ゲーム+α日記(2001年12月)

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12/30(日)

 本日の斑鳩は
・情報の受け入れ容量
・進行状況
・それぞれの指に役割分担
の三本立てで。

 遊び通しのような書き方をしているけれども、一日の斑鳩回数はたかだか5〜6回に過ぎません。それ以上は遊びたがらなくなってしまうのです。ゲーセンに入るときはやる気満々、いつまででもつきあえそうな気がしているのに、数回のプレイで満足してしまうのでした。
 ただ、満足とはいっても、結果にではありません。戦果は今日もこれまでも、客観的に見て無惨だと言えます。にも関わらず、もう十分と思いゲーセンを後にするとき、自分は本来の意味の満足ではなく、そこから納得成分を差し引いた形の、単に「満たされた」気分に届いているんじゃないかと思います。
 始めて間もないゲームは分からないことだらけ。敵、弾幕、地形、全てが新しい。それら新しいものたちの意味を見つけ、その意味をプレイに生かす、いわゆるパターン化という作業には、どうしても時間がかかります(個人差はあるだろうけれど)。意味の消化速度に対して、入ってくる意味の量が今は多すぎる。整理できないうちに情報を詰め込まれても、容量を超える分はあふれて無駄になってしまう。
 今の自分が持っている情報の胃袋はたいそう小さく、すぐ一杯になります。一日経てば消化も終わって次が欲しくなるのに、一度に多くは食べられない。ならばやみくもに先を目指そうとはせず、近場から足場固めをしよう。容量を先のステージのために取っておけるよう、徐々にパターンを作っていこう。と心に決めた冬の夕暮れでした。

 ということで、いったんお試しモード(1面は残機無制限、2面クリアでゲーム打ち切りというモード。しかし、ここまでおつき合いいただけているならこの注釈はいりませんね)に戻り、どうにか1・2面をノーミスで抜けられるやり方を作りました。
 って、ステージ順に攻略するなんて、ゲームを攻略する上でものすごく当たり前のことではありませんか。さも新発見のような口調で何を。自分は今まで何を思ってゲームをしてきたのでしょう。
 そんな感じで、一度だけたどり着いて即死した3面ボスの印象が、中ボス格の電磁野郎に比べてあまりにも薄かったせいで、うっかり中ボスを本ボスと勘違いするほど情報量がオーバーフローしていたおとといの自分です。
 これでようやく3面について考えることができる。一つ覚え書き:壁がレーザーばかりか弾まで撃ってきて小憎らしいと思っていましたが、弾を撃っている方は壁じゃないんですね。力の解放があらぬ方へ飛んでいくのを、そしてその後は弾幕が薄くなっているのを不思議には思っていたのですが、二つを結びつけるにはやや時間がかかりました(鈍すぎ。というかさっき気づいた)。
 次回は少し楽になるに違いない。壁に接近して壊してやろう。
 ちなみに今日は3ボスを半壊させました(その直後、中央からのレーザーに抹殺される)。半歩前進。

 ところで、二三日前に3つ目のボタンがつきました。2ボタン同時押しの代わりとなる、力の解放専用ボタンです。
 確かにこれがあったほうが便利だ。ショット押しっぱなしで力の解放→属性変更してしまい弾幕の中で死、というシチュエーションが減るのはありがたい。ただそのためには、3つに増えた操作系を自分がうまく解釈しなければならない。こういう機能だから間違えて押さないでね、と自分で自分を納得させなければならない(厳密にしたい気分のときなら、「自分で自分を」は「『観察者』が『プレイヤー』を」と書きますが、今日はまあいいや)。

 そのために、「右手を広げる」ことにしました。何のこっちゃ、って、3本の指にそれぞれのボタンを割り当てることを意識するためです。
 どうも私には、2ボタンのゲームでは各々のボタンを人差し指と中指で一緒に押すという癖があります。一本だけでは不安らしい。
 確かに、旧タイプのサターン用バーチャスティックのような堅いボタンだったら、押そうと思っているのに力が足りないという事態もないとは言えないかもしれません(成人男子にそれはあり得ないと断言したいところですが)。しかし、時代は今やソフトタッチ。軽く触れればプレイヤーの意志を余すところなく伝える押されっぷりを見せてやまないのであります。
 それなら、二本指の杞憂を意識から取り除こう。そして、人差し指はショット、中指は属性変更、薬指は力の解放、と三者三様の役割を与えよう。一本では大したことなくても、三本合わせればその力は侮れないものとなる、と、かの毛利元就も言っています。普段あまり使われない薬指に権限を、そして人差し指と中指には独立を。このようにして、プレイの効率化が図られるはずなのです。
 ……これが、3ボタンを駆使するゲーム『シルバーガン』を長く遊んできたものの言い草だろうか。学習能力の貧しさには悲しくなります。

