ゲーム+α日記(2006年4月)

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4/29(土)

 『わんことくらそう』の2周目は、心なしか初めのころよりもっと色に溺れるシーンが多いように感じられ、犬だ犬だ問題ないのだ、こっちは猫だしこれも問題ないのだ、これは人間だが大人だからセーフだと、いまだこの世界の常識が叩き込まれていないことを歯がゆく思いながら進めました。
 そんなサービス特盛りプレイと、シナリオを締めるイベントを迎え、めでたくクリア……
 お? これでメインルートは終了?
 このコンパクトさにまたも好感度アップ。このゲームで味わうべきはなによりも人型動物についてのものの見方であるのだから、エピソードでいたずらに長引かせない引き際の良さは嬉しい限りです。こちとら時間ないんで(個人の事情)。

 それにしても、本編クリア後のおまけシナリオがまたはっちゃけてること。こどもにてだし、よくない!(←動物口調)
 もっとも、主人公が手を出しているのではなくあくまで飼育の間柄だから、一線を引いていると言えば言えるのか。いやもうどこが「一線」なのか本当に分からないものだ。
 これが許されるというのだから、自由なジャンルであることだなあ。

 短時間で濃く楽しんだゲームでした。とにかく、理詰めというか、納得させられる世界観が良かった。動物と人間が混同される可能性への言及が2箇所ほどあったけれど、あれがなければ完全な世界だったと思います。あの世界ではたぶん誰も間違わない。
 なお、このゲームで多数描かれるエロシーンのうち、恐らくただ一つの組み合わせである犬どうしの情景が、すばらしく腑に落ちるものでした。
 副イベントであり、その実現いかんで最後の話が若干変化するという程度の位置づけながら、自分にとっては話の本筋よりも変化させたかったものであり、選択によって実現させることが出来て満足でした。そして何より、濡れ場(動物だが)のグラフィックが深く頷けるものだったのです。
 犬であり動物であるとの前提が、場面を了解するのにこんなに有効だなんて。いやこれは確かに動物だ。


4/27(木)

 『わんことくらそう』2周目スタート……と思ったら、おまけシナリオなるものが登場。
 そういえば、里沙は「好きで励んでる」人でした。
 あんなに目立って描かれていたのに言及しないとは、避けてるとしか思えない(←人ごと)。里沙さん嫌いじゃないんだが、それよりもずっと、犬たちの一挙手一投足に心を奪われております。

 ところで、最初から選べるメニューがもう一つあって、それは「OP後からはじめる」というもの。
 導入からしばらくは顔見せ的な話があり、そして主人公が主人になるきっかけがある。それが終わってムービーがあって、このメニューを選ぶとゲームはその後から始まります。
 ん? ってことは、ここまでけっこう出てきていた選択肢は、その後の物語に何の影響も与えないのか?
 飼い主になることについて否定的な見解を示す道も用意されているようであるのに、その先は一つにまとまる。これは、ゲームを始めた段階で受け入れているはずのタイトルの誘いを再認識させるためのものなのかもしれません。すなわち、主人公にとっては運命。

 そういうショートカットがあっても、使うにはまだ早い。
 最初から読み直す。すでに人型動物に関する常識の染み渡った自分に、問いかけにぽつりぽつりと応じ始める序盤のみかんの姿がとてもいとおしく見えます。
 みかんが食べ物について遠慮しないところも微笑ましい。後々、主人公にはこの頃の光景も思い出されたに違いありません。


4/25(火)

 『わんことくらそう』のパッケージ裏にはシナリオ要素の説明があって、それを読んだときに感じたあざとさは今でも鮮明に覚えています。
 動物たちには発情期があり、それを鎮めるのは飼い主の責任である、というのだから。
 その「責任」というのが本当にその通りであることを納得させられるとは、このとき思っても見ませんでした。

 それを実現させている大きなファクターは主人公の性根です。
 この世界にだって、よこしまな者たちはいる。その片鱗も描かれる。しかし主人公はそうではなかったのです。
 これだけしっかり色の付いた主人公には久々に出会った。アダルトゲームの雰囲気に染まっているのにそぐわない。ゲーム中でのひねくれ者がジャンルのひねりの中ではまっすぐとなる。実に好ましい個性だと思います。

