ゲーム+α日記(2002年7月)

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7/31(水)

 『リヴィエラ』の各キャラとの信頼度は、どうやら戦闘の締めを任せることでも上がっていくようです。
 イベントでの選択肢しか信頼度を上下させる手段がないかと思い、だからエンディングを見るためには最初から何度もやり直さなければならないだろうと覚悟していたのだけれど、もしかしたら終盤のバトルで一気にパラメータアップ、なんてこともできるかもしれない。それなら終盤のセーブデータからやり直せば済むことに。どうなんだろう。

 しかし、かっこよく必殺技を決めて戦闘を終わらせることでアップする、という「信頼度」は、ハートマークが出てくるような、「好感度」とも呼び替えられるな感情とは相容れない、と思うのです。
 だって、締めといえば聞こえはいいかも知れないけれど、それはその実「とどめを刺す」ということ。飛び散る血しぶき、黒こげの肉片、断末魔、そんな粗野な諸々を女の子に生産させて、果たして信頼が得られるものだろうか。むしろ「ここは俺に任せろ」と敵を一掃してこそ、頼りにされるのではないか。

 実際のところ、彼女たちの攻撃で戦闘が終わる、と踏んで命令を出すのはプレイヤーなので、ここで上がる「信頼度」はプレイヤーと彼女たちを結んでいる、と考えることができます。
 その攻撃で片を付けるもくろみでコマンドを実行に移すとき、プレイヤーは彼女たちの能力を信頼していることを示したことになる。よって、その命令を出すごとにプレイヤーの彼女たちに対する信頼度は上がる、と見ていい。
 首尾良くその狙いに応えてくれたとき、彼女たちは自分の番で戦闘が終わったことを初めて知り、締めを任せてくれたプレイヤーの信頼を感じる。そして、その信頼を受け取ったことを、ゲーム内のパラメータである「信頼度」の形で示してくれるのです。
 だからエンディングはきっと、プレイヤーと彼女たちの信頼関係を表すものであるに違いない。

 なんて自分に都合のいいことを想像しましたが、それだと主人公に悪すぎます。
 信頼度の上げ下げは、できるだけイベントだけで賄うことにしたい。それだとリセットの連続で時間がかかるんだけども。


7/29(月)

 覗きイベントまであるとは。『リヴィエラ』のギャルゲー資質の高さには感心せずにいられません。微妙な行動の差で見られなくなるところもツボをついている。

 これが並のギャルゲーならプールなり風呂場なりになるところですが、このゲームはファンタジー。よって
「素裸の精霊たちがウンディーネの泉で水浴び」
という、それだけ聞けば絵画にでもなりそうな魅力的なシチュエーションが誕生するのでした。等身大の女の子を「精霊」と認めさせ、水着などというものを無粋に感じさせる舞台設定の力を、改めて思い知らされます。
 しかも、そのイベント中は、水浴び中のキャラの会話グラフィックまで脱衣仕様となる気合いの入りぶり。
 もちろん、覗かれた仲間の主人公に対する信頼度はがた落ちしているのがステータス画面でほのめかされ、またそんなことは知らされるまでもなく明らかなので、プレイ正史に組み込まれることはありません。
 イベントを起こしたら、メインに進めているのとは別のファイルにセーブし、イベントCG集(こんなものが隠しオプションにある)に取り込んだ上で、改めて覗きなどなかったストーリーを歩む。
 ちなみにその一枚絵のタイトルは「魅惑の沐浴シーン1」。沐浴! そんな言葉に出会えたことに感謝したくなります。あと絶対2も見つけだすぞ。

 例のダメ攻略本には、この絵の原画が載っているのですが(そういう気が利くなら、なぜこのイベントの発生条件を載せない)、そこには「ルゥリのかんじんな所は滝のしぶきでかくす」なんてメモ書きが残っていたりして、本書の価値の9割はこのメモにあると言っても過言ではないでしょう。
 そんな細かい文字を必死で読み取っているさなか、ふと我に返ると、その状況のファンタジーからの落差にはうなだれるばかりです。


