ゲーム+α日記(2002年6月)

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6/29(土)

 それにしても、『TALK to TALK』にしても『みずいろ』の冬佳シナリオにしても、「好き」という感情を知ることがそのまま相手との気持ちの結びつきにつながるという展開に引っかかりを感じていたのだけれど、彼らが追い求めていたのは一般的な「好き」ではなくて、「特定の人を好きになること」だったのですね。
 いや、「好き」の意味が分かったところで、実際に好き合ってみるというのは別問題だろうになぜ、と思っていたのですが、それなら分かる。
 というか、一般的な「好き」を知りたかったのは他ならぬ自分であったことが、これでよく分かりました。勝手に話を拡大解釈していたという、いつも通りの思い込み。治る見込みがありません。
 もっとも、そこで描かれるのがこちらまで影響を及ぼさない限定的な「好き」だから、平気な顔してゲームしていられるのでしょう。どのゲームも『未来にキスを』級だったら大変だ。

 ああもう、せっかく週刊ファミ通の今週号を昨日買ったのだから、昨日のうちに目を通せばよかった。
 気づくのが一日早いからといって発売日まで早まったりはしないけれども、すぐそこにある驚きを放置しておくなんてもったいない。
 と、積みゲーに埋もれた状態で言ってみても説得力はありませんが、『斑鳩』ドリームキャストに移植(http://www.treasure-inc.co.jp/product/ikaruga/ikarugadc.htmlにリンクしたいのだが、なぜか接続するたびにうちのPCがハングアップするのでこういう形で)。漢のメーカー・トレジャーに最敬礼を。こっそり値段が6,800円だが問題なし(なら触れるな)。
 待ってたってどうせ店には入荷しないんだから、予約することにしよう。
 ゲーセンでの『斑鳩』は、一度に多数の敵がわっと押し寄せるという手法で隠された解を探すために情報を一列に並べ直す、という段階で結局つまづいたヘタレっぷりだったけれど、自宅でだったらポーズとかかけながら遊べるし(←この辺がヘタレの所以)。まあゲーム中は眺めてる余裕もなかった美麗画像を拝めるだけでも(←この辺が(略))。

 『斑鳩』の発売予定が9/5、その一週間前には、この期に及んで新規参入かつラインナップ全てギャルゲーな割り切り方が潔いSIMPLE2000シリーズ第一弾『BITTERSWEET FOOLS』やら、定期的にキッドにだまされてみてもいいか(まだ懲りてないらしい)、な『Ever17』やらがあって、DC最後の狂い咲きといった印象。
 色とりどりギャルまみれの華のなかに、ひっそりと咲く無彩色の花一輪。渋い。


6/28(金)

 『TALK to TALK』大竹さんエンド。
 正解ルートにつながる選択肢が、どれも主人公の心境を繕わないものであるのは面白い。正直に生きるのって素晴らしい、と思ってしまえそうです。

 シナリオ上のクライマックスには、何とも一回りした新しさを感じました。周回遅れと思っていたのに実は先頭? みたいな。中途半端にやってしまうと手抜きと見られかねない方法だろうに、よくチャレンジしたものだ。ひとことで言ってしまうと、同じなのですな。着地点がまるっきり。
 もちろん、何もかもが同じなわけではなくて、そこに至るまでは別。一方のシナリオでは主人公の設定をそのまま話に持ち込んでいるのに対して、こちらはそれを背景に留めてある。その上で、この大竹さんルートでは、差別化を目指して、イベントやキャラ設定や、ついには主人公の考え方までを再構築した、そんな印象があります。
 後ろから作られていったのが見えるシナリオだけに、それを前からたどるとちぐはぐさが感じられます。その分、相対的に、話を読み進めるにつれて面白くなってくるとも言えます(←褒めてないだろ)。

 主人公の心理描写はこちらの方が丁寧で、ここには解説の意味も込められているのかも知れない。自分にとっては復習でした。
 この先に何が起こるかを予測できている、ということを知らされるのは快い。自分がこのシナリオを楽しんだ何割かは、そういう得意げないやらしい気持ちが占めていることは否定できません。
 もちろん、この「着地点」が好きだというのもあります。こういうことは何回に分けてだって語ってもらいたいものです。

