ゲーム+α日記(2007年4月)

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4/28(土)

 ということで、主人公の過去を知っている幼なじみ以外のキャラ・近衛素奈緒(すなお)で『つよきす』4ルート目をクリア。
 しかし特段、予想したような暴露話は語られなかった。彼が以前と今とで性格が大きく変わったわけではなく、同じ人が過去から現在へと続く中で起こしたエピソードというところ。
 そう語られてみれば、それはそれで納得できる気もしました。人はそう簡単には変わるまい。

 ところで、素奈緒ルートでシナリオの中身よりも気になったのは、他ルートと明らかに違うBGMの使われ方。シーンごとで音楽が変わらず、日をまたいでも同じ曲が続けて流れっぱなし。これは手抜きだと思わざるを得ません。
 デモムービーでこのキャラには「NEW!」とかついてます。そんなものがあっても、本編で気にすることがなければ、わざわざ触れなくてもいい、よって触れない。そういうつもりで、このゲームに限らずいつでも受け取っているし、この日記でもほかでも、わざと「そんなものは存在しない」ように書くようにしています。ゲームを遊んでいるだけでは気にしようがないはずのところをわざわざ気にするのもおかしな話だから。
 でも、ここだけパーツの組み方がぞんざいだと、気にならずにはいられない。例えば、他のルートは移植前のPC版と曲の切りかたを同じようにして、PS2版で新しく加わったために手本がないこのルートは気ままに組み立てた、その結果がこれだった、とか?
 それが疑問で、シナリオもあんまり記憶に残っていません。唯一、学内一の権力者である「姫」と正面切ってやり合った素奈緒は勇ましくて印象的だった。

 そこで、引き続き「姫」ことお嬢様生徒会長・霧夜エリカルートへも進み、これをクリア。
 主人公の幼なじみたちも言っていたように、主人公と彼女とは身分でも人気でも釣り合いが取れなさすぎる。わがままで気まぐれな第三者として関わるのは楽しくても、ゲームを進めるほどに攻略対象とは見なせなくなっていきました。
 そこを支えたのが、主人公が憧れているという初期設定。これがなければとりつく島がないという点で、この設定は必要だったと思えます。
 正直、気分屋に振り落とされないようにくっついていくこのルートにはそれほどの魅力を感じませんでした。

 だから、このルートが2人セットになっていることが理解できるのです。
 エリカと一心同体のように進み、終盤で分岐するもう一人のヒロイン・同級生の佐藤良美。これによってエリカの強さが際立つようになっており、こちらで輝くようではエリカはやはり恋愛ゲームのヒロインの器ではないと再認識するのでした。
 それにしても、手のひらを二度返した後の展開の苦さと来たらどうだ。誰にでも優しいことの裏返しとしてのこの「サガ」というのは特に珍しくはないと思うのだけれど、こう強烈に叩きつけられると後が恐くて仕方がない。
 いや、その「後」を散々、そうなるように主人公を導いた罰として見せつけられるかと思っていたので、ばさっと切られたのはまた予想外でした。良美にとっては予告で終わってしまっては無念の極みだろう。もしかしたらPC版ではそういうエグいシーンが続いたりするんだろうか。
 あと、これを見ると思い出すのが、きぬルート中盤で主人公がきぬに取った態度のことだった。同じ構図だ。あれがどれほどひどい所行だったのか、改めて思い知らされます。主人公はきぬの一途さに感謝しなくてはならない。


4/25(水)

 『つよきす』オープニング後のキャラ選択シーンでは、これまで毎回同一人物ひとすじに歩んできましたが、浮気したらどうなるのか試してみました。
 きぬとなごみを行ったり来たり。これでさぞ緊迫した戦いに巻き込まれることと、おののきながら先へ進めましたが、到達したのは何ともそっけない「サブキャラエンド」。
 どうにも拍子抜けです。メンバーごとの組み合わせたるやそれは大変な数であり、そのいちいちに対応する何かが待っていたらどうしようと、恐れつつ楽しみにしていたのに。