7/27(土)

 『リヴィエラ』の攻略本(公式コンプリートガイド、ソフトバンク刊)が出ていることを知ったので早速買いに行く。
 一度クリアするまでは封印しておくつもりだったけれど、既にクリアした章なら見てもいいかな……と思い始めたら止まらず、結局誘惑に負けて開いてしまいました。
 そして。

 ぐはー。全然ダメだ〜。
 このゲームは道中の好感度によってエンディングが変化するらしい。それなら複数回プレイが必須。そういうゲームに最も求められるのは、一度遊べば必ず遭遇する物語上のメインイベントよりも(それは当然押さえなきゃならないんだけれども)、どの行動で好感度がどう変化するかに関する情報だろう。
 それから全アイテムの効果、必殺技の効果(もちろん敵のも)、そういった数値データを網羅した表。表のない攻略本に存在価値はほとんどない。そして隠し要素やイベント一覧とそれが出る条件。あとは気の利いたところで設定資料の公開、ゲーム自体のチュートリアル(もちろん説明書の上を行くもの)、作者インタビューなど。攻略本の構成要素といったらこんなところだろうか。
 この本、どれ一つとして完備されてないんですけど。
 選択肢のことはほとんど出てこない。ただ「信頼度」というパラメータがあります、エンディングが変わります、と書いてあるだけ。そんなの遊んでれば見当つきます。技表にも数値がない。アイテムリストは戦闘中の情報をそのまま並べただけに見え、補足がない。イベントの一枚絵もどうやったら出せるのかについての記載がない。さらに、ゲームでは2章と3章の間に0章というべき中休みが入るのだが、0章のことには全く触れられていない。

 これほんとに攻略本なのか、それも「公式」「コンプリート」だと。やっつけ仕事臭がぷんぷん漂ってきます。
 そりゃハードがハードだからバカ売れは期待できないゲームだし(ファミ通見たら発売週の売り上げが7000本弱)、そんな攻略本に力注いでも見返りは知れてるだろうけれど……いや、そんな事情を消費者が考えるなんて作り手に対しておこがましいですね。やめよう。
 出すと決めたんならちゃんとした内容のものを、値段上げてもいいから出して欲しかった。この中身じゃ、羽を生やして飛んでいった1600円が成仏できません。


7/24(水)

 そういえば、うちのスワンクリスタルには赤く映りっぱなしのドットが二点あるのですが、そんなところにも、ファンタジックな冒険活劇を映し出す「ひび割れた水晶」のイメージが感じられて、異なる世界に橋かける媒体としての魅力を増していると考えられますか?(←そこまで無理に好意を抱こうとしなくても)

 本体の説明書には「ドット欠けはいくらあっても故障ではありません」と、いや「いくらあっても」とは明記されてないにしてもそう取れるニュアンスの但し書きがあって、TFTだからしょうがないのか、それにしてもどこまでがしょうがない範囲なのか、「パネルクイズアタック25」の最終問題ばりに市松チックな画面でも許してもらおうという意図なのか、ちょっと気になるところではあります。
 ちなみにゲームボーイアドバンスの但し書きは、スワンとほとんど同じ語彙を用いながらも句読点レベルで違いが見られますが、その違いが説得力の差になっているような。
 GBAでは「頑張って液晶作ってますが欠けがあるかも知れません。故障じゃないんですよ」という感じだけれども、スワンの場合は「頑張って液晶作ってます。欠けがあるかも知れませんが故障じゃないんですよ」と、せっかくの「頑張り」が生きてきません。
 思わぬところでGBAに軍配が上がってしまいました。
 携帯電話はどうなっているのだろうか。


7/22(月)