 「人間でない存在」を主役にして恋愛ものを描く、というのは、それだけで十分に挑みがいのあるテーマだと、今では思える。このゲームはみさきと大竹さん、二人のシナリオを両輪としてそれを成し遂げた、そう思います。


6/26(水)

 久々に『TALK to TALK』続き……に入れた。活発音楽少女の大竹さんルートへ。
 選んですぐではなく、ずっと先まで(甚だしくはエンディングまで)気づかないのでもなく、選択肢から少し先で正解かどうかの見当がつくのは、バランスのいい選択肢の付け方だとは思う。でも、選択肢が出たときとまるで異なる場面でそのことに気づかされるというのは善し悪しだ。
 話が意外な展開を見せたことへの驚きが勝つか、選択肢と話がかみ合っていないことへの苛立ちが勝つか、言い換えれば、少しでもゲームっぽい選択を楽しめるか、ストーリーをたどることを楽しみたいか。その時の気分次第でそれは変わる。
 このゲームにはそういう選択肢が多い。あるいは、気持ちのゆとり度を測るのに使えるかも知れない。

 大竹さんの辛抱強さ、つきあいの良さには呆れる。主人公と彼女とのやりとりが続いているのは、ひとえに彼女の丁寧な応対による。
 主人公の発言は時に攻撃的で、そのことばの強さを主人公が自覚していないために、なおさら強い力がある。それを、彼女はいちいちしっかりと受け止めた上で返してくれるのだ。
 これが樹里先輩だったらボケでかわしてうやむやにするだろうし、みさきは先輩を立てる気持ちが優先して毅然とした態度は取れないだろう。白倉さんはそもそもあまり反応しないし、まだ一人残っている不良少女なら突っかかってくるに違いない。
 大竹さんは人間ができていすぎる。これが音楽活動で積んだ修行の現れなのか。

 二人の会話を見ていて、ひょっとしたら彼女は怒ることを知らないのではないかと、ちょっと不安になった。しかし、我らが主人公は、そんな自分の心配を振り払うように、常に彼女に無神経であり続け、やがて彼女の堪忍袋の緒を切ってくれるのだった。
 彼女のそんな様子を見られたときは、幾分ほっとしました。他人の感情をあらわにさせて安心するとは趣味が悪い。


6/23(日)

 今週の週刊ファミ通にギャルゲー初心者講座のような記事が。感心したのはサンプルとなるゲームが幅広かったところ。昨今のドリームキャストにおけるギャルゲーの充実ぶりを考えると、市場の広さがどうであっても取り上げないわけにはいかないところだけれど、その辺はためらいなく拾っているように見えて好感が持てました。幅広く目が届く専門家がいると強い。
 そして、ああ俺ギャルゲーの設定の奇抜さに慣れてしまっているなあ、と改めて感じたのが、主人公とギャルたちとの関係の図示。
『HAPPY★LESSON』の図には、設定を知っていてもつい笑ってしまいました。

 散財計画完了。なに、パソコンを買ったわけでもなし、と比べる対象を広げれば、大したことない気も。
 そんな中で起動時間が最も長いのは宇多田ヒカルの3rdアルバムだったりするんですが(車の中で聴けるから)、シングル曲の「traveling」に今になってハマりました。
 出たてのころはそれほど気にならなかったんだけれども。こんな狂気じみた曲が売れまくる世の中はいいのか悪いのか。いや、他人のことはともかく、こりゃすごいや。


6/21(金)

 ふいー。
 今週後半はスケジュールがなかなかきつく、ゲームで遊ぶ時間なし。
 こういう日が続くと欲求不満がたまっていき、それはやがて、ゲームの時間が取れないならせめてゲームに接したい、とばかりに「ゲームを買う」方向へと向かいます。
 というのが、なぜ遊びきれないのにゲームを買うのか、という行動に対して今思いついた仮説です。遊べない「のに」買うのではなく、遊べない「から」買う。我が身を振り返ると(それしかできないのだけれど)しっくりくるように思います。

