ゲーム+α日記(2008年7月)

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7/27(日)

 結局『スタントマン★イグニッション』のコンストラクトモードもきちんと遊びました。そして、自分の興味深い傾向を見つけられる収穫があったのです。
 いかに簡単にクリアできるようにスタントのセットを組むか、が焦点になるこのモードなのに、配置に頭を悩ますのはそこそこにして、わずかでも突破できる可能性を見出した時点で、それを実現するための反復作業に入る。それが自分のスタイルであることを再認識しました。
 ついでに、そういう遊び方にぴったりだったのがこの『スタントマン★イグニッション』だった、相性がばっちりだった、そういう次第でもあります。
 我ながらあまり賢いプレイスタイルではないと思うけれど、そうやって遊んで楽しいゲームは確実に存在するのだからいいじゃないか(←ゲームによって使い分けられればなお良いですね)。

 自家製ステージに取り組んで、「なんて難しいんだ、こんな意地悪を仕掛けたのは誰だ!」と思いかけて、「誰でもない」ことに気が付くのが面白かった。
 深い考えなしに置いたのだから、意地悪いのは自分ですらないのです。本当に誰でもない。適当に配置しておけば、苦労が実演の部に引き継がれるものの、そういう難しいステージだと解釈してそれなりに遊べる。一方おそらく、プレイしやすさを重視する配置には思慮が求められる。骨組みがきれいだと後がすんなり通るものです。問題はいつ苦労するかで、自分のやり方は効率が悪いが作業した充実感が味わえる風下側。
 そういう非効率さで充実感が得られるのであれば、自分一人に限定すれば幸せなのかも知れません。おめでたいとも言えるか。あと、自覚のない悪意が最もたちが悪いとも。ああ……(泥沼に落ち込む)

 プレイの動機に占める実績の割合が極めて低いという点でもリトライ時の軽い動きでもXbox360版らしからぬ、しかし迫力は高解像度対応を謳うに十分なゲームでした。もっとも、実績に関しては、ゲーム内に独自の勲章制度を設けていて、数ある勲章の一部が実績を兼ねているという作りなので、よりそう感じるのかも知れません。
 実績にゲームプレイ時間とか総プレイ回数とかの縛りがないのが好ましかった。ゲームプレイ寿命の延命策としてはうまいものではないし、純粋にご褒美だとしたら、そのようにすんなり納得できる区切り時間ラインの見極めはかなり難しいことでしょう。
 実績でも触れない方がいい領域、本当の自己満足の範囲が、確かにあるのだと思います。
 『スタントマン★イグニッション』から話が逸れたところで、ちょうどプレイも一段落、ということになりそう。いや実によく遊んだ。


7/26(土)

 『スタントマン★イグニッション』のパズル的なモード、すなわち制限時間内で指示されたスタントをこなしつつも点を稼ぐことを主体にした「コンストラクトモード」を遊んで分かったことは、このゲームでは「撮影」のコンセプトがとても重要だったということでした。
 本編と「コンストラクトモード」の目的は表現を変えているだけで、「撮影」が絡もうが絡むまいが同じことをしているのに、やる気がまるで違う。面白がらせ方が段違いだ。ゲームの骨格は共通であっても、肉付けがこんなに大きなモチベーションの違いになることを、改めて思い知りました。
 そして、映画(の一部)が初めて完成したときの喜びを再び味わうことはできない。興奮できて引き際も鮮やか、さっぱりして密度の濃い、良いゲームでした。

 だから、オン対戦があって、そこに実績が設定されているのは、このゲームに関しては蛇足に感じました。
 実績は動機になるけれど、他のゲームと共通の動機はこのゲームにはもったいない気がしたから。とはいいながらもやるのですが(実績調教済み)。
 スタントの連続でニトロチャージですっ飛ばすというオン独自のルールはゴールに向けた加速装置になるけれど、このゲームはオン対戦でさえ、最速ゴールが必ずしも勝者にはならなくて(なるモードもあるけれど)、機能にまぎれというか迷いというかが生じている様子。
 速くゴールしたのにスタントの総得点で負けるのは納得できないだろうなあ(←スタント重視でいつもじっくり走るために、スピード勝負ではかなわないのが無念)。