 『リヴィエラ』を遊んでいると、ゲームと自分との適度な距離が好ましく感じられます。
 このゲームでは、主人公をプレイヤーの意のままに操ることはできません。目の前に道が延びていても、直接操作してその道を歩かせることはできません。
 その代わりにプレイヤーができるのは、「先へ進む」か「引き返す」かを選ぶこと。選ぶことによって、主人公(や一行)は動き出します。
 同様にして、「話しかける」「宝箱を開ける」「彫像を調べる」といったコマンドが適宜現れ、選んだコマンドに応じた行動がグラフィカルに展開されます。
 このアドベンチャー的なシステムに目新しさは感じませんが、選択の結果が逐一絵で表されるのを見ていると、楽しいばかりでなく、このシステムは理にかなっている、と感心したりもするのです。

 『リヴィエラ』の背景画は、光の当たり方が映えるように、また自然物の質感が目立つように、と力点を置いて描かれているように思います。そのような観点で絵が細かく書き込まれるほど、例えば描かれた道が持つ「通路」という記号が分かりにくくなります。
 ただし、分かりにくいのはあくまで、その絵を異なる世界のものとして眺めているプレイヤーにとってであって、その世界に住む登場人物たちは、当たり前に道を通ったり、扉を開いたり、木々に隠れた小動物をめざとく見つけたりすることができるはずなのです。
 『リヴィエラ』は、絵に貼り付いていた、異世界のプレイヤーのための記号を思い切りよく引き剥がし、伝えるためならこの上なく分かりやすい文字の形にしました。その一方、プレイヤーの意志を汲み取ったキャラクターは、彼らの世界を制限なしに思う存分駆け回ります。
 その様子から、和気あいあいで楽しそうな仲間たちの雰囲気、敵に遭遇したときの緊迫感、感謝されて照れている様子など、文章にしたら長々しい描写が必要になりそうな情景を読み取れる、つまり、ゲーム進行は文章主体でありつつも、絵に多くを語らせることで世界が広がっているように感じられる、そこがこのゲームの良いところだと思うのです。

 プレイヤーが主人公の動作を支配するのって、アクションゲームでは当然のことではあるけれど、その密着しすぎぶりは尋常ではないと、このゲームに接してから、ふと思うことがあります。
 そして、普段から密着しているがために、肝心なところでのもどかしさ(地形に引っかかったり、敵の攻撃をかわせなかったり)が引き立ってしまっていた例として持ち出すのに適切だったのが、件の『聖剣伝説2』だったわけですが、あげつらうのももうこのくらいにしよう(←なら持ち出すな)。

 そんなわけで、主人公に対するプレイヤーの関与を薄めたこのゲームのあり方に基本的には満足しているのですが、たまにはこの隔靴掻痒ぶりがじれったくも思えて、自分のせいでパーティーの調和が乱れるのが分かる選択肢を選んでみたくなります。
 「かわいいリスがいるね」と話しかけられて現れた選択肢から「(リスよりも)ルゥリの方がかわいい」なんていう、あんまりにもダイレクトなのを選ぶと、主人公は少し間を置いてから、頬を赤くしつつルゥリの方を向いてその通りきちんとしゃべってくれるのですが、しゃべる前のその間の意味は「僕はなぜこんなことを言おうとしてるんだろう」とのいぶかしみであるに違いありません。
 その発言を聞いたルゥリの反応や、他の仲間が鼻白む様子がたまらなく面白いのですが、そんな作者とプレイヤー共謀の意地悪にもめげず、主人公たちは今日も冒険を繰り広げ、我々の目を楽しませてくれます。


7/20(土)

 『リヴィエラ』やっと3章突入。
 一章は10分割されていますが、その十分の一をクリアするのに1時間半かけた自分が呪わしい。そんなに時間がかかるのは、選択肢の直前からやり直すことができないためです。
 と書いてみて、それは問題の一面でしかないことに気づきました。やり直そうと思わなければ、セーブポイントの間が離れていようが気にならない。戦闘や選択肢がやり直そうと思わせる作りになっていることと合わせて初めて、プレイ時間への負担につながるのです。

