ゲーム+α日記(2005年12月)

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12/31(土)

 『シンフォニック=レイン』の疑問を晴らすべく再通読を試みたものの、ファル・トルタ2人で時間切れ。
 演奏で寄り道しているうちに、結局年末までにゲームから離れることはなかった。何とも締まりのないまま、今年が終わっていきます。
 当方はもやもやを抱えて年を越しますが、皆様方はよいお年を。


12/28(水)

 『シンフォニック=レイン』の演奏パートを遊んでいるうちに、そういえばほかの音ゲーをロクに遊んでいなかったけれどどんな感じだったろうかと思い始めてきたので、何でもいいからコナミ印の一番安いやつをと店に行ったら、狙いに見合ったのは『ポップンミュージック8』でした。
 これだけ続編が出ているのだから、さぞかしビートマニア的なシリーズがずらりと中古棚をにぎわせているだろうと決めつけていたので、中古がただの1本も置いてなかったのにびっくり。もっとも、新品もなかったのだけれど。見つけるのに苦労するとは思いもよりませんでした。
 ベスト版を出すくらいなんだから、そう売れてないわけでもないだろうに。あの店だけだったのか。

 ポップンミュージックシリーズの業務用は、カラフルなボタンが、上から降ってくるマークとの位置が対応するように並んでおり、画面を見て反応しやすかったような記憶があります。
 しかしながら、専用コントローラーを買うほどの気合いもなく(そもそも売ってもなく)、当方PS2パッドにてプレイ。マークとボタンの位置を直感的につなげるのに、それなりの訓練が必要でした。
 幸い、このゲームは練習機能がきちんとしていて、用いるボタンを一つずつ増やして慣らし運転をさせてくれる。
 9種類(左手親指に方向キー2つ、右手親指にボタン3つ、両の人差し指と中指にLボタンを1つずつ)を割り当てるよう命令し、チュートリアルを繰り返すうちに、とりあえず頭は理解したようです。

 ただ、「理解」程度では曲の流れについていくべくもなく、結局挫折。
 人差し指と中指はお役ご免とし、ボタンの数を5つに減らして遊ぶことに。1時間ほど挑戦していたら、これにはどうやら順応できました。
 それから先は今までの苦労が嘘のように楽しい時間の始まり。曲を取っかえ引っかえして、視覚情報を指で受け取るようにしてボタンを押しまくります。これがまた、曲が盛りだくさんに入っていて、1周する気配がない。
 遊び続けていたらしまいにはマークの動きに目がついていかなくなってきたので、ここでやめました。

 やー、楽しいひとときだった。
 ええと、ところでこのゲームを何のために買ってきたんだったかな?
 今となっては、ゲーム屋に入った時の自分が『シンフォニック=レイン』に比較したい厳密な対象を見出していたとも思えないのですが、3つほど気づいたことがあったので、そんなことでもメモしてごまかします。

 まず、キーを押すのに慣れているのは大きいということ。タッチタイプが最初からできたわけもなく、かつて練習したことがあったはず。それは今回の『ポップンミュージック8』の修行時間よりはるかに長かったのは間違いありません。
 楽しむためには苦労がいる。逆に、下地があれば存分に楽しめる。『シンフォニック=レイン』の演奏パートを初めから楽しめたのはラッキーだったのかも知れない。習得していなかったとして、これを機会にタッチタイプを、とまではさすがに思わなかっただろうから。覚えるにはかなり良い教材だとは思いますが。

 次は、タイミング良くキーを「叩く」のも命中させたような楽しさがあるけれど、なめらかにキーを押していく、まさに「弾く」感触も楽しいということ。
 ピアノなんかだと、鍵盤を押している間しか音は鳴りません。そこで、白鍵の隣どうしが並び続けている部分をなめらかに、つまり一つの音が鳴り終えてすぐ隣の音が引き継ぐように弾きたいときは、音に切れ目を作らないよう、また鍵盤と指との距離を離さないよう、指から指へ重心を移し替えていきます。
 そのときの指を離すタイミング、指どうしで互いに近い大きさの力加減などは、単音を相手にするよりも気を遣うところが多いのですが、その分、うまく弾けた時にひとまとまりのきれいな音が得られるので嬉しさも大きくなるというもの。
 『シンフォニック=レイン』の演奏パートでは、『ポップンミュージック8』にはなかったそれが擬似的に味わえるので、楽しさが増しているのです。
 ちなみに、滑らかに弾くなんてことは『シンフォニック=レイン』で必須ではありません。音に切れ目ができたらペナルティ、なんてけちなことは言わず、自動的に音をつないでくれます。さすが魔導奏器。こういうのはあくまで自己満足の妄想です。