 ところで、ゲーセンにいる間の息抜きゲームを『長江』ではなく『エスプレイド』に決めて、『斑鳩』を挟んでちょびちょび遊んでいますが、このゲームにも3本指の権限委譲を心がけたところ、やや先まで進めるようになり、このゲームが面白く感じられて来たのは意外でした。
 というより、パワーショットが別ボタンであることをすっかり忘れてメインショットボタンで溜め撃ちを試みるのは正直いただけません。スタートがそんなレベルなら、そりゃ上達もするさ(4面で全滅)。

 年末ということで頑張ってしまいました。というかここ数日遊びすぎ。
 本年の更新はこれでおしまいです。しばらく更新しません。それではよいお年を。


12/28(金)

 3面のボスまで行けました。感電死。

 そんな具合に、毎日『斑鳩』イージーモードの一行プレイ日記こと「本日の斑鳩」が書ける意気込みでプレイ中。
 さらにアルカディア最新号を買い、プレストーリーを読んで、登場人物の誰が何に対応してるんだろうかなどと想像してみる(より良く読むべきは攻略の方じゃないのか)。
 ステージデモの文章は実に説教くさい。字が小さいから印象も弱まっていてまだいいけれど、これで極太明朝体だったら逃げ出したくなる押しつけがましさだ。ただ、これくらい強調しないと、地形つきテクニカルシューティングの辛口さに立ち向かうだけの勇気をプレイヤーから引き出させることはできない、との判断があるのだろう。それは正しいと思う。
 と、あれらを完全にプレイヤー宛のメッセージだと受け取って、無惨な失敗を前にしてのくじけそうな気持ちを奮い立たせております。
 のめり込めれば、別に萌えじゃなくても良かったんだ。

 ところで、『斑鳩』の熱冷ましに別のゲームをチェックしていたら、とんでもないものを見つけました。『四川省』はさんざん遊んだけれど、スティックで操ったことはなかったなあ。噂でしか聞かないギャル絵マインスイーパー『どきどきアイドルスターシーカー』(未プレイなのを反省してDC版購入予定)に触発されてできたに違いないぞ、この『長江』(専用サイト発見できず)は。
 世界観は三国志、かと思わせていきなり女子との対戦(しかも名前が「劉美」と来たもんだ)、「倫理審査クリア」みたいなシールが貼られていたりと、B級感のオーラに頭がクラクラしてきます。
 もちろん遊んださ(それも連コイン)! 練習モードの易しさ(ギャル絵なし)と通常モードのえげつないトラップぶりのギャップがたまりません。
 個人的には絵の色遣いの努力具合に好感を持ちましたので、ぜひ家庭用を発売していただきたい。対応ハードはサターンが最もよく似合っていると思います。
 だってこんなのゲーセンじゃ遊べないもの、知り合いに見られちゃいないかと気が気じゃなくなって。


12/27(木)

 この12月はそそられるゲームが出ないみたいだ、久々にゲームにお金を使わない月になるかも。
 …なんて大間違いッ! ソフトを買うつもりの金があるなら全て注ぎ込めッ!
 という意気込みで『斑鳩』熱が燃え上がり中。
 ついに平日プレイを敢行しました。このためには仕事のスケジュールを調整しなければならず、それは結構めんどくさいのでたいがいの場合ゲーセン行は週末の楽しみとしていましたが、ちょっと頑張ってみた。
 その後遺症が翌日(今日)にも響いて、気だるい一日を過ごしてしまう。やりつけないことには体がなかなかついてこないみたいです(←ジジイ)。

 それにしても、このゲームのテーマになっているほど強調されている「意志」ですが、これは遊ぶ側にとって見れば目的を持って遊ぶということにほかなりません。
 遊ぶ前に決めた目標を、プレイの際に忘れずにいる。これが自分にとってどれだけ難しいかに気づくのは、いつもゲームオーバーになってから。あれもこれもやってみようと思っていたのに、つい、意味もなく決まりつつある、最善とはほど遠い道筋をなぞってしまう。挙げ句の果てに同じ場所で死ぬ。もどかしくて爆発しそうになります。

 ゲームを終えてから始めるまでのもどかしい間に対比して、遊んでいる最中は
「うわっ壁が壁がッ! 迫ってくるっていうか横からレーザー! 押されるッ撃ってくるなよオマエ壁だろ(撃墜)」
など、うわごとめいた感じ。3面のここは必死の抵抗虚しく必ず死ぬポイントとして、私の行く手を遮る壁となっています。


12/25(火)