 武器を選んで戦闘に出てみたら、その武器に耐性を持つ敵が相手だった。そんなとき、武器を持ち替えることはできません。戦闘シーンの前にあらかじめ、武器を含めて使うアイテムを決めなければならず、それ以外は使わせてもらえないのです。
 では攻撃できないサポートアイテム(ポーションとか)ばかり持って出陣したらどうなるか。気になったのでやってみたら、手も足も出ないという結果でした。正確には、手持ちのアイテムが尽きたところでゲームオーバーに。
 アイテム選択は各自の責任で行い、ミスはリセットで償え、という割り切り方は潔いのですが、そんなふうにリセットを遊びの中に半ば前提として組み込むんだったら、もう少しセーブの使い勝手を良くしてくれてもいいのに、と思います。

 他にも、戦闘を繰り返した末のイベントでいかにも仲間の好感度を左右しそうな三択が出てきて、この子にいい顔するならこっちだけど、そっちを選んで反応も見てみたい、といった悩みに悶えたあげく、片方を選んで結果を見てはリセット、なんていうプレイスタイルになりがち。
 そう、章クリア後の成績発表時には「ご機嫌キャラ」の表示が! さらに3章では仲間が4人に増え、それも主人公以外は全員女の子という気前の良さ。あちらを立てればこちらが立たず、もはやご機嫌取りゲームと化しているありさまです。
 ま、これはこれで楽しいからいいか〜。一人ばっかりひいきしてパーティーの仲が険悪にならないかが心配です。いいのかなそういう遊び方で。


7/16(火)

 『リヴィエラ』を遊んで、第一印象に浮かんだ『ブラックマトリクス』は世界観、『伝説のオウガバトル』はバトル画面の見た目とリセットを促される遊ばせ方(ひどい連想だ)だったようですが、ストーリーに関するシステムについて思い当たったのは「ゲームブック」でした。

 ゲームブックの楽しいところは、選択によって話が何通りにも分岐するところよりも、途中で出てくるアイテムや数値が、本で伝える話とうまいことリンクしてくる点にあったと思うのです。
 それは、文字の力だけに頼らざるを得ない本の立場からすれば抗議の一つもしたくなるような、語ることを踏み越えたやり方なのだけれども、話とリンクすることによって、持っている(と「データシート」にメモしてある)「宝物」がほんとうの宝のように思える一瞬、あるいは自分の体力の値やサイコロの目が大切なものに感じられる一瞬というのは、やはり得難い楽しみでした。そういう報いがあるから、めんどくさいデータの管理だって厭わないでいられたというものです。
 『リヴィエラ』の話の進み方とアイテムやスコアの組み合わさり方は、良くできたゲームブックのようになめらかです。ゲーム中で役に立つかどうかとは別に、選択の見返りとしてアイテムをもらえたこと、ただそれだけでも嬉しいと思うことができます。

 そして、プレイヤーができることはゲームブックのように常に数個に限られていますが、それを不自由と感じさせない広がりをこのゲームは見せてくれます。
 というより、あらかじめ枠にはめられた不自由さの中で、精一杯の自由を見せてくれている、と言った方が、ゲームとしての『リヴィエラ』を表すのにふさわしいでしょうか。
 ここで、自由さを売り物にしているように見せながら、至る所に不自由さの枠をはめることで辛うじてゲームを進ませていた例として、頭の中でこっそりと、スーパーファミコン用ソフト『聖剣伝説2』を比較対象にしていますが、それについては絵の使い方と関連してそのうち話題にしそうな気がします(と自分メモ)。
 でもこれもいい加減、教材としては古いな。携帯機どうしのよしみで
『マジカルバケーション』とかを遊ぶべきなんでしょうか。でもキャラデザがなー(どうしてもそこにまず目がいく)。

 上記のような感想を、ゲームを終えてからも持ち続けたいものです。
 まだ2章終盤。リセットしたくなる戦闘&セーブシステムのせいで、プレイの進まないこと。嬉しい悲鳴を上げたくなります。


7/14(日)