 とかいろいろ演説しても、ピアノを指に任せて弾けるようには結局ならなかったなあ。
 いつも楽譜の丸呑み放出ばかり、全くマニュアル通りの演奏方式でした。
 だからこそ、楽しさだけ抜き出してきたような『シンフォニック=レイン』の演奏パートが好きなのかも知れない。
 あ、『キーボードマニア』ってのもあったな。あれはやりすぎだと思いました。
 黒鍵とか、音の幅を指の幅に対応させるのとか、面倒だし(←ピアノ好きじゃないだろ)。

 そして最後のひとつは、初見の曲に対するのと、思い入れのある曲と向かい合うのは全然別の楽しみだということ。
 どちらも楽しい。けれど、じっくり時間をかけることで引き出される楽しさは格別です。曲の中にいる感じがする。


12/26(月)

 いやーしかし『シンフォニック=レイン』の演奏アクションが楽しい。
 本編から独立したフリープレイモードに入って、まずは全曲流し弾く。そののちお気に入り曲を何曲か、とやっているうちに、どんどん時間が経っていきます。
 特に高得点を狙っているでもなく、難易度を高めるでもなく、初期設定でただ音を合わせていれば満足。  画面の上半分には、その曲を持ち歌にしているキャラが登場して、共に歌ってくれます。その姿を見ながら、気持ちを合わせるようにして演奏したい。
 そっちを見続けていられるから、暗譜できたらもっと楽しいかも知れません。スコア(=楽譜)なんて二の次ですよ。楽しめるのが一番なのですよ。

 ところで、プレイヤーに弾かせてくれるこの素敵な楽器「フォルテール」は特に人の声とよく合うのだと言います。その理由について、ゲーム中でトルタはこう解説してくれました。少し長いけれど引用します。

「フォルテールの音は、良くも悪くも個人の資質に左右されるの。個性って言っても構わない」「人それぞれに違う声が与えられているように、フォルテールも人によってその音色を変えるの」「そして、奏者のそのときの心情や感情に左右されやすい特質ももってる」「楽器の中でも特に音に感情を込めることができるから、詩を伴うことによって同じくらいに感情を表現できる、歌との相性が良いの」
 なるほど。
 しかし、声楽科のトルタがその説明で納得してしまっていいのだろうか? これではまるで、歌に感情を込める役割は詩ばかりが果たしていて、同じ歌なら声の違う別の人が歌っても込められる感情は同じ、なんてふうにも読み取れるではないか。
 実際はそんなことはなくて、声色にだって感情はこもります。元気のない時には沈んだ口調になるだろうし、ドスの利いた声に脅されて震え上がったりもする。ファルが「雨のmusique」で聞かせるかすれ声のなまめかしさは、たとえキーを合わせたとしても裏声では再現できません(←しようとしないように)。

 声色が感情を持つなんて話は先刻承知、おそらく言及していないだけでしょう。声自体には感情は込められない、なんてトルタは言っていない。
 ただし、言及していないのにはそれなりの理由があるはずで、今の場合、声の音色の特質はそのままフォルテールに当てはまるから、というのがその理由なのだと思います。さっきの引用の前半部分は、人の声のような、というよりそのものを語っているようだ。
 フォルテールの音色は、声の持つ音の性質を持っている。仮想の楽器であるフォルテールの性質は、そのように想定されている。
 フォルテールと歌とは、だから親和するのではないでしょうか。

 と、フォルテールが出てくるこのゲームの姉妹作を知りもしないで(そこにはこの楽器の背景が語られているかも知れないのに)そんな戯れを思わず口にするくらい、演奏の後には気分が高揚します。音楽にあふれたこの世界が好きだし、うらやましいのです。
 こんなに楽しんで、ゲームの登場人物たちにはまことに申し訳ない。


12/25(日)

 『シンフォニック=レイン』全グッドエンド到着。

 昔、ファミコンに『マッハライダー』というゲームがありました。バイクレースのゲームですが、ただ走るだけではなくて、ショットなんか撃てたりして、障害を破壊していく要素もありました。
 その分、主人公のライダーも被害に遭う。こちらが壊す以上、ダメージを受ける形態もただの転倒なんかじゃない。爆発します。そして、破片が四散するのです。もう木っ端微塵に。
 でも、まだゲームが続けられる場合、その場から即、再スタートになります。そのとき、バラバラに飛び散っていたライダーの破片が、時間が巻き戻ったように集結してきて、元の形を作るのでした。
 そして、何食わぬ顔をして、ライダーはまた走り始めます。

