ゲーム+α日記(2006年5月)

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5/29(月)

 さて、思いもよらず大作であった『新 鬼武者』の次は、思うとおりに大作であろう一本を。
 なぜこんなに最近やる気があるのか分かりませんが、いっちょ頑張ってみるか、と
『ファイナルファンタジーXII』を始めてみました。
 最大のきっかけは『ファイナルファンタジーXI』にフィールド〜戦闘システムが似ているという噂。ほんとかいな。いかに敵の集団から1匹を釣るかに神経を使い、1体をパーティーでタコ殴りにするあれを一人で気兼ねなく好きなときに始められ終えられるというのなら、それはかなり魅力的であると考えました。

 くっきり明るいムービーに見とれ、主人公の弱い立場を叩き込まれてスタート。これはつらい。正統派の英雄には到底なれそうもないこの立場をどのように生かすか。
 好きなようにキャラを育成できそうな能力付加システム「ライセンス」が、この彼ヴァンのためにも全方位に開かれているとは、話のさわりを見ても信じられません。
 めざせ漁夫の利、己の夢をかすめ取れ、もしそのようなものがあるならば。そういった方針で彼を育てていきたい。


5/27(土)

 堪能した。
 『新 鬼武者』の武者修行ダンジョン「魔空空間」を堪能しました。
 主人公格の5人のうち1人を選び、ステージごとに敵を全滅させてひたすら突き進むこのモードを、2人分クリア。銃使いのお初と日本刀使いの十兵衛で。
 ちなみに1人あたりの所要時間は4時間強でノンストップ。
 何が自分をここまで熱くさせたのか。アクションかアイテム探しか、はたまたキャラか(それだ!)。これはもう、このゲームのことを好きだと言っても過言ではないような気がしてきました。

 実際、守勢を攻勢に転じて有利にする「一閃」を決めるのは楽しい。敵の攻撃を利用する性質から、敵のモーションを見て攻撃パターンを知る必要があり、そうやって対処するのはアクションの基本なので、それをやっていって道が開けていくのは嬉しいものです。
 ただ、基本的に逆転するためのシステムであり、敵が先に行動してくれないと逆転しようがないことから、自然とプレイは受け身になりがち。大勢に囲まれてめった打ち(受け身を取っているのでノーダメージ)から大逆転、という図は、多用してしまったけれどあまり見てくれは良くありませんでした。反省。
 一閃の条件に「タイミングよく防御して直後に攻撃」よりも格段に難しい「敵の攻撃の直前にこちらが攻撃」というのがあり、後者を狙って決められたときは会心の一撃と呼びたくなります。

 この「魔空空間」だけ取り出して携帯機で遊べたらいい案配かもしれないと思いました。
 潜るたびに強くなり、敵が落とした謎の武具も持ち帰って鑑定したりして。
 本編にも「鑑定」の要素があるようなのですが、ついに一度も鑑定に値する神秘的なアイテムを手に入れることはありませんでした。きっとこのダンジョンの中にあるに違いないと思っていたのに。「不確定名:ぶき」の登場をどれだけ望んだことだろう!
 本編ではアイテムが多すぎて用途がぼやけていた。そして、さっぱり使うことはなかったけれど、いろいろ装備してみれば、刀にも銘柄別に複数の振るモーションがあったのです。この労苦を他へ生かしても罰は当たるまい。
 絵を売りにしていることもあるし、PSPがいいのではないか。固定ダンジョンなら次のステージを読み込んでいれば待たせることもないだろうし。剣や拳では届かない空中を漂う敵の動きなどには非常な不満があるので、そういうところはすぐ舞い降りてくるなりいなかったことにするなり、改善してほしいけれども。
 シナリオは置いといて「魔空空間」に特化した「鬼武者」、題は
『Onimusha Tactics』にならって、『Onimusha Action』とか。(←それが言いたかった)

 そしてそして、完全に色物興味だけれど、ゲーム中のちょっとした試練「鬼武侠」を全て最高成績にするなどまでに手を出す始末。
 これで主役たちの衣裳チェンジが可能であり、それはセーラー剣士・茜の誕生を意味していて、すなわち「魔空空間」再制覇へ向けた最後のエネルギーとして、あの長い戦いの間をサポートしてくれたのでした(お初で制覇 → 鬼武侠完遂 → 茜で制覇、の順)。
 「柳生一族で一番強いものがたまたま女の子だったから」という理由で十兵衛と名乗らされるとは、大した設定のマジックであることだなあ。
 小柄な体で図体の大きな鎧武者たちを翻弄するのが醍醐味だろうに、それを「彼女にしか通れない小さな隙間」に四つんばいで進ませる本編のパズル要素は本当にいただけないと、頭を抱えました。あの子は絶対あれ嫌がってるだろうな。