 自分の中でけじめがついたので『グラディウスIII』終了。
 けじめ、というのは、もうやらなくていいやと思うことで、今回の場合は、ラスボスを倒した後に高速スクロールで狭い通路を抜けていく場面に出会ってそう思いました。これは単純につまらなくてやりたくない。
 あとは難易度をNORMALにして、面セレクトツアーでEASIESTからの変わり具合を見てみた程度。きちんと、さらに難しくなってました。ラストほどではないにしろ、こちらにも満腹しているので、当分いいかな。

 13年前のゲームの次は旬のゲームを、ということで2日前に出たばっかりの『約束の地リヴィエラ』。もちろん相棒はスワンクリスタル。いつか買うと思いながら先延ばしになっていたワンダースワンに、やっと俺的キラーソフトが出ましたよ。
 広告に載っていた画像に惹かれていたのですが、実物は看板に偽りなしのナイスグラフィックでした。光の当たり具合が実に美しく、質感のある絵に仕上がっています。
 そんなきれいなフィールドの上を、ちまちまドットキャラがかわいらしく動き回る。それを見てるだけで楽しくなります。
 ゲーム内容は、大なたを振るってめんどくささを排除した『ブラックマトリクス』というか『伝説のオウガバトル』というか、そんな予感(まだあまり進んでいないので)。ま、しかし、システム話は後回しにして、今日のところはキャラクターについて語りたい(結局まずそれか)。

 主人公は穏やかであまり強くない、ヒーロー感の漂わない少年なのですが、ひょんなことから姉妹のような仲良し少女二人と一緒に冒険することになります。
 この三人のやりとりが、互いを信頼し合っている感じが出ていて大変ほほえましいのです。
 三人組にはリーダーはいなくて、いつも助け合いで進んでいく。主人公も、両手に花、なんて主役的なことは考えてなくて、どうしても旅立つと言って聞かない二人が心配だから冒険に加わるという気持ち(この章では主人公は脇役なのだった)。
 基本的には男女の別なく仲の良い友達なんだけど、たまにちょっと顔を赤くしてみたり。それも、狙ってされたんじゃない、普通の思いやりに対する反応として。そんな仕草を見てるとこっちも照れます。

 キャラ絵のかわいさについては公式ページを見てくださいというのが残念ながら手っ取り早い。これが絶えず動き、ころころと表情を変えるのです。楽しすぎ。
 さらに、ゲーム中の選択肢によって二人(ルゥリとフィア)のどちらかにハートがついたり破れたり。好感度があったりするのか? 展開が変わるのか? 絵を見て楽しんだり、好感度を気にしたり、まるっきりギャルゲーじゃないですか(誰に訴えているんだ)。

 ゲーム自体も楽しいので、スワンクリスタル専属ソフトになっても多分悔いなし。
 というより、スワン用ソフトの今後の発売スケジュールを見ちゃったらすごく買いにくくなる。衝動買いが吉。13,000円のソフトにスワンクリスタルがおまけでついてきた、そういう意気込みで遊んでいきたいものです。


7/12(金)

 そんなにもヘッポコな『グラディウスIII』EASIEST設定でのプレイも、ちまちま遊び続けるうち、累々たる死屍を乗り越え、ようやく最終ステージへ。
 とにかく感心するのは、このゲームが用意している死に場の多彩さ。これだけ陰険だと一回りして逆に爽快、己の死に様を回顧すると笑いが漏れます。