 Continue3号を読む。
 今号一番の注目記事は「トレジャーを創った男」……よりも、巻末の「ゲームの彼岸にて」(←それ記事じゃない)。
 第7〜8パラグラフを丸ごと引用して、自分の
これとかこれとかと並べたい気持ちが無性に高まった、が思いとどまる。
 実に興味深い内容でした。題からして「世界を見つめる目」だ。最近はどうにも「世界」という言葉が好きでしかたありません。青臭いのです。

(02/1/5追記:やはり引用しておく。忘れてしまっているであろう未来の自分のために)
――引用ここから――

 ゲームの中に存在するマイキャラクター。それは自分の分身であると共に、完全な自分自身ではない。キャラクターが手足を動かし、戦闘すると同時に、それを醒めた目で見つめているもう1人の自分がいる。このゲームでは何をすれば楽に進めるのか、どんなパーティ編成をし、装備をつけていけば正しいのか。それを考えるとき、プレイヤーはただ画面を見るのではなく、ゲームの世界そのものを広く見渡しているといえるだろう。
 ゲームの中のキャラクターは、ゲーム世界の内側のルールに縛られている。そのルールはゲームの世界を外から俯瞰する、神の視点を持つことによってのみ把握することが可能になる。プレイヤーはゲームを楽しみながら、知らず知らずのうちに自然にその視点に立っていることになる。
――ここまで(CONTINUE(太田出版)vol.3 190, 191ページ)――

 ゲームを遊んでいるときの自分に関する分析から、このような結論が出るところが面白いと思いました。これは、アーケードゲーム業界という、プレイヤーどうしがゲームを抜け、スコアを携えて競う環境に身を置いてきた人ならではの文章です。
 この辺りは最近の日記からの繰り返しになるから一言で済ませますが、スコアラーの世界はゲームの世界です。その世界の一員でいられているからこそ、ゲームの中での成功体験を、スコアラーの世界がある現実(=「ゲームの彼岸」)に重ねて見ることが自然にでき、現実を生きる力の助けとすることができるのです。そしてそれは、現実を生きる上で全く正しいあり方だと思います。良い・悪いの価値判断をするなら、間違いなく良いあり方です。
 世界の一員であり続けながら別の世界を思うことができていることを示すこの文章に、私は驚嘆せずにはいられませんでした。

 ところで、このコラムの内容と自分の意見との違いは(と、何が何でもの気迫で自分語りに持ち込む)、キャラクターとゲームの外の自分(ゲームの世界を外から観察している、コラムから引用すると「醒めた目で見つめている自分」のこと。「観察者」とでも呼ぶのがよいかと思っていますのでこれから使ってみます)の間に、キャラクターを操作し、「観察者」からゲームの中のものとして見つめられる、遊ぶ人から離れた存在としての「プレイヤー」(この言葉をこの意味で使うのは異端だと思うので鍵括弧をつけてます。これは最近の日記に共通する傾向、って今になって注をつけ加えるのも変ですが)がいると捉えていること、そして、自分の重心が「観察者」よりも「プレイヤー」の立場にあると思えていること、です。
 これは世の中にとっては悪いあり方のはずです。「プレイヤー」は現実世界の一員ではなく(ゲームを遊んでいるときにしか現れないから)、かといってゲームの中の世界の一員でもない(キャラクターを操る立場だから)、どっちつかずの半端者だからです。世界は、一員でない者を相手にしてくれません。相手にされないということは、いないのと同じことです。いないことにされてしまったら、それはその世界から消えるほかないのです。
 ……あれ、『ONE』の話になってるような。気のせいですか?

 とりあえず、このコラムを読んで分かったことは、自分には(少なくとも今の、「プレイヤー」の立場が主である自分には)ゲームが絶対に必要だということでした。
 片方の世界だけしかなかったら消えてしまうのなら、自分がいられる世界を作るほかない。それは、ゲームと現実(より広義には、二つの世界)が併存している状態で、自分はその新たな世界の中で、基本的には二つの間にいながら、二つの世界を行ったり来たりする。そうすることが自分の意味である。

 やっぱり、現実の世界をゲームと見なしてそれだけを生きる(11/2のように)、というのはちょっと無理があったみたいです。
 割り切ろうとしたけれど、けっこう苦しかった。


12/23(日)

 私は無彩色が好きなのですが、それを前提とした上でなら他の色も好きになれるみたいです。
 朝、暗い部屋で目覚め、締め切っていたカーテンを開けると、光が差し込む。外の景色が見えるようになったとき、空がぱあっと晴れやかな青さだったらとても気持ちいい。
 色がついていることが普通でなく、ありがたいことだと思わせてくれるから、白黒灰色が好きとも言える。あくまでメインは無彩色ですが。

