ゲーム+α日記(2002年11月)

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11/27(水)

 遅々として進まない『Ever17』は、テーマパークのシステムエンジニア・空シナリオに進もうとしているところ。まだ確定じゃないんだけれども(長い…)。
 しかし、茜ヶ崎空(あかねがさき・そら)か。いい名字だ。

 空が、今のところ特にこのゲームにだけあてはまることではない一般論ながらも、おそらく特に念頭に置いておくべきだと感じさせることを話してくれている。優の説明とかぶりつつ、それよりもっと細かく、実例も交えて。
 もっとも、そこで見える「実例」は分かりやすいかわりに次元が一つ違っているから、同じ「世界」という言葉で表されたとしても、目に見える実例と話の内容とは異なることに注意しておかなければならない。たぶん。
 意図的な混同にだまされまいと身構えるのではなく、それを同じに感じさせるような展開がこの後待っているのだと考えよう。

 このあたりで何を書いても、ゲームが終わった後で振り返れば茶番になるのだ、と思うと、ゲームを進める気力も湧いてこようというものです。


11/24(日)

 『Ever17』は主人公を替えて進行中。
 このゲームには主人公が二人出てきます。しかし舞台は同じ。そこで、序盤はこれまでと似た展開を送ることに。同じ場面でも視点が違うからには初登場ということで、既読スキップは利きません。
 といってもあくまで「似た」であって同じではないし、また同じ場面であっても復習することには意義があるし、おそらくはそれを促してもいるのでしょう。
 そんなわけで、用意はされている強制スキップなどもかけずに再読中。なかなか先に進みません。

 さらに、文章読み続けにやや倦んできたところでもあり、衝動的に『少林サッカー』など大購入&大鑑賞してしまいました。『Ever17』がさらに遅れる。しかし低価格とはいえ、ちゃちなパッケージだ。これがDVDソフトの標準なんだろうか。
 ……えー、大変楽しい2時間弱を過ごさせてもらいましたが、ここで楽しんでいいのか? と迷うことこの上なし。
 少林でサッカーな表向きも、ネタとして仕込んであるところ(つまんなそうにそっぽ向きながら相手の打撃を左手一本で超速で受け流し続ける『マトリックス』タイプな女の子とか)も面白いのだけれど(←ちょっと知ってると思えばすぐこれだ。というか、勘違いだったりすでに汎用表現化してたりしたらかなり格好悪い)、ただ人が登場しただけで笑うのはどうだろうか。いくら喜劇だからといっても、むしろ失礼に当たるんじゃないだろうか。
 これは顔が面白いんじゃなくて表情の演技が優れているのだ、と思うことにしても、釈然としないものがありました。


11/22(金)

 『Ever17』優シナリオクリア。
 暗号のくだり、悩んでいると優がヒントをくれるのだけれど、そのヒントの出し方が、彼女(の母親)の持論と逆だった。彼女なら当然、
「三次元人の私たちに、二次元人のことが理解できないはずないのに…」
という具合にいらだつべきではなかったでしょうか。
 もう一点、「怪しい奴の言うことは怪しい」ってな推論には待ったをかけてみたい。シナリオ側のミスリードの意図もあるのだろうけれど、真実がここを出発点にして導かれるなら、その土台の強度には疑問を持たざるを得ない。少なくともこのシナリオの中ではぐらぐらだと思いますよ、土壇場で主人公が優を励ます言葉の説得力は。

 しかし主人公の少年は終盤びっくりするほどキザで、「ぼくはっ、ぼくはっ」と叫ぶばかりだった彼とエンディング間近の彼が同一人物とはとても思えない。どこかある段階で彼が一気に年を取りでもしたのかと錯覚する。
 そんな彼がぐぐっと頑張って優の気持ちを射止めるも、その恋愛要素は話を一旦区切るためのむりやりな措置に見えてなりません。主な謎はそっくり残したまま、それでもひとまず終わりであることを納得してもらえるように、と。

