ゲーム+α日記(2012年4月)

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4/28(土)

 体を痛めて、ちょっとキネクトから遠ざからざるを得なくなった。
 そこで、なるべく静かな、動きが激しくなさそうなゲームをという観点で思いついたのが
『キキトリック』。さっそくさわりだけ遊びましたが、いやこれには驚きました。

 言葉のパズルゲームが、意味が成り立てば正解として、意味を知る範囲を各人のルールの習熟度に合わせたのを思い出しましたが、こちらはさらに広い。
 ノイズ混じりの音声が意味を持って聞き取れるかどうか、その聞き取れる範囲を各人のルールの習熟度にしています。
 そういうのって相当に個人的な感覚で、自分の聞こえ方が他人にとっても同じようであるとはにわかに信じがたいのですが、それを信じることからこのゲームは始まった。

 実際には信心の問題ではなくて、科学的な聞こえの調査結果を利用しているのでしょうけれども、それが各人をまたいで普遍性とある程度のばらつきを持ち、ゲームのルールになると捉えたこのゲームの勝ちだ。
 よくこの題材をゲームにしようと思ったものだなあ。コンセプトだけでものすごく満ち足りた気分です。



4/22(日)

 キネクトによる運動の傍ら、『赤い刀 真』もチマチマ続けておりました。
 そして、家庭用で追加されたという「真モード」にて、どうにか真ボスに到達。
 真の字の大盤振る舞いです(←真ボスは勝手に呼んでいるだけ)。

 このゲームの物語設定を、オリジナルモードでは「二人一組のうち一人は魂だけの存在なので、その力を借りているときは一部無敵」という形で防御面で取り入れているのに対して、真モードでは「刀というアイテムが絡んでくるので、刀で特殊攻撃できる」という形で攻撃的に活用しているようです。
 「ようです」は、物語との接続部分にかかっています。システムは実際そうなっている。がらりと違う2つのモードをつなぐのは、ストーリーだと思えます。
 その違いは、オリジナルだと「自機を防御面で強化しているので敵の攻撃も激しくていいだろう → 慣れないうちはあっという間に死亡」、真モードだと「スコアアップを狙って刀による稼ぎを狙うと、スクロール前方に出ざるを得なくなり、死を誘発」と続きます。
 後者の方が圧倒的に遊びやすい。死なないのと死にやすいのを混ぜても、死にやすい方が浮き彫りになってしまう。足して二で割るようには行かないのです。
 だから、真モードの段階的調整がとてもありがたかった。これなら慣れながらリスクを取って、自分のペースで楽しめます。

 それでも、真ボスに出会うために、6面クリアまで死なないという条件を満たすのは厳しかった。
 練習以上の実力が出て5面終了までボム不使用。今回は間違いなく行けるだろうと、両手に爆弾たくさん抱えて鼻歌交じりで6面に進んだら、他に気を取られた一瞬の隙に被弾して全てを失う(全ボムと引き替えに、死が一度だけ自動回避されます)。がっくり来ながらもどうにか進め、道中で1発補給できたなけなしのボムも、6面ボス最初の攻撃を避け間違えてあえなく消費。
 ここからの展開に神が宿りました。狭すぎる弾幕の隙間に、オートエイムでもされているように自機が吸い込まれていく。どうせ最後にボスの体力残りわずかで無念の敗退だろうと半泣きで諦めていたのが、いい開き直りにつながったのでしょう。全部避けた! パターンは把握していたとは言え、目の前の推移が我がこととは思えませんでした。
 真ボス殿からは、たどり着いた苦労を瞬殺でねぎらってもらいましたが、これは想定内、コンティニューごり押しで突破しました。毎日散々凡ミスしてきていたから、たまにはいい目も見せてやろうとの神の思し召しか。とにかく、気がかりが晴れてとてもいい気分です。

 真モードでは、「自機の形態を変えると、ボタン押しっぱなしの攻撃が超強力になるが、形態変更ごとに1回だけ撃てる敵弾相殺攻撃も同じボタン長押しで出てしまうから、攻撃したいと思っても超強力攻撃は出さない方がいい場合がある」ことを学んだのが、攻略の突破口でした。
 ことほどさように、取っつきにくいゲームだった。そして、コツをつかんでからの面白さもかなりのものでした。こんなの説明できません。そして、説明できなければ面白さも伝わりにくいというやむを得ない結果に。
 こういう、けもの道の先の桃源郷みたいなゲームに出くわしたら、どう対処したらいいんだろうか。そもそもこういうことを悩むべきなんだろうか。世の中、分からないことが多いです(←もっと別のことを悩んだ方がいい)。