 発色調節がおかしいんじゃないのか? と疑問を持ちつつコインを入れたら、白黒のランキング表示に代わって鮮やかなタイトル画面が現れ、自分の考え違いに気づきました。
 
『斑鳩』が近所のゲーセンに入っていたのを見つけたときの驚きは言葉にできません。こんな近くで見つかっていいものだろうか。誰もやってないからデモもじっくり眺められました(それはそれで寂しい)。
 敵が入れ替わり立ち替わり登場する、スピード感のある展開。自機の周りをぐるぐる回られたりして目がついていけてない。そこへ二色の敵弾というシステムが重なる。
 情報量が多すぎる。とりあえず何が起きているのかを知らなければ。自機の属性を変えるボタンを押すとき、自分の図と地の認識も一緒に入れ替えよう。まずはその訓練からだ。

 2面ボスとの初対決では、いたずらに見送りました。


12/22(土)

 外国にキャンディストライプスという種牡馬がいるようですが(天皇賞馬バブルガムフェローの兄だそうです)、数少ない産駒を日本の競馬で見かけるとどうにも笑ってしまう。
 ヨイドレテンシやハクバノテンシなんて名前の競走馬がいるんだから、
ミナライテンシがいたっておかしくない。それがキャンディストライプスの仔だったら感心するのに。セガもこんなやり方で自社ソフトを宣伝してみたらどうだろう。
 いや、宣伝だと命名規制に引っかかるか。ここはぜひ、お金持ちの有志の皆さまにご検討いただきたい(実際いたらイヤだけど)。

 そんな気持ちで今日は中山にて競馬観戦。快晴のもと行われた中山大障害は一頭また一頭と脱落馬が相次ぐサバイバルレース。各馬が障害を迎えるたびに観衆のどよめきが上がる中、最後まで耐えて直線一気に抜け出したのは、断然の一番人気馬……の4歳下の弟。2着が兄貴で兄弟ワンツーという、終始見応えだらけのレースを目の当たりにすることができました。
 何だか今日見てきたことが現実だったのか、まだ疑わしいのです。めちゃめちゃ面白かった。


12/20(木)

 ということで、在庫から最近の嗜好にふさわしいゲームを見つけだそうとするも不発。ギャルゲーにしてもエロゲーにしても、合わせれば両手じゃ足りないくらいの本数が遊ばれないまま出番を待っていますが、どれも一癖ありそうなものばかり。そもそもそういうものばかりを狙って買い求めてきたのだから、今さら萌え専科なゲームなんて言われたって対応できません。
 さしあたり風の噂レベルで有望そうなタイトルとしては『シスター・プリンセス』『みずいろ』『とらいあんぐるハート』などが思い浮かびますがどうか。『シスプリ』に関しては、ナイスゲームズ7号における「考えるな。オレと妹。それで全てだ」(169ページ)に代表されるであろう、自分にとって全く新しい妹の定義が分かり始めてきたので、これも今なら楽しめても不思議はない。でも…うーむ(ためらい)。
 というか、どんなゲームでも、あるいは本でも何でもいい気がしてきた。考え疲れっていうのは、何か新しいものを取り入れたほうがいいっていうサインかも知れない。

 しかしプレイヤー=神ってのは正しくありませんね。12/17のダウトはこっちだったのか。全能の神は作者であり、プレイヤーはせいぜいプチ神とか神の僕とか、せいぜいキャラクターとの比較で優位にある程度の存在。つまりあの人みたいなものでは。
 と、クリスマス近い時節柄ふと思い浮かべたものがありますが、キリスト教のことはこれっぽっちも知らないので、これ以上この話題には決して触れないのです。もう忘れた。今忘れた。
 ところで、自分のいうプレイヤーにしろ作者にしろプレイヤーの外の存在にしろ、いずれも人間から離れた概念というか観念なのですが、自分でそんなこと言うのもなんですがそういうのはあまり健康という気はしません(←ほんとはかっこいいとか思ってるんだろう)。


12/18(火)

 昨日の日記にはダウトっぽさを感じる。
 「誰か特定のキャラクターになって遊んだことのなかった」というところに、自分で書いていて引っかかる。なぜなら、かつて『ONE』を遊んでの怒り混じりの感想は「主人公には、同化まではしないものの、当然プレイヤーに一番近い立場のキャラクターとして感情移入している」(
1999/10/24)というものであったから。これは「なりきりプレイ」と違うのか?