 さてこれでゲーム終了……とタイトルに戻ったところで気づいたのだけれど、このゲームはバイリンガルなのですね。
 試しに設定を英語にしてみれば、システムからセリフからアイテム名から全てが変化。さらに音声も独立に変更可能。これには驚きました。手順前後の気味はあるが、この力のかけ具合はどうだ。
 一場面、ゲームクリア寸前のキャンプを英語モードで見てみたら、茜が主人公・蒼鬼(そうき)のことを「ブルー」と呼んでいました。そして他のキャラが呼ぶときは直訳で「ソウキ」でした。ちなみに日本語では茜による呼び方は「アオ兄ィ」(あおにい)です。蒼い鬼だからあおにい。その説明は特になかったと思うのだがどうだったか。
 果たして、ソウキのソウは青いって意味だからお前は今日からブルーな、みたいな説明的会話が、英語版には入っているんでしょうか。
 まずい、通しで見たくなってきました。英語圏へ売る気満々のカプコンが、どういう言葉を使って訳しているのか。
 男キャラの声もきちんと渋いし、いいなあ……
 と、気持ちが傾きかけましたが、英語を読み聞きするにしてももっといい教材はありそうな気がして情熱収束。その方がいいだろう。

 このゲームに触れるとき、日記一回分がやたらと長いのは、このゲームがダラダラ長いのと無縁ではないと思いました。


5/21(日)

 『新 鬼武者』をエンディングまでやり遂げました。

 いや実際、やり遂げたと呼ぶにふさわしい忍耐強さを発揮した思いです。
 終盤、お話上のタイムリミットまであと何日とか何時間とか煽ってくるのだけれど、その前に
大いなる時間の浪費を見せられては切迫感も生まれない。それは最善を尽くしてなお切られた期限なのか。彼らが許しても、当方は認めない。
 重傷なのは分かるが、2ヶ月もかけてないで、鬼の力でも何でも使って10日、いや3日で治せ。敵はあの秀吉だぞ。やつが本気を出したら一夜で片が付くに違いありません。

 あと、ポリゴン芝居の奇怪さはどうも用意されたモーションが極端に少ないことに因っているらしい。絵のエッジの切り立った、恐らくリアルタイムで表しているパートでは、皆さんほとんどのセリフをたった一つの身振りで間に合わせているのです。
 胸の前に手を合わせ、それから手のひらを差し伸べる。最初から最後までこれ、しかも長いセリフだと繰り返したりする。さすがにばれるだろう(←もっと早く気づけ)。
 ちょっとこれにはいたたまれなくて、会話パートはじっと文字ウインドウの左隣の顔グラフィックを注視していました。

 ところで、アクション部分はまず楽しいのでいいのだけれど、ふと、自分がこのゲームのアクションをほとんどコマンド入力式のロールプレイングのように遊んでいることに気づいて、少し不思議に思いました。
 攻撃するためには狙いを定めて、時には何らかの技を入力。防御だったらガードか回避のステップを踏むか。必殺技も専用のボタンで複数用意。
 それらをボタン入力している感覚は、例えば『ファイナルファンタジーIV』あたりのアクティブタイムバトルと同じなのです。
 そこには場所・位置・距離・方向の実感がない。自分で動かした手応えが薄い。
 回避して移った先と歩いて移動した先は同じ場所のはずです。でも「歩いて移動」が同時に持っていたはずの「元いた場所から移動することで避ける」機能は、もうなかった。そんなちんたらしていると、だいたい攻撃を食らってしまうのです。

 移動から避けることを抜き出して、専用の操作をあてがう必要があった。多分そういうことなのでしょう。ほんの少しの位置の違いで当たったり当たらなかったり判定されるシビアさは、3Dのこういうゲームには荷が勝ちすぎる。
 そして、移動に特化した方向キー入力の役不足を少しでも解消するためにと考え出されたのが、あのしちめんどくさく回りくどい仲間取っかえ引っかえパズル迷路だったのではないかと思いました。
 ああでも、これは3Dアクションの教養が足りない自分にとっては予想でしかありません。今、そのことが悔しい。
 発売当時、あまりにも面白そうに思えず、遊ぶ気に全くならなかった『スーパーマリオ64』、それから同じカプコンでは『バイオハザード』、これらのシリーズの1本も試しておかなかったのが今日の思いの不確かさを招いているのだと、学問を怠ったかのような気持ちで恥じています。
 そう、遊んでいないのだ。だから『新 鬼武者』から思ういろいろのことは、しょせん予想の域を出ない。いくら別世界のようだと言ったってあんな島原はないだろうとか、そういうことも。そのうち分かるときが来るだろう。あれは面白かったけれども。

