ゲーム+α日記(2006年2月)

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2/27(月)

 しかしそもそもおつき合いのきっかけがこのソフトにあったのだから、『ショコラ』中ではあるけれどもちょっぴり遊んでみようか。
 ということで、発売から1週間遅れで
『ラジルギ』に取り組んでから4日。
 絶妙のダラダラ感に占拠され、電波シューティング空間をさまよっておりました。

 何しろネーミングの勝利、タイトル買いの資格十分。その上に今さらのドリームキャスト用新作ソフトと来ればどうしても釣られます。
 その上で内容に感心したのは、このタイトルから「敵弾の形状が抽象的であること」の不自然さを指摘されたように感じたからでした。
 思えばそれは、ほかのシューティング、特にグラフィックに気を配った昨今のゲームでも堂々と現れていたものだった。機体や背景画は迫真の描かれぶりなのに、弾は円やら楕円やら。
 『ラジルギ』の「全てが抽象的」なグラフィックから、弾の表現が差別されていた現状が浮かび上がったように思います。

 ポップな絵柄の中、一心に敵弾をかき集める。周囲から自機に向けて弾が吸収され、ゲージの目盛りに収まっていく様子は、掃除機でほこりを吸い取るときの楽しさ。
 弾幕の最も濃そうなところに飛び込んでいく、という大ざっぱな遊び方が好ましくて時を過ごすうち、気がつけば左手の親指が痛ましくなりかけていました。
 ドリームキャストのパッドの十字キーは皮膚に厳しいのだな(←このゲーム機では皮膚にやさしい使い方しかしてこなかった様子)。


2/23(木)

 『ショコラ』口の悪い「親友」、翠ルートをクリア。

 システムに面白みがないからといって、直ちにそれを否定するのは早計というもので、それは面白くなさの中に意味が込められている場合があるからです。
 といっても、今回がそれに当てはまるかどうか自信がない。そう解釈できるというくらいで。
 本来起こるはずのない、親友から恋愛対象へのジャンプアップという事件には、その起こりえなさを実感させるだけの突飛さが必要だった。
 翠ルートへ向かう最後の決め手は、当方の経験によれば、「誰とも会わずに一人で仕事をこなす」スケジュールを終盤に主人公に課すことだった。おかげでそのイベントは、彼にとってまったく偶然のたまものと感じられただろう。
 そんな感じで。いやもう疲れた。

 もっとも、バッドエンドで翠ルートについて聞ける助言がどうもゲーム本編と辻褄が合っていないことから思い立って調べてみたところ、原作はこれよりはるかにハードだったようなので、このくらいで音を上げている場合ではありません。
 
公式サイトからたどったものすごく見つけにくいPC版の画面写真から、最後どころか最初から、職場のどこに誰がいるか事前に知らされることは全くなく、選んで初めて結果が知らされるらしいことが窺えます。この情報統制の厳しさに仰天しました。
 それはそれで所在の原則なんか気にしたりして、それなりに適応して遊ぶだろうけれども、面倒なのは間違いない。いやー甘やかされの家庭用店長で良かった。
 しかし店長なのに人員配置も把握していないとは。いや、寝耳に水の代理店長だからそれも仕方ないのか。ならばこれもまた、正しさの報いか。

 また、このゲームの全キャラで共通の流れなのか、専用ルートに入った後も一度はバッドエンド扱いの終わり方に必ず導かれ、再プレイでようやくハッピーエンドへ向かえるという誘導を受けますが、翠ルートの場合はこれが有効だった。
 具体的には、「何だこの進ませ方は最悪だ」と思いました。そう思えたからには、自分がゲーム世界の立場にいると感じられたのだから、これは効果的です。美里ルートではただの打ち切りとしか感じられず、疑問以外に感じるところはなかった。
 そのバッドエンドの内容もまた、このルート自体の文字通りの有難味を思わせるものであり、いい加減夜も更けた時間でありながら直ちに話の続きをたどろうとする原動力となりました。

 と、前置きはこれくらいにして、しかし長くなったから翠ルートの本編はまた次回にしよう。
 一つ言えるのは、翠のことが好きだということです。


2/21(火)