4/21(土)

 ゲームとというより部屋の狭さとの格闘が記憶に残った『Kinectスポーツ』も、好成績でたまる経験値の累積によるレベルアップという、個人の記録との戦いに移りました。
 すなわち消化試合であり実績の落ち穂拾いであり、面白かった対戦競技を選ぶか、最小単位で更新するよう気をつけてミニゲームをするかといったところ。後者には、世界記録のボーナス目当てに、自己記録に1cmずつ加えて跳んでいた、旧ソ連の棒高跳びの選手の所行を思い出しました。これもまた、スポーツ大会の縮図か。

 ところで、このゲームのタイトルは「キネクトスポーツ」ではないのですね。Kinectスポーツ。Kinectアドベンチャーもそうだった。ローカライズは音声付きまで頑張るマイクロソフトが、最も定着させるべき機器の日本語名を定義しないのか、不思議でなりません。
 もっとも、そもそもXbox360というハード名からしてそうなのだけれど。個別タイトルにしても、面白いパズルゲームの
『Hexic HD』など。
 これだけ一貫しているのは方針なのだろうけれど、これは間違っているとしかいいようがない。読み方に自信を持てない製品が、どうして人々の口に上るだろうか。これじゃいいものも流行りません。

 目についたまずい宣伝の仕方をもう一つ、今回の『Kinectスポーツ』で挙げれば、すべり感はあれども精一杯「ファイヤー」やら「ジャストミート」やらの決めぜりふで盛り上げようとしてくれているこのアナウンサーを前面に押し出さないのはどういう了見か。
 これだけ特徴をアピールしながらそっくりさんか、あるいは匿名を条件にしての出演か、などと疑い、ゲーム内の階層を深く潜ってスタッフクレジットをずっと見ていたら、十把一絡げの扱いで名前が出てきました。

 近年のテレビはほぼ見ない当方でさえ知っているメディア人を起用したんだから、ちゃんとパッケージに書くなりしなければもったいない。ゲームにおける効果は別として、世間に広く周知したいと考えての採用なのだろう? そういう努力は完結させなければ、関わった人が浮かばれないと思います。
 ウルトラクイズ、楽しかったな。旧ソ連といい、またずいぶんな回顧日和です。



4/15(日)

 今年初めてPS3を起動させることができました。
 一度でいいから見てみたいものだと思っていたブルーレイディスクによる映像作品がレンタルに出ていたので、さっそく借りてきた次第。
 
『ファイナルファンタジーVIIアドベントチルドレンコンプリート』です。

 FF7といえば、その昔に体験版をさわって、ムービー推しに当てられてゲームプレイを断念した思い出深いタイトル。
 そのタイトル関連のムービー作品を見る気になるとは、当方の心境も変わったものです。
 いざ見てみて、PS3におけるファイナルファンタジーシリーズの展開がどのように期待されたのか、納得できる気がしました。これだけきれいで丁寧な映像を見せつけられたら、それはこういうものが次も出てくると思ってしまうだろう。
 話がよく分からないのは、私が本編を遊んでいないからかと思いながら、主人公の重力を自在に操るぶりを特に印象に残して見終わりました。

 メニューに戻ったところで、おまけ映像に「早分かりFF7シリーズ」がついていることに気づく。
 少しだけためらいました。これを見ることで、FF7を遊ばずして内容を知ることになる。それを簡単に承諾できないくらいには、まだゲームが好きなのです。
 でも、見てしまった。リメイクでもされない限り遊ばないだろう。
 よくまとまっていました。オリジナル版だけでなく派生作品も「作品ごと」ではなく「時系列ごと」に混ぜて並べることで、世界観全体を伝えようとしていた。
 あのPS1時代にこの基礎がよく作り上げられていたものだと、改めて物量ぶりに感心しました。確かにあのとき、時代は動いていたのだな。



4/14(土)

