ゲーム+α日記(2006年11月)

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11/23(木)

 『CROSS†CHANNEL』を最後まで読み終える。
 ラストの主人公の心情の変化自体は分かったけれど、その経過がいまいちピンと来ない……と、あまりすっきりしない思いを抱えて、読み残しを埋めるべく最初に戻ってみる。
 そんなものを残しておいた几帳面さの足りない自分に感謝。

 最初の段落であり、表題の名が付けられた「CROSS†CHANNEL」パートのまるまる半分をごっそり回収していきました。
 初見でおかしな点があると思わないではなかった、しかし動機は圧倒的に未読文章の総当たり。
 勢いでこのパートを通し読んだところ、辻褄が合って大きな疑問が晴れたことに呆然としております。読み直しもしてみるものだ。
 人物像に触れられないまま話の構造に感心して終わるのはどうも釈然としない気はしますが、それが読解力の限界のようです。
 あ、例によって勘違いの可能性もある。思い込みは強いと毒だから、日を置いてまた考えてみるとしよう。


11/20(月)

 ちょっと待てよ。
 昨日『CROSS†CHANNEL』について「見当をつけた」ことは、的外れではないのだろうか。

 このゲームが繰り返させることに主眼を置いていると思うなら、最初に戻されて何度目かまで追加される文章は、飽きさせないためのサービスと見なせるだろう。
 でも、そうではないとしたら。
 文章資源はいずれ枯渇してしまうとはいえ、繰り返すのとは別の意図が軌道に乗るまでの助走として、補助テキストが役に立っているとしたら。
 繰り返されるのが分かりにくく感じられるのが、狙い通りであったとしたら?

 そう解釈してもいいのかどうか、それはゲームを終わらせたときに判明するのでしょう。そう思うとよりいっそう、先へと進めたい気持ちがはやります。
 しかしそれを抑えて一旦物語を遡り、途中で主人公が味わった絶望感に近づきたい思いもある。強い絶望を携えてこそラストもより味わい深くなるのではないかと、これまでの話の流れからは思える。
 どっちでもいいか。なるようになる、思うままに進めよう(結局それか)。


11/19(日)

 いやー、『CROSS†CHANNEL』が楽しくて、この2日間はずっと遊んでいました。

 最初こそギャグが性に合わないと残念に思っており、それは具体的にはパンツが見えるの見えないのと騒いでいるくだりなのですが、これは原作のPC版のサイトを見るに、そちらとの違いをアピールするためのもので、だからこれらは原作既プレイ者を対象にしていたものなのでしょう。
 前提が頭に入っていないのだから、そりゃ笑えないのも無理ない。
 いわば熱心なファンへの御礼口上、その嵐が通り過ぎて後は、普通について行けるようになりました。いや、大いについて行けていると言うべきか。
 特に元気な後輩・美希とのやりとりが楽しい。毎回違った呼び方で声をかけるとその通りに復唱する彼女の律儀さがたまりません。
 ちなみにキャラ別では勝ち気娘・冬子の淡雪モードが強力だ(言っておきたい気持ちが文脈を超える)。残念なことに、彼女のことを考えるとそれを出させてはならないのだけれども。と、そのあたりが今のゲームの進行状況です。

 しかしこのゲームはキャラにおもしろおかしくおしゃべりさせているだけでは終わらず、それどころか狙って選択していけばいつまで経っても終わらない。
 もっとも、「狙って」というのは選択を変えないということだから、終わらないって呼ぶのも普通ならおかしいのだけれど、終わらないことに意味を持たせているのは楽しいところです。
 一周して戻ってきても何度かは新しい文章が出てきたりして、そのせいで繰り返していることが分かりにくくなったりもしますが、後から思えば惑わそうなんて思ってなくて、丸ごと同じ文章を読み返させるようプレイヤーを突き放さないサービスだろうと見当がつくのでした。

 あと、記号に感情移入させられるのは、それこそ異世界を覗くような経験で悪くないのだけれども、我に返ると疲れます。†マークに恐怖している次第。
 その前後の描写は、気持ちが健康なときに読むのがいいです。タイミングが今で良かった。
 絵が白みがかっていて発光が強く、それを味と思って初期設定で進めているけれども、だんだん目が疲れてきました。少し弱めた方がいいかも知れない(←遊び過ぎじゃないのか)。

 読み物ゲームをネタにいろんなことを考えるものだなあ。とにかく終わらせてしまおう。
 一気に頭の中に収めたい気分です。


11/16(木)