 『シンフォニック=レイン』最後のルートを読み終えたとき、ちょうど頭に浮かんだのは、『マッハライダー』のその再生場面でした。気持ちの中に、その前の四散も含めて、それは確かに起こったのです。
 ただ、あのライダーのようにすぐ平気にとは、なかなかいきません。
 これまで、この物語でひどい目に遭っている人たちを散々見てきた。それがあまりに多かったからもう慣れてしまい、ひどいのが普通であるように思えている。だから、リセシナリオでさえ救いがあるように見えたし、今回の最終シナリオにも、進行速度に対して理解も感情も追いついていっていない。
 自分が最も強く望んだものを目の前にしていながら、どうやって喜んでいいのか分からないでいる。放心しています。元通り形作られてはいても、まだ一体化には至っていないようだ。
 ナターレの夜に、そんな鈍重な調子です。遊び過ぎで頭が働いていないとも言う。

 なお、昨日書いたような他の潜在的プレイヤーへの心配については、優越感の変形に過ぎなくて見苦しいから表に出さないのがいいという結論を得ました。
 書きたいことがあるのなら書けばいい。こんな情けないことばかりであっても。


12/24(土)

 しかし、愛蔵版といっても再販だろうに、文章のそこかしこに誤字脱字が見られるのはいかがなものか。
 パッチは見当たらないようだし初版の差分ファイルは適用されないだろうし。演出の強化もいいけれど、愛蔵したくなるように、一読すれば分かるものはぜひ直していただきたいものです。

 と、幾分不審に思いながらも、『シンフォニック=レイン』3人目、下級生のリセシナリオをクリア。
 これまでで一番のハッピーエンドだ。最後の希望的場面など、ほとんど取って付けたようなとさえ思われるほどでした。あ、もちろん、あって良かった。
 中盤までは不幸へ向けて手綱が緩みっぱなしで、どうなることやらと思いました。そこから他のルート同様の展開に乗っていく様子は実にアクロバティックで、その落差がハッピー感をもたらしているのかも知れません。
 リセには十分に辛かったものの、辛いまま終わらせてグッドエンド扱いするようなゲームだと思っていたので、一息つきました。

 そして、クリア順序制限がかかっていたか、ここで新たなサブメニューが開く。

 ひどい。
 なりふり構わぬ上位設定の嵐に、初手で木っ端微塵になりました。自分と、自分の希望が。
 ああ分かりましたさ。アルエンドがバッド扱いされるわけも、トルタエンドの謎も。

 予備知識の全くない人に、このゲームを薦めたくはならなくなった。伝えるのをためらわれるほどに設定がえげつなさすぎる。
 一方、(そういう場面が想像できないけれど)このゲームってどう? というような形で尋ねられたら、それは遊ぶしかありませんね、といった言い方で薦める。
 知ってしまった瞬間から物語は始まっており、もう止めることはできないのだ。
 しかしそうすると、嬉々としてこの場にプレイ状況を書き込んでいる自分の立場はどうなる? 自分にとって始まってしまってしょうがないものであっても、それは万一にも新たな不幸を呼ぶことにつながるのではないのか?
 自己責任という便利な言葉に逃げてもいいのだろうか。厳しかったとしてもこらえて下さいとしか言えないけれど。自分もこらえますので(←聞かれてない)。

 ともあれ、後はエンディング1つ。ぶじ年内に終わらせられそうだ。フリー演奏モードに入り浸りきりにさえならなければ。劇中曲に加えて各シナリオのエンディング曲も弾けるようになっていて、これが楽しいのです。
 曲全体の拍子と指を同期させるのが最も重要で、リズムに乗って弾けば多少ずれても致命的にはならない。ただ、より正確に、高得点でも狙おうかと思うと、指を落とすタイミングを微調整する必要がある。
 それには曲の刻みを細かくする意識が求められる。刻み幅が粗ければ、どこで打鍵しても不正解になりかねない。
 これまで刻みだと思っていたタイミングの中間に割り込んでみる。それを繰り返すうちに、少しずつでも分解能が上がっていくのが分かる……ような気がします(何という自信のなさ)。
 あと、音符の色はタッチタイプのホームポジションで構えたときに押すべき指を表しているのだと、今にして気づきました。ずっと、文字と音符の高さしか見ていなかった。いろいろ考えられているものですね。


12/23(金)

 文章ウインドウの下辺に、縮んだり、たまに伸びたりするゲージのようなものがある。
 左下隅、つまりそのゲージの左端に「piova」とあって、これはゲームの舞台である街の名前。
 このピオーヴァゲージ(適当につけた呼び名)が何を意味するのか注目しつつ、『シンフォニック=レイン』2周目を始めました。

