ゲーム+α日記(2000年5月)

'00年 4月 3月 2月 1月
'99年 12月 11月 10月 9月


5/30

 本人が口にする自己評価と周囲から見た当人の評価は往々にして食い違うものであって、例えば「俺って恥ずかしがり屋だからさ」の如きはそのような台詞を平然と口にできる時点でその厚かましさは万死に値する(しかしこれもきつい言葉だ)かな(きついので緩めてみました)と思ってやまないのですが、では己を小心者だと評価する人物の普段の行いが小心者と呼ばれるにふさわしいことは果たしてあり得るのか。

 なぜこんな話題が出てくるかというと、ちょっとびくついて行動することが重なったあるとき、ああなんて自分は小心者なんだろうと思い、でもそれを口にしかけて冒頭の定説に思い当たり、ここでその実感を表に出したらおしまいだ、そもそもある性質を顕示しようと思うのは周りにそう思われたいと願っているからであって、そう思われたいと願う内容は世間一般の基準に照らして好ましいことに違いないのであって、実際にはそう思われていないからそう思われたいと願うのであって、自他の評価の差はここに依るのだろうと結論が出たことで納得したという、まあいつもの通り個人的な問題なのですが、さらに引き続いて、口にしないということはそう評価されることを特には望んでいないということであって、それは本人の希望とは無縁であって、それなら本人の評価といっても多少の客観性を期待してもよろしいのではないか、すなわち本人の性格に沿った評価となり得ているのではないかとの考えにつながりもしましたが、ここでそうやって公表したことで全てが無意味になってしまい、自己評価なんざ当てにならないなあとか、それにしても無駄なことを考えたものだなあとか思いました。


5/29

 デパートの遊戯場でありながら「シルバーガン」を備えていた素晴らしい店・マルエツ安食店を引っ越し後初めて半年ぶりに訪れてみたら、案の定というほかないけれども影も形もなく。
 常備して一見の客から売り上げを期待できるゲームではないだけにその決定は了とする(←マイブームな言い回し)ところでありますがやはり寂しい。用もないまましばし徘徊したのち併設のドムドムで夕飯など購入しておとなしく帰りました。

 夜は夜でまた別種の寂寞を味わう。「激打SE 北斗の拳」です。世紀末救世主伝説の主となって並みいる敵を撃破しつつタッチタイプを修練しようというナイスコンセプトと「お前はもう、打てている」なる名文句、これは秀作に違いない、との先入観が、先のステージに進むほどに粉砕されていきます。い、いつの間に俺の期待感はこのソフトに秘孔を突かれたと…たわびゅ!
 体験版かと思いました。タイマン勝負でタッチタイプを成功させれば勝利という内容ですがひねりがなさ過ぎ。貧弱なグラフィック、削りに削られたキャラクター人選、ミスタイプを許さない了見の狭さ、問題数の少なさ、全てにおいてチープな作り。これを楽しめというのは、クソゲーをスコアアタックやタイムアタックで楽しめというのとほぼ同じ。
 「ほぼ」とつけたのは、これが基本的にはゲームとして作られていないという弁解が辛うじて通りそうな「教習ソフト」だからだけれど、人によっては認めないであろうこのたった一つの言い訳に上記全てをぶらさげるのは、ちょっちみっともなくはありませんか。
 もっとも私には「認めない」と言い切れる権利がない。なぜなら借りた物だから。今は問いかけの形に留めておいて、続きは購入後に(つまりもう言及しません)。


5/27

 「わたし的には」「〜なんだろうな、みたいな」といった責任の所在や断定をぼやかす言い回しが増えているという新聞記事を読んで思い出したギャルゲーが「With You」だった。
 ヒロイン二人のうち眼鏡っ子のセリフでその手の修飾が多く使われていて、当時は煮え切らない・思い切りの悪い性格の表し方として新鮮に聞こえたものだった。PC版の発売から1年近く後、'99年7月リリースのサターン版を遊んだころであっても。ハキハキさっぱりタイプのもう一人と好対照を出すのに効果抜群だった。
 今考えると、「With You」における眼鏡っ子の不人気ぶりの原因にはそんな言葉遣いも一枚かんでいたかも知れない。
 でもゲームだから珍しかっただけだろう。実生活では当時でも盛んに使われていたろうし、さらに現在ともなると広まりすぎてしまい、素の感覚でうっかり使ってしまう人は少ない気がする。「素」というのは、これらの言葉の便利さを自覚しないで、という意味ですが。
 ちょっと付け足せば立場を曖昧にできる手軽なスパイス、という感覚を少しも持たずに他人に話しかけられるのは、今となってはコンビニの店員くらいじゃないか。