 ところで、「このゲームのためになら本体を買う」というキラータイトル一本の下には、「本体があるなら遊びたい」いくつものタイトルが眠っているものです。新しいハードを買うと、それらの潜在的な物欲を掘り起こすことになります。いきおい、新ハードの購入には慎重にならざるを得ません。
 いっそ、そのハード専用ソフトという位置づけであれば、買って悔いなしのボーダーも下がるかも知れない。
 お笑い激写ソフト第二弾のために、テレビにつなぐDVD機を。
 ほのぼの恋愛シリーズ3本セットのために、PCにつなぐDVD機を。
 前者は多数の物欲につながり、後者は専用ハードとなる(DVDとしては)、そんな予感を伴う今日この頃です。

 新刊の音沙汰のないゲーム雑誌「gM」が、自分のPCゲームの方向性の基礎になっていることを自覚しています。
 あれは刷り込み現象だった。


6/18(火)

 この前読んだ『超アーケード』の勢いに感染したようで、いろんなゲームを遊びたい、ゲームをきちんと遊びこみたい、遊びこんだゲームについて書きたいといったエネルギーがたまってきているように感じます。
 ただ、「広く」と「深く」の両立は辛いし、遊んだゲームが自分の中に定着して冷静に振り返れる状態になるまでには時間がかかる。さらに、あまり時間が経つとゲーム内容を忘れてしまい、ぼやけた印象をもとに間違ったことを主張したりしかねません。
 タイミングが大事で、何か文章が書けるときはそう長くは訪れてくれないみたいです。忙しいとかの、理由にならないはず(←建前)の理由もあるし。
 うまいタイミングが来てくれないだろうか。

 まずは遊びかけのゲームから、と『TALK to TALK』を再開するも、何とびっくり「不正な処理」による強制終了にてプレイ続行不可能。
 確かに、これはPC上で動いていたんだなあ。今まで気にしたことがなかったけれど、トラブルを経験しなかった方が珍しいのかも知れない。
 これが
 × このプレイヤーはヒロインに不実な処置を行ったので強制終了されます。
 納得しない場合は、プレイヤーの行為を思い返した上で再選択してください。
でゲームオーバーになるなら、自分がこのゲームに始めに抱いた印象に沿っていて、あるいは感心したりもしようけれど、そういう引いた視点をこれまでのところ全く見せてこない本作に対しては、普通に腹を立てるべきだろう。
 コラ!


6/15(土)

 まずは『激写ボーイ』を一通りクリアする。後半アイディアが切れかけとは感じましたが、初見のインパクトに比べたらしかたないかも知れません。
 ターゲットの現れる場所とタイミングがランダムだったら難しすぎるし、完全固定でガチガチの覚えゲーというのも味気なくて、どちらもイライラしそう。その点、覚えゲーにしつつも照準の広さとスコアのボーダーの低さで敷居を下げ、味気なさや低難易度による物足りなさは笑いでカバーしているこのゲームって、すごくバランスいいよなあ。ちょっと遊ぶには最適だと思います。
 ということで知人に勧めてみたものの、タイトルだけで一笑に付されました。そっちの笑いじゃなくて、遊んでゲームに笑わせられて欲しいのに。

 そして返す刀で『TALK to TALK』をプレイ、蚊の鳴くような声のクラスメート・白倉素直嬢をばっさりとクリア。やっとだよ。
 思えばこのゲームにはクラスメートのヒロインが三人も。互いに近い空間にいることを強制する学校というシステムがもたらすこの属性をこよなく愛する自分ですが、しかし隣の席が野郎というのは大変にいただけない。それでは同じクラスにいる意味が薄まります。あのクラスには学期頭などの節目にぜひ席替えをお願いしたい。
 まあそれはともかく。ネタバレにつき色を変えます。

 教えてもらったらダメです。
 「好き」ってどういうものか、それは主人公が気づかなければいけない。間違っていてもいい(というより、正しいか間違っているかなんて分からない)、迷った末に自力で探し当てる、そういう形でこそ定義ってのは実になるのだし、そういう主人公の様子を通じてプレイヤーも納得するというもの。
 それに、素直嬢の「好き」が主人公の「好き」と同じである必要なんてないはずなのです。それがたとえ二人にとって都合がいいとしても。
 自分が『システム』の立場だったら、主人公のテストはここで失格にする。「好きってどういうものか分からない」と言ってしまうのは、身分を明かしてるようなものじゃないか?
 そして、この二人にアダルトシーンは似合わないな、と思っていたら、彼女に、これまで見てきた性格からは導けそうにない行動を取らせる、ということで落着。18禁としての辻褄を合わせにいった感じがしました。