 そして近しき幼なじみにして主人公の恋人の妹、双子の音楽担当(←長い)・トルタの話を終了。
 この基本設定でこのヒロインなら避けられまい、と思える流れ。
 ……と思いきや、話が収束するはずの後日談で謎が始まりました。これでグッドエンドなのか。主人公がグッドな待遇を受けていません。彼は何か間違えたそうだけれど、自分は全力を尽くしたぞ。困るなー勝手に間違えられちゃ(責任なすりつけ)。
 こんな宙ぶらりんな仕打ちを受けて、そのままではいられない。解決のためには、最初からやり直せばいいのかな? それとも、後ろからセーブデータをたどればいいのかな?
 もしこの話がいずれ落ち着くとしたなら、(以下ちょい伏せ)その決着に至るまでのトルタルート再プレイは、トルタの最後のセリフから推測するにトルタによる回想の趣向を取るように思え、もしそうならエンディングを迎えたばかりの今の状態で残っている(その時点ではまだトルタエンドを迎えていない)セーブデータからの引継ぎでその回想が完成するのは美しくないから、もう一度通して読み直すのがいいんだろう。

 とは分かっていながらも、ほとんどなかったトルタ関係の直接の選択肢を遡っていったら、一応の初志貫徹ルート、初めからの恋人にして双子の手紙担当・アルとのエンディングに到達しました。
 しかしながらこれはバッドエンド扱い。そりゃ、主人公の無気力ぶりはひどいものであったけれど、アルの笑顔を目の前にして堂々の駄目出しは胸が痛みます。
 自分は何よりこのゲームでアルに幸せになってもらいたかった。設定の幾重もの不利をはねのけて、主人公をアルのものにしたかった。それがプレイの第一の動機だったのです。
 この上、ゲーム自体にまで否定されては、アルが不憫でなりません。どうかもう一つ、アルに幸せなエンドのありますように。

 で、ピオーヴァゲージの意味するところは察しがついたけれど、結局これは何なんだろう?


12/20(火)

 今宵も『シンフォニック=レイン』、憑き物を落とすようにファルの話を続けます。

 おととい書いたような形で、アルからの最後の手紙を読んだ時点でファルへかすかな疑念を持った自分は、だからその本性を明かされても、そのこと自体・その瞬間にはあまり衝撃を受けませんでした。
 驚きだったのは、むしろそこからだったのです。その後の彼女の行為と、何よりその際の表情やしぐさが、自分を叩きのめしました。
 なぜなら、変貌の前後で、ファルのそれら外見には全く違いがなかったから。そしてその違いが実際のところ、「差が見られない」どころではない、「全く同じ」であろうことを無意識に了解していたから。
 それが、一定のグラフィックを使い回す形式のゲームに乗って語られていることを、前提として受け取っていたから。

 ファルのポーカーフェースは完璧なのです。そこには微塵の崩れもない。
 あるときまで、彼女の笑顔は確かに心地よさを与えてくれていた。それが自分を彼女のシナリオへ導く牽引力となっていたのは認めるほかありません。
 それが一転、終盤では同じ表情を「笑い顔」として受け取るようになる。それが単純に自分の側の違いだけであることを、彼女は突きつけてきます。
 異なる意味を刷り込まれて、そのように見ずにはいられない。その点が、自分が最も戦慄を覚えたところでした。

 表現する上で重要なのは絵の資源の豊かさだけではないことを、彼女の微笑みが存分に伝えてくれます。
 この話がゲームに出会って良かった。順番は逆なのでしょうけれども。
 ……なんて言って、実は微妙に違うグラフィックが使われていた、なんてことはないだろうな。まあ、当方あんまり目が良くないんで(←節穴が空いてます、の意)。

 そういえば、本編プレイ中はそこまで注意が向けられなかったけれど、ファルの主題歌「雨のmusique」の歌詞はシナリオと方向が合っていて、特に最後のフレーズには納得しきりです。
 全ヒロインこうなのかも知れず、この先も非常に期待が持てる。
 順番といえば、この歌とシナリオはどちらが先なんだろうか?
 と不思議に思うようなことでは、普通はない。でも、シナリオどころか世界観が歌から発想されたという傑作『俺の屍を越えてゆけ』のことを思えば、音楽が先導することもなきにしもあらずかと、少しだけ思います。
 いや、よくマッチした両者がここにあることが、プレイヤーにとっては全てであるのだけれど。


12/19(月)