 優シナリオを離れた全体の流れは依然不透明。今の段階でこれ以上こだわっていてもしょうがないのだろう。言えそうなことが見つからない。
 てなわけで、話題を変えます。

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 『My Merry May(以下マイメリ)』から『プリズマティカリゼーション』のことが思い浮かんだのは、あの強烈なみさおAエンドを見た直後(11/9)、それからゲームを振り返ってまとめてみようと思ったとき、の二度でした。そして二度目の対比は、最初のものと違い、キャラクターから離れたゲーム全体に関するもので、またこの二作品が対照的なものであるとの思いでした。

 『プリズマ』のプレイヤーは、主人公が何らかの前進を見るまで、ゲームから離れることを許されません。主人公がどうにか「あした」を迎えられるまではいつまでも、あの一日の中を循環し続けるよう、ゲームから要請されています。
 そうでありながら、プレイヤーは主人公の行動に直接働きかけることができません。プレイしていて、何とももどかしい、いらだたしい壁が、主人公とプレイヤーを隔てて存在しているのを感じていました。
 (その一方で、自分は性格上の一致を主人公に見ていて、行為と思考の「違うのに同じ」感覚にずいぶん長い間酔わされていました)
 一方『マイメリ』はオーソドックスなテキストアドベンチャーの形式で、時間が強制的に逆戻りしたりはしません。主人公の行く末がどうであっても、やがてプレイヤーは主人公から、そして彼を含むゲームの世界から解放されます。かつ、プレイヤーは主人公を操作でき、そしてそれによって主人公は自らの「成長」を意識します。

 『プリズマ』の時間の流れが円環なら、『マイメリ』は線。これはプレイヤー・主人公それぞれが持っているものです。そして『プリズマ』の二つの円環は重なっているのに対し、『マイメリ』の二本の線は、ほんの一点でのみ交差しています。
 自分がプレイヤーとして、『マイメリ』のあの主人公と出会えたのは、本当に偶然のできごとだったと思えます。ゲーム開始前の主人公は特別に個性的な人間ではなく、差し替えが効く存在だ、と取れる設定がゲーム内になされています。また、自分が『マイメリ』を遊ぶ気になったのも些細なきっかけの積み重ねでしかありませんでした。そもそもプレイヤーなんて誰だって別に構わないはずです。
 そんな偶然の出会いの中で、プレイヤーの選択によって、主人公は変わり、それを見届けてプレイヤーは立ち去ります。ここで、たとえ主人公が「成長」できず、プレイヤーがそれを不満に思ってゲームを初めからやり直したとしても、そこにいる主人公は、以前にプレイヤーが干渉を加えた彼ではなく、手垢のついていない別物だ、と捉えたくなるのです。二つの線が交わった先に、別の線が現れ、また接点を持つ、というように。

 『プリズマ』の閉鎖性・連続性に対する『マイメリ』の開放性・一回性。意識しているものがともにゲームでありながら、その意識の対象がシステムと設定によってこれほど差をつけられていることに、自分は集中的に引きつけられました。
 その差はまた、内向的な主人公の性格を伴って『プリズマ』に陰鬱なイメージを、また「若者の成長」感を追加して『マイメリ』に明るさを、自分の中にもたらしました。
 ギャルゲー、それも女の子を囲う場面というフル装備の不健康さからスタートしながらの思いもよらぬ明るさ、このギャップが、自分が『マイメリ』に感心した理由の一つです。

 「成長」をキーワードとして盛んに打ち出していた『マイメリ』とは違った『プリズマ』の主人公に、自分は成長という単語を当てはめて考えられていませんでした。でも確かに、決断できるようになることも記憶できるようになることも、主人公にとっては前進であり、それは「成長」です。
 Cyberfieldの川崎水姫さんによって指摘され、定義されたことによって、二作の違いばかりをクローズアップしてきた自分の見方の中に、共通点が形作られているのを感じます。
 それにしてもこれは、ともに「成長」でありながら、なんという開きのある立場からのアプローチでしょうか。

 余談ながら、自分は『マイメリ』において、プレイヤーが主人公を補佐するという関係から、影響を受けるのは主人公だけである、と考えていました。
 しかし、二本の線が同じ性質のものなら自分にだって、主人公に起こりうるような何らかの変化が、形は変わるかも知れないにせよ起こってもいいはずです。
 そう思うと、構想しながら『マイメリ』のまとめに盛り込むことができず、一旦は文章化することを諦めたこのあたりの思いを今回形にしたのが、その影響の現れと考えてもいいのではないか、そんな気がしてくるのです。