・土の中を撃って掘り進んでいたら、破壊できない岩に前方をふさがれて閉じこめられる。
・たまにパワーカプセルが出るだけの3Dステージで、唯一の死因である壁への激突死を避けるために自機を画面中央にキープしていたら、いきなり道が二股に分かれ、迫ってきた中央の分岐壁に衝突。
・細胞の触手は腕のまん中に色違いの弱点があるけれど、自機に向かってまっすぐ手を伸ばしてくるため、先端に邪魔されてショットを当てられない。焦っているうちに触手が近づいてきて、周りを囲まれて死亡。
・炎のステージでやたら上下に振れの激しい動きのザコが現れる。距離を置いてかわそうと思ったら、縦軸が合った頃に絶妙のタイミングで急接近。対応できずに体当たりを食らう。
・触れても死なず、引っ張られるだけのつる草が密集する地帯。一気に通り抜けようとつる草をかすめ、少しだけ引っ張られたところ、横軸にぴたり照準を合わせた敵編隊がやってきていて、動きの取れぬままゴッツンコ。
・やや奥まった地形にいる地上機を倒しに行ったところ、クリスタルの壁が飛んできて見事に密室を作られ、スクロールにより圧死。
・直線的に飛んでくるクリスタルブロックを調子よくかわしていたら、急に進路を変えるヤツがいて何も抵抗できずにやられる。
・ボスオンパレードの小ぶりな敵、どんな攻撃をしてくるか画面隅で様子を見ていたら、足の速いホーミング弾を撃ってきて一瞬で追いつめられる。
・同じボス、ホーミング弾に注意しながら前に出て一気に攻撃を掛けたら、半壊するとともに極太レーザーを撃たれて即死。

 弾幕なしでよくここまで死のネタを準備したものだと思います。そして、罠に必ず引っかかる自分の間抜けぶりにも驚く。
 一歩一歩、踏み出すたびに落とし穴にはまっています。地面全部が穴なんじゃないかと疑いたくなる。この陰険さはネタとして記憶に残ります。
 自分には、死を笑い飛ばせる遊び方は家庭用でしかできません。ゲーセンだと必死になりすぎて、引いた視点が得られない。余裕なく腹を立てるだけでしょうし、だから『グラIII』がこういう面白さを持っていることにも今まで気づけなかったのだと思います。
 ……いや、これを「面白い」と言うのはためらわれる。「面白がっている」のは確かですが。


7/9(火)

 昨日の更新内容をちょこっと手直しして、ついでに更新履歴にも付け加える。
 せっかくコーナーを作ったのに、日記以外ちっとも更新しないので、ようやく出番が来た頃には存在をすっかり忘れていました。

 『グラディウスIII』を少し遊ぶ。
 アーケード版はろくすっぽ進めないけれど、サントラ(最近のじゃなくて、『III』単独の)が出たての頃に聞いていたので、全曲覚えているのだった。
 わざととげをつけたような主旋律の音色と、たいがいの曲に入っているコーラスのような音色が、どちらもあまり好きではなかったものの、繰り返し聴いているうちに馴染んでしまう。典型的な「耳馴染んで好きになる曲」だったと思います。
 それでも刷り込みの効果は強くて、曲を聞きたさにゲームをしばらく続けたけれど、プレイがあまりに思わしくないものだから、しまいにはサウンドテストで曲を流しっぱなしにした後、おもむろにPS2の電源を落とす始末。
 それで満足されたって、ゲームにとっては不満に違いない。


7/8(月)

 Memorial Games更新:グラディウスジェネレーション
 ついこの間までエロゲーに熱を上げながら、一方ではグラディウスシリーズについて語りたい自分といったあたりが、今日の見どころかと思います。
 だいたい、アーケード版を1〜4作目まで遊んだ回数が合計10回程度、この前音楽CDを買って初めて「モーニングミュージック」があの曲だということを知った(サターン版『デラックスパック』の起動時にも流れるので、聞き覚えはあったけれども)ほどの素人。そんな知ったかぶり満載で、私は日々を生きています。

 恥さらしは続きます。
 これの準備にと思って、せっかくPS2があるのだからと『グラディウスIII&IV』を買ってきて一度ずつ遊んだりしましたが、いわば資料としてゲームを買っている自分はいったい何のつもりだろうか。
 それはおそらく、遊ばれないままゲームが積まれていく現状に対する、弁解の一つの形なのだろう。「資料」なら、すぐ遊ばなくても必要(!)なときに手元になければ困る(!)し、参考にしようとする時だってゲームを遊んでいるには違いないのだから、という心理が編み出した言い訳。我ながらなかなかうまいことを考えつくものだ。何より、ゲームと「必要」を結びつけたところがうまい。
 これなら、ちょっと「妹」について本気出して考えてみようと思ったときに参照できないのがイヤだから、という理由で『シスタープリンセス プレミアムエディション』を買えるというものです(散々考えたけれども)。

