ゲーム+α日記(2003年9月)

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9/30(火)

 忘れたわけでは決してないのです、というよりも明らかに、新たに買ったゲーム群の圧力に押されて、という醜い形で、『白中探検部』トゥルーエンドクリア。悪夢のバッドエンドとの遭遇は何とか4回に留めました。
 冒頭から募るばかりだった謎と不満を、得意のアニメを全力で生かした終盤の展開が有無をいわさず押し流しました。振り返れば見せ方の不満が解消された訳じゃない気もするけれども、そもそも振り返らせない(振り返るな)。
 背景の説明も、足りないと感じさせない程度に短くて好印象。説明不能の迫力なんて奥の手も存分に使っての短さではありますが、プレイ時間の短縮につながるこの短さは、他に遊びたいゲームが山ほどあるこのご時世では大きなプラスでしょう(自分と時代をイコールにする大胆さが導く結論)。

 しかしこのゲームは、開始前の予想とは違ってギャルゲー的ではなさそうだ。そして、このゲームがギャルゲー的ではないことを説明するのは、ギャルゲーについての議論の応用問題として適当であるように思える。
 ただしそれは応用であって、新しい発見は得られそうにない。だからそれをやっても、このゲームについて何かを語った実感が持てながらその実、ゲームと概念の間でどっちつかずであるような、専門家には自明すぎてやる気が起こらず、初心者には何のことやら分からない類の、要するに書き甲斐のない文章が後に残るだけになるような気がする。
 …という想像が正しいかどうかを知るためには、選択肢を一つ一つ潰してコンプリートしなければならず、一応それには前向きなのだけれど、あの道案内役のことを思うと意欲の湧かないことといったらありません。
 とりあえず一つ、最もかわいらしくありながらヒロインに選ばれなかった年上の巫女さん、「ごりょんさん」こと賀茂理奈(かも・りな)嬢の結末がエンディングにおいて語られてしまうのを見て、こんな「正しい未来」なんて認めたくない気持ちでいっぱいです、とだけは声を大にして言いたい(←不要)。


9/28(日)

 久々に、ほんとうに久々に、ちょっと遠出をして繁華街に出てみた。

 このところ妙に肌寒くなってしまったものの、まだまだ夏気分を引きずっていた身には、街を歩く人々の装いがすっかり秋のそれになっていることに戸惑いっぱなし。
 単純に長袖姿ばかりだったのがショックなだけだったのですが。服装の防寒度としては境界にあると思うような上天気だっただけに。
 ずいぶん前にMy Little Loverが歌っていたように、毎日テレビ見たり街に出たりしないと、そういう雰囲気はつかめやしないってことなんだろう。あの歌「Free」の歌詞の内容は正確にはその逆なのだけれど、たぶん逆もまた真なり。
 もう秋なんだなあ(←9月も終わりになって持つような感想か)。

 で、気晴らしにいろいろ(なゲームを)買う。
 遊びかけのゲームがある一方、注目作は容赦なくリリースされる。もしかしたら、今を逃したら二度と出会えないかも知れない。そんな場合の解決策は「複数本を同時に買う」なのだった。
 こうすれば、仕掛かりのゲームを放り出してまで次のに挑むまでの興味が集中することがない。対立候補を同じ党から二人立てて、ライバル党の現職に共倒れで敗れるの図。

 帰りがけに、そういえば東京ゲームショウなんてのもあったことを思い出す。しかし、発売されたゲームにさえ注意が行き届かないのに、まだ出てもいないゲームにまでどうして気が回せるでしょう。
 すべてのゲームは今から半年後に発売を延期してほしいものだなあ、と思いながらの帰り道。時間が止まればいいのにっていうのと同じ発想。そうなったら自分の動きも止まることには気づかないでいられる無邪気さ。

 今日の日記は、自分がゲームを遊ばないことについて話題にしてもしょうもないことにしかならない、といういい見本になった感じがします。


9/24(水)

 ぐぐっと体調が悪くなり、何もする気が起きず食事どき以外はすべて寝て過ごしてみたけれど治らない。
 ここで「起きているとき以外はずっと寝てました!」と自慢げに報告しようとしたほどに調子が悪い。ただ、すんでのところで気がついて止めたあたり、まだ望みはあるのかも知れない。

 「何もする気が起きない」というのは、あるいは「何もできないように感じる」というのは、「何もできない」のとはもちろん違う。でも、一人きりの環境に限ってしまえば、それは同じになる。
 今の自分の状態はきっと病気のせいだろうけれど、年を追うごとに何かができることに気づかなくなっていって、やがてできることが何も見つからなくなって、そのせいで何もできなくなる、それが気持ちの老い方なのかもしれない。
 決して年を取らず、望むならいくらそこにいてもいいタイプのゲームで、プレイヤーがもし(ゲームをやめるという形で)死を迎えるとしたら、そういう経過があるのだろう。
 ゲームに飽きたと感じたとき、そのゲームの命が尽きたような感じを受けるけれど、天寿を全うしたのはプレイヤーの方だ。そして、寿命が極端に短いといった不満は別にして、そういう別れをすること自体には何の不満も出ないはずだ。むしろそれは最も幸せなゲームとの別れ方だろう。