 2周目は能力・アイテム引き継ぎの一方、新たに始める向きには難しいモードが増えているけれども、シナリオはすっ飛ばすにしたって、あの迷路のことを思うと気持ちは高まりません。
 いや、あのシナリオのせいで道中引きずり回されるんだ。芝居パートを省略したところで根本的には解決していない。第一、あれをまた味わえなんて、そんな自信ないっしょ(←失礼)。
 もう少し「魔空空間」を遊んでみようか。気配しか感じられない敵への対処法を自力で見つけられた内なる誇りを、疲れ切った中にも最後の燃料として。そんな思いです。


5/18(木)

 2ヶ月も一つ所にのんべんだらりと滞在し、あまつさえ忘れ物探しなどというものに諸手を挙げて同調する体たらくを見て、『新 鬼武者』の主役たちには彼らの物語を進めるつもりなどないことがよく分かりました。
 これで心おきなく、本編とは無関係らしいアクション漬けの闘技場「魔空空間」に入り浸れるというもの。
 話を先に進めた方が、より強い武器も出るのだろうし結局はこちらも先まで闘えるのだろうけれども、せせこましい建物に閉じこめられてお使いパズルをさせられるよりはよっぽど楽しい。
 武器を別のものに装備し直した直後、試しにとばかりその武器を構える姿が、この得物でどれほど斬ってやろうかと意気込んでいるように見えてならず、ストーリーを脇にのけたこの刹那のあり方こそが鬼武者なのかもしれないと思いました。

 思えば、「ゲーム批評」68号の『新 鬼武者』評は、この号随一の良い文章でありました。
 褒める・けなすの方向を越えて思わぬ結論を導き出す、こういうスタイルの読み物が好きです。これを皮肉と読んでは価値が下がるというもの。


5/14(日)

 『コンタクト』で煮え切らない思いを抱えた原因のひとつが、うまいこと立ち回れそうに見えて少ししかままならない戦闘システム(これを『聖剣伝説2』システム、とでも呼ぼうか)にあったのだと思い、操作がキャラの振る舞いにまともに反映されるだろうゲームを求めて、『新 鬼武者』に取り組むことにしました。
 以前に興味を持ったし、その縁でせっかく買っておいたのだから、遊びたくなったのは都合がいい。(←思考回路にダメ化が見られます)

 ちなみに、発売前のタイトルに言及して実際にそれを遊ぶのは割と珍しいのですが、どうも自分には「表明したことは必ず実現しない」という思い込みがあるようなのです。
 かといって、望まないことを公言するのも、良くできたことに嘘だと分かっていて口にするのは無効な様子。
 かくして、「未来については何も思わない、あるがままを受け入れる」という困った防衛策を取り続けている現状なのですが、そんなことより今は『新 鬼武者』だった。

 さて、ぶった斬り3Dアクションとして楽しみに起動したゲームでしたが、しばらく遊んでいるうちに、これをタイミングゲームとして遊んでいることに気がつきました。
 敵を目指してばんばん刀を振るってもいい。でもそれだとあまり楽しくないのです。何度も斬りつけないと敵が死んでくれず、一体にかまけているうちに周りを取り囲まれて不利な目に。
 そんなときに役に立つのが「一閃」というシステム。敵の攻撃に合わせてボタンを押すことで必殺の一撃を与えるという、ダメージを負うリスクと隣り合わせの技です。
 これが雑魚なら即死の強力ぶり。さらに、適度な時間を置いてボタンを押していくことで、標的以外の近くの敵にも連続的に「一閃」が見舞われていく。
 攻撃力の高さと絵・音の演出で、刀技を発揮させている感じが手軽に味わえて楽しいのです。

 ところで、この「一閃」を成功させるのに、攻めてくる敵の方を向いている必要はありません。背中を向けていたって、ボタンを押すタイミングさえ合えば「一閃」発動。
 3Dということで、きっちり敵の方を向くためにはそれ専用のボタンにサポートしてもらいますが、「一閃」に頼るならその気遣いも無用。
 華々しい殺陣を実現させるために、敵の動きをじっと見て、ここぞとばかりにただ一つのボタンを押す。
 思っていたのとずっと異なるプレイ感覚に、もう慣れたものの、最初はとまどいました。
 ゲームはそろそろ終盤か、と思ったが、よく見ればディスク2枚組かこのゲームは。まだ先は長いかも知れないが、上達も遅いから悠長に構えてもいられまい。何とかクリアまでに「一閃」を自在に出せて楽しめるよう頑張ろう。