 妹さんがときおり見せる手に負えないわがままぷりに悶えながら、しかし『ショコラ』の次なる物語は主人公のかつての同級生方面へ進みます。
 彼らの間には歴史に基づくつきあいが隠されていて、それはいかに妹さんが頑張っても手に入らないものなのでした。それこそ美里ばりの向こう見ずさでもない限り、このつきあいの深さには割って入れまい。
 しかしながらバッドエンドの繰り返し。厳密なクリア順序制限でもあるんだろうか。無念だ。

 それにしても、このゲームの「一日2回行動可能、昼夜で場所を選んでイベント探しを2ヶ月間続ける」というシステムには、選択から喜びが抜き取られた無常感があふれているように思えます。
 イベントを引けなければ何ごともなく、ちびキャラたちが働く姿を見て一日は過ぎていく。
 いや、主人公のような店長の立場からは、トラブルの何もない一日こそが望ましいのかもしれません。
 主人公が波乱を望んだとき、この作業もまた終わりを告げるのだから。

 ときに、メイド喫茶というものの成り立ちが今までよく分からなかったのですが、それは「メイド」の方に注意を向けすぎていたからかも知れないと思い当たりました。
 ここはあくまで喫茶店なのであり、あのメイド服はひらひらかわいい制服の発展形であったのか。
 ということは、このゲームから一歩遡ろうとしたら、メイドが出てくるゲームではなくて、たとえば店員のユニフォームが派手なレストランが舞台のゲームに当たればいい、ということなのかな?


2/18(土)

 そんなふうに義理の妹に多大なショックを与えられながらも、『ショコラ』初クリアは箱入り娘にしてパッケージを飾るメインヒロイン・美里(みさと)でした。
 妹さんはゲーム期日が進まないと再登場してくれないんだものなあ。また今度。

 しかし、美里ルート確定後しばらくは読み進むのが苦痛でした。なんだってこんなにこの二人はべたついているんだ。
 そのしつこさは、その後に控える波乱の高低差を演出させるためのものであるように感じられて、そこが読んでいて辛いところだったのだと思います。甘いのが許せないのでは決してなく。
 しかし、その「波乱」は、確かにあったにせよシリアスすぎず適度にまとまっていてほっとした。ついでにちょっと涙腺も緩んだ。

 ちなみに、自分の涙は「そこに泣いている女の子がいる」程度で容易に発動されます。ストーリーの判断はあまりしていない、というかできていない様子。
 こういうところを考えると、自分には物語を味わうことができないんだろうとがっかりしますが、それも毎度のこと。
 それは私の涙だからあなたは流さないで、って『未来にキスを』(
otherwise)なら言うだろうか。懐かしい。

 そういえば、このゲームを買った理由を思い出した。発売元・アルケミストへの、仲介人としての信頼でした。ハードの末期までドリームキャストにつき合っていて、それでやっていけるんだから、売れる見込みのあるゲーム、標準以上にはいいゲームを持ってくるのだろうという信頼。
 その一方、関わったタイトルがほぼ全て後にPS2へも移植され、その際に「DC版の移植だからPC版とは異なるのでタイトルをいじらなくていい」というお遊戯じみたルールの踏み台に使われているのだけれど、そんな利用で会社が続けられるならすればいい。そういうのは工夫と呼びます。


2/16(木)

 きっかけは、内気な女の子の話でも読みたいなんてふと思った、そんなちょっとしたものでした。以前遊んだ『みずいろ』にいたおとなしいキャラのことが、脳裏をかすめたような気もします。
 でも、わざわざ性格を調べ上げてからゲームを始めるのもストーカーじみていて、ギャルゲーを遊ぶ風流なやり方とは言えません。
 なら、適当に選ぼう。ほぼ1年ぶりに新作を迎えて息を吹き返すハードの潤滑剤にもなるのだとの思いで、ドリームキャスト用の買い置きソフトから。

 とまあ、相当に疲れてでもいるんだろうと自ら思える思考経路で、「適当に」(何でもいいからギャルゲーが遊びたいんです、の意)『ショコラ』に取り組み始めました。
 メイドカフェが舞台ということで、たしかにパッケージの娘さんはぞろりとした衣裳を身にまとっています。そこで一瞬躊躇しましたが(←なぜこのゲームを買ったんだ?)、説明書を読めば幸い主人公は客ではないらしい。それならメイドにかしずかれるゲーム内羞恥プレイの恐怖におびえることもないだろうと、たかをくくってスタート。
 しかし、その考えは、部分的には正解でも、また別の側面からは大甘に甘いことを、開始早々に思い知らされました。