 これまでクリアした3人の間で何度か試してみたところ、合計4度の選択機会で3回同一人物を指名すれば個別ルートに進み、そうでなければ「サブキャラエンド」行きとなるようだ。
 組み合わせのほとんどが重複ということか。何たる無駄……
 いや、この回りくどい措置は、ニュートラルな位置からほんの出来心程度では特定の誰かの元へは進まないように、念には念を入れよというメッセージなのかも知れません。求めるならば三度呼べということか。
 このシステムからそんなブレーキが思い浮かぶくらい、主人公・対馬レオは中立であるように常々心がけているのだと、折に触れて語られます。そろそろその理由を明かしてもらいたくなってきました。そして、そのように日々を過ごしているにもかかわらず、主人公を囲む仲良し組が、メンバー一のしっかり者スバルではなく、主人公の名を冠して「対馬ファミリー」と呼ばれているわけも。
 説明書のキャラ紹介から予想するなら、その秘密は彼女が握っているのだろうか。


4/22(日)

 『つよきす』なごみルート終了。
 これは悲しい。中盤までのなごみを返せ。声まで変わっちゃって、もう見ていられません。

 乙女さんもきぬも、主人公とくっつく前後を問わず、当人であり続けたように思う。主人公への好意がはっきりと見えるようになってくるのが追加された状態で話が展開していったから、納得して見ていられたのだ。
 しかしなごみは違う。あのときのなごみは消えてしまった。自分が消したのだ。それはいいことだったのか。
 二人はもちろん、周囲も全体的に幸せ方面へ進んでいくようだから、良い悪いで言えば良いことだったのだろう。それでも、消してしまったことは事実として残る。それを自分は、後味の悪いものとして感じるのでした。

 ところで、このあたりで復習をと、オープニングに至る前の共通ルートを読み返してみたのだけれど、これまでの各ルートで不変の設定が、さりげなくしかしきちんと現れていることに改めて感心します。
 主人公のよくできた方の男友達・スバル。彼は、登場人物勢揃いとなった生徒会執行部のメンバーが主人公にとってよりどりみどりだ、みたいなことを言います。しかし、それは「メンバー全員」を指してはいませんでした。読み返して初めて気づいた。
 そしてもし、注意深い自分がエンディングを迎える以前にこの台詞に気づいていたとしても、別の意味に取ったことでしょう。そこがまたうまい。また、そんな細やかに気を使えるほどお前は、と、スバルの控えめさを切なく感じます。


4/19(木)

 それにしても驚くべきは『つよきす』における蟹沢きぬの破壊力だ。
 その威力に負けた自分は、なごみルートを中断して最前クリアしたシナリオに立ち返り、印象的なシーンを吟味している始末なのです。
 それは例えばどうあがいても「非情な現実」に直面せざるを得ないポルナレフ的3択であり(←分かるネタがあって良かったね)、紆余曲折(別名:主人公の独り相撲)の末にようやく落ち着くところへ落ち着いた際のきぬの安らかな笑顔であり、カップリングの後に再三再四投げかけられる、聞くものを照れさせずにはおれない直球な物言いであり……
 主人公は相方として、直接この攻撃を受け止めなければならない。堕落したとしても、これではやむを得ません。

 そんなシーンを辿り返したりしているうちに、いつしか自分がこの娘のことを「カニ」と呼びたくなっていることに気づきました。
 「カニ」は、自身の名前を好まないきぬが妥協の産物として認めているふうのあだ名であり、ゲーム中では近しい多くの人々が彼女をそのように、あるいは多少変形させて呼びます。そして、彼女の好みがそのようであることの裏返しとして、ゲーム中での「きぬ」という呼ばれ方は特別な意味を持っています。「名前を呼ぶこと」の特別さは、まあギャルゲーでは一般的なことであるとは言えるにしても。
 それに対して、自分がこれまで彼女を「きぬ」と表してきたのは、ゲーム内の登場人物の一人として独立に扱おうという意識からでした。その意識は、このゲームに限らず一貫して持つようにしている原則です。
 ここで、「乙女さん」という例外が近場でさっそく見つかりますが、これは「乙女」が一般名詞と重なっていて紛らわしいというのと、あの人が強くて呼び捨てが恐れ多いからかな(←原則の系統化はあまりなされていない様子)。

 自分が彼女を「カニ」と呼びたいと思っているのなら、それは彼女をとりまく輪の中に自分もいたいと思っているということなのでしょう。画面を隔てて、世界を隔てて、それは決して叶わぬことであるにもかかわらず。
 そういう気持ちはどう定義されているんだったっけ? それこそが「萌え」というものではないのか?