 それにしても、このゲームのアクションシーンは、全体の物語の中では断片的なものなのですね。
 ステージをクリアしたところで、一枚の絵をバックに「その後」が文字で語られるのは、ちょっと残念な気分でした。
 すでに『ゴッド・オブ・ウォー』を見てしまっているのは『新 鬼武者』にとっての不幸なのか。
 場面の切り替えも、カメラワークの問題と絡めているのかも知れないけれど、そして遊んだことのない前編たちと比べて頑張っているのかも知れないけれど、やっぱりスムーズに越したことはないと、ないものねだりをしたくなりました。
 あと、キャラのビジュアル面については、イラストが素晴らしすぎたということで仕方ないのか。ポリゴンキャラのすぐ下に2Dの顔グラフィックが出てきて、否応なく比較されてしまうだけに、これまた無念材料ではあります。
 ポリゴン芝居にも滑らかさが欠けていて、率直に言って変だ。いろいろ求められて気の毒ではあるけれども、ぜひ達成して欲しいところです。敵の不気味さ、憎たらしさは申し分なく得られていると思うので、もう一押し。


5/10(水)

 『わんことくらそう』について、ひどく気になっていて、しかし自分の手には余ると判断して話題から切ってしまったことがありました。
 それは、人型動物という設定によって、こんなにも自然な18禁ゲーム環境が仕上がってしまっているという不思議についてです。

 女の子とばったり出会うなれそめに始まって、知り合いってからまだ日も浅いその子が親しみを持ってくれたり、その子といきなり同居したり、身の回りの世話もしてくれたりといった嬉しいギャルゲー的できごと。
 さらに、かわいい子があられもない姿をさらしたり、その「かわいい」というのは「小さい」の別称であったり、それにもかかわらず辛い思いをせずに受け入れてくれたり、場所を選ばなかったりという数々のエロシチュエーション。
 それらの事柄は、まず何よりもそれが「起こる」という時点でそれまでの流れに逆らうささくれであるのに加えて、その内容の突飛もなさによって、時にゲーム外の視点によるご都合主義のレッテルを貼られる可能性と無縁ではありません。

 それら一連のイベントが、『わんことくらそう』では至って滑らかに展開されているように見える。
 あたかも、小出しに揺れることで決定的な一撃を免れるか、最初に激震を与えられることで以後は平穏に過ごすか、という地殻変動の二つのあり方の違いのように感じられます。
 『わんことくらそう』が後者であり、「人型動物」がその決定的な一撃であることは言うまでもありません。

 自分よりはるかにその手のイベントの類型に詳しい誰かの手によって、この設定のマジックが種明かしされないものだろうか。
 「犬ならすべてうまくいく」、そんな調子で語られる『わんことくらそう』話を、ぜひ読みたいと思う今日この頃です。
 ……と書いてきて、これで「うまくいく」と感じているのはまずいのではないかとの思いに駆られましたが、もういいやね今さら(←手遅れ)。


5/7(日)

 まとまった休みだから遊ぶまでに気力を高める必要のあるゲームを、という文句を携帯機用に、ましてやこのタイトルに向けるとは思いもよらなかった。
 世の中の意外さに心打たれながら
『コンタクト』を遊び、エンディングらしいところまで到達しました。
 どんな狭い世の中だ。

 それはさておき、このゲームには終わって欲しくない気持ちでいっぱい。
 といっても、まだゲーム世界に浸り余韻を楽しみたい、というのではなくて、本当にこれがエンディングなのかどうか疑ってかかっているからです。
 もしそうだったとしたら、あまりにあっけないというか中途半端というか。だからまだ、クリアしたのだとは信じられません。

 何しろこのゲームは、パッケージに「ゲーム世界の主人公とは別に、プレイヤー自身もゲームに参加・介入できる、画期的なRPG!!」と書いてあります。
 頼もしきはその自覚、ぜひそれを生かした展開を、そう望んだって決して罰は当たるまい。それがあると思うからこそ、この腹立たしいほどにいらいらさせられるゲームにつき合い続けたのです。
 ついに言ってしまった。このゲームに取り組んで、始終いらいらしていました。操作のレスポンスに、アイテムの使わせ方に、そして何より明示されない戦闘のルールに。

 途中、いくら何でもカチンと来すぎだと思い、頭を冷やすのもかねてゲームから離れ、しばらく牛乳の積極的摂取に努めたほどでした。これと『大玉』に苦悩した4月ではあった。
 その甲斐あってか、ヒットアンドアウェイでうまく進められることを発見し、今までの怒りの一部が八つ当たりであったことを反省したりもして、どうにか今日を迎えることができた、という次第。

 そして、強力な敵との連戦をこなした自分の前に展開されたのは、主人公とプレイヤーが異なることを改めて示すイベントと、スタッフロールでした。
 やっと始まるかと思ってわくわくしていたところへこの仕打ち。いやいや終わってないよ、というより始まってもないんじゃないか。
 それは前提の再確認でしかなくて、そこからどんな話が始まるかがこのゲームの腕の見せ所なんじゃないのか?
 終わり方、終わったこと自体には納得するけれど、そこに至るまでの素材の生かし方があまりにもったいないんじゃないのか?