 その他の登場人物・動物たちも、一様に役目を心得ている。ことに節度を知る動物たちの振る舞いが目を奪われます。
 動物。飼い犬。ペット。これらの言葉から蔑視の響きを抜き去りたい。このゲームでは動物がエロを上回っているように思われます。他ならぬ18禁ゲームなのに。
 言葉遣いがつたないのも、外見が小さいのも、そんな子たちが「恋の季節」に悩むのも、それをせっせと解消してやるのも、ご都合主義とは言い切れない。だって動物なんだから仕方ないではないか。それは言い訳ではなく、このゲームにおける真理なのです。

 とまあ、言葉を重ねるほどに言い訳の度が増していく風味がやるせない。そんな励みっぷりではありました。いや、彼らも好きで励んでるんじゃないんだ、抑えきれない本能が(もういい)
 まず1回クリア、誰のと強いて分けるなら料理好きな煩悩娘・里沙のなのだろうけれども、もしそれだけだとしたら、主人公のパートナーである「みかん」(この命名も絶妙だと思う)が、毎回あんな目に遭ってしまったりはしないだろうか?
 幸せに進むゲーム中盤、視聴する側は弛緩した気分ながらも絶えず不安な気持ちを呼び起こされ、誰かが再び顔を見せるたびにほっとしていた。それが遂に崩れたときのあのいやな思いは、明確な予告の緩衝つきとはいえ堪えたものでした。
 今回終わりを迎えたあの話が、願わくば里沙とみかん、二人の話でありますように。


4/23(日)

 この上さらに別のボタンも使わせるのか!
 もうほんとびっくりさせられながら、それでもどうにか『大玉』をクリアしました。

 どうにもこのゲームは、ピンボールであることを全力で拒否しようとしているように見えてなりません。
 ボールののっそりした挙動、フィールドを四方に傾けてかなり自由に行き先を操れるシステム、そして狙いの定まらないショット。
 最後のは特に致命的で、このゲームへの一番の不満はそこにありました。
 ピンボールゲームを遊んでいると、ある段階でフリッパーが指に感じられてくるものです。どのタイミングで振ったらどの方向へボールを飛ばせるか、ボールを飛ばす際のフリッパー上の位置と方向とが1対1で対応する。あたかもボールを指に引っかけて「投げる」ように。
 『大玉』では、最後までそういう感覚は得られませんでした。

 でも、それも無理はないのか。
 ピンボールであるためには、フィールドに高低差がついていなければならない。でも一方、このゲームでは右往左往する兵士たちがいる戦場なのだから、そういう場が一方向にのみ傾く坂道であるのはおかしい。いや、おかしくないよう作ることも出来るだろうけれど、それでは単調な舞台しかできなくなる。
 さらに、ボールが万能に問題を解決しては、兵士たちのいる意味がなくなってしまう。ボールに出来ることは制限せざるを得ない。
 だから、主役を兵士たちに据えてゲームをふくらませにかかった段階で、ピンボールのあり方とは袂を分かったのかも知れません。

 無事クリアを迎えて、もうこのゲームを遊ばなくて済むという事実が、たまらない解放感をもたらしています。
 その気持ちを居城を追われたお屋形様の悲願達成における心境と重ねるには、ちょっとこのゲームに置く信頼が足りないなあ。


4/22(土)

 近所のゲーム屋に、本当にさりげなく商品の箱が置いてあったのに気づき、ニンテンドーDS Liteを購入しました。
 予想外の入荷だったのかも知れないけれど、店頭販売できるのなら、ソフト売り場の「現在は予約も販売もしておりません!」なんて掲示は、せめて在庫のあるうちは剥がしておいたほうがいいんじゃないかと思いました。
 油断も隙もありゃしない。(←店員に確認するときはどぎまぎしていたくせに、手のひらを返すようなこの態度はどうか)

 そして、百聞は一見に如かずを地で行く画面の見やすさに感心。いやー初期型本体にとって罪作りなリリースだこと。1000円ちょいの差で高級版という位置づけはおかしいから、旧式は早晩値下げするんじゃないかと思うけれども。
 
『押忍!闘え!応援団』に熱中したことで視力を落とした実感があったこともあり、画面が暗いゲームだと遊ぶ気がなかなかかき立てられなかったものでしたが、まあ具体的には『コンタクト』のことですが、これの進行の助けには与ってあまりある明るさです。
 もっとも『コンタクト』において釣り人に話しかけて、そのセリフに基づき画面を凝視することで初めて「悠然と構えている大物」の存在に気づく、なんていう、割と臨場感を覚えたシーンがあり、画面が暗いことにはそういう演出効果も期待できるといえば言えるのだけれど、おそらくは稀なケースだろう。
 よし、明るい環境で頑張って遊ぼうっと。


4/20(木)

 よし、その誘い、乗った!