 ところで、そんな汚れた自分でも、転売目的でゲームを確保しようと思うまでは落ちぶれていないみたいで、DVD版『みずいろ』(ねこねこソフト)には手が伸びません。
 だってもう二度と遊ばないだろう、『みずいろ』は。あの思い出はしっかりと、ドリームキャストとともにあるから。投機的には絶対お買い得だと思いますが、手元に置いておく理由がないならいらない。


7/6(土)

 不良少女の川瀬シナリオをクリアして『TALK to TALK』終了〜。ギャルゲー・エロゲーを遊ぶスパンは一作あたり二ヶ月に定着? というほどのまったりペース。
 忙しいとか気持ちが乗らないとかいった理由が最も大きいのですが、その他に、一人分の話をクリアしてすぐ次のキャラに狙いを定めることができなくなっている、というのもあります。その回のゲームに関しては話は終わってしまっているのに、間を置かずに別の道筋を持ってこられると混乱してしまうのです。自分の記憶が混同する、というのではなく、確定したはずの歴史を遡って書き換えるというあり得ないはずの事態に対しての混乱です。
 それが絶対的なものではなく一つのできごとであったと納得するためには、ゲームから離れて時間が経つのを待つしかない。それで時間がかかるようになった。そうなったのはいつ頃からだろう。

 川瀬シナリオはSMチックでした。感情が分からないのをいいことに、川瀬からどれだけ言葉責めを受けようとも気にせず、むしろ罵倒されるときは一緒にいるのだから快であるに違いないとばかりに「今までになく穏やか」な気持ちになってしまう主人公。調教されています。
 そんな主人公が中盤では一転、川瀬に対して羞恥プレイ(照れくさいことを平気でする)で反撃する。
 そんな話。違うけどそういう話。ということにします。

 このシナリオでも主人公はヒロインに対して不実な仕打ちをしでかすので、話に密着していればショックを食らうところでしたが、今回はみさきシナリオのような鬱々感には陥らずに済みました。
 
前回の大竹さんルートで気づいて、その時は大竹さんシナリオだけの問題かと思っていたことが、このゲーム全体に適用できることに気づいたためです。
 その時点でゲームから冷めた視点を持ってしまったことで、主人公を突き放して見ていられたのでした。逆に、みさきシナリオではそうすることができず、主人公に連動して鬱になってしまった次第です。

 本作のテーマがいくら骨太であろうとも、ギャルゲーの体格としては一般の域を大きくはみ出すものではない。そこに相撲取りの服を着せたら、だぶだぶで似合わないだろう。一応隠すべきところは隠れるかも知れないけれど、他人に見られたらちょっとみっともない。
 「好きという感情の正体を明らかにする」テーマに対して、本作の主人公の設定は大きすぎた。テーマがすっぽり収まって、なお隙間が残った。
 自分としてはその隙間に「ゲームであること」を埋め込んで欲しかったけれど、このゲームはその方向を目指さず、その代わり物語で埋めようとして、結局果たされなかったようだ。
 みさきシナリオの充填度が一番高かったけれど、それでも満たされてはいない。あとはスカスカとさえ感じられました。

 一言「伏線は回収して欲しい」で済むのかも知れないけれど、それで片づけるには惜しいゲームだと思うので、完成品に対して意味のないこととは知りつつ注文めいたことを言いました。
 全て回収した(少なくともその気にさせてくれた)点で、『Sense Off』は本当に美しいゲームだったなあ。