 たとえ新展開に向かわなくたって、『シンフォニック=レイン』に関するネタは続々と湧いてくる。放出せずには気分が落ち着きません。
 ファルに関する妄想をしばし。

 主人公とアルの仲を割くことをファルが画策したのではないかと自分は予想しましたが、当初それには別の理由を思い浮かべていました。
 主人公が弾ける楽器「フォルテール」は、感情を糧にして豊かな音色を響かせる、という仮説を、ファルは主人公から聞きます。ファルはパートナーとして可能な限りの演奏を主人公に望むでしょうから、ここで一つ実験を試みたのではないか、と思ったのです。
 そして、主人公の心を揺さぶりに出た。その一方に、正の感情を引き出すためのファル自身との接近があり、もう一方には負の感情を引き起こすための愛する人との別れがあった。

 そう思っていたのですが、ただ、その時点では信憑性がない一つの仮説に寄りかかるのは、ファルの人生にとってリスクが大きすぎる。うまくいかなければ主人公は使い物にならなくなってしまうかも知れません。
 では、実験はできないのか。
 そうではありませんでした。その実験は、「ついでに」行えるものだったのです。
 なぜなら、どのみち主人公には恋人と別れてもらわなければならなかったから。
 その際の心の揺れを聞き出し、観察し、どんな感情が演奏にとって効果的に働くのか、ファルは繰り返される練習の場でそれを見極めていたのではなかったか。

 試験二日前の突然の不調、その際に主人公に尋ねた「幸せかどうか」という質問、それが、音色と主人公の感情とを結びつける最後の確認であり、そこからファルは、主人公の感情を幸せ色に塗りつぶすよりも波立たせた方が有効であると結論づけて、試験前日にあのような挙に出たのではなかったか。
 プレイヤーが試験本番で演奏に失敗したとき(むしろこの場合、「失敗することを選んだとき」か)、彼女は「良い音はしてたんだけどね」と言葉を漏らしました。
 彼女の試みは成功していた。彼女は主人公を最高の素材に仕立て上げた。しかし主人公の心はそれほど強くはなかった。
 その言葉は、賭けに負けた者が言い訳に走るまいと自制しつつしきれずについ暴露した、数少ない本音だったように思われます。

 ファルについてこれほど話をしたがるということは、何だかんだ言って、自分もグッドエンドでの主人公のように彼女に魅入られたのだろうか。
 さもなくば、このにわかな活性ぶりが分かりません。


12/18(日)

 『シンフォニック=レイン』のミュージックアクションシーンは、文字の書かれた音符が楽譜上を流れてくるので、演奏のタイミングでその文字のキーを押すというもの。
 いわゆる音ゲーながら、8箇所のキーを使うのが特徴か(難易度設定で変わります)。タッチタイプの位置に指を置いたときに演奏感が味わえます。例えばミ・レ・ドと音が続くときは右手の小指→薬指→中指だったり。
 リズム通りに指が動かずもつれたりすることも多く、ああ昔ピアノを弾いていたときにもこうして指がよく転んだっけ、くそ! と、「弾いている」実感が必要以上に湧いてきて、ちょっと忌々しい一幕までありました。

 そんなミュージックアクションも何曲かこなし、まあまあ大したことないな、どんな曲でも来なさい、また新しい曲? なに初見でも問題ないでしょ、とナメてかかったら、これが大やけど。
 序盤から和音の猛攻で、なすすべなく評価ががた落ちでした。
 冷や汗をかきながら後半必死で頑張り、何とか及第をもらえたものの、これには心を入れ替えた。こんなんで音楽学院の生徒だなんて恥ずかしくて、愛蔵版特典の学院ピンバッチなんてつけて出歩けません(恥ずかしいのはそっちでか)。
 音楽がんばります。その曲、もう一度弾かせてください。この私にリベンジのチャンスを! ついでにその曲で卒業もさせてもらえますか?
 ということで、出会った3曲のうちでは最も難しい曲を作った、一筋縄ではいかない優等生・ファルのシナリオへ。

 いやしかしすごかった。
 中盤までのファルの「一筋縄ではいかなさ」は、親しくなれたものが覗ける新たな一面ということで、単純な優等生ではないという以上のものではなかったし、むしろいい印象さえありました。しかししかし、こんな内容だったとは、なんてゲームだ。
 以下、ネタバレにつき色を変えます。とりとめもなく長い。

 ヒロインのしたたかさに舌を巻いたファルシータシナリオでありました。
 シナリオの衝撃で何から話していいやら、まだ頭の整理がついていないけれど、まずはあっさりバッドエンドを引いたことについて。
 最後から2番目の選択肢を「間違えた」のですが、これは自分にとってファルを認めた意思表示のつもりでした。しかしきっと、ファルにとって、主人公の「……もういい」は「……もう(どうでも)いい」だったのでしょう。
 その意味は、バッドエンドを迎えて振り返ってみれば、確かに自分も込めていました。そのようなやり方の肯定は無関心と同じで、いかに認めてもらっても関心を持たれないのではファルには不必要でしかありません。
 そして、自分はこの選択にそれほど悩みませんでした。なぜ間違えたのかも当初は分からないくらいに自然に選択、つまりバッドエンド直行。
 自分はまだ、他人を利用するとかを考える以前の段階にいる。それがあっさりと引きずり出されたようです。恐ろしいシナリオの力だ。