7/21(月)

 『スタントマン★イグニッション』をむさぼるようにプレイし、映画とCMの全撮影を最高ランクに。
 面白かった! 堪能しました。

 1つのステージは1〜2分しかないけれど、コースのそこら中に課題やら障害物やらが詰め込まれているので、一通り覚えて対応するには十分すぎる長さ。
 スタントの隙間がないよう、標識を見つければ近寄ってニアミスボーナスを狙い、箱と壁の間を狙って通り、近くに何もなければドリフトか、バイクのときならウイリーもすかさず使い、バック走行を指示されてテンポが狂って慌てるも近くに停めてある車を見つけて救済策に安堵しながら接近する、その繰り返しでした。
 時間を惜しんでスタントを圧縮し、コースとともに展開していくプレイ感覚で思い出していたのが
『レイディアントシルバーガン』。さっくり敵を倒すなんてもったいなくて、じりじりと弱い武器を当てて通算照射時間によるボーナス点を得たり、広角かつ左右対称に出るショットを外さずに当てるための位置取りを探したり、すぐ倒さなくていいなら近づいて少しでもかすり点を稼いだり。このゲームの遊び方は、『シルバーガン』のそういう仕込みぶりと共通するものでした。
 ただし解に広がりがあるので、『スタントマン★イグニッション』の方が緩く遊べるという印象。あと、一部重なることではあるけれど、シューティングでのスクロール速度に当たる運転速度が変えられるのがいい方向に働いている。このシステムの自然さは、運転ものならではでしょう。
 それでも何ヶ所か絶望しかかった面はありましたが。よりによってスタントデビュー作(の最後のステージ)が全編通じて最難関とはどういうつもりだ?(←長いステージのため集中力が続かなかった様子、といってもせいぜい2分)

 ときに、ゲームの内容には大変満足していますが、このゲームの「映画としては一部分、でもゲームとしてはそれが全て」という設定にも興味がそそられます。
 「映画みたいなゲーム」なんて言葉と比べて、こちらの方がずっとしたたかだと思えるのです。映画とゲームを同じ素材で作ってしまおうというのが表の道だとしたら、映画に奉仕するような立場を取るようでいて、実は映画の大きさを味方にしてしまっている、そんなひねりが入ったこのゲームが好きです。
 撮り終えたスタントを使って流されるその映画の予告編の味わいは、また格別。映画としての続編さえ登場するという遊びっぷり。そんな映画、存在しないというのに!
 このゲームはシリーズものだったよな。設定が引き継がれているのか、調べてみよう。今回出てきたその続編の映画の前作が、ゲームの前作に出てきたりしていないかな?


7/19(土)

 なんでこう厳しいゲームばかり選んでしまうんだろう、すっきり爽快に遊べるゲームを選ぼう、充実しすぎて在庫分だけでも飽和気味な車ゲームの中からでも。
 そんな思いで
『スタントマン★イグニッション』を選びました。
 パッケージの背中にも輝くタイトル中央の星は、白なのか黒なのか。この日記のように黒地に白抜きで中が埋まっているのでフォントとしては黒扱いなんだろうけれども、ゲームのできは堂々の白星であります。期待度に対しては、むしろ金か。
 スリルあふれる運転をするほど高得点なゲーム、楽しい!

 ……という感想が持てるまで、ある程度のプレイ時間が必要でした。具体的には最初のスタントを一通り当たるまで。
 その原因が「ドリフトの出し方が分からなかったから」というのが情けないところではあります。しかし己の情けなさを脇に置けば、ドリフトはできなければスコアどころかクリアもままならない重要テクニック、それがたまにしか出ないのであればストレスが溜まっても不思議はない。
 説明書を何度も読み返して、ゲームの説明画面もじっと見て、それまで使ったことのなかった「サイドブレーキ」があることに気づけて本当に良かった(ボタンが専用に割り振られている基本操作を見落とし)。