 だから、もしかしたらまだ続きがあるんじゃないかと思うのです。
 それを具体的に示す指標でもあってくれればいいのだけれど、そういうものはない。読み物ゲームではCG回収率とか、丁寧なものだと既読率なんてものさえあって、ゲームがどのくらい進行しているかを知る目安となるのだけれど。アイテムの所持率なんて当てにならないし。
 さすがに、メインアイテムでありそれにより主人公の特殊能力やパラメータが大きく変化する「服」が1着抜けていて、これは気になるところではあります。
 しかし、それと2周目とを結びつける理由がないのだよなあ。見つけたところで変化もだいたい予想できるし、物語の根幹に関わるアイテムとは思えません。
 やれやれ、このゲームのことをどのくらい信じたものか。


5/5(金)

 Memorial Games更新:わんことくらそう

 読み物ゲームは文章主体だから、何か思ったことを書こうとするときに取っかかりがつかみやすい。極端な話、引用から始めたって、それで目的に到達するならば一向に構わない。
 それに対して、アクションやシューティングにまつわる思いは初手からつまずきます。外堀から埋めていかないとならず、何が外堀になりうるのかから探さなければならない。いや、「ならない」って言ったってそれはそれで楽しいのだけれども、きっかけがつかみにくいのは確か。
 もっとも、ゲームを文章に直訳するなんて出来るわけないのですが。両者は違うものだ。

 ときに、ゲームの話をするときに前作や関連作を持ち出すのは、結局どこかでその元ネタの話もしなけりゃならないのを先送りしているのに過ぎないのであって、だから実績を積んだ続編ほど入っていきにくいものです。
 この前『マリー、エリー&アニスのアトリエ』を夢中になって遊びましたが、あれで面白いと感じたところって、たぶんずっと前から提示されていたのに違いない。
 面白がったことに対して、何を今さらというゲームの外からの視線を意識するとき、よし全作品に当たってみようと思うか、まいいや楽しめたし、で終わらせるか。当方は遺憾ながら後者であります。前者なら労をかけた分、見返りも大きいだろうに。

 どうも自分は続編ものに対して妙に冷たい。恐らく、「続編」という概念が肯定的に理解できていないのではないかと思います。その楽しさを浴びたければ、そのものを遊んでいればいいではないかと思う。「同じだけど異なる」ってのは何だろうか? てな具合。
 『ファイナルファンタジー』シリーズみたいにはっきりと「毎回ファイナルにつき別物です!」と開き直ってくれればすがすがしく了解するのだけれど。
 その点、読み物ギャルゲーはシステムを深くいじらないかわりに比重が物語に大きく傾き、その物語ががらっと変わっているので、別物として気軽につきあえるのだろう。
 別にゲームの話をしなきゃいけないわけじゃない。でも、どうせなら話ができた方がいいとは思います。


5/4(木)

 考えてみれば、好物ではないけれど不平なく食べられる料理を作るのは大変なことであるのですね。
 せっかく作っても、文句言われたり、挙げ句の果てには残されたりしたらまったく面白くない。好みが分かっていればそういうことはない。得意レシピであれば喜ばれもするでしょう。
 でもいつもいつもそれでは、食べる側の味覚が発達しない。食べたことのないものをおいしく感じられることは、基本的にはできないはずです。
 食べたことがないのを敬遠するのは、まずいからではなく知らないから。いわゆる食わず嫌いというやつですが、そういうのが少ないほど食べるには得なのは間違いありません。たとえ「知らない」のマップが「まずくて嫌い」で埋め尽くされたとしても、積極的に避けることができる。もちろん、好きなものが増える可能性だって高まる。
 だから、作る方の腕を上げるため、というポジティブな考え方に便乗できるなんて都合が良すぎる。そう考えたのも無理はありません。

 帰省先のことでもあり、『わんことくらそう』(ivory)の話でもあるのですが。
 里沙のことは、好き嫌いではなく有り難いかどうかで評価すべきだと再認識しました。あの子は有り難いのだ。



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