 ということで、ファルと深く関わることになる本シナリオのグッドエンドにはそこまで親身にはなれなかったのですが、一応確認してみました。
 グッドエンドへの過程で、主人公とファルが主人公の故郷に帰るとき、ファルは主人公の元恋人・アルのもとへ寄ろう、と提案します。この帰郷の場面が描かれるものだと思っていたので、そのまま流されてしまったのは意外でした。
 だってこの性悪女、二人が別れるよう、裏で手を回していたんだろう? 「主人公は私のことが好きだから、あなたは身を引いてもらえませんか」とか何とか、彼女に伝えたに違いありません。アルからの最後の手紙にあった一節、「それでもいつか、ファルシータさんのことは、クリス(注:主人公の名前)にもわかる時が来ると思う」っていうのは、そのことを指しているはずだ。
 物語中で主人公は別の理解をしていたようだったから、その可能性に気づいていない。そこで、主人公の故郷にて、そのような修羅場がシナリオの最後を飾るのではないかと身構えていました。
 ただの予想なのに、無駄に緊張してしまった。

 グッドエンドに踏み込みにくいと感じたもう一つの理由は、ファルがいつまで主人公を必要とし続けるのかが分からない、というものでした。
 あんな打算を常に働かせる以上、いつポイ捨てされてもおかしくないのではないか。もう自分も演奏サポートしてやれないんだぞ(←初演のあわてぶりから、ずいぶん大きく出たものだ)。
 うーん、これについてはうまい解釈が導けない。主人公にファルの欠点が知覚できるのは大きなアドバンテージだけれど、これとていつ指摘できる他人が現れるか知れない。
 ファルと行動を共にするにあたって、彼女に対して信じるなんて言葉は無効だけれど、少なくとも自身を信じる必要はある。それがあのときの主人公に備わっていたか? ちょっと疑問ではありました。

 あと、これは書く必要は全くないし、書かない方が確実に自分の身のためであると思いますが、正直者なのであえて書きます。
 このシナリオを読んで、生きる力が少し湧いてきました。
 ……ああ、でもその理由まで踏み込めない。まだ遠慮している。もう少しゲームを続けて、同種のショックを受けることがあったなら、あるいはたがが外せるかも知れません。今は、つまりはお子さまなんだ、とだけメモしておきます。

 なお、この曲の鬼門である序盤・中盤の和音ラッシュには、しばらく練習したら対応できるようになりましたが、その過程が面白かった。
 基本的には左手で二拍、右手で三拍を取る。四拍子なのでたまに右手にも四拍のタイミングが来るから、そこだけを注意する。
 このことを指に覚えさせ、用いるキーを確認すれば、あとは完全パターンで進んでいけます。最初だけ楽譜を見て、たまに右手の音符の刻みを見て。
 見て反応のアドリブではなく、一手一手を完全に覚えるのでもなく、原則を覚えて展開しつつ流す。そのとき、モニターから距離を置いた脳内でも、同じゲームが並行して進んでいます。
 その両者が完全に一致するのがパターンプレイの醍醐味だと、このプレイから感じるにはちょっと大げさですが、そう思いました。


12/17(土)

 ついうっかり公式サイトを訪れ、軽い気持ちでサイト掲載の読み物を1本読んでしまったのが運の尽き。
 しばらく後、
愛蔵版1本の購入を申し込んでいる自分がいました。
 1本どうしにしては実に大きな交換、お手柄な前日譚だ。

 それほど、この『シンフォニック=レイン』のキャラ・環境設定には最初から胸騒ぎがひどく引き起こされて、感心するほかありませんでした。
 主人公には幼なじみの双子がいて、その片方とはいつも行動をともにしている。
 また、卒業試験を間近に控えた主人公には、試験を突破するために力を合わせるパートナーが必要。
 もしこれだけで終わりなら、ただ都合がいいだけの話で終わりそう。
 しかし主人公には彼女がいる。しかも遠距離恋愛で、主人公がパートナーと頻繁に会うようにはとてもいかない。
 あまつさえ、その彼女は幼なじみな双子のもう片方、とこう来たもんです。