4/16(月)

 とは言いながら引き続き『つよきす』3ルート目に向かってプレイを進めていますが、これは特別気が滅入ったからではありません。ただ遊びたかっただけなんです。蟹沢きぬ、ヤツの口の悪さが自分を引き寄せるのです。
 ……いや、本心を隠して言い張るってのはなかなか難しいものだ。みんなよくやるものだなあ。

 さて、3人目は孤高の下級生・椰子なごみを目指します。彼女は件のきぬと格段にそりが合わないため、よくその特性を引き出してくれるに違いないと踏んでの選択でした。
 オープニング直後から3回程度行われるキャラ選択場面、そこで少なくとも全て同一人物を取ればルート確定、という方針は味気なくて興が殺がれるけれど、こういう目当てにとっては都合がいい。味気なさのたまものです。
 そして目論見通り、中盤まで進んだ今のところはそれを大いに喜んでいます。
 もちろん、なごみの持ち味もきぬによって引き出されるのだった。多人数を組み合わせての波状攻撃がこのゲームは本当にうまい。次は誰を隠し球に使ってくるのだろう。読んでいて楽しみで仕方ありません。


4/14(土)

 今日も引き続き『つよきす』に精を出し、プレイ開始直後から中心人物視していた、ちびっこ幼馴染にして不遇命名娘・蟹沢きぬルートをクリアしたのだけれど、遊んでいる最中に笑いはいつしか視界の滲みに取って代わられていて……
 な、泣いてない! 泣いてないもんね!

 もしも悲しさとか嬉しさとか、単一で呼べる感情に導かれて涙を流すのを「泣く」と呼ぶのなら、自分は確かに泣いてなどいないのでした。
 この涙は、一つの感情に代表されている気がしない。熱かったり切なかったり、おかしかったり苦かったり、さらには正体不明なものまで、いろんなものがいろんな配合比で混ざり合って、その合計が一定量を超えたとき、涙となって出てくるのだと思います。
 ちなみに、自分はその一定量の閾値が低い。普段ほかの人の話を我がことのように受け取らず、感情が動くのに慣れていないのが原因ではないかと思います。ヘッドホンなんかつけて、しっかり話を追おうと努力すると、感情は簡単に侵食されてしまう。

 厄介なことに、本人がどういう気持ちで涙を浮かべているか、外から見て分かるわけじゃありません。なに泣いちゃってるの、てなもんです。だから断りを入れることになる。
 自分にとってそういう事情があるように、バカにされて悔しいとかほっぺたつままれて痛いとかはきぬにとって「泣く」のと結びつくものではなくて、だから「泣いてない」って叫ぶのではないか。
 彼女の言葉遣いの汚さや声の大きさにかかると、その言葉は強がりにしか聞こえなくて、しかもそれがしょっちゅうあるもんだから、よけいおかしくなる。でも、きぬにだって、「泣く」のに対応する感情はきっとあることでしょう。

 ときに、きぬ単品ももちろん相当に悪くないのだけれど、このゲームの良さははっきりと団体パワーにあるから、誰のルートと区別するのがあまり意味がないように思えてくる。
 そして、シナリオを2本読み終えて気分が改善された今、同質の楽しみが残されているなら、これ以降の感情揺さぶりマッサージは、次に落ち込んだときに取っておいてもいいような気がしてきました。
 まあ、明日落ち込んでいないとは誰にも予想できないのだし、むしろこの続きが遊べるのなら進んで落ち込んでいきたい気もしますが(ゲーム遊ぶのにそこまで理由が欲しいか)。


4/13(金)