 多分あの時、自分は「主人公」にはなっていたけれど、浩平(『ONE』の主役のキャラクター名)にはなっていなかった。この「主人公」は、最近の言葉を使えば「プレイヤー」だ。主人公はキャラクターではない。
 ただし『ONE』を遊んだ時点では、自分はそのこと(主人公≠キャラクターであること)を認識できていない。そのため、主人公をキャラクターだと思い、主人公役のキャラクターである浩平を主人公と同じだと見なしていた。
 同じだと見なしていたならそれはなりきりプレイだったのか。そうではないような気がするけれども自信はない。今から見ればそうではないと思えても当時はそうだったのかも知れない。当時の言葉を使って表したなら、自分はそうだと言っただろう。それならば、あのときはなりきりプレイをしていたと、今でも言うべきなのかも知れない。何だか訳が分からなくなってきた。

 瑞佳(浩平の幼なじみ)シナリオのあの暗いイベントに出くわしたときには強い衝撃を受けた。それは、瑞佳を傷つけるという自分の意に染まぬことを、他ならぬ自分がやらされたと感じたことへの衝撃だった。その衝撃は怒りとして現れたが、あまりに強かった怒りは目をくらませ、なぜ(浩平がしたことなのに)自分が怒ったのか、その原因を見えなくさせた。そのため、行き場のない怒りはゲームに向かい、ゲームが悪いということに落ち着いてしまった。
 実際は、「主人公」をゲーム中の一キャラクターと勘違いし、最も近い立場にいた浩平を主人公と見なした自分が悪かったのだ。今『ONE』をやり直したら絶対楽しめる。自分の悪いところは直したのだから。

 ああ、しかし、ごちゃごちゃと考えごとするのも面倒になってきました。
 こういうときは考えないですむゲームにビシッとのめり込みたい。ゲームで心の底から叫びたい。たとえば「萌えー」とか。いやむしろそういうのがいい。というかそれがいい。萌え転がりたい。あまり考えたくない。
 そんな気分に適したゲームはないだろうか。『ひざの上の同居人』はもう遊び尽くしたからなあ。新たなタイトルが望ましいのですが。


12/17(月)

 今はもう、自分にとって『ウィザードリィ』の何が魅力だったか、その正体をつかむことができている。
 初めてゲームのスイッチを入れたとき、誰一人キャラクターがいない中で訓練場や酒場や商店への選択肢を突きつけられたときのとまどい、それは、それらの選択肢が「プレイヤー」に向けられていたこと、ゲームの中で自分の役割が「プレイヤー」であることを意識できないためのとまどいだった。しかし、『ウィズ』を楽しめるようになったとき、自分は自然に、6人の冒険者の誰かになりきるのではなく、彼ら全て、ひいてはゲーム全ての進行役を引き受ける「プレイヤー」として遊んでいた。
 「プレイヤー」という全能の神の役割を演じ続けるのはたまらなく楽しかった。ゲームの中でなら、自分は神でいられた。神とは何かの意志を持ってキャラクターを導くものではない。そんなことはキャラクターにさせればよい。世界の中で起こりうる全ての事象を知り、それらを起こるがままに任せ、起きたことを見守るのが神の役目だ。操作されながらも自分の手を離れて動き出すキャラクターたち。選択を誤り滅びていくことがあってもそれを運命として受け入れ、ゲームの歴史の一ページに刻んでいく作業が、神としてのプレイヤーの勤めであり、自分の楽しみ方だった。

 今はもう、自分にとって『ダービースタリオン』の何が魅力だったか、その正体をつかむことができている。
 初プレイのときの、牧場長や調教師やアナウンサーが一様に語りかけ口調だったことへのとまどい、それは、彼らが「プレイヤー」に向けて語りかけているのであり、自分がそれであることを知らないためのとまどいだった。思えば、こちらのほうが『ウィズ』よりもずっと分かりやすい例だった。自分を冒険者に感情移入させるよりも、馬に感情移入させるほうがはるかに不慣れなはずだったから。それが不自然であることに気づき、なぜそれを不自然と感じるかを考えさえすれば、回り道を経ることなく、今日の心境に至れたかも知れなかった。
 たとえ管理する馬が実力を出し切れず惨敗しようと、レース中に骨折から安楽死への道を辿ろうと、自分の意志を反映させずにそれらを起こるがままに任せ、起きたことを見守る神の役目に、自分は没頭した。それはこの上もなく快かった。

 そして今は、ゲームの遊び方にはプレイヤーになる方法の他に、キャラクターになる方法があることに気づいている。いや、かつて(厳密に言えば先月まで)誰か特定のキャラクターになって遊んだことのなかった自分にとって、キャラクターになって遊ぶ方法は、まだ「あるらしい」と推測の形でしか表せないでいる。さらにどうやら、一部のゲームには、全能の神であることが許されないジャンルがあるらしいということにも薄々気づき始めている、ような気がする。
 神になれないゲームの代表例が、キャラクターがどんな行動を取るかが全く予想できないネットワークゲームであり、その延長線上にあるのが、自分の名前のついたキャラクターになりきる現実世界というゲームなのではないだろうか。
 そのゲームの中に、プレイヤーとして遊ぶこともできるゲーム内ゲームからハイスコアを持ち出して比較するジャンルがあり、その舞台として旧ゲーメスト、現アルカディアが存在している。そこでは人はスコアラーという種族のキャラクターになって戦いを繰り広げる。それはまさにキャラクターになりきる遊び方だった。