 それにしても、えらい人は勘弁して下さい。うちのはどこまで行っても自分語りに過ぎないのです。


11/20(水)

 『Ever17』二人目、テーマパークのバイトさん・優で進行中。
 あらら、王子様とか言い出してますよ。年下の主人公に対して、童話でも語るように持ち出される言葉とはいえ、そういう形でもきちんと男の子と女の子の話になるのか。
 というくらいに先が読めなくても、ただいまゲーム真っ最中なのだから、それは至って普通のことで、嘆いたりしなくていい。ただ、だからといってそんなふうに強がる必要もないのでした。
 余計なことは、考えても表に出さない方が得なのだけれど。なかなか抑えが効かない。

 プリントアウトした暗号の解読に優が悩んでいるというからどんなものかと見てみれば、見た瞬間に是非とも読めていただきたいものだったので当惑。
 …していたのだけれど、もしあれがプレイヤー視点だったからこその分かりやすい姿だったとしたら、と思い直す。
 たとえばあれがA0くらいの大きな用紙いっぱいに印字されたものだったなら、手に持って近くから眺めたくらいではちょっと分からなかったかも知れない。
 全体を一望のもとに見渡せる立場、これがいわゆる第3視点というやつですか?(連想が近視眼的すぎ)

 説明書にある沙羅の紹介を読み直していたとき、記憶喪失にして現在のところ氏名不詳であるところの主人公の名前も、実は説明書に書いてあったのかも、とふと思った。
 自分が彼の両親なら、並び順でそのように名付けたくなる。彼どう見ても年下だし。
 またも、思いっきり余計なことです。


11/17(日)

 『Ever17』まずは一人目、小生意気な高校生・沙羅シナリオをクリア。
 いやー4時間かかるとは長いプロローグだった、という感じ。

 非日常のただ中だからというだけでもなく、このゲームはシリアスにしろギャグにしろイベントの連続で心休まるときがありませんが、そんな中だからこそ秘密というものは持っていたいもんだと思いました。それを思い出して浸ることができるから。
 それが一人きりのものだと浸るのも辛いけど、こっそり分けられる人がいれば良し。さらに、それが二人だけのものであることに気づかされたら…それは気づかせてくれる他人がいる、他人から教えられているということだから、その事柄自体は秘密じゃなくなっていますが、二人がそれをどのように分かち合っているかはバレようもなく保たれているので、いいんじゃないでしょうか。
 というか、そこの二人(主人公と沙羅)秘密を分かち合いすぎ。いや、シナリオが二人に秘密を分かち合わせすぎ、というべきか。日本語が怪しい。

 しかしこれもまた「恋愛アドベンチャー」だ。もういいでしょただのアドベンチャーで。あからさまなサービスシーンじゃジャンルとこの内容のギャップは埋められない。サービスしてるただのアドベンチャーの方が、物足りない恋愛アドベンチャーよりいいと思います。
 少なくともこの沙羅シナリオで、恋愛の挟まる余地はまるでなし(あっても困るが)。他もそうなんじゃないのかな?


11/16(土)

 修理に出す覚悟で再度ドリームキャストの調子を見る。
 修理発送の際には、症状が現れるソフトを同梱して送らなければならないとのことなのだが、まさか『My Merry May』や『Ever17』をつけるわけにもいかない。郵送中に万一破損でもしたら悲しすぎる(←修理担当者の目とかは気にならない?)。
 確認用のソフトなど
『シェンムー』で十分だ。と思い、引っぱり出してきて起動させたのだが。
 これだけ激しく読み込むソフトにして、なぜか何事もなくゲームがスタートする。どういうことだ。自社ソフトならではの特別な仕掛けでもあるのか。最初から始めて武闘家主人公が家政婦さんから「おこづかい」と書かれた封筒を受け取る脱力シーンまで進めた(ほぼ見てただけ)が、これといって支障なし。
 いったん壊れたのだからいつかまた壊れるに決まっており、いつそれが出るのか分からず不安だが、再現が取れないのでは直しようもあるまい。それでも修理に出せば有無を言わさず部品交換→費用請求、の流れになるのかも知れないけれど、セガの誠意などにちょっとだけ思いを致すと、動くものを動かないとねじこむのもクレーマーめいていてためらわれる。
 次回にしよう。今度は迷うまい。