 やはりキネクトのゲームは広い部屋で遊ぶことが想定されているのだなと、『Kinectスポーツ』を遊んでいて思い知らされました。
 機器同梱の
『Kinectアドベンチャー!』からすでにその兆候はあって、何とか切り抜けてきた。しかし今回の一連の競技で、ついにキネクトタイトルに致命的な問題と正面から向き合う羽目になりました。
 具体的な症状は、ビーチバレーで敵が放つサーブが画面隅を的確に狙い過ぎで取れない、というもの。

 原因は部屋が狭いことにあって、残念なことにこの課題の改善は難しい。
 せめてボールを拾えるようにと、通常の(中央付近での)プレイにはやや不安定だが角には手が届く位置にキネクトのレンズを再調整しました。
 その状況は、横一方向だけが長い十字のスペースを思い浮かべられたい。十字の中心にキネクトの中央を合わせていたのを、ややずらしたというもの。
 当方においては、まさに体が十字キーとして機能しているわけです。

 そんな工夫も実って、かくしてどうにか敵のチャンピオンクラスをやっつけた、と思ったら、今度はコート内に打ち込まれるものを避けろ、という、これまでボールを拾おうと苦心していたのとは逆方向のミニゲームに出くわした。
 しかし、認識範囲いっぱいを使ってくることへの悩みのベクトルは同じ。手足が届けば良かった本編がまだましだったのです。今度は体全体が両隅に寄らなければならない。右へ左への反復横跳びが、もうきついこと。
 ところで、このミニゲームは、平面弾幕シューティングで弾避けの自機を演じていると見立てることができます。かのジャンルのセオリーに倣えば、この自機狙い弾はできるだけ引きつけて切り返すのが安全なはずですが、そう機敏な動きもできず、引きつけすぎて被弾しまくり。
 やはりキネクトでシューティングは厳しいのではないでしょうか(←撃ってない)。



4/8(日)

 ダンスの次はスポーツだ!
 キネクトのゲームは一気に消化できないから、ほかのゲームと並行で遊ぼうと、夏になるまでは常に枠を入れておくつもりです。対応タイトルが尽きる心配もなさそうだし。
 ということで
『Kinectスポーツ』を始めました。

 6種の競技が詰め込まれている運動もので、種目を選ぶときの唐突な盛り上げナレーションと、遊び方解説のいっそ機械的な平板さとのギャップがまずは注目どころ。
 いや、どちらもゲームの楽しさとはベクトルが合っていません。そんなところで個性を出さなくてもいいのに。
 ところで、種目の一つにサッカーがあります。他が個人かせいぜい二人チームなのに、これは集団競技。どうやって一人で遊ばせるつもりなのか、見当がつかなくて興味がありました。
 そして、その結果は実に納得できるものだったのです。

 このゲームでは、まずプレイフェイズを攻撃と守備に二分しています。そして、「攻撃側では前進のためにパスを出し、うまくゴール前まで来たらシュートを打つ」「守備側では敵のパス方向に立ちふさがって前進を止めるよう試み、ゴール前まで来られたらキーパーとなってシュートを止める」「守備が成功したら攻撃と守備が入れ替わる」という3つの原則でゲームが進みます。
 ボールを中心にして、その近くにいる一人を担当することで、一人で遊ばせるようにしている。いつもボールに関われて、一番おいしいところを受け持てるのです。
 なるほど! これには感心しました。

 そして、このサッカーゲームは、感心に留まらず、当方に影響をもたらした。
 ルールを把握した直後では、コンピュータ相手ならともかく、このシステムで対人戦が成り立つのか、ピンと来ませんでした。攻撃と守備とでは、従うべきルールが違うからです。
 それも、よく比べればそれぞれが対応するようにできている。
 思えば、これまでテレビ中継なんかを瞬間的に見る限り、サッカーというのはボールをみんなが追いかけるゲームだと捉えていました。だから、敵味方それぞれの役割は対称なんじゃないかと思っていたのです。
 でも、今後本物のサッカー中継を見るとき、おそらく自分はこのゲームの構図を当てはめようとするだろう。そして、それはもしかしたらサッカーの見方として正しいものなのではないだろうか。
 つまり、サッカーとはもともとボールの所有という概念のもとで攻防の対比がはっきりしたゲームなのであって、そのことを『キネクトスポーツ』は自分に体で覚えさせたのではないか。そうだとすれば、実に教育的なソフトではないか。
 何でもゲームを取っかかりに世界と付き合おうという態度だと、このように難儀だ、という事例でした。いやあ、次の大きなサッカーのイベントが楽しみだ。



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