 『シルバーガン』を遊ぶことで垣間見ることのできたその世界に対する違和感を、キャラクターになるよりプレイヤーになって遊ぶ方を好む自分が現在の気持ちで表現すると、このようになります。
 3年前には稚拙な捨てゲー批判として吹き出させることしかできなかった。あくまで個人の問題に留めるべき、個人の問題として理解してもらうべき事柄を、ちょっと目立つ捨てゲーという行動に絡めて自分の外にも広げよう、広がるはずだと勘違いした結果が
これの後半部でした。

 週末の恒例でゲーセン版『シルバーガン』を遊んだ同じ日の晩に更新履歴を作り、昔の文章に向かい合うことがあったせいで、そんなことを思ったりしました。
 今は静かに『シルバーガン』を楽しもう。たとえ続編『斑鳩』のアーケード正式稼働日が近づこうが、近所に入らない限り、自分にとっては発売されていないのと同じで、『シルバーガン』を楽しむ妨げにはならないのであります。


12/16(日)

 更新履歴を作ってみた。
 ずらっと並んだリストを見るのは気持ちがいい。それは別に自分のサイトだからということではなくて、乱れていたものが整然としている様子を見ると気分が良くなるという一般的なこと。作文して得られる充実感も、きっと同じことなんだろう。雑然とした思いが一列の言葉に連なっているのを見るのは、読むだけでは手に入らない、書き手だけの満足感だ。
 もっとも、整頓気分を味わいたいなら、こういうことじゃなくて部屋の片づけでもした方がいい。そしてちょうど時は年末なのだった(「よしやるぞ」という方向には行かないのか?)。
 履歴を作ったもう一つの理由は、自分の作文力は進歩していると感じたいからです。3年前と考え方が「変わった」だけではなくて、きっと「進んだ」に違いない。自分で何とか読み返せそうという気になるのは、2年前から後の更新分だもの。
 みっともないと思うなら削除した方がいいのか。強い理由ができたら削除するだろう。今はまだ、自分が形になるものを残したということへの感慨が、なかったことにしたい思いを上回っている。

 しかし振り返ってみると、1998年の更新度合には呆れるほかありません。
 あの情熱が今あるなら、どんなことができるだろう。


12/14(金)

 ゲームの中と外(現実)では、使われている言葉が違うと思いました。

 この一週間は毎日1時間ずつ『シルバーガン』の練習をしていました。私はその中のどの時間内でも大変濃密な経験を積んでいたはずです。またそれはかつてこのゲームのために費した数百時間のどの瞬間にも当てはまっていたはずです。
 なのに、それを現実の言葉で表そうとすると行き詰まる。何をしていたか、どんな体験をしてきたかを説明することができない。無理に吐き出そうとすると、身振りとか手振りとか、☆◎■※!!?みたいな意味不明の音になってしまうような気がする。それでは伝わらないので、黙っているしかないのです。
 間接的に伝える方法ならあるんですが。シチュエーションを示唆するだけで、共通の基盤を持つ人にイメージを構築してもらうかたちで。ただ、極めて有効だけれども、その方法は相手を選ぶ。
 そう、ゲームを挟んであちらとこちらでは、言葉が違う。
 これは『未来にキスを』悠歌さんシナリオに対する、自分なりの答えでもあるような気がします(まだこだわっていたのか)。

 ちょっと前にシルバーガンのことば、みたいなことを言いましたが、あれは現実の世界に向けてすでに一段階翻訳されている。本来はその前、ゲームの中での体験をぴったり記述できる、いわば原バガソ語がある。
 それ自体を、ゲームから外へ抜けた現実世界で直接通用させることはできない。そこで、多分にシステムとかイベントとかステージとか、少しでも一般化されたこの世の言葉に置き換えて、してきたことの枠組みを示す。それによって、とりあえずゲームを知っている人になら通じる言葉ができる。
 それを、ゲームを知らない人にも伝えるためには、より一般化の度が進んだ、それゆえに現場の興奮が薄まった言葉が必要になる。そうする頃には言葉につられて伝達者の興奮も収まり、割と冷静なレビューなり感想なりができあがる。

 原語の雰囲気をできるだけ損なわずに翻訳できたらいいのにと思います。そうだ、そういうことを目指して自分はこのサイトを開いたんじゃないだろうか?(←何を今さら)