 ということで『Ever17』を始める。やはり普通に動く。話のクライマックス近くまで進めたところで完全に死んだらやり切れぬ思いを抱えることになるが、その時はその時だ(何も考えていない)。
 設定に関する説明が満載の中、謎もちらほらと。これだけ新しいことが多いと、謎がその中に埋もれていても気にせず、そういうもんかと思って先に進みたくなる。どんどん進めよう。シナリオ上だけでなく、現実にも本体の寿命という形で制限時間があるのだ。
 おお、ゲーム内外をリンクさせる試みがここに。さしずめ本体沈黙まで17日間といったところか。さすが未来のテーマパークが舞台のゲームだけあって、楽しませ方がバーチャルだ!(そんなポジティブシンキングは必要ありません)


11/13(水)

 愛機ドリームキャスト号に異変。いつもの盛大なギャッギャッという読み込み音が途絶え、ただ静かに皿を回すだけの機械になってしまった。
 音楽CDとしてさえ認識しない。当然ゲームもできない。
『Ever17』だってできやしない。

 せっかく、山と積まれたPS2版があるコーナーを越えて、狭い専用棚に並んだ一本しかないDC版をすくい上げたというのに。『My Merry May』中古購入の罪滅ぼしを、これを新品で買ったことでなした、あとはゲームを始めるだけ、という段になって。
 修理に出すか? 本体を探してもう一台手に入れるか? あるいは諦めて別のゲームに? はたまた『Ever17』PS2版を…いや、それだけはいただけない。意地でもここはDC版を遊ぼう。
 でも、マジな話どうしよう。一日経ったら何事もなく起動したりしないだろうか、と、はかない期待をかけてみたいところです。


11/11(月)

 ゲームの思い出を切り離すために文章にしたのに、その自分が書いたことが一日中頭を離れないというばかばかしい事態に陥った。
 結局それは、自分で書いていながら、その意味をきちんとつかんでいなかったことが原因だった。その部分を後から理由付けして正当化するよりも、チョンボであったことを認めて直す方が気楽になれるとの結論に至ったので、
昨日の更新内容を少しいじりました。
 はは、かっこ悪い。自分が何を興味深く感じたかくらい、把握しとけっての。


11/10(日)

 Memorial Games更新:My Merry May。どう褒めようか考えるのは楽しいです。

 あっちに書いた以外でこのゲームに言いたいのは「プレイヤーとしての自分を非人間的に扱ってくれてありがとう」ということ。「非人道的に」ではありません。それは勘弁。
 個人的な事情に走っても分かりにくくなるだろう、というか分かってもらえるように表現する自信がないし、もはやそれは『My Merry May』の話ではなくなってしまう。だからそういう異物はなるべく濾過しました。

 できれば、人が他人を包み込むことが許される事態であろうところの親子関係についても触れたかったのだけれど、それを扱うには実力不足。あれだけゲームにも出てきていながら、素通りしてしまいました。どうしても実感を伴って扱えそうになかったから。
 ちょっとは考えておかないと。

 ところで、いつもと異なりゲーム終了直後にまとめたのは、ここでこれに一区切りをつけて、次のに移りたいとの思いがあったからです。
 たまに思い出したりしながらずるずる引きずって、いつしか思いが薄れていく、というのが常ではあるけれど、今回の場合は旬のものに近いから、あまり引っ張らない方がいいかと。
 って、発売から2ヶ月半も経ってれば旬でもなんでもないか。自分としては取れたて感でいっぱいなのですが。


11/9(土)

 なぜあらかた終わった後の落ち穂拾いに「気合い入れて」臨まなければならなかったか。それは内容をうすうす知ってしまっていたから。
 重大な終わり方であるとの予備知識を胸に、覚悟を決めて『My Merry May』みさおAエンド回収。
 なるほど。これ自体の冷酷さもさることながら、全く同じ発言・行動を用いることでBエンドの再解釈も同時に求めていて、その手管が美しい。というか自分(と主人公)がみさおちゃんの思考を見抜けなかっただけなんですが。踊らされかたもこう上手だと何の文句もない。
 二人の結びつきに、年齢差が呼ぶであろうと予想した周囲からの影響なんて、憂う必要はどこにもありませんでした。この二人は離れられない。周りなんてこれっぽっちも受け付けない、二人だけの孤独の共有を余儀なくされていて、その絆の強さは
『プリズマティカリゼーション』の主人公−みゆクラスと言えましょう。これなら納得するわ。
 にしても、最後で冷たい側面を見せつけた世界だったなあ。