 それにしても、このゲームでは主人公並みにモテまくりな奴がいて、彼の存在は物語に大きく関わっているのですが、こんなにもゲームの外を意識させる設定でありながらゲームの中で閉じているシナリオってありなんだろうか。
 宝島に入って、宝のすぐ側を通過して帰る気分。ここまでされると、わざとやってるんじゃないかと思い始めてきます。


6/11(火)

 -phileは「〜が好き」って意味だよ、たとえばネクロフィリアのように。
 と何げなく話したところ、当惑の顔つきに会う。
 しまった。うっかりしていた。仕事上の説明にはちょっと不適切な例示でした。
 でも、うっかり口にしたのがペドフィリアじゃなくてよかったね。

 ところで!
 写真ゲームつながりで遊んだ
『SIMPLE1500シリーズVol.94 THE カメラマン』の面白さに感動しました。
 取り澄ましたシリーズの仮面を剥ぎ取れば、中身は名前しか知らなかった『激写ボーイ』。横スクロール面を強制的に進みながら、随所に見られる大小さまざまなハプニングに照準を素早く合わせて写真を撮る、というアクションゲームですが、ノリノリのばかばかしさに、時を忘れて激写しまくりです。
 フィルム数に限りがあるため、一枚の中に被写体を集めた方が得なようですが、こんな台なし写真を狙うやつがカメラマン代表でいいのか、シリーズの題名よ。うわあ、『激写ボーイ2』が無性に遊びたくなってきました。これのためにPS2を買うのか?


6/9(日)

 二雑誌からの統合新装開店創刊「ユーゲー」1号にちらりと出てきたのを見て興味を持ち、だまされたつもりで試してみたPS用ソフト『まじかるで〜と』は、プレイ前のチンケな予想をぶっちぎってすごかった。
 ちなみに、雑誌の記事では中古価格609円だったそうですが、当地の中古屋はさらにその上(下?)を行く380円でした。

 ポリゴンギャルを連れていくつものミニゲームをこなしながらデートスポットを目指し、到着したらいろんなアングルで記念写真を撮る、という内容なんですが、というかもう、なぜそこで写真を撮る!
 って、まあそれは彼女がポリゴンだからだろうけれども(自己完結)、どんなに被写体がガクガクしていても、カメラを持たされるとベストショットを狙ったりいろんなところをズームしたりしてしまう、そんな自分が情けない。それがたとえゲームの目的であっても恥ずかしい。そもそも遊ぶこと自体が恥ずかしい。
 そして、「体操着を着せて睡蓮の上で歌って踊る女の子をさまざまな視点で眺める」というおまけ、その名も「ダンスモード」のフェチ炸裂ぶりにも脱帽なのです。
 いや、数あるコスチュームの中から体操着を選んでみたのは自分ですが。

 驚くべきことに、これはもともとアーケードゲームだったそうで、当時コインを入れた人は勇者と呼ばざるを得ない。
 しかし、こういうゲームがかつて出ていたということを知ったのは有意義でした。やっぱりローマは一日にして成らず、なんだなあ、と、ミニゲームの一つに「星を探して!」なんて名前のを見つけて感慨にふけったりした次第です。
 またゲームと関係ない邪道なことを思ってしまった。


6/8(土)

 そんなこんなでやっと再開した『TALK to TALK』だけれど、セーブデータを遡って別キャラのルートに進もうとしてみてもうまくいかない。何段階か日付をずらして試してみたものの、どれもバッドエンドへまっしぐら。
 これは初めからやり直しか? 案外難しいのか? しなければならないなら是非もないけれど、気勢をそがれた感じではある。

 仕方ないので一旦ゲームを止める。予定外の空き時間ができた気分。そこで、この気持ちの空白を考えごとでもして埋めようと思い、ゲームの定義について考えてみた。正確には、今遊んでいた『TALK to TALK』のような読み物タイプのゲームを「ゲーム」と胸を張って呼べるように「ゲーム」を定義できるかどうか、考えてみた。
 そして、現実の外の世界に対して働きかける一つの動作を、ミクロな単位でゲームと呼ぶことにすれば良さそうだということに落ち着いた。