 車を操るのにレースゲームではない。これはコース内でいかにいろいろできるかを追求するアクションゲーム。
 映画撮影を舞台に、スタントが必要なシーンを切り出しているという見立てで、短くもスコアの素が詰まったステージ内を、できるだけ派手に切り抜けていきます。
 左右へのドリフト、ジャンプ、ターンなど、演出上必須ということで指示されるスタントの他に、ガードレールや障害物に接近したり、狭い隙間を選んで抜けてみたりの挑戦を、プレイヤーはできる範囲で追加。
 最初から最後まで矢継ぎ早に、ミスなくスタントを繰り出せたなら、累計で計算されるスコアに監督も大興奮、迫力のシーンが撮影完了、というゲームです。

 設定と切り出し方がうまく、制限時間内にアクションを詰め込めるほど偉いというシステムが楽しく、すぐ終わるのに延々スコアアタックを繰り返したくなるテンポの良さがうれしく、B級C級っぽいノリの現場ぶりが面白い(吹き替えもきちんと日本語)。
 これが楽しめるようになれてよかった。さて、またひと頑張りするか(ひとつ程度ではとても終わらない)。


7/13(日)

 『旋光の輪舞 Rev.X』で己の不甲斐なさから連戦連敗、無常感の虜となりながらプレイを切り上げてXbox360内の新作情報を漁っていたら、Live Arcadeに『Schizoid』なるタイトルを見つけた。
 そういう思わせぶりな名前をつけるとタイトル買いしたくなるから、いいぞもっとやれ(たまらんなあという顔をしつつ)。
 しかし紹介サイトは早く作るように。ネットワーク限定のゲームなのに、ネット上で参照できない(本日時点)というのが信じられない。

 『Schizoid』は、2色の自機を操って、それぞれ違う色の敵から逃げながら同じ色の敵を体当たりで倒していき、敵の殲滅を目指すゲーム。
 
『斑鳩』の2人プレイでショットと敵機と色チェンジがないようなゲームです。
 『斑鳩』で弾を撃たずにステージクリアした際にクリア画面に出るように、的が動きはしてもこの『Schizoid』はドットイートゲームといえましょう。
 まだこのタイプのゲームが出るのだなあ、と感心しかけて、しかし『斑鳩』の切り出しであれば先輩の偉大さを再認識するのが先か、とも思い直しました。
 でも感心もするのですよ。再解釈はゲーム作りの立派な動機だと思います。

 自機は必ず2機いるため、どちらかだけの操作に集中したいなら、相方はコンピュータかネット上の誰かかになります。
 しかし気合いが入るのは、2本のスティックでどちらも自分で動かす「スーパーSchizoidモード」。互いを近くに寄せて動かしていれば注意は行き届くのですが、たまにどうしようもなく制御不能になることがあります。
 面白いことに、左右だけでなく上下の操作まで逆に入力していることがあるのです。左右の手で動かす自機が入れ替わって認識されるなら、逆になるのは左右だけとなる気がするのに。

 2機を完璧に操るために、どのような補助案が必要なのだろう。真上からの見下ろし視点のゲームだから、2機は実は別の階層にいると仮定して、階層を貫く敵を相手にそれぞれの層を移動する、とかになるのだろうか。
 そういう特殊さなしに、ごく自然に2機を操れるようになったとしたら、脳の回路が少し変わっている気がして、何となく恐ろしい。
 そういえば、やはり2機を同時に操って、経路で囲いを作る昔のゲーム『リブルラブル』も、満足なプレイはできなかった。こっちをマスターしたら、あるいは『リブルラブル』も上達しているかも知れません。


7/7(月)

 『コール・オブ・ファレス』プレイ中に辛くなり、遊んでいなかった他のゲームに逃避 → 昨年末のXboxLive接続不良騒ぎのお詫びに無料配布されたのを受け取ったまま放置していた『Undertow』を見つける → 日本語文がおかしいのはともかく、この全方位潜水シューティングが意外に面白く、ついついクリアまで遊ぶ → 全方位シューティングでこちらも思い出す