 その名を三度呼ぶべし。さすればその者、汝の妹とならん。
 主人公と、彼の父親の再婚相手の娘の初対面のシーンに、見ている側の狂おしさは高まる一方。何という恥ずかしさ、いたたまれなさだろう。
 しかし耐える。そして、ここを乗り越えた今となっては、確かに二人が兄妹だと納得できる。実に重要な儀式でありました。よく頑張った俺。充実感でいっぱい(まだゲームは始まったばかりです)。


2/13(月)

 さて、突発的な背伸びの時間がやってまいりました。Memorial Games更新:押忍!闘え!応援団
 これまでの日記の中で、あんまりこのゲームで「楽しんで遊んでいる」様子は出してこなかったように思います。最後くらい言っておかなければならないだろう。とても楽しいゲームでした。
 それにしても、よっぽど覚えたり苦労したりが嫌いになっているらしいと、これは認めざるを得ません。

 他にもネタはあった。たとえば、歌唱者を基本的に代役で賄った中、なぜ本人が一曲だけ混ざっているのか。
 おそらく、この曲がCD発売に先駆けてこのゲームで発表されたという経緯があり、未公表の曲を他人に歌わせるわけにはいかないだろう、という理由があるのだと思う。そのような広告戦略について、また、通常「隠し曲」といえばゲーム遂行のごほうびとイメージされるのに反して「未公表につき隠し」という作り手側の事情になっていることについて……とか。
 でも、そういう時事ネタは、得意な人に任せればいいと思って見送りました。こうして書いてみても今ひとつ熱がこもらないし、気が乗らないということなんだろう。


2/12(日)

 『押忍!闘え!応援団』のおかげですっかりニンテンドーDSづいた自分は、調子に乗って『メトロイドプライム ピンボール』などにも手を出してみたところ、その面白さにこれまたイチコロでやられました。
 といってもこちらの面白さは多分に腹立たしさを含んでいて、来月上位機種が出るとは言えまだ品薄で貴重なのに違いないDSご本尊を投げつけたくなる展開にもしばしば遭遇する。
 いやいや流通事情なんて関係ない。心の修行が足りません。

 プレイ直後は死なないようにフリッパー間をバリアがふさいでくれていたり、頻繁にエクステンドが出たり、と出だしは非常に親切ながら、ひとたび歯車が噛み合わなくなればあっという間に墜落死。
 ボールの挙動が速いのも一つの原因かも知れません。2画面を行ったり来たりしているのに間延び感は全くない。
 さらに、一度に扱うボールが増えたり、いきなり別のアクションを求められたりと、忙しさに目が回ります。

 もともとピンボールとは好調・不調の波が激しい遊びです。理不尽と思える死があってこそ、1球で生き延び続ける痛快さも増す。
 とても良くできています。腹立たしいほど面白い、それが特にピンボールにとっては褒め言葉であることを、DSに八つ当たりしようとしている自分は肝に銘じておかなければいけません。
 気持ちに余裕があるときに、いくらでも遊びたい。あと、一度始めるとなかなかやめ時が見つからないから、時間の余裕もほしいところです。
 ……贅沢な要求だな。


2/9(木)

 この週末をかけて、心に決めたとおり『押忍!闘え!応援団』「華麗に応援」モードで副将「上海ハニー」を下したものの、そこで満足してしまい、垣間見ただけの最終ステージ「READY STEADY GO」で開幕直後に玉砕してからはしばらく手をつけられないまま、数日が経っていた。
 気力が満ちるのを無意識のうちに待っていたのかも知れません。
 そして決戦の火ぶたは切って落とされた。

 瞬殺と即死が積み重なること、あっという間に十数回。最初のチェックポイントにさえたどりつけません。
 これまでになく細かい刻みでマークがたたみかけてきて、うまいこと手に隠れたりもして、先が読めないことこの上もない。
 これは出現位置を完全に覚えなければならないのか。目を閉じて遊ぶのも同然のプレイスタイルに徹しなければいけないのか。それはいやだなあ。
 長い前奏に比してあまりに短いプレイ時間、その繰り返しに、いらだちが募ります。