 最近手を広げすぎではないかと思いつつ、そういうのもありかと割と軽く考えていることに気がつきます。
 『わんことくらそう』(
ivory)スタート。
 耳つきの子どうしの会話を目の前にして「犬どうしでしゃべっている(のが聞き取れる)なんて不思議なことだなあ」と気持ちよく騙されています。この感覚を大切にしていきたい。

 主役の子犬が出てくるまでの僅かな期間に、まずこのゲームは世界の常識をプレイヤーに叩き込むよう、全力を傾ける。人の外見をした犬や猫の、その姿形のあり方が、このゲームの登場人物たちにとっては「犬や猫のちょっとした特徴」でしかないことを。
 その努力が実ったとき、それよりは現実味があるだけ説得しやすい、でも一般的には了解困難と考えられる概念(親しい人の死)を納得させることは、このゲームにとってもはや最大の脅威ではなくなっている。
 そんなふうに理解させられている段階で、すでに激しく大きな仕事を成し遂げていると思うのです。
 かくして、犬が人間の言葉を口にするのを聞いたことがない自分から、前述の感想が導かれました。やるなあ。


4/18(火)

 もう、他の都合を待った上で行動することはできなくなっていた。
 いや、そんなことは最初からできやしなかったのだろう。ただ、そのことに決定的に気づいたのが、ゲームから離れてしばらく経ってのことだった、というだけなのかもしれない。

 自分をあの世界にいざなってくれた人は、同じように、待つことに飽き足らなくなったと言った。そしてそこから、ゲームの中で自ら声を上げ、主催して冒険を進める道へと足を踏み入れたという。
 それに対して自分は、待たなくても済むよう、思い立ったらすぐ行動でき反応を返してくれる閉じたゲームへと、軸足を移すことを決めた。
 同じ思いから始まっても、結果の何という開きだろう。改めて溜息が漏れるが、これが現状だ。

 3枚目の拡張ディスク、いわば『XI-4』の発売を目前に控えたところで、ようやくと言うべきか、『ファイナルファンタジーXI』を解約しました。
 マイキャラの抹消までは行わなかったのだけれど、それは将来の復帰をにらんでというのではなく、彼に自分の縛りから解き放たれて、農業でも漁業でも工業でも、好きなように暮らしていって欲しいと思ったからでした。自分には彼を殺す権利はありません。
 そう考えることで、このゲームに割いた多くの時間が報われる、そう思い込んでいるという見方も正しいのでしょう。でも、あの時間が彼を育てるために費されたという実感があるのです。親に似て偏った性格ではあるけれども、独り立ちしていくだけの技は身につけさせたつもりです。
 全くもって、終わり方まで『ウィザードリィ』を彷彿とさせる。


4/15(土)

 なんでこんな出来になっちゃってるんだかなー、と思いながら、『大玉』を遊んでいます。
 最初は笑ってもいられたけれど、ごまかしていてもしかたないと感情が気づいたのかも知れません。

 ゲームと一緒に、「秀爺の書」なる小冊子がついてきました。
 表紙によれば、「すべての初心者が大玉を勝利するため」の文書だとのことです。その配慮はありがたい。
 しかし、1枚めくってもう少し細かく「本書の趣旨」として書いてある内容には、疑問を持たずにはいられませんでした。
 そこには、この『大玉』が、「そもそも本タイトルは、ゲームに不慣れな方でも楽しんでいただけるよう、極めて単純なルールでつくられた作品」と定義されていたからです。
 あるいは、「そもそも」の始まりは、つまり製作当初はそうだったのかも知れません。でも、ルールはともかく、こんな複雑な操作をさせるゲームが初心者にたやすく受け入れられるとは思えません。

 このゲームでは、ピンボールとラグビーのスクラムだけ抜き出したようなものが並行して進みます。
 そして、ピンボールゲームとしてはフリッパーを左右の2ボタンで、一方簡易ラグビーとしてはスクラム隊への指示を肉声入力で、それぞれ行います。
 ……と、こんな感じの操作系をイメージしていました。こんなふうだったら1対1で理解できる。「声に出さなきゃゲームが進まんのかっ」と、その奇抜な発想にも素直に驚ける。
 しかし実際は違うのです。このゲームに使うボタンはあと4つあります。うち3つは削りたいし、残る1つにしてもどうにかならなかったのかとの思いが残ります。