9/21(日)

 いやー疲れた。もうへとへと。こんなに連打したのはいつ以来だろう。
 ぱっと出てきたのはサターンで『ゲーム天国』を遊んだときの記憶だけれど、それ以来かなあ。だとしたら実に5年ぶりの痙攣連打体験ということになる。
 買ったままほったらかしなのが気になって、ゲームキューブの
『スターソルジャー』を立ち上げたら、2分間タイムアタックに見事にどハマリして、右手にただならぬ疲労を覚える今日この頃なのです。

 中ボスを合体前に倒したり、左右離れた目玉型の地上物を斜めショットで同時に倒したりと、連射をフィーチャーしたスコアボーナスが楽しかったファミコンの名物シューティングゲームが『スターソルジャー』でしたが、今回のリメイク版では個人的に好きになれなかった要素が消えたため、楽しさが著しく向上していると感じられます。
 それは「地形に隠れる」という要素。隠れている間は完全無敵なものの、地表の裏に潜むため自機がどこにいるのか把握しづらい、潜伏中はショットが撃てないので画面から敵が消えない、なによりボタンを叩く手が暇になってつまらない、と、いいところの少ない仕様だったように思います。
 それがGC版では敢然と削除されました(よな? 少なくとも説明書には載ってないぞ)。この割り切りを大いに喜びたい。敵を倒すことに専念でき、ハイスコアのための方策を練っては実戦投入する、その繰り返しで操作の密度がどんどん高まっていく快感、時間制限付きスコアアタックの醍醐味が存分に味わえるのであります。

 「ショットボタン押しっぱなしでも弾は出続けるが、自力で連射することにより弾が太くなって威力がアップ」という発明もインパクト大だけれど、それも込みで、プレイヤーにどれだけ忙しい思いをさせるか、に注力している新生『スターソルジャー』と出会えて、たいへん嬉しく思いました。
 2分間ってこんなに長いんだよなー。


9/19(金)

 今あたりが一番、『ファイナルファンタジーXI』が楽しいときなのかも知れない。

 自分がこのゲームで就いているのは赤魔道士という、剣も振れば呪文も唱える「いろいろやろうぜ」的な職業なのだけれど、これの力が最近とみに充実してきているのを感じます。
 レベルアップするたびに新たに覚えられるようになる魔法が、
「攻撃ごとに2割ほどの追加ダメージが与えられるようになる」
「敵から攻撃を受けるたびに、自動的に少しずつ反撃する」
と、便利なものばかり。
 前者を使えば、5ターン分の攻撃で6ターン分のダメージが与えられる。10ターンなら12ターン分だ。ということは、10回叩けば倒せるが12回攻撃を受けたら死んでしまう敵に勝つチャンスが生まれるということになる。
 後者も同様。敵から5回攻撃を受けたとき、こちらが1回攻撃した分のダメージが敵に蓄積されていると考えられる。
 二つを組み合わせれば、10回攻撃を受けたら死んでしまう敵にだって勝てるかもしれない。そいつは、12回攻撃を受けたら死んでしまう敵よりも、レベル1つ分は強い。

 個々の魔法は自分一人にしか効かない(他人にはこれらの魔法はかけられない)。一つ一つは極めて地味なこれらの特性を重ねて重ねて、すっぴん勝負では到底かなわない強敵を沈める、この過程がたまらなく面白い。
 他にもいろいろある工夫によって、敵から受ける攻撃の回数が減っていく。どこまで減らせるだろう。どれだけ強い敵に立ち向かえるだろう。
 パーティーを組まなくてもやっていける、このような楽しさがこのゲームに用意されているとは、ゲームを始める前には想像もできなかった。それもここまで面白いとは。

 巷の評判では、レベル30まではこのように遊べて成長もし続けられるらしい。その先は辛いとのこと。プレイ開始から丸3ヶ月でレベル22という自分のペースなら、そこにたどり着くには年内いっぱいかかるだろうか。
 いや、そこで引っかかることもないのか? レベルを上げたいと焦る気持ちさえなければ、パラメータが変化しなくなった安定な状態こそが望ましいのかも知れないのだから。


9/15(月)

 昨日触れたファミ通の記載は、「個性的に見えてもNPCのように希薄な印象の人が多い中」だった。
 それだと自分が思っていたのとは別の、よりつかみづらいことがイメージされているのかも知れない。というより、ここでは「いかに主題に合うように引用が捏造されるか」のサンプルを提供してしまった気がしなくもない。
 やはり原本の確認は怠れない。

 そんなファミ通を袖にして買った雑誌がカラフルピュアガールだったのですが、『月は東に日は西に』(オーガスト)その他のグラフィックを見て楽しむつもりでいっぱいだったところへ、ゲーム作りに携わる人の半生に近いものを1ページでつきつけられてうろたえる。
 ずっしりと重い。絵描きを志す方々はこれをどう読むんだろう。SCA-自氏の原画家講座、恐るべしです。