12/11(火)

 そういえばゲーム批評最新号を読んでいたのだった。印象に残る記事がなかったので、ネタにするのも忘れていました。何だか緩慢な死に向かっているような活気のなさ。死にかけているのが雑誌自体じゃなく、雑誌と自分とのつながりだけであるならまだいいのだけれど。

 あ、「今号の駄作2」に取り上げられていた『スピリットオブスピード1937』は買ってます。ドリームキャストソフトの販促用新作ポスターであまりに売れなさそうなそのゲーム内容を知り、数週間後そんなものが行きつけの店に置いてあったものだから、店の心意気に敬意を表して。
 しかも買っただけでなく遊びもしました! タイトルがほのめかす通りクラシックカーばかりのレースです。昔の車だからか、給油しないで走っているとそのうちエンストし、そのままゲームオーバーになるのですが(※12/14ひとり突っ込み:燃料切れで走らなくなるのは時代と関係ありません)、棄権のジャッジが下されるまでの、コース上で何もできず放っておかれる10秒ほどの間延びした時間が妙に記憶に残っています。
 自分がレースゲームを遊んだのはサターンの奇天烈恋愛レースゲーム『Code R』の体験版以来、メディアがCD-ROMのゲームでは二度目というレアイベント。この二作が、自分の中ではカーレースのデフォルトです。
 というか、ぶっちゃけた話レースゲームはあまり好きじゃないのですが、そんな私に金を出させたんだからある意味偉いと言えます。仕入れた店が。


12/9(日)

 プレイヤーとその外側、ということを普通のゲームについて考えるとき、私の頭にはいつも『ダビスタ』と『シルバーガン』がありました。どちらも、ゲームの中に留まっていない遊び方、人同士が競い合う遊び方が目立って感じられたからです。
 『ダビスタ』ではブリーダーズカップという、育てた馬を持ちよってレースに出す形の楽しみ方があることを知り、『シルバーガン』ではハイスコアに対する熱い熱い思い入れを知った。この種の競争は、いつも自分の中で、ゲームを遊んでいれば満足な「プレイヤー」と角を突き合わせていました。
 今回の更新の過程で、その衝突に折り合いをつけることもできました。この点で、今回の更新に絡めて得られた知見はこの上なく自分に有効に働いているのです。
 対戦格闘という分かりやすい例が目に入って来ないのは、ただ自分が遊ばないからです。問題はいつも自分の中から湧き起こる。そのまま個人の問題として留め置くのもいいけれど、どこか一般性を持っていないか、他人に話しても通じる点はないか、とあれこれ考えるようになった、これは恐らく、ホームページを開いて自分が得したこととして、第一に挙げて良いものだと思っています。

 一つのネタでだいぶ引っ張る。でもこれまとめるのに丸1ヶ月かかったのだもの、一項の更新で終わらせるのはもったいないのです。
 そういえば『未来にキスを』からの影響も大きかった。一応覆い隠す努力はしましたが、見る人が見れば丸分かりかも知れず、そこは少し恥ずかしいところです。

 そして折り合いをつけた自分が何をしているかといえば『シルバーガン』。とりあえずシルバーガンのことばをまた話せるようになりつつあると自負しております(井の中の蛙レベルで)。現在4Eの1→4を練習中。
 この短文が「シルバーガンのことば」、言語っぽい響きを持たせるならバガソ語、の例です。習得人口は500人ほどと見た。


12/7(金)

 『朝のガスパール』を読み直す。
 連載時に読んでいたのに、二箇所くらいしか思い出せなかった。作者とおぼしき語り手が「虚構なら何でもできるとばかりに」机を手刀で真っ二つにする場面と、この小説の世界の構図を示した(正確には、読者がこうであろうと推測して投稿してきた)イラストの二点。
 ただし今回読んだ文庫版で、後者について検証することはできなかった。文庫版には挿絵が掲載されていないのだ。小説内で「この図を参照」した上で、物語構造に関して説明されているのだから、この図は完全に小説の一部で、これを省くのは原文の一部を削除するのと同じ。なぜ載せなかったのか不思議です。
 『プリズマ』の構造を自分で描いてみて、どこかで見た図だと思ったのが『朝のガスパール』を思い出したきっかけだから、そういう図があったのは間違いないと思う。ハードカバー版を見たら確認できるんだろうか。