 ひとつ目は、指示を出す対象を指定するマーカーの移動。
 前進や方向転換などはその場からの移動なので指定など不要ですが、行き先を指定するタイプの命令もあるのです。
 確かに、この方式は目的地を厳密にできるから便利ではあります。でも、そのために専用のボタンを割り当てるのはどうかと思う。プレイヤーにしゃべらせるのは、キー入力にしたら面倒な一連の動作をひとまとめにするためではなかったのでしょうか。
 ふたつ目はスクラムの増援要請ボタン。これも声で「出撃」とかにして対応させれば十分だったと思います。
 三つ目はマイク入力時のスイッチ。音声入力の際にはスイッチを入れなければならず、ボタンを押しながら声を出す必要があります。さっぱり意味が分からない。
 最後はフィールドを傾ける方向キー。スクラム隊を巻き込まないよう、あるいはアイテムを取れるようボールの挙動を変えたりします。重要な役割なのでいいかと思いつつも、重要であることが問題のようにも思えるので、この位置づけには葛藤します。

 この4つ、それから当初のフリッパー操作と位置指定以外の指示が、全て重なる状況があるというのが恐ろしい。
 位置を決めたりきめなかったりした後にマイクのスイッチを入れて指示を与えながら、フィールドを傾けつつ、ボールを弾いて、応援も繰り出す。
 最初はつまづいて当たり前だと思います。これが初心者向けとは信じられないだけです。なぜか「秀爺の書」には、「操作が複雑でつまづいた」という具体的な残念さは想定されていませんが、初心者へのフォローは「あえて本書をお届け」(これも引用)というようなおまけなどではなく、絶対に必要です。
 だいたい、本当に初心者向けだというのなら、こんな文書が存在するはずがない。説明書さえ読まずに始められるはずです。

 他にも、「兵士が主役」と書かれているしその通りでもありながらボールを落としてもゲームオーバーになる度量の狭さ(それならボールもやはり主役だろう……って、やっぱりルールも単純ではない)、画面の奥ではどんなふうにゲームが展開しているか分からないごちゃごちゃさ、とりわけズームインの際には前世紀の風味豊かな画像、通常進行では秀逸ながらゲームオーバーやリトライ回数増の際には思いやりが届いていないナレーションなど、気になってしかたない。
 設定の旨みをあえて抜き去った形で考えてみると、目の前にあるのは「発声必須では夜中に遊べないなあ」程度では済まない問題作だと感じます。
 任天堂、今回ばかりはちょっと余裕を見せすぎたんじゃないか?


4/13(木)

 ゲームを遊ぶ時間のあまり取れないこの頃、少し前に買ったリップスライムのベストアルバムを聴くのを、最近の小さな楽しみにしています。
 乱痴気騒ぎの間を縫って、たまに出てくる愁い含みの曲が好きです。
 曲名で言えば「One」「BLUE BE-BOP」そして「黄昏サラウンド」。

 文章ではなく曲の節目に合わせて韻を踏んでいる、というより、文章の切れ目と曲の節目を合わせてこないため、字面だけ見ていては分からない押韻の宝探しの趣があって楽しい。そこに加えて、それらが一つの音で「唱えられている」のではなく、旋律に乗って「歌われて」いればなお良い。
 そういう曲がなぜかみな、他より少し寂しげだ、という印象が、このアルバムからは感じられます。
 この3曲が気に入るのはそういう理由で、でも「One」のメロディーは申し分ないとしても、「BLUE BE-BOP」にはこれだと思いつつ、なぜか少し物足りなかった。
 単純に、短かったのが不満だったのでしょう。
 「黄昏サラウンド」の密度に圧倒されながら、今はその答えが分かったように思います。

 「BLUE BE-BOP」後半の「あい」で合わせてくる連発ぶり、その前後での音の上下。
 曲の後ろで登場したお楽しみが、「黄昏サラウンド」では初めから炸裂します。
 口ずさんでみるたびに、感心するほかない。いい曲だなー。


4/9(日)