 ここで一ひねりして、おかしな言い方であることを前提とした上でのギャグとして使うと、これが相当面白いことになるのが面白い。
 出向先での出来事。相談事を持ちかけたとき、良いと思った考え方に基づく当方の協力依頼をやんわりと断るにあたって、その人独特のセンスがいつものように発揮された。
 「その案は、NG方面でお願いします」
 がっかりするより先に脱力しながら笑っちゃうというあの芸風は大変魅力的だった。懐かしい。


5/23

 面白いはずがない、と頭ごなしに決め込んでかかった「TALL ∞(トール アンリミテッド)」というパズルゲームを予想以上に楽しめるようになってきたのはプレイヤーの心が広いからか。そうとはちょっと考えにくい。
 原理が分かるまでの数時間を放り出さずにつきあったこと自体が一つの奇跡とも思えます。今に至ってもなんだか納得行かないけれども、連鎖をつなげて悦に入っている自分がいるのは否定しようのない事実。
 客観的に見て、ただの偏見という以上のハンディキャップを、このゲームは遊び始める以前の段階で背負ってしまっています。値引率の低いゲーム屋で新品千円だったし、マニュアルを開けばゲーム名にまつわるトホホ事情(上記ページのアドレスがヒントっつーかページ内にも載ってました)が一ページ目で明かされているし。そもそも定価も安めだし(安価なゲームは、購入者に安かろうの手軽さと共に悪かろうの諦念も担わせる宿命を持っていて、低価格ものからはその宿命を正式に売り手から押しつけられている不憫さを感じ取れる、なんて蛇足ですよね)。
 ゲーム内のパズルを解くのと並行して、それらゲームの外側にあるしがらみもほどいていっていることを自覚しておりました。
 佳作とまでは言いません(ってその程度かい)。でも、遊び込んだ後だといつの間にか画面を脳裏に描いてますよ。


5/22

 会社で単純作業中に、近所でPS2が売っていたという話をしていたら、普段ゲームしなさそうな先輩が意外にも「んー、興味はあるけどこの前買ったPSでもほとんど遊んでないしねえ」などと話に乗ってくれたのでおやおやと思う。
 PS本体と一緒にどんなソフトを買いましたか、と訊ねてみたら
 「ああ、あれがやりたかったんだよね、ほら、グラツー」
――グラ2ですか! それは渋い、というか珍しいですね。最近めったにいないんじゃないでしょうか。
 「……そうかな?」
――あそうだ、最近3と4のカップリングがPS2で出ましたよ。
 「?」
――ほかにはどんなシューティングを?
 「……俺がやりたかったのはグランツーリスモ」
 しまった! 雑誌の埋め草投稿記事に山ほど出てきそうな陳腐なネタでマジ話してしまうなんて!
 「俺は、そのう、一般人だからさ」
 あっ! おまけに、こっちも思っていたことを口にするし! ヒドイ!

 このギャップというものに実際出くわしたときの感慨はひとしお、百読は一聞に如かずというところでした。
 その後も「グランツーリスモ」における実車的な操作性だとか、ゲーム内でも実生活と同じような車遍歴を経て、今の愛車を手に入れたところでゲームも中断している、といった愉快な話を、「一般人」であるところの車好きの先輩から聞かせてもらいました。
 ゲームと縁遠い人のゲーム話は、ゲーム界の言葉をほとんど使わずに展開されるところが面白い。


5/20

 夢のお告げや電波にそそのかされて犯罪に走っちゃう人が、なぜ謎の指示を素直に受け入れるかというと、それが本人の潜在的な意志だから、なんでしょうね。

 意に添わないことを見ず知らずの他人から命令されたって、そうホイホイとは人を殺そうとしないでしょう。受信しちゃったんだからまあしょーがないかなーとか思うのは、発信元も当人だからという理由での暗黙の了解(当人だけの)に過ぎません。
 で、なぜ夢や電波の形を取るかといえば、その人は殺人が悪いことだと解っているからでしょう。そんな反社会的で破廉恥で大それた不届きな望みを僕が持つはずはない、のであります。だから他の何かのせいにして、強制されたから仕方なく、という形で良心に対する言い訳の材料とする。それが他人に対してまで通用する言い訳じゃないことは、納得してしまった本人には分かりません。

 ただ、こういう人たちは、とりあえず己の望みがよこしまなものであるという判断ができるくらいの社会通念を内に秘めているわけだから、「人を殺したいから」という理由を口にする少年よりも更生は格段に楽だと思います。
 自分の世界を広げることで、その類まれな受信感度をポジティブな方角に――この絵は素晴らしいとかこの本は面白そうだとかが直感できるような方面に――向けることができるよう祈ってみたい。