 前に、ゲームとは世界のことだ、って思ったことがあったけれど、世界があるだけでは足りない。本来接点のないはずの二つの世界がつながって影響を受けるとき、その何かしらの接点が、あるいは接点ができた二つの世界を含む状態がゲームである、ということにすればいいんではないだろうか。
 アクションやシューティングの場合は、その接点がひっきりなしに訪れ、他に気を取られる(我に返る)暇がない。それに比べてアドベンチャーは、例えば複数の選択肢から一つを選んだ瞬間、さらにはページ送りのためにボタンを押した瞬間がゲームであっても、その結果を読みとるときはゲーム側の世界を離れて、現実の側から意味を読みとらなければならない。文章なんかは特にそうで、あれはこちらの世界の言葉で書かれているから、意味を知るためにはどうしてもゲームから抜け出なければいけない。
 ゲームである状態が長続きしているかいないか、それがいわゆる「ゲームっぽい」ゲームと、「ゲームっぽくない」ノベルタイプのゲームの違いで、それは量的な差でしかないのではないか。

 ここで、じゃあノベルゲームでページを送るのと、ビデオで映画を見ていて一時停止〜再生を繰り返すのはどう違うんだ、と思いもした。
 映画を止めたら、全てが止まってしまう。映画の中の世界が動かなくなってしまう。それに対してゲームでは、自分が入力していなくても、世界が動いていると感じられる。その役割は、音楽が果たしている。音楽が止まらず流れ続けていることが、ゲームの世界が動き続けていて、かつ自分の干渉を待っていることを感じ取らせてくれるように思う。
 もちろん、音のない状態も可。鳴るはずの音が中断させられてしまったら不可。

 世界がその中にあると感じられるよう、動き続けていてくれなくてはだめで、またその中に入れるよう、接点を持てなければだめ。逆に、その二点をクリアしていればそれはゲーム。
 そんなところか?

 ちょっと青くなってみた一日でした。


6/6(木)

 『超アーケード』(太田出版)を読む。
 これだけ多くのゲームの引き出しがあるのが本当にうらやましい。ゲーム教養の総ざらえというべき勢いに呑まれまくりです。

 最初の一行で誰の原稿か見当がつくくらいには、この本を含め過去のシリーズその他雑誌でのレビューを読んできましたが、同じゲームレビューというテーマを持ちながら、この本の共著者三人の作文スタンスが異なっているのを見るのは興味深い。
 下手にこれらの文体を真似ると、それぞれ単なる紹介・独りよがり・小手先の技巧に走ったものになってしまいます。そうならないようにするためには、そのゲームへの情熱・ゲームに限らず広いジャンルにわたる知識・ゲームそのものへの洞察を加える必要があるみたいです。
 手本とするなら最初の方針を。読者と知識を共有できる自信があるなら真ん中のタイプにチャレンジ。最後のは模倣の対象にはなりません。頑張って書いた結果がこうであったらいいな、とは思います。

 乏しいながら、いろいろまねっこしてみた経験からの感想でした。


6/4(火)

 あ、あれ?
 あんなにかかり切りでも達成できなかった『ミスタードリラー』の×ブロック無破壊称号を、今日の初プレイですんなりゲット。
 頭上からのブロック襲来に備えて「できるだけ掘り除いておく」ことを方針としたため、クリアタイムは遅くなったものの、ノーミスクリアなら余裕の条件達成であります。
 むー、こういうものはこれから先も死ぬほど苦労して、やっとクリアした暁には二度と遊ぶものかと心に固く誓うほどの難関であって欲しかったのに。そうすれば無事このゲームを卒業できたものを。これでは拍子抜け。
 さらに良くないことに、自分が『ドリラー』に開眼したのではないかと勘違いし、その確認を取りにリプレイを始めてしまいかねない。あるいは、たった一つの命で果てなき深みを目指す「とことんドリラーモード」へと矛先を向けかねない。
 どこまでも性悪なドリラーの神です。あと、わがままもたいがいに。

 ときに、先週末のどっぷり『ドリラー』漬けも、あれは自分が望んでしたことなのだった。
 そういう遊び方を現実逃避と呼ぶのは、現実の側からの驕りというもの。ゲームしてない状態を「ゲーム逃避」と嘲笑されても、何のことか分からないかも知れない。ただ、両者がコインの裏表であって、そういうふうにあげつらわれる可能性も考えておかなきゃいけない、少なくとも自分は。
 あるかどうか知れない、さらなる潜在的な鬱に怯えて、『TALK to TALK』からしばらく遠ざかっている今の自分には、「ゲーム逃避」と後ろ指をさされるのがふさわしい。反省しています。