 このところ、参っていた。
 未来を見据えない結果として強がりにも楽天的にも聞こえるいつもの形で言えば、「少なくとも今の」自分は駄目であって参っていた。
 そして、このところ取り組んでいた撃ち合いゲームでは沈んだ気持ちは発散されなかった。
 いや、最初から現実に役立たせるつもりで臨むのがいけないのだろう。ゲームは面白かった。でも今の気分にはもっとふさわしいものがあると感じた。
 始終愉快でいられて、なおかつ手軽な読み物ゲームに、それはあった。

 出てすぐ押さえながら積んでいたPS2廉価版『つよきす』が、ここで大登場。この現状で思い出せた自分を偉いと、遊んでしみじみ思いました。
 導入からちびっこ幼馴染のいちいちものすごい毒舌にしびれ、彼女の台詞聞きたさにどんどん先へ進めます。他のメンバーも個性的にも程があると感心しきり、あっという間に4時間経過。
 そこでおもむろにオープニングっぽいものが流れたのにまたびっくりです。何だこのボリュームは。

 もっとも、そこから一旦は場所(キャラ)選択式になり、選んだキャラ中心の展開となる。それにより登場キャラの数が絞られ、話の牽引力も薄まったのでした。
 きっぱり区切られてこれはどうしたものかと、遊び続けるかどうか考えもするほどその落差は急に感じられ、大人数でにぎやかなのは重要だと思い知りました。
 しかしそこから盛り返すのだから大したものだ。結局、世話焼き同居いとこの乙女さんルートへ落ち着きましたが、イベントやら意外なキャラの絡みやらで、プレイした自分が何より予想外のノンストップクリアでした。
 それにしても乙女さんの名字が鉄(くろがね)で雷嫌いというのは身もふたもないと思った。彼女に限らず、姓名の遊びっぷりもまた楽しい。

 遊び終えて我が身を振り返れば、問題先送り感を漂わせながらも気分が晴れている。笑いの力は偉大であります。良かった良かった。
 ……立場のかぶる作中のキャラが思い出されました。うーむ。


4/11(水)

 こうして3D撃ち合いゲームに対応できたつもりで、Xboxでは最も名の売れたソフトだしいつかは取り組みたいと思っていた『HALO』に満を持して飛び込んでみたところ、案に相違してひどく目の回る思いをしました。
 これはどうしたことだ。平気なはずじゃなかったのか。床に突っ伏して数十分、どうにか気分を回復してから、しばし考えます。このまま撤退ではあまりに悔しい。『地球防衛軍2』と『HALO』では何が違うのだろう。

 『地球防衛軍2』は、操作キャラの姿が画面に映る三人称シューティングだった。一方、『HALO』では本人の姿は画面上にない。この一人称シューティングでは、構えた銃が表示されるが、これは選んでいる武器の種類を知らせるためのもので、自キャラの位置表示には頓着していないはずだ。
 前者では、主人公を含んでエリア全体が動くせいか、移動の際の景色の動きが比較的緩やかだった。『地球防衛軍2』の主人公の動きは他の同ジャンルのゲームに比べてとろいのかもしれないが、少なくとも景色が流れることで視野が脅かされはしなかった。一方後者では、すぐ横の壁が急速に迫ってくる。焦点を予想外のところに結ばされる。目の前にあるものの動く速さとしてそれは正しいのだろうけれど、そう認識していなければこの速さは不意打ちに映る。
 それから、前者では武器の照準を動かす。そのとき、照準が画面の中央にあるおかげで、画面も一緒に動く。これは撃ちまくるゲームだから、撃つことを主にすればいい。それに対して後者では、動くのは視野の方だ。建物や洞窟の中を進むとき、経路を探すために見回すのが主体になることがある。照準はたまたま視野の中央にあって、視界とともに動く。
 二つの違いは、自分が何を動かしていると捉えているかによっている。そしてそれが恐らく、二つのゲームが目指すところの違いでもある。五感で接するものだけに、狙いのずれがショックにつながることもあるのではないだろうか。

 基本的な対策として、ゆっくり移動することにしました。レバーを倒す傾きを小さくすれば、景色の動きも緩やかだ。歩くような速さで移動していることになるため、敵の攻撃は避けにくくなるかも知れないが、主人公が自分の妨害をするよりはマシだ。
 また、頑張って言い聞かせもしました。今回、自分は操作によって辺りを見回すのだと。だから、この間のように狙い撃ちする方向にではなく、見たいと思う方向にレバーを倒すのだと。
 そんな、『地球防衛軍2』では必要なかった努力が功を奏したのか、それ以降のプレイでは酔いは減っていきました。
 途中、真っ暗な洞窟をライトをつけつつ歩き回るステージがあり、そこでは暗いやら迷うやらで本格的に気分が悪くなったものの、どうにかそこを抜けたときに安心とともに気分が落ち着いてきたのには我ながらびっくりした次第。視野を操作する立場のまま、ゲーム内の揺らぎない平地を平地と認識できている!