 話がどう転んでも一波乱は避けられそうにない。気がつけば四面楚歌。こんなに手の込んだ罠なら、ころりとはまったって不思議はありません。
 さらに、読んだサイドストーリーでは主人公とその子との交流が描かれていて、それはさりげないながら心中に刻みつけられるものでした。
 ああもう、気になってしょうがない。
 そりゃ試験のコンビが男だって構わないはずですが、このゲームでそれは絶対ない、はず。それじゃ話がふくらまないじゃないか(←彼女さんに謝れ!)。

 ただ、このタイトルのイラストが、雑誌「ゲーム批評」において、本編のインタビュアーとの距離の近さを感じさせる語り口が好みに合わない記事「ゲームショップで語れ場」に採用されているのと同じ画風(同じ絵師さん)なのが気になりました。
 そのイラストは毎回女の子なのだけれど、記事の内容には則していても女の子には不釣り合いな一言吹き出しが添えられていて、その子に無理矢理言わせている感が嫌らしく、この絵柄に対してネガティブなイメージを抱いていたのです。
 長時間つき合うゲームの絵柄が気に食わないのはいただけません。
 結局、その感情は記事の作りから生じているのでイラストに罪はないと繰り返し自分に言い聞かせること、そしてもうあの連載に目を通さないこと、以上2点で決着させました。
 そんな嫌いなら最初から読むな、とも言えますが、どうして嫌いに思うかを考えるのも悪くないと思うときがあるのです。しかしこの件については、それはもうやめよう。
 本題からは全くどうでもいい話でした。

 そんな恐いもの見たさで、『シンフォニック=レイン』を始めた次第です。
 今年中に終わるだろうか。ま、無理しなくてもいいか(区切りへの意識はあまりない様子)。
 まずは一通りキャラが登場して、ジャンルの特徴であるミュージックアクションも体験して。
 背景を理解するためにも、興味深いことを気に留めておくためにも、メモがどんどん溜まっていきます。真剣に向かい合うべきゲームであるようだ。


12/14(水)

 ちょっと待った。自分をそう甘やかしてはいけない。
 何でもすぐ金で解決するのは安易に過ぎる。ほいほい買うことのできなかったあのころ、自分はどう対処していた? それを思いだそう。
 ということで、『らき☆すた 萌えドリル』主題歌の録音を試みました。

 ラジカセを引っ張り出し、DSのイヤホン端子と入力端子をつないで、スピーカーから音が出るのを確かめ、ムービー(主題歌)スタートのタイミングで録音、始め。
 ネットで曲がダウンロード購入できるこのご時世に、呆れるばかりのアナログぶりですよ。いや、アナクロか。

 と、こうして出来上がった音源ですが、さっそく聴いてみたところ、残念なことに音量が驚くほど小さいのでした。これがDSの出力の限界か。
 DS側のボリュームを最大まで上げても、流れる曲のバックに無音のノイズ(っていうのも変だけれど)が絶えずさーっと鳴り続けます。
 これはだめだ。やっぱりCD買おう。

 あ、音を大きくできる装置を間にもう一台かませればいいのか。
 とも思いつきましたが、もういいや面倒くさいし。
 こうして甘やかされていきます。

 まあそれにしても、この歌詞の意味のなさといったらありません。
 本当に感心する。言外にまで意味を詰め込む作り方がある一方で、こういう方針の歌も確かにありだよなあ。どのみち、巷には意味を作ろうとしてうまくいっていない歌があふれているのだ(意味の読みとり能力に欠けていることを棚に上げて)。


12/11(日)

 根を詰めて『らき☆すた 萌えドリル』を遊んでいると、計算速度が目に見えて落ちてきて自己嫌悪レベルまで落ち込めます。
 って、別にひたすら遊び続けなくてもいい、というよりそうやって燃え尽きては逆効果のはず。そもそも毎日鍛えるドリルなんだから(←実用と言い張るつもり)。
 パッケージには「単純計算で頭のリフレッシュ!」なんて書いてあるけれど、ムービーを眺めながら主題歌をぼーっと聴いてるのが、頭の疲れには一番いい気がします。
 
『メテオス』でDSのムービーのきれいさは見知っていたけれど、これもなかなかだ。さらに歌も良い。CDが出るらしいから、この曲のために買ってみようかな。

 あとは、思い出したようにMemorial Games更新:エスプガルーダ
 確認のために久々に遊んだらみごとに2面でゲームオーバーになり、これを書いたことと合わせて区切りがついた(見切りをつけられた)気がしました。


12/7(水)

 それでも一度くらいはと、恐る恐る『ゴッド・オブ・ウォー』の難易度を最高にして通しプレイを試みましたが、序盤もいいところの大蛇に2撃でのされてすごすご撤退。
 終了の踏ん切りがつきました。始めて間もない場面で身の程を思い知らされるとは、傷が浅くてまだ良かったのかも知れない。このまま続けたら、きっといらいらしてゲームに八つ当たりするでしょう。