5/16

 しまった。おとといの分析もどきには重要な前提が抜けていた。
 私が「シルバーガン」を遊び始めたのはサターン版を買ってからのことだったこと、つまりまず乗り越えるべき巨大な壁が「シルバーガン」にはあって、それをゲーセンでは乗り越えず補助台を利用していた、ということがすっぽりと。
 アーケードゲームか家庭用かという環境条件を無視しては議論にならないっすねこういう場合。

 そしてもう一つ、今までピンと来なかった、サターン速攻移植に対するアーケードゲーマーからの怒りの意味するところが分かったような気持ちにも。
 「この壁を越えてごらん、昔のアーケードじゃこれが当たり前だったじゃないか」と言う一方でさくっと補助台を用意されたら。それも完璧な移植度合で。
 いや。まだ違うな。それだと、劣った移植の方が良かったというような狭量な結論に向かってしまう。サターン版そのものについては誰も文句は付けていなかったはずだ。

 む。当時はまだサターンに多少の(それでも多分アーケードよりは強い)活気があったのだったな。ということは補助台はサターン版ではなくアーケード版の比喩とすべきで。「サターン版の売り上げを伸ばすための踏み台」そうかあれは踏みつけにされたと感じたための怒りだったのだな。
 サターン版発売(購入)当時はアーケードにほとんど行かなかったから事情がつかめなかった。結局サターン版がそれほど捌けなかったというリリース後の状況を加味してしまったとしたら、ましてサターン市場が死んだ現時点のみのものの見方ではなおさら、やはりこの事情は理解できないだろう。

 うわ、共時性ってすごく重要じゃないですか。なんかむちゃくちゃ当たり前のことを言っているようで忌々しいのですが。
 「シルバーガン」に限ったことじゃなくて、「ときメモ」や「セングラ」や「Kanon」にも、その場に参加していたものだけが味わえる、傍観や後追いでは得られない何かがあって、それは必ずしも率先して踊らなくても、伴走するだけでも体感できるもののはずで、そういうのが久しぶりに非常にうらやましく感じられてきました。発作的と言ってもいいくらいの激しさで今。ためらってる場合じゃないですよ。
 夏の祭りに備えよう。


5/14

 近所のゲーセンにいつの間にか「サイヴァリア」が入荷していたので遊ぶ。何とか1コインクリアできました(6A面)。
 やった! 次は点を稼いでみよう!

 という気になるかというと、なかなか気持ちが盛り上がらない。
 「サイヴァリア」は、初心者プレイからクリア狙いへ、さらには稼ぎ狙いへというプレイスタイルの変化過程が非常に切り立っているように感じます。
 少なくともクリアという目標に達するまでに克服しなければいけない難易度だったら「シルバーガン」の方が相当高いはず。それでも「シルバーガン」を遊び続けようという気にさせられっぱなしだったのは、上達している感触が一歩一歩、おぼつかない足取りではあってもつかめていたからだと思うのです。
 「シルバーガン」の難易度は歩幅に合わせてステップアップできるくらいの段差で長々と上昇し(5Aは結構高かったが、私の場合はそこへ辿り着いたころには脚力が鍛えられていたみたいです)、「サイヴァリア」のそれはぼん、ぼんと壁のようにそびえ立つ、という印象です。稼ぎシステムが多彩→回り道可能な「シルバーガン」VSかすり(=自機制御)ほぼ一本槍の「サイヴァリア」という差か?

 そういえば「ドラクエ7」は8月まで延びたそうですね。今頃知りました。GAMESPOTの記事の投げやりじみた荒涼ぶりには少々寒気を覚えます。
 しかし、どうせならさらなるクォリティアップを図ってもらえないものでしょうか。このまま本当に「FF9」「AIR」「DQ7」が二ヶ月のうちに発売され続けたら恐らく遊び死ぬ。


5/11

 以前から気になり続けていた映画「レインマン」を借りて見ました。
 自閉症の兄と自動車ブローカーの弟を巡る物語で10年以上前の作品ですが良かった。自閉症者と言われてなにか納得できるものがこの「兄」にはありました。そうさ俺はこの目の演技が見たかったのさ(目だけじゃないけれども)! 求めていたものが得られた感じです。
 今、二本のドラマが自閉症を扱っていますね。最終回をチェックしてみようと思っています。

 「レインマン」は映画に先立って小説の日本語版も読んでいましたが、これはふんだんに取り入れられた解説や映画シナリオの雰囲気を壊さない追加シーンなどナイスノベライゼーションと言えましょう。ただし映画についての訳者のコメント「とにかく笑わせてくれる」はとにかく疑問、せいぜいクスリ、くらいではないでしょうか。
 それにしても、この映画を吹き替えでなく字幕入りで見て良かったとも思いました。洋画はおしなべてそうなのかも知れませんが、元の言語で最も楽しめる工夫がしてある場合にそれに近い形で触れ、仕掛けに気づくことができたときは嬉しい。あの3重のかけことばは、日本語でどのように翻訳しうるものだろう?