 今週末も潰した上で、ついに『マリー、エリー&アニスのアトリエ』2周目クリア。
 自らに祝福を贈りたい気持ちでいっぱいです。

 説明書を一から熟読し直すことから始めて、調合アシスタントであるところの「妖精さん」が複数雇えることを知るやら、ゲーム内制限時間の大半を取られると思い込んでいた旅の工程を劇的に縮めてくれるアイテムに出会うやらで、再プレイとは思えない新鮮さ。
 いかに初回プレイが虫食いだったかを思い知らされました。
 やがてどうにか、おそらくベストではないかと思うエンディングの一つに到達。
 その上で、直前の分岐からやり直して別のエンディングを見ようとしたところで、己のミスに気がつきました。もはや取り返しのつかない進路確定後の段階でデータをセーブしていたことに。
 目の前が真っ暗に。いや大げさでなく。

 何たる間抜けさか。
 その別エンディングへの道のりは至って見えやすく、それに比べればはるかに(当社比)発見しづらいと思われた、ダークエンドとでも呼ぶべき終劇は自力で見出せていただけに、その喜びと誇りがはかなく消え去る愚行には、悔やんでも悔やみ切れません。
 どれだけの時間をこのゲームに費やしてきただろう。おそらくはたった一つ場面が異なるエンディングだけのために、また数週間(実質は数日かもしれないけれど)をかける気力は、もう残っていませんでした。

 まあそれでも、総じてよくやったとねぎらわなければなりますまい。そして、根を詰める努力に応えるだけの、のめり込みゲームでありました。
 アイテムが探しにくい(
『DT』のハイパーテキストを是非とも見習って、図鑑から直接調合に飛んだりしていただきたい)とか、装備の仕様全般が首傾げまくり(「外す」がないとは信じられません)とか、細かくも蓄積性の不満があるにはありますが、それで遊びやめるかと問われれば否と返します。それがこのゲームの実力。

 なお恐ろしいことに、これだけ十分遊んだと思っていても、やり残したことはそれなりにある模様。それらはたいていイベント関連で、調合主体のシステムとはあまり関わってこないので、ゲームの根幹じゃないからいいかと執着も薄くなります。
 中には文通ばかりでちっとも顔を見せないくせに説明書にはちゃんと載ってるキャラもいるのですが、顔の見えない話の語り手に思いを募らせていったりすると、経験上とんでもないことになりかねないので自重自重。
 突き詰めていっても謎が残るのが錬金術の奥深さ、ってことでまとめたい(←調合と関係ないって言ってたろ?)


4/3(月)

 結局、この週末に自分を虜にし、目がかすみ体が変調を訴えるまでに深刻に引きずり込んだのは、『コンタクト』ではなく、『マリー、エリー&アニスのアトリエ』の再プレイでありました。
 できるものの用途がすぐには分からないこと、しかし新しくできるもののほとんどが有益であること、ゲームが進むにつれて素材の種類が増えるためにレシピが広がること。この3点ががっちり噛み合って、ゲームが途切れなく進行します。
 「集めること」ではなく「作ること」が目標であり、作ったものが納品や別のものの素材という形で消滅しても、そのために作ったのだからそれで悔しがることはない。アイテムは失うためにあり、失う用途こそが有益である。
 そう思わせるところがうまいと感じます。これはアイテムの用途を見つけるゲーム。愛着を持たせ、手放したくならない収集ものとは逆のスタイルだ。

 そして、気が狂ったように作れるものを全て作り、ゲーム内期限までだいぶ間があるのに何もすることがなくなった、と思いきや、「素材集めのため」だったはずの旅行に、旅先でのイベントが隠されていたことが、ひょんなことから明らかになったりします。
 こんな条件に気づくはずがない、と呆れつつ、出会えたことのうれしさをかみしめる。
 あれもこれもと欲張ったゲームです。

 そしてこの欲張り方は、シリーズものであることを上手に利用した結果でもあるのでしょう。
 行く先々で、主人公の顔なじみが姿を現す。親しげに、あるいは懐かしげに会話を交わすその相手を、しかしシリーズ初プレイの自分は知らない。
 そんな疎外感持ちも、しかしこのゲームはキャラ解説でやさしく拾い上げてくれるのです。丁寧な措置がありがたい。

 まずはこれに全力投球、あと一年で終わるから、『コンタクト』はその次でも構うまい。
 もっとも、『アトリエ』にかまけて面倒ごとを後回しにした代償は今週に入っててきめんに効いてくるようで、ゲームどころではない忙しさに直面しそうです。
 何とか乗り切れますように。今日はせめて早く寝よう。



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