 ところで、「上海ハニー」で苦しんだときから、いやそれ以前からか、少しずつ、純粋にゲームに向き合う以外での対策も取ってきてはいました。
 ペンを太くして持ちやすくしたのはその一環であり、他にもペンを持たない側の手で本体を支える際の最適なポーズ(タッチしても本体が揺らがず、画面が照明を反射することもなく、支える手への負担も少ない位置取り)、目線を落とし続けることで蓄積される疲れを少しでも緩和できるような座り姿勢などが挙げられます。
 しかし、もっと根本に、ブレイクスルーはあったのです。
 ペンを持つ手が邪魔をして画面が見にくいということ。それは、本当に解決不可能な、原理的だと諦めるしかない、このゲームにおける宿命なのか。

 そこには思い込みがありました。ペンは文字を書くときに持つものだ、という思い込みが。
 裏返せばそれは、ペンを持つ際のスタイルは必然的に文字を書くときのそれになる、ということで、具体的には、自分はペンを持たせた右手を、画面の右側で構えていたのです。「なぞる」という筆記に近いアクションがあることで、その思い込みはより強化されていたのかも知れない。
 画面は横に長い。筆記の構えで左半分をポイントしようとすれば、手が確実に画面内に侵入する。
 そのことに気づき、しかし「手が画面に入らないようにペンをギリギリまで長く持つ」などという、制御を犠牲にする愚挙に走ったりもしたあげく、ようやく解答は見出されました。
 画面の下からペンを差し出せばよい。

 この方針は、画面を真上から見下ろすようにして、ペンを視界の下方へ追いやるのと組み合わせることで、より効果を発揮します。
 あんなに隠されていた画面が、いま白日の下にさらされている。マーカーが見える、順序が知れる、これは感動的な喜びでした。
 さあ行こう、ぐっと難易度を落としたラストステージへ。太ペンを手に、背筋を伸ばして、目をしっかりと見開いて(クリアのための三大技法)。

 そこから挑戦すること数回、ついに最終ステージは陥落しました。
 よくやった。本当によく頑張った。我が応援人生に、悔いはありません。
 それにしても、迎えて一番嬉しかったのは、エンディングではなく、苦手を克服したあの瞬間でした。対処方法が見つからないまま、丸暗記でクリアできたとしても、解放感以外の何ものも感じられなかったに違いない。


2/2(木)

 『押忍!闘え!応援団』で、残りおそらく2曲のところまで追いつめたものの、突破できません。
 おのれ「上海ハニー」め。必ずこの週末に倒してみせる。
 と、時間も気持ちもゆとりのない今は戦略的に撤退するのでした。次の日に差し障りのないように。

 ところで、マーカーを平面上に求める音ゲーといえば『テクニクビート』が思い浮かびます。ここで、本来ならば先に来るべき前作『テクニクティクス』が挙がらないのは、単純に自分が未プレイなだけです。
 こちらは同心円で同期を取るところも『応援団』と共通ですが、それだけに、目視でのタイミング合わせの分かりづらさも負けていない。
 それに加えて、『応援団』におけるペン先の役を果たすポインタを、こちらはパッドで動かさなければならないので、取っつきにくさが跳ね上がっています。

 とにかく難しいところからスタートし、その中でどれだけゲームを続けるためのルールを取り込んでいけるかというのが『テクニクビート』、操作の敷居は限りなく低く(なってしまい)、そこからどれだけ難しさを足せるかというのが『応援団』。
 外見が似たゲームなのにその方向は正反対で、両者の溝の深さが興味深いところです。
 その立場の違いは演奏に使われる曲にも表れています。『テクニクビート』は往年のナムコ作品のBGM、『応援団』はいわゆるJ-POPなのです。『テクニクビート』を取り上げた名分がやっと立った。
 難しさを前提にできると期待して、ゲームに親しんだ層に追求してもらいたいのか、広く耳にされているであろう曲で一般層を掬い上げるのか。
 素材選びの教材にでも出てきそうだ。
 そして、そんなふうに曲を選んでいるのに応援団の濃さが全面的にフィーチャーされている『応援団』はおもしろ、いや実にすてきだと思いました。



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