 このままではいずれ我が家がキッド社リリースのギャルゲー廉価版で埋もれてしまう、なんていう室内の図が唐突に思い描かれたので、その流れにひとつ対抗してみようかと、1本選んでみました。
 これまでキッドの読み物ゲームはドリームキャスト版が最上と信じていて、PS2版でどれくらいスムーズに読み進めていけるかには懐疑的でした。遊ばず嫌いというところです。
 そのいわれのない偏見を、今作は満額回答ではねのけてくれました。

 ゲーム開始直後こそ、マニュアルも読まずにいろんなボタンを押していったらいきなり未読文章スキップの憂き目にあったりもしましたが、たとえそうであってもバックログがすかさずフォロー。
 キー配置に慣れていくうち、何より感心したのは、左右スティックをいじることによる文章送りの機能でした。
 スティックを一瞬だけ傾けると、ウインドウ内の文章が流れ始め、ついていれば声も同時に聞こえ始める。もう一度一瞬だけ傾けると、そのウインドウ内で文章がが最後まで表示される。さらにもう一度、これで文章のウインドウ表示が切り替わり、それまでしゃべっていた台詞はカットされる。
 さらに、スティックを傾けっぱなしにすることで、既読・未読を問わず文章がどんどん流れていく。

 これは言うなれば、文章を読む気分のアナログぶりを体現できるページ送りの備わり方なのでした。
 じっくり読み・聴きたいとき、手早く一文に目を通したいとき、そしてその場面はすっ飛ばしたいとき。どれにも満足のいく速度で対応してくれる。その制御は親指の動き次第。
 選択肢やファイル操作以外の大部分を、コントローラーを片手で持ち、指の隠微な操作のみでやりくりしていける。ボタンを「押して」ページを繰っていくところから、また一歩滑らかさに向けて進歩しているさまを味わえて、大変嬉しくなりました。

 ええ、全て今さらの話なのでしょう。自分にとっての新しさのみを重視した視野狭窄ぶり、これもまた相変わらず。
 そんなわけで
『CROSS†CHANNEL』スタートです。
 たとえギャグの8割がすべっても、引っかかる残り2割を足場にして先へ進む。システムの助けも借りて、まずは読み進めよう。


11/13(月)

 この前、復刻を兼ねて発売された『カオスシード』のサウンドトラックをかけながら、思ったことがありました。

 これらの曲群は、このゲームを遊んでいたときの気分を思い出させてくれる。あっという間に過ぎていきながらもひどく充実していた日々。とても楽しかった日々。
 しかし、それがどんなふうに楽しかったか、どこが面白かったか、細かい点を指摘することはできなかった。それで、自分はもうこのゲームの内容を覚えていないことに気づいた。覚えているのは、このゲームが面白かったということだけだ。

 新しくゲームを始めるときはいつだって、それが面白いものであればいいと願う。楽しめない可能性に重点を置いたりはしない。
 もしその願いをより確実なものにしたいなら、楽しく遊べたゲームの続編を選ぶのが堅実だ。あるいは、任天堂がナンバリングされない続編という形でよくやるように、機能や目線の違いによって別物として作り込まれたバージョンに取り組むのもいい。
 そして、楽しめることが最大に保証されるのは、かつて楽しめたゲームの内容を忘れた状態で、一から遊び直すことだろう。

 今の自分の『カオスシード』に対するポジションは、上述の理想に極めて近い位置にいる。
 実際には遊んでいくうちに記憶を取り戻していくだろう。そこから先は、かつて作り上げた遊び方に倣うかあえて外すか、いずれにしてもそれを参照しながらのプレイになり、初回プレイのたどたどしい歩みではなくなる。それはほとんど確実に起こるだろうから、その点が理想には足りないと考えられる。
 それにしたって随分と手堅く楽しめる手だと思える。

 では、自分はそれを選ぶのか。
 少なくとも今のところ、そういう気持ちにはなっていない。再び『カオスシード』を遊び直す気にはなれない。一番いいやり方のはずなのに。
 あのときあって、今回は高確率で途中から失われるだろう「初めて出会う楽しみ」を重視しているんだろうか。こんなにも保守的な自分でも、新しいものを求める気が支配的なんだろうか。それはとても希望が持てる仮定だ。
 あるいは、かつての楽しみはあくまで当時の自分と切り離すことはできないもので、時が経ち変化した受け手にはあのときと全く同質の楽しみを得ることはできないと、無意識に覚ってでもいるんだろうか。それならそれで、こんなにも保守的な自分にも変化が訪れてくれることが前提になっているのだから、これまたとても希望的だ。