 なお、『TALK to TALK』のメインヒロインがみさきであることには、シナリオの充填度合いの高さから全く異存はありませんが、自分の担当範囲外であることを自覚しつつも、アダルトシーンにおける彼女の発言の奥深さも他のヒロインと一線を画していることを付け加えて、本作に関する話の締めとしたい。
 「なんとなくエッチな……でもすごく懐かしい匂いです」「なんだか、いつもと違って……ヘンな感じです」
 なぜ「懐かしい」のか、「いつも」とはいったい。ストーリーを考えると、当時おそらく中学生だった彼女が前の男から何を仕込まれていたのかが気になります。
 そういう補填があっても満たされていないからなあ(←それは公式設定じゃない)。

 クリア記念にサイト巡りをしてみたところ、X-Game Station『TALK to TALK』語り(ネタバレ注意)が、自分が放り出した辻褄合わせにガツンと踏み込んでいて素晴らしかった。
 これ以上自分が何か言わなくても良さそう。


7/4(木)

 早売りで次号が出ている中、何を今さら感を激烈に漂わせながら、先週買ったファミ通の付録DVDを見てみた。Xboxのソフトのムービーが25本分収まっているというもの。
 ムービーだけだったら別にDVDでなくても良かったのでは……との思いは、プレイステーションによるムービー中心主義に毒された考え方だったかも知れない。どのみちDVDにしたところで、PS2で再生されることが多そうだけれど。
 そう考えると総合ゲーム誌の付録って微妙だ。つけようなんて思わなければ楽なのに。ファミ通はよく頑張っていると思えてきました。

 Xboxは大分面白いことになっているみたいだ。セガのゲームが王道に見えるくらい、周りがいろんな方向を向いている。ジャンルの偏りも著しい。ロボットものが3本もあるし、車ものは4本もあるし。
 とりあえず、定価19800円で専用コントローラーまでばかばかしく凝っている
『鉄騎』がどれだけ売れるのかに注目したい。ムービーも重苦しくて、モニターの前から逃げ出したくなるくらい。なぜゲームでここまで、というほど辛い目に遭えそうで、当事者にはなりたくないけれども、端から見ている分には大変楽しみな一本です。


7/1(月)

 毎日の通勤のおともに、宇多田ヒカルの『DEEP RIVER』を欠かさずかけている。アルバムの中の一曲としてハズレがないのに驚く。
 イントロに癖があったり出だしが静かだったりで始めのうちは飛ばしていたものの、聞いてみれば実はいい曲だった、というのを繰り返して、間奏曲を除く11曲全てがお気に入りに。

 ただ、単純に良かったり気に入ったり、というのは少し違う。どの曲にも迫力や情念みたいなものがこもっているので、こちらの気がふさいでいるときは重い気分を増幅させられてしまう。気分転換には向かない。きちんと聞かなければならない。気のおけないつきあいはできない。
 こういうのは、良い、よりも、すごい、にしておいた方が適切かと思う。

 知っていることが好きである理由になることは多い。耳にたこができるほど聞かされることで、いつの間にか、好きで覚えたのと同じであるかのようにフレーズを口ずさむことができるようになっていて、暗記できるくらいだから好きなんだろう、とだまされることがよくある。それへの対策は、その曲から遠ざかることしかない。
 同じように、すごいと思っていた曲が、耳馴染んで覚えていくことで、ただの「好き」に変わっていくのだとしたら、それはもったいないように思う。すごがることのできる曲なんてそんなにないのだから、いつまでもすごがっていたほうが、その曲を適切に遇している気がする。それなら、すごいと感じた曲はあまり聞かない方がいいんじゃないだろうか。

 ……と考え込んでいたのだけれど、試しに歌ってみて分かった。
 この歌は真似できない。曲は自分の中に取り込まれない。いつまででも歌い手の印をつけて、自分の外側にい続けるだろう。
 それなら、たとえ覚えるほど聞いたとしても、自分を好きであるように好きになることはない。分からない部分はいつまでも残り、自分はそのブラックボックスを「すごい」と名付けてそのままにしておける。
 心配することなど何もなかった。ガンガン聞きまくろう。

 最近の傾向として、この「好き」はどういう意味だろう、と考えてしまいがち。そういう影響は受けない方が幸せでいられるんだが。



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