 と、思っていたのですが。エンディングを見てから少し時間を置いたところ、ちょっと違った考えが浮かびました。
 以下は反転表記にて。

 当人たちが確信を持っているのだから、三週間の時を経て現れたのが二人の知るのとは別のレゥであったのは間違いないだろう。でもその差異は、どこまで決定的なものだったのだろうか。
 それが直観的なものであるなら(心に関する問題であればそうならざるを得ないだろうけれど)、その違いを「入れ替わった」ことの証拠とするのは危うい。
 いや、証拠とか証明とかがそもそもできない問題であるのは分かるのですが、自分は「アメリカでの三週間のあいだにレゥが成長した可能性」が気になっているのです。

 二人にとっては短くても、レゥにとっての三週間がどれだけ大きなものかは、誕生(ゴールデンウィーク)から渡米までの期間を考えれば明らか。再会の時点で6月半ば過ぎだから、あちらでほとんど半生を過ごしてきたようなもの。5歳で別れた人間と10歳になってから再会したとして、それが同じ人間だという判断はどのレベルでなされるだろう?
 違和感を覚えたという件の「へんなの〜〜」発言にしたって、治療後に「かわいい」の適切な用例を覚えただけかも知れない。あの学習能力の高いレゥのことだ、機会さえあればすぐ習得するだろう。それを個性と言い切れるほど、レゥの個性はまだ固まっちゃいないと思うのです。

 三週間前、別れる時点でのレゥと再会時点のレゥは別の存在、それは間違いない。でもそれを、一貫した流れの中で変化し成長する路線から外れた別の存在とまで見なせるのか。
 もし二人の直観が揃って間違いだったとしたら、二人は望みを叶えながら否定し抜いていくことになる。それは二人のみならず、いや何よりもレゥを切り刻み続けるだろう。
 彼らには一生かかって贖うべき罪などなくて、彼らには贖うことができないという点でそれよりもっと質の悪い罪を、彼らは今後新たに作り続けていくのかも知れない。
 そう思わせるところに、このシナリオの底知れぬ闇を感じるのです。

 レゥが主役である分だけ、ゲーム全体から見て異質なみさおAエンド。攻略順序に制限がかかっていたのもそのためでしょうか。
 このエンディングは例外として捉えた方が良さそうな気がします。あるいは、自分がそう捉えたいだけか。後日談というか。こんなにイヤな後日談もないかと思いますが。
 何にしても、レゥは避雷針だったようです。


11/8(金)

 『My Merry May』もとみ編Aエンド終了。
 親友の彼女という攻略対象外からヒロインに持ってくるまでをなだらかに描ききっていました。実に丁寧だった。ちょっとアクシデントに頼り過ぎの感はあったにせよ。
 そして、主人公の悩みをよそに自分は鬱にもならず。3日前の予想は裏切られました。そんな予想なら裏切られて本望。その分、サイコな展開でもなかったのだけれど、陰気がこちらに感染せずに済んだだけよし、か。
 世の中に鬱の種は溢れてるんだから、ゲームにまでそれを求めたくない、という今の気持ちにはぴったりであります。

 にしても、台詞が硬い硬い。四行分のウィンドウをいっぱいに使った発言、というこのシナリオの特徴を追い求めるあまり、助詞は省かない、やたら接続詞が入る、一文が長い、と、口に出すのはほとんど不可能なまでに文章が複雑です。そこに淀みない声が被さっているのは聞いていて辛い。
 それがもとみだけならともかく、脇役までもが揃ってその口調になるものだから、これは世界が他のシナリオとまるで異なっていると言わざるを得ません。そのガチガチぶりには、固いはずの握手まで思わず「硬い」と表される始末(それが言いたかったのか)。