 結局のところ理由を特定することはできない。でも、理由がどうであれ、今は曲を聴くだけで満足している。
 楽しみは気持ちの奥に封じられている。それを曲を透かして外から眺めるだけなのは寂しくもあり、しかしかつてそれに浸り満足していたという思い出を持っているのは、封印を解けないことへの慰めになっている。
 何だかんだ言っても、次の楽しみが欲しいのだ。そのことを健康的だと思って、少し嬉しくなりました。


11/12(日)

 舞台の途中経過は共通でも、少しずつ攻防特性や魔法・技が仲間たちごとに異なるから、その違いに応じて少しだけ戦術を変えて、最後のちょっとした変化を楽しむ。
 『だんじょん商店会』のラストをそういうふうに繰り返していたら、以前にこういう感覚を味わったことがあると思い当たりました。
 キャラ別に性能が異なるシューティングゲームだ。道中は共通、戦法を性能に合わせて調整しながら、キャラごとのエンディングを見る。
 そのように見えるのは、道中にバラエティを見出すことが出来なくなっているからで、それは決して好ましいこととは言えません。
 だからこれでおしまい。

 このように中途半端な終わり方ではありましたが、それでもさすがに、当初予定していた魔法使いグループの行く末は確かめることができました。
 彼らに接しているうちに、二人のお互いの呼び方が気になっていったのですが、そこにはやはり気が回されており、それが分かるエピローグが見られて満足です。
 最後の最後に選択肢が待っており、ちゃんとやり直して2通り、この目で確認しました。
 いや、ちゃんとと言うならば本当は3通りであり、それにもかかわらず実際は2通りなのです。一部始終を知りたいとの思いにつくづく冷たい選択肢のあり方によって、このゲームにかけるパワーはほぼ使い果たされました。

 しかし、端からなぜそんなに言われるのか分からないほど、ウィル君の視野は狭くなかった。チェルシーにカエル関連で嫌がられるお願いをしに行ったことがばれたときの彼の「丁寧に爆発した怒り」には、びっくりするやら済まないやら。気にかけてないならそんなに怒りもしないのであり、それが見られたのには安心もしたのでした。
 贈り物もするし、率直でいい子じゃないか。好きな子ほど意地悪したいってひねくれ者は、プレイヤーの方でした(この後も死骸関連で驚かす)。
 ごめんね。

 なお、プレイ続行のための残り少ない力は、クリア後のおまけダンジョン挑戦で全て吐き出した次第。これは一度で十分だ。
 マップ上で接触しなければ戦闘が始まらない仕組みがどんなに嬉しいことだったか、逃げられない戦いにわんさか巻き込まれて、嫌になるほど実感できました。もう取り組みたくありません。

 さて、これまで思いこんでいたことの中に嘘があったから、訂正しておかなければ。
 
寝に行かなければイベントは起きないということはなかった。普通に、冒険から帰ってきての強制就寝時にも占いは発生していました。
 イベントをすぐ起こしたければ寝続ければいいけれど、それは必要条件ではない。早とちりはいけません。
 もう一つ、図鑑完成補助システムと思っていたのも間違いだったようだ。終わりだからと思って、見たことのないアイテムをここで揃えていったら……埋まりませんでした。普通の便利屋さんだったのか。

 ということで、アイテムコンプリートもできず。
 言い伝えにあるように主人公を幸せにすることは出来なかったけれど、いいじゃないか、幸せになる役どころは魔法使いカップルに譲ろう。


11/9(木)

 くそう、急に忙しくなった。
 ろくにゲームの時間が取れないときは、恒例のように通勤時間に聴く曲への依存度が高まります。頼りたくなる曲が選ばれてくるというべきか。大いなるものの手によって!(←大いなるものはそんな暇じゃないと思う)
 GO!GO!7188の新アルバム『パレード』がお気に入り。5トラック目の表題曲から続けざまに3曲がまず浸透してきます。
 中でも一番槍は「雪が降らない街」。痛手を受けてうずくまりながらも前向きな姿が目に浮かび、口にすれば立ち直れる力が得られているようで好きです。大丈夫大丈夫。


11/5(日)