 これに勢いを得て、そのまま2日間かけてエンディングまで突っ走る。慣れてからは移動も通常速度で問題なく、撃って飛んでの大活躍。
 いやあよくやった。これはまた一歩、大きな進歩を遂げたと言えるのではないか? この調子で鍛錬を重ねていけば、いずれ『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』にも復帰できるのではないか?(←目標はそこか)
 あ、ゲームは面白かったというより、これを足がかりにして他のタイトルを見る基準を身に修めていく、そんな気分で遊んでいました。これが偉大か案外ふつうなのか、どちらにせよ、今後じわじわとそう思えてくるのでしょう。それが正直なところです。


4/9(月)

 このところひたひたと高解像度ゲームへの興味が訪れつつあり、ややもすればXbox360のあれやこれやに目移りしがち。
 この調子ならいずれ遊ぶようになるだろう。そうなれば現状より一段上の画像環境をも求めることになるだろう。そうして得た新たな境遇には後戻りできない魅力があるというのはよく聞くところだ。
 だからこそ、今できる遊びを楽しんでおかなければなるまい。帰ってこないなら、ここにいるうちに、知られたものも知る人ぞ知るものも。

 そう思ってまず、『地球防衛軍2』を遊んでみました。
 襲いかかる虫状や円盤型や怪獣様の敵たちを、火器を換え走り回りながら撃ちのめす三人称シューティングです。
 全滅させたらステージクリアというルールと弾切れがないという大らかさは、このタイプにあまり馴染んでない身には間口が広くて好ましい。
 一方、難易度別で細かく達成率が分けられていること、および武器は敵が落とし強力なものは低確率でしか手に入らないことは、どれだけ長い時間遊ばせることを考えているかが現れているようで、こちらからは有り難いと思いつつも距離を置きました。一度全ステージを通しプレイして達成率20%くらい、それが主役2人でさらに倍と来れば、いいやもう芋粥の心境。

 武器の威力・射程・再充填間隔・爆発範囲などの組み合わせできちんと遊び方が変わるのだと、そこが二番目に感心したし楽しんだところでもありました。
 そして一番は、これだけ上下左右に視点を動かしても全く酔わなかったところ。これは本当に偉大です。この先、他のゲームに苦手意識を持たずに臨めることに大いに感謝したい。


4/5(木)

 ゲームして、あるいはゲームのことを思って、それを文章にして、というサイクルを、他のいろいろと平行して進める気になれず、しばらく寝かせてみました。
 何も書かなければ言葉が溜まっていって、やがてそれはどこへ行くのだろう、と興味はありましたが、何も起きなかった。どこへというならどこかへ消えてしまった。
 しょせんその程度だった自分が残念です。

 現状からどうやって復帰していこうかと迷いながら、さしあたり最近のゲームでは『オーディンスフィア』との区別が付かないから調べてみようと『グリムグリモア』の紹介記事を見ていったところ、何の前触れもなしに「拙僧」を一人称に使っていた記事に出くわした。
 物語の設定を参照すれば、『プリズマティカリゼーション』(もう廉価版のでいいや)を介して読み手を信頼しすぎたその表現を使いたいのが頷けもして、総じて狙い撃ちされた気分だったので、購入を決意した次第です。
 本命は『オーディンスフィア』の方だったんだがなあ。リアルタイムシミュレーションって苦手なんだがなあ。説明を読んでも頭に入ってこないんだがなあ(それは当方の理解力の問題)。あと主人公の彼女は「覚えている」らしいんだがなあ。
 懸念は山積。でも、まいいさ、縁は大切にしよう。



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