 ちらちら見え隠れする裏設定らしきものも、科学的に説明を加えようとすると綻びを出さないようにするので大変そうだし、このままで結構。そのイメージは自分が引き受けましたので。
 エピローグがあるのを知って「まさか蛇足が…?」と恐れたものの、ああいう形で閉じたのには胸をなで下ろす。あんなもの、ペンダントにでも何にでもなってしまえばいいんです。

 世界の中に決して顔を出せない主人公の父親に、同じく世界の外から祈りを。彼の心に安らぎが訪れることはあるのだろうか。それが目下の気がかりです。
 さ、ゲームも残りわずか、気合い入れていこうか。


11/5(火)

 さて! 『メタルスラッグ』にもらった元気を糧に『My Merry May』続き、幼なじみ・ひとえ編をクリア(糧扱いは叱られます)。
 くっつきそうな気配がまるでないのでどうなることかと思いましたが、結局最後までそういう話だったので、無理矢理まとめようとしないところにある意味納得しました。
 自分(ここでプレイヤー全般と言ってしまえる自信がないので)に気に入ってもらえない、いささか気の毒な役回りを当てられた彼女。そう捉えることにする。

 そういえば、ひとえシナリオではこのゲームの基本的なあり方が、これまでで一番はっきりと表れていた。話の中心にいたはずのひとえの印象が薄かったのは、そちらに気を取られていたせいもある。
 さらに、二人の掛け合いに乗っていけなかった、シナリオの各パートにつけられたタイトルがどうにもダメだった、声の演出もいまいちだった、と、彼女が迫害されている様子が次々に思い浮かびます。
 これは、ヒロインに用意されている「避雷針性」(物語の核を担うヒロインは、話を展開させるための不幸なできごとに優先的に見舞われる運命にある、という性質。
『Sense Off』ドラマCDのライナーノーツ参照。って、自分で参照したけれども語句がさらりと出ていたくらいで解説は少なかった。どこかでこの語についての文章を読んだに違いない、思い出せないけれど)というやつなのか?
 と一瞬思いましたが、考えてみればひとえは幼なじみではあってもメインヒロインじゃなかった。あくまでメインはレゥ。しかも冒頭で、レゥは文字通りの目に遭っているのだった。
 いや、これに思い当たったんで言ってみただけです。

 ところで、今やゲームの全容が見え始めてきていて、これには自分にとって重要な設定の上に成り立っているらしいことが分かってきた。
 ゲーム開始当時からは遙かに、現段階からでさえさらにその上を行くのではと思われるくらい、このゲームからは一筋縄ではいかない手応えを感じます。
 確か週刊ファミ通のソフトウェアインプレッションで、ギャルゲー担当編集者氏によるレビューが載っていたんだよなあ。当時は全く興味がなかったから、お題だけ見て飛ばしてしまったのだった。惜しいことをした。何が書いてあったんだろう。

 あと一人+α、早いとこ終わらせたいところ。しかしながら、ラストである親友の彼女・もとみ編ときたら、読む側の神経症を誘発しそうな台詞攻撃をかけてくるものだから、たまらず中断。
 やっぱ手強いよ。主人公からは好きも嫌いもないところにいる彼女の立場、癇の強そうな容貌、彼女の名前にまで配慮したシナリオが望めそうで、期待半分恐れ(また鬱になるんじゃないの?)半分です。


11/3(日)

 あー、僻んでる。昨日の自分は僻んでいました。『メタルスラッグ』の面白さが自分には味わえないものと思い込んで。
 その思いは、先へ進ませてくれない難易度に対する挫折感から生まれました。そして、この難しさを練習で克服できると信じられなかった不安からも。
 ゲームに爪弾きにされている、でも何か形にしたい(近頃それで焦っていたし)、そんな状態で一生懸命になっても、昨日のような外づらを眺めただけの文章になってしまう。あまり無理しない方がいいんだろう、自分でもよく掴めていないことを他人に分かってもらえるように表現できる才能なんて持ってないのだし(誰が持ってるんだそんないいもの)。