 という流れで、現在は『旋光の輪舞 Rev.X』を遊んでいるところです。

 しかし、これほど訳の分からない戦いの場に放り込まれるとは思っていなかった。
 単独攻撃でも山ほどの弾が射出されるのに、それぞれ性質の異なる何種類もの攻撃を複合される。避ける方も、移動が遅すぎてそれだけではかわし切れないため、ダッシュ・バリア・回避攻撃など、それぞれ別のボタンを使って対策する。
 1対1の対戦は上下左右が常に入れ替わり、なんか勝ちポーズを取っていたと思ったらそれは敵の姿だったりする。
 ボスの攻撃は激しく、当たらずにいられるかではなく、どれだけライフを削られないかに神経を注ぐ。

 コンピューター相手ならどんなにこちらがビギナーでも気兼ねしないけれど、そんなてんやわんやな状態で受けて立ってもらえるネット越しの皆さまには本当に申し訳ない。
 今さらの初心者なら100連敗くらいまで十分あり得るだろうとあらかじめ覚悟はしていたものの、みんなが交わしている会話に一人加われないきつさは、そろそろ無邪気なレバガチャプレイのベールを侵食してきています。
 このところのシューティングで常におもてなし設定のぬるま湯に慣れきったこの身に、勝ちと楽しさが不可分な世界へ立ち入る資格が持てるのか?(←『コール・オブ・ファレス』対戦プレイでの収穫を早くも失いつつある様子)


7/6(日)

 なんのかんのと文句は言いつつも、触れておかなければ手落ちになるのと、何より自分自身が驚いているのとから付記すると、『コール・オブ・ファレス』の対戦プレイが楽しく遊べたのでした。
 これまでのFPS・TPSでは参加即ほうほうの体で退出、ないしはそもそも遊ぶ気にもなれなかったというのに。いったいどうしたことか。

 これは言うまでもないことかと思いますが、今回も成績は惨憺たるものであり、1人倒すまでに10回やられるなんてのは当然でした。
 ただ、見晴らしの良い空き地を勇気を出して駆け抜けてみたら、見つかって背中から銃声はしたものの、横切って建物に隠れるまでに怪我程度で済んだことがあり、また、高台に向かって走っていく一人を見つけて追いかけていったら、気づかれずに後ろから近づくことができたことがあり、などの事例から、「相手も隙が全くないわけではなく、自分と同じように遊んでいるのだ」という感覚がなんとなく伝わってきたことは、ポイントかも知れません。隙の大きさに大小の差はあるだろうけれども。
 自分一人が理不尽にやっつけられているわけではない。また、自分がやってみたことはある程度有効である。つまり、自分にもできるのだ。どれだけの努力が必要かはともかく、不可能ではない。
 そのことを実感できたのが大きいのではないかと思いました。

 それにはやはりルールを知らなければならない。ルールは遊び始めてすぐ知れるものでも、身に付くものでもない。
 まして自分は撃ち合いの経験が浅く、ジャンル共通の約束にも疎かった。そのうちの一つは、「銃声(や発砲を示す光、煙)がしたらその方向に敵がいる」なんじゃないか。こんな、文章にしてみれば当然すぎることが、分かっていなかった。
 こういうことがまだいくつもあるんだろう。でも、一歩一歩先へ進んでいけるんじゃないかと、今は思える。
 あとは、死ぬことに慣れたせいもあるのかもしれません。死の演出もそんなにくどくないし、すぐ復活すればいいや、と命の重さがかぎりなく薄い。以前のもっともらしい言い訳の時点から、進歩はしているようです。生死(勝敗)と楽しみを切り分けて解釈できるのは、ゲームを遊ぶ上で重要な(都合の良い)能力ですね。

 他には、銃が致命的に強くなく「飛び道具の一種」的な感覚がある、西部という舞台設定がいい、とか、単純に画質がいいと嬉しいとか、マイナーなゲームを複数遊んでいるのを自覚するのが楽しいとか、良くも悪くもいくつか理由がありそうです。
 何にしても、楽しめたという記憶を最後に残せたことはよかった。終わりよければ全て良しといいます。対戦は面白くて当たり前という原則も考慮しつつ、ゲームクリアといたしましょうか(←やっぱりあまり褒めていない)。



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