 ときに、面倒くさい勉強やら宿題やらをいかにこなすかという昔からのテーマに対して、「誰かと一緒なら励ましあってはかどりもするだろう」→「その誰かが好きな子なら、口実にするくらい勉強に精が出せる」という答えがあります。
 その実情は「やっぱり口実に変わった時点で身が入らない」ですが、そこへもう一段「好きな子」の拡大解釈(二次元化)をかませることでさらに実用から遠ざかり、そこで面白さを拾い上げたのが初代『もえたん』、それでも建前上は主役だった単語たちを差し置いて女の子を前面に押し出したら、勉強のサポート役どころじゃなくなった上にリリース時期まで受験シーズンを逃すという始末で、口実でも建前でも勉強は大事だということを必要以上に念押しする羽目になったのが二代目、と、そんな感じで見ております。

 あの英単語帳のあり方からは、こういっては失礼だろうけれど、建前をきちんと作ってあざとく苦笑を取るところから始め、「意外に」やるではないかと思わせる方が、面白さの面では得策なのだろうと思います。
 驚いたり喜んだりしたいのです。
 その思いこそが、自分に
『らき☆すた 萌えドリル』を購入させた最後の一押しでした。
 『脳を鍛える大人のDSトレーニング』が作った計算ゲームの流れに女の子をカップリング、安直にも程があって最高です。

 しかしながら、メインとなる四則演算は入力認識もきちんとしているしちょっとしたアレンジもあるし、かけ声はうるさいくらい頻繁だし、たまに3桁の割り算なんかが混ざってびっくりさせられるし、第一印象の「最高」が「最低」の意味にならなくてほっとしました。
 一方「どらま☆もーど」なるストーリーでは秋葉原だの萌えだのメイドだのが頻出してどうにも生臭く、こういう話を面白がれる歳ではないのだなあと嘆息。冒頭のニセ恋愛ノベルが本物だったらどんなに良かっただろうか(そういうのは楽しめる歳らしい)。
 読み進めたり読み飛ばしたりする傍ら、ペン入力可能な下画面にちょこねんとしているキャラクターをつついたりもしています。しかし、つつくと反応があるのですが、たまに「気持ちいいですよー」とか「もっとやってほしいって、わがままですか?」と返してよこすのはどうなんだ。この子には算数より警戒心などを学んでほしいところです(こっちもあざとくて最高だ、の意味)。

 タイトル画面を見て、らき☆すた=lucky☆starだと知って納得。☆ゲームだったらなおのこと、買ってよかった。☆はいいものです。
 ところで、『らき☆すた』はこれが初見ですが、漫画は面白いもんなんだろうか。「どらま☆もーど」を見る限り、自分には合わなさそうではありますが。


12/3(土)

 よーし、『ゴッド・オブ・ウォー』クリアー!
 最後まで、お話に支えられたアクションを楽しませてもらいました。人間と神との戦いにどのように決着をつけるのかと思えば、これは力技であることだなあ。
 元のギリシャ神話を知らないから、こういう逸話もあったのかも知れず、真偽の別はつかないけれど、ゲームで(というか、映像で)見ると非常に説得力のある決着でした。

 クリアの勢いでもって、おまけモードの特別ステージ「Challenge of the Gods」に挑んだけれど、これには本編の何倍も苦労しました。
 目標が別の10ステージを突破していくのだけれど、本編(難易度ノーマル)ではそれほど重視されなかった「敵の行動を読んでのパターン作り」を、こちらでは思う存分、嫌というほど、泣きたくなるまで味わいました。
 特にラストのステージ10。宙に浮いた狭い舞台の上で、はしっこくて隙のない敵を複数相手にするのですが、とにかくどつかれて落とされまくり。かといってガード一辺倒で固まっていると、やおら投げ捨てられる。攻撃力も高いし体力も豊富。強敵です。
 山ほどあるアクションのうちどれが有効か、一つ一つ出して確かめる。これはというのを選び出したら、使いこなすまで修行する。主人公の死屍を累々と積み重ねて、徐々に長生きできるようになっていきます。
 ラストステージだけで3時間ほど延々と取り組む。解くまで飯抜き! と頑張ったおかげで、とても空腹になりました。
 クリア時の充実感といったら。もう二度とやらない、楽しかったけど、でも二度とやらない、楽しかったけど、……てなリフレインが頭を駆けめぐっております。

 しかし、これだけ3D全盛時代になっても、画面外への落下=即死、が不変であるのはほほえましい。
 主人公もまた死ぬのです。それが、彼が人の子だという唯一の証であるように思う。



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