 しかし収集要素が「コンプリートまで残り○種」と見えてきて、それを意識し出すようになると、確率は楽しめないものに一変するものだなあ、と、『だんじょん商店会』の取得アイテム一覧を眺めながら思いました。
 その昔ファミコンで『ウィザードリィ』を遊んでいたときを思い出す。あのときも、これが手に入れば全部揃えたことになるから、という理由で迷宮に潜っていたのではなかった。今まで見たことのない目新しいものが、確率をくぐり抜けて落ちてくるのが嬉しかったのだ。
 その違いは目的にある。前者が終わらせるためにプレイしているのに対して、後者は続けることを前提にしてプレイしている。
 ゲームが終わるなんて、そうなると分かっていてそれに突き進むなんて悲しすぎます。好きで始めたものを、なぜ自らの手で積極的に終わらせにいかなければならないのだ。終わりはあくまで、ああ終わってしまったな、と後から分かるものです。

 ということで、『だんじょん商店会』もそういう方向に行かないように遊んでいます。パーティーのメンバーによって宝箱の中身の傾向が変わってくるという仕組みが楽しい。主人公以外全員に共通の手段の果てに各メンバーがどんな違う話を持っているのか、それも知りたい。
 そして、どうしても図鑑を完成させたくなったら……そのときのための準備がこのゲームにはある。いや、これは多分そういう意図で設けられていると思います。
 考えることのいちいちに先回りされている気分。そうであってみれば、それに乗って踊ったほうがより楽しめるでしょう。


11/4(土)

 「ゲーム批評」が最終刊だからというにしたってあんまりな出来で幕を閉じ、後継誌がぱっとせず、さらに「CONTINUE」に対して自分の気持ちがクレジット切れを起こして以来、気がつけばゲームの話が読める雑誌としてとても貴重なものになっていたのだなあと、「GAME SIDE」の新刊(3号)を楽しみながら思いました。
 あまり早く消費しても次が出るのは来年だから、と自制を試みましたが、代わりに再開した『だんじょん商店会』2周目で、いいところまでノーセーブで進めていたところ、虎の子の最強武器「光線銃」をゴミアイテムに変えられて反射的にリセットスイッチに手が伸び、そのことや失った数時間に悲しくなってゲーム機から離れ、再読にふけるのだった。
 ほんと意地悪だなあ、もう!


11/3(金)

 『だんじょん商店会』は、最後のイベントをともにとオファーを受けた全4グループ分をクリア。
 ……と、残っているグループのほうがまだずっと多い。これは再スタートしよう。痛恨なことに、魔法使いグループからは誘いが来なかったのだ。こちらが寄せていた思いは、どうやら片思いだったようです。

 ところで、各グループに即したエンディングがあるということは、どのグループにも加担せず、一人でクリアするのも一つのあり方ということになる。
 これまで単独でダンジョンに乗り込もうとすると、決まって見とがめられ注意を受けていた。そういう準備があるのだから、一人で乗り込むことへの対応もできているのだろう。
 そう思い、これまでのパワーレベリングで魔女らしからぬ実力を誇り、最下層の敵さえ一蹴できるほど強くなっていたこともあって、何とかなるのではないかと、軽い気持ちでソロプレイ。
 思惑通り目的地までスムーズにたどりつき、しかしそこでコテンパンにのされて帰ってきました。

 天狗の鼻を折られたことで改心し、より一層の修行に励むとともに、決戦のお供にするアイテムを厳選。
 それから挑戦すること3度、これまでこのゲームで遊んできたのとは異質の非常な苦労の末に、どうにか独力でボスを退治することができました。
 互いに死力を尽くしての戦闘、こちらの手持ちアイテムも底をつき、また負けを覚悟したところで、やっこさんMP切れという失態。
 毎ターン口をぱくぱくさせて無力な魔王に、ここぞとばかり「光線銃」を叩き込む魔女。そんな戦いのイメージを思い浮かべると、何でもありのライトぶりに笑みがこぼれます。

 貴重品も含めてアイテムを引き継いで始める2周目はゲーム進行のテンポも上がり、シナリオを味わうのに重点が置かれるでしょう。また楽しみです。
 そして今度こそ、魔法使い組の行く末をこの目で確認したい。
 しかし、そんな万能感から来る使命に燃える一方で、戦いの専門家達に保護されつつアイテムや「交渉」で援助するタイプの戦闘シーンも見たいと、二兎を追う気持ちが高まるのも事実なのです。
 例えばフライパンを持たせれば加熱部を有効利用して敵に殴りかかれてしまう、それを道具の扱いに長けていると言ってもいいけれど、屈強な男どもを差しおいて、それを持って戦いの矢面に立ってしまう主人公の図には違和感がある。
 サポート専門家の役をうまいこと演じられないものだろうか。パーティーの最後尾につきたいものだなあ。これが主人公の性というものか。



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