 で、どちらも今回の『プリズマ』ネタに密接に結びつくところだった。事前に読もうが読むまいが、影響されないでおこうなんて無理だったわけだ。文体とか例示とか、それ以上の接近は避けられただろうから、無駄な我慢ではないと思うけれど。
 それだけ構造面で『プリズマ』を意識させる内容だった『朝のガスパール』は、初めて読むかのように新鮮で、強烈に面白い小説でした(循環はしてないけど)。
 というより、完結してからでないと落ち着いて読めない。読者の立場はぬるま湯的かも知れないけれど、当時を想像するだけで自分には十分刺激的です。これが新聞に連載されていたという過去の事実までを物語の中にまとめた上で外側から眺めて初めて分かる面白さに、連載当時の自分が気づけるわけがなかった。今読むから面白いのだと思いました。
 でも、投稿イラストがあったように、気づけてた人がいるんだよねえ。すごいや。そしてもちろん作者も。


12/4(火)

 とまあこんな感じで、ここのところ連日のようにシューティンシューティンパーティーパーティー! なゲーム+α日記ですが、先月唐突にページを更新したように、水面下では『プリズマティカリゼーション』にも大いに傾倒中であります。今が第二次『プリズマ』ブーム真っ最中。
 この『プリズマ』パワーは専ら掲示板に書き込んでいただけたことにより得られました。皆さまありがとうございます。
 そんな中でかなり恥ずかしい告白をしなければなりません。実は先日、ようやく『プリズマ』をクリアしました。正直感動しました。エンディングに至るまでを
こちらに更新します。
 PS版初プレイから丸2年、ほんっと長かった。これまでの間、自分はずっと『プリズマ』理解に関してトラック一周遅れの状態だったと、今なら分かります。これでやっと、少しは差が縮まっただろうか。
 こういうのをプレイ後一月とかで書けたら素晴らしい。でも現実は2年、そしてそれが自分にとっては必須だった。俺史上初クリア。残念ながら他に手の打ちようがありません。

 さてこれでやっと『朝のガスパール』が読めるぞ(まるで見当違いだったりして)。


12/2(日)

 しかし(昨日の続き)『ZANAC NEO』で一番の注目点といえば、これはもう
「パイロットやオペレーターが細かく設定されているのに、ゲーム中に一切顔を出さないところ」
に尽きます。

 このゲームには機体が3種類あって、それぞれに専用パイロットがついています。説明書には3ページを割いてパイロットたち、司令官、メカニック、オペレータを取り上げ、それに年齢や所属、性格を添えています。
 ちなみに2号機のパイロットは13歳の天才少女だそうで、線が細くて気の強そうな女の子。ほかにも二人のオペレータが高飛車系と清純系の香り漂うギャルで、ファミコン版ではせいぜい一ブロックの妖精どまりだったキャラクター性が続編では飛躍的に引き上げられました。
 ……と、説明書を読み終え、すっかりそのように思いこんでプレイしたところ、遊んでいる間はグラフィックの一枚も出てこない。エンディングでようやくちらっと出ましたが何のために? と疑問の出るおざなりぶり。『プロギアの嵐』級とはいかないまでも、せめて『BATSUGUN』並には設定を生かして欲しかったところでしたが、これでは『ステラアサルトSS』以下です。

※補足
『プロギアの嵐』:キャラ絵&キャラ声&恋愛システムでギャルを全面支援、の横スクロールシューティング
『BATSUGUN』:機体セレクト&面クリア時にキャラをフィーチャー、の縦スクロールシューティング
『ステラアサルトSS』:キャラ設定あるもゲーム中は絵なし、ただしなぜか声つき、の3Dシューティング

 こんなにも萌え受けしそうな絵を用いていながら、全くゲームに出さないなんて。ちょっと信じられません。これは萌えを冒涜しているとさえ言えます。
 こんなことが許されていいのか。これでは『ZANAC NEO』の美点はゲームが面白いというところだけではないか(大逆転勝利)。


12/1(土)

 PS版『てんたま』を遊んでいたときに、なぜこのゲームには曜日が表示されないのだ、といらいらしたことがあった。
 原因が分かりました。書いている最中はそれは自明のことだから。振り返ると思い出せなくなるけれど、今日が土曜日であることは今日のうちは当たり前で、だからわざわざ書き留める必要が分からない。
 自分のレベルで解釈してみました。ということでこれから曜日もつけてみる。

 週末の『シルバーガン』。ちょっと家で練習したくなってきた。本番はやはり有意義に過ごさなければいけないだろうから。
 そして家では『ZANAC×ZANAC』が超面白いので堪能してしまいました。続編というよりアレンジ版の『ZANAC NEO』もいいけれど、ファミコン版の初代が十分すぎるほど面白い。ディスクシステム持ってたのにリアルタイムで遊ばなかったんだよなー。
 こんな愉快なゲームがほんとにファミコンで? 昔に戻って確かめたくなりました。特に妖精さんの動きとか(←そこかい。あと、昔に戻らず、ディスクシステムの置いてある実家に戻ったらどうか)。



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