 『メタルスラッグ』は体力制ではなく敵弾一発死のアクションゲームですが、ひ弱な主人公に対処してくれているかのように、敵の攻撃には予兆があって、そこに注意すれば切り抜けられるようにできていました。自分はゲームの裏をかいて独自の攻略法を編み出してやったのだ、と勘違いするくらいに、そのヒントはさりげなくて巧みです。
 5面までコンティニューせずに進めるようになって、上達の過程を振り返ると、正解の確保のしかたに感心します。「確保のしかた」というのは、安全地帯(=正解)の範囲がドット単位というほどには厳しくなくて、それでいて場所自体は常に変動しているために、攻撃をかわすのにほどよい緊張感を保てている、というくらいの意味で使いました。言い出しておいて何ですがこなれない言葉だ。

 初対決であれだけ途方に暮れた2面ボスの攻撃を読んで、死角から指も折れよの連射でマシンガンを叩き込み、撃破したときの快感が、鮮烈に思い出されます。
 ケイブや彩京のシューティングゲームでもそうだけれど、1ボタンでショットが数発まとめて出るのって、ほんと良い発明だと思いますよ。努力した以上の撃ちまくり感が得られて爽快。
 
『メタルガン・スリンガー』を遊んだときの欲求不満が、すっきりと解消されていきます(ってまた余計なことを)。
 幸せだな〜。


11/2(土)

 ちょっと『My Merry May』(の幼なじみシナリオ)を続けるのが辛くなってきたので、気分転換にと、ずっと以前に買っといて封も切ってなかったプレイステーション版『メタルスラッグ』を遊ぶ。
 1クレジットじゃ2面も越せない現実を目の当たりにして、アーケードあがりのゲームとしてはこの殺し方も順当だろうと責任転嫁を図ろうとするも、真っ先に難易度を落として残機も増やしてと設定をいじった以上、自分の腕前に対してそんな言い訳が通るはずもなく、ぶざまな結果を映し出すテレビの前に頭を垂れ、黙ってそれを受け入れるのがあるべき態度と言えましょうか(などと日記にするためにテレビから離れる)。
 それにしても、このシリーズのグラフィックへの凝り具合はつとに知られているところですが、その点においてモニターがギャラリーに開かれているアーケードに向いている、ように見えて、実は個人遊戯にこそ適しているのではないかと、ゲーセンで他人のプレイを見る側から遊ぶ側に回ってみて感じました。

 このゲームに出てくるあらゆるものは、精緻な描き込みを経て、「よく見て初めて識別できる」何かに変化しています。さらに、動くものには決まって用意されているアニメーションがまた想像を越えていて、極めて弾性に富んだ素材で作られているように感じられます。というより、アニメーションさせるためにゴム化しているとしか思えない徹底ぶりです。
 このゲームの見た目がもたらす面白さは、兵士や捕虜や戦車や地形の動き、もっと言えば「(予想と違う)どんな動きを見せてくれるか」、にあります。ところが、その第一印象を魅力に感じ、プレイにもそれを求めてゲームに取り組んでも、期待は裏切られると思います。凝ったグラフィックは、取るべき状況を瞬時に判断すべきアクションゲームとは相性が良くないからです。
 だから、このゲームを遊ぶにあたっては、まず、せっかく用意されている楽しい絵の装飾をはぎ取る必要があります。グラフィックとあまり関係なく、当たり判定や足場を確認し覚えていく作業は、結構めんどくさいものです。応用が利きにくいし。

 遊ぶ楽しみと見る楽しみは両立しなくて、ゲーセンではどちらか片方しか得られない。これを本当に楽しめるのは、ノーミスクリアできるようになってから、その様子をビデオに撮って、再生して見るときなんだろう。その時、キャラを操作した記憶をたどりながら、目で画像の変化を楽しむという、複合的な楽しみが得られるはずだ。
 と思ったのですが、これって、遊びながらゲームの進行状況を大局的に把握できない不自由さと、非ゲーセン者ゆえの自給自足的発想が結びついた、極めて個人的な結論に過ぎないのかも知れない、と今思い当たりました。残念。

 あと、タイムアタックや残機なしの「サバイバルアタック」といったおまけがPS版にはあるのですが、これが同時に声優さん大フィーチャーの場にもなっているのには驚きました。
 特に説明書に見られたゲームと現実の混交ぶりに仰天。ゲームのキャラ紹介と声優さんのプロフィール紹介が1ページで同格ってどういうことだ。ゲームだけじゃなくて、こんな方面からも打ちのめされる(こちらは良くない意味で)なんて!



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