5/8

 そういえば帰省の際に立ち寄った出版物にあふれる都市・東京にて「カオスシード」のイラスト集(ソフトバンク刊)を見つけて買いましたが、本当に出ていたんですね。ウェブ上のどこかで制作中という話を読んで半信半疑、最近はそのようなことすっかり忘れておりました。

 その内容はといえば、これまで接してきたゲーム画集に共通に感じたコストパフォーマンスの低さをとりわけ強調していて、なぜこれに設定資料集と名付けたか疑問が生じてしまう出来映え(設定なんてほとんど入っていないんだもの)でしたが、心底惚れ込んだゲームの記憶を呼び覚まされてしばし漂ったこの陶酔のひとときは3,800円ではなかなか購えまい、と言われればそうムキに反論する気にも…と書いてきてその高値ぶりに改めて驚き八分腹立ち二分の感情をかき立てられてきたので前言撤回したい気分、というような中身です。

 巻末近くにはカオスシードグッズが紹介されていますが、秋葉原はラオックスゲーム館でも現品限りだったこの本が、売り物の中では何よりの激レア品だったのではないかと思うところしきりであります。
 豆本(ゲームショウにて配布)とかちょっと見てみたいですね。なぜか配るほど持ってる予約特典の色紙と誰か交換してくれないものでしょうか。
 いや絶対無理ですな。稀少度が違いすぎる。お持ちの方は大切にしていただきたいものです。


5/7

 ゲームすることの喜びを、地元のゲーセンで味わうことのできた連休だったように思います。
 そう、目の前にあると楽しくて楽しくてどうしようもなく浮わついてしまうゲームというものは、本来非日常的な存在であるべきなのかも知れない。心躍らせながらゲームに取り組む時を日常の営みから分けることによって、ハレの日のお祭り騒ぎという気分が一層引き立ち、更に楽しさを増幅させてくれるのかも知れない。
 遊んだゲームの馬鹿馬鹿しさも自分内カーニバルの醸成に一役買ってくれたことは間違いありません。MUKATUKIだのKESERASERAだのAISITEIRUTOITTEKUREだの(うろ覚えだけれど)と「タイピングオブザデッド」で間抜けワードを十数分打ち込み続けた2級タイピストの私でした。面白かった。

 なんてことを考えていながらゲームボーイカラーの箱を持ってレジに並ぶとは何事だ?


5/1

 引っ越しにかかわるものかかわらぬものと、なぜか面倒ごとが重なってしまい、家庭用ゲームを遊ぶ暇がなくなった。そしてこれからは帰省してしまうのでやはりしばらく遊ばないだろう。GW明けまでここの更新もできません。
 「ゼルダ」熱も冷めてしまうかもしれない。ちと残念。
 もっとも今はゲームより音楽とか本とかの方に興味が傾いている。ゲームより安い上に聞く(読む)だけという気軽さが自分内でウケている。
 今回の移動は、ゲーム疲れを取るにはちょうどいい休養となりそうだ(遊びすぎ)。

 しかし僅か半年空けていただけというのに大きな郊外型・専門店集合型ショップが誕生して、個々の店の品揃えがかなり良いのには驚いた。
 なんたってゲームコーナーに「ダービーオーナーズクラブ」が! できたばかりでまだ客つきは良くない様子。さてどうしたものか。

 あ、月刊化初の「アルカディア」は割と読み応えあって良いと思いました(シューティングゲームの魅力について語るその前振りには「?」と思ったけれども)。
 確かに出てましたね、続編の単語が「BE PRAYING」中に>「斑鳩」(
Black Flyの井内ひろし氏インタビューを参照)。あの熱狂がまた訪れるかも知れないと想像するのは、楽しみな反面恐ろしくもありますよ。今度は学生じゃないし。
 リリースは来年とのことですから、まだ「シルバーガン」を遊び切ったとは全然思っていない(サターン版ボスとか手つかずだし)身には長めの執行猶予がついた気分。気長に待っています。



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