6/2(日)

 この週末の空き時間を『ミスタードリラー』で丸ごと潰してしまいました。

 ×ブロックを壊さずに称号ゲット、を狙ってアーケードモードを遊んでいたのです。
 ところで、こういう制限を加えるのは、実はプレイする上では楽です。結果的に工夫や難しい操作をしなければならなくなるかもしれませんが、取り得る行動の候補が減るのであれば、組み合わせのパターンが減るから、考えるのが楽になる。世界が狭いほうが、ゲームの面白さはストレートに出るような気がします。元が面白いゲームだからではあるのでしょうけれども。
 そうしたら、1ミスはしたものの割とすんなりクリア。回復&スコアアイテムのAirカプセルもおそらく全て回収。
 期待しながらスコアを見たら、599600点。

 称号の条件は60万点なのです。計ったように届かない。なんですかそのちっぽけな点数は。ノーミスならもちろん(ライフボーナスは3万点)、あと少しクリアタイムが早ければ、あと少し多くブロックを壊していれば、カプセルのダブル取り(100mごとの区切りの床の真上で上から落ちてくるカプセルを待ち、キャッチしたと同時に床を掘ると、二つ取ったことになる。一粒で二度おいしい怪現象)がうまくいっていれば……など、この結果にはリトライ感を著しく煽られました。
 それから数時間、延々と。ほんとバカだと自分でも思う。

 時間が長引くにつれて成績は落ち、さらにだんだん腹立たしくなってきました。理由は二つ。
 自分ルールだと「詰んでしまう」ことがあるのです。下と左右を×ブロックに囲まれて移動できなくなる事態にたまに出くわす。画面から下に切れて先の見えない縦穴を落ちてみたところ×ブロックの井戸に着地した、なんてときは脱力します。あと要注意なのは左右の壁ぎわ。一方が壁だと詰む率も高い。壁際には近寄らない、という戦略が必要となります。
 もともとそんな場合の救済措置として、×ブロックが壊せるシステムになっているのだから、そういうときは例外としても良いのではないかとも思えますが、どうにもその妥協を許す気になれません。たとえ続けても、それは気持ちの中では参考記録扱いとなるのです。
 厳密には完全ハマリではなくて、段差のあるところで窒息死すればいい。死ぬと自分の左右のブロックは消えてくれるので、それを待てば道は開けます。しかし、タイムロスが出るため結局称号からは遠くなってしまう。それに、ススム君に死を強いるのは忍びない。こういうときはリセット→再スタートです。捨てゲー。その方がススム君も幸せだろう(何を勝手なことを)。
 ちなみに、リスタートが瞬時にできてしまうことが、このゲームの中毒性を飛躍的に高めていることは間違いありません。何とも罪な機能だ。

 もう一つの理由は、クリア時間を縮めようと急ぐことによって死の危険も増してきた、というものです。ブロックが皆落ちきるのを待たずに先へ進もうとしているので当然ではありますが、時として画面外から降ってくるブロックに反応できず潰されることがあって、それがたまらなく悔しい。
 一連の崩落を避けきって気が緩んだ、まさにその瞬間を狙ったように、コントの金ダライよろしくかけらが頭上に降ってきたりするのです。ドリフじゃないんだから。思わず笑っちゃうけれど、死んだと思えば笑みも凍ります。
 見えてないと思って、ドリラーの神がブロックをどっかからつまんできて落としてんじゃないの? と疑いたくなるタイミングの良さ。
 本当にそうだったらゲームをやめる理由にしますが、そんなことはないはずだと思うからやめられません。

 ゲームの中で腹立たしかったり悔しかったりするのは、ゲームをただ遊んでいるだけではどうにも手の打ちようがないから。ここは一つ、その悔しさを取り除けるよう、対策を立てなければ。「詰み」を少しでも避けられるよう、壁ぎわに寄らないことにしたのと同様に。
 そうすれば目標達成はすぐそこ(のはず!)だ。



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