービス精神に頭が下がる思いがしました。
 他のイベント日にもネタを仕込んであるんだろうか。発売日から考えたら見てもらえる率の低そうなところへのこのこだわり、大したものです。
 時間取ってきちんと遊びたいなあ。何なんだ、巫女さんスタイルのあの子の口調は(このイベントで初めて出会った=そこまでも進んでない)。


7/3(日)

 やはり、同じクリアするにしてもひたすらに記憶頼りというのはいかにもプレイしている充実感がなくて、原理原則の展開やら応用やらで何とかしていけたらこれに過ぎる喜びはない。
 撃つ・避けるとルールがシンプルになりやすいシューティングでは、そういう根本的なコツは少ないのかも知れないけれど、それだけに、もし身につけることができたなら、多くのタイトルで力となってくれるに違いない。
 特定の一作に特化して上手なシューターって、少ないのではないでしょうか。うまい人はその素養でかなりの部分まで何とかしてしまえる気がする。
 単なるやっかみとは思えないのです。

 で、『エスプガルーダ』を遊ぶうちに、何だか基本的なことを一つ覚えられたような気がして、嬉しくなりました。
 異なるパターンの攻撃を同時に避けようとしてはいけないのですね。

 何を今さら、ってのは現状肯定でしかありません。
 自分がこのことに気づかなかった、すなわち「異なるパターンの攻撃を同時に避けようとしていた」のは、その方が弾避けの回数が少なくて合理的だと思っていたからです。
 そして、それが合理的だと思えたのは、自機のすぐ周りしか見ていなかったからです。

 自機周りしか見えない場合、弾避けは瞬間芸の連続です。常に一瞬の判断で、隙間を探してそこへ入る。弾の流れは見えません。
 よって、「この弾は自機の近くまで来るものの、軌道から予想して動かなくても当たらない」という判断ができません。全てを危険な弾と見なして回避行動に出ます。
 そういう場合、弾避けの機会(回数)が少なければ単純に楽なのです。
 予測して避ける楽さに比べたらはるかに小さな利点だと、今は思います。

 自機から目を離せば、近寄ってくる弾の軌道が見えます。一点ではなく線で判断することができます。
 その代わり、自機の位置は把握しづらくなります。なので、自機からそらしたと言っても、見るところはは自機の真上を基準にします。
 こうして縦軸を共通にしておけば、ショットが発射される位置でほぼ自機の位置を知ることができるので、縦方向に攻めてくる弾なら対応できます。そして、たいがいの縦シューティングでは、縦方向の弾が多いものです。このようにして、予測のメリットの方が、自機を見ないデメリットを上回るのです。

 こうして実感できたことは、「弾には自機を狙ってくるものと狙ってこないものがある」という、実に人口に膾炙した事実でした。
 結論が当たり前すぎて、開いた口がふさがりません。でも、こうしてたどってみて初めて、自分がどのようにしてこれを認識していったかが分かったのです。
 逆に今までは、自機狙いの弾とばらまきの弾を同じように避けていた、ということなのですから。

 自機狙い弾は脇をかすめるように、ばらまき弾は道を見つけに行くように避ける。
 自機狙い弾は少しずつ動いて、ばらまき弾は大きく動くか動かないかして避ける。
 ばらまき弾が作る道の中で、自機狙いの弾を小さく避ける。異種のばらまき弾がタイミングをずらして出てきたら、交差点でではなく一つずつ道を通るように避ける。

 「自機ばかりを見ない」ことのメリットって、こういうことだったんですね。
 なんでこういうことを今まで誰も教えてくれなかったんだ?(←体得するのが重要)



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