9/14(日)

 ゲーム雑誌に載っている『ファイナルファンタジーXI』の記事を、ほとんどの場合、自分は楽しんで読むことができない。
 記事の大半は攻略情報で占められていて、それは読者の要望とも一致しているだろう。このゲームを積極的に攻略したいとは思っていない自分がそれらをあまりありがたがれないのは、仕方のないところだ。
 で、それ以外で穴埋め的に書かれる、ゲームに関する雑談だったら読めるかと言えば、それもやはり対象がゲームのプレイヤーに特化されていて、これも面白くは読めない。むしろ読んでいて不安になってくる。
 ゲームを始めて直後、初心者を案内するNPCに「戦闘について」尋ねたとき、なぜ戦闘するのか、どうしてモンスターが我々に襲いかかってくるのか、などについてではなく、装備がどうのコマンドがどうのと技術的な話をされたときに感じたのと同種のとまどいが、この手の文章を見るたびに呼び起こされる。
 この世界について重要な、他の全員が知っている何かを、自分は知らないのではないか、そのようなことがあるのではないか、という不安。あるいは逆に、ある日突然、みんながゲームを「クリア」してしまい、事情を知らない自分が一人、ゲームの中に取り残されるのではないか、という不安。
 それはたぶん、意志の問題なんだろうと、見当をつけてはいる。ただ、よっぽどのことがない限り、それには触れないで、自分はこのゲームを遊ぶ。

 最近のプレイで、自分のキャラが幾分、戦闘の際に限って、自分の側に戻ってきたと感じられる。残念なことだ。

 そういえば、最新号の週刊ファミ通で、『FFXI』について、「NPCのように個性が薄いプレイヤーが多いなかで」というような記述があった(クロスレビューの批評家近況欄で。立ち読みで済ませちゃったから、記述の詳細な確認が今は取れないのだけれど)。NPCは個性の固まりだと思っている自分には、これが何を意味しているのか一瞬分からなかった。ちょっと考えて、「何度でも同じ台詞を返してくる」ことを指しているのかも知れないと思った。
 それは、そのプレイヤーが(無言という同じ台詞で)何度も話しかけたことの結果であることを忘れた勘違いなのだけれど、そういうことを考えさせてくれただけ、この文章は自分の立場に近い。
 考えるとっかかりさえ得られない、いわゆる「日記」の類を目にすると、不安にも寂しくもなる。


9/11(木)

 どうにもゲーム時間の取れない状況というのはあるもので、家に帰って寝るだけの日々では『白中探検部』もさっぱり進まない。
 その間に、ゲームの雰囲気がゆっくりとしかし確実に自分の中に浸透してきているようで、あの世界観を格別「ダサい」とは感じなくなっていることに気づいた。
 むしろかっこいい。ああいう台詞を真顔で口にできるなら男前だと言える。もし自分が「ナウい」を会話に挟もうとしたら、それが口をついて出る直前に、どうしたって薄笑いが浮かぶだろう。その語が聞き手にもたらす反響が先回りして想像されてしまい、無心で用いることはできそうにない。
 その点、本作のSTBメンバーたちはできが違う。都会っ子が一人いて、それらに一々突っ込みを入れるのだけれど、彼女はこの一回りした魅力を分かっちゃいないのだ。都会っ子だから仕方ないけど。

 ところで、らちゅうんけん、略してSTB。タイトルロゴの隅にも顔を出すほど重要なこの略語は、初見のときからセンスの良さが感じられて好きだった。
 その賛意を、作り手ではなく、実際にこの略しかたを考案したことになっている登場人物たちにも届けたい。ここでも件の都会っ子は頭文字の直列ぶりに茶々を入れるけれど、探検部がアルファベットを使う何らかの別の言語で現されることと、一般的なことばを略語に変えることで部員だけが共有できる秘密が生まれること、知っていてより楽しいとしたらどっちのしくみだろうか?
 合い言葉はSTBでなければなりません。

 さあ、プレイを引っ張ってきた雰囲気にも馴染んできて、そろそろ本筋のお出ましか?


9/7(日)

 しまった〜。
 これから一週間、鬼のように忙しくなることが予想され、それに備えていつでも空想へ逃避できるよう『白中探検部』を遊び溜めておくつもりだったのに、不覚にも『ファイナルファンタジーXI』の重要イベントに時間を費してしまい、目論見がおじゃんに。
 仄聞するところでは、世界の行動範囲が一気に広がるという意味ではおそらく最大のイベントということであり、それならば取り組まなければなるまい。ここが山場なのだ。そうすれば満足して、しばらくの停滞にも耐えられるだろう。
 そんな誘惑に負けて、『白中探検部』はちょっとだけしか進みませんでした。プレイヤーをゲームにつきあわせる駆動力を意図されたダサさに頼っている段階を、まだ抜け出ていない。
 例によってじっくりプレイになりそうです。


9/4(木)

 なんと、『白中探検部』の選択肢は正解と不正解に分かれている!

 間違った方を選べば即終了、の思い切った二択に出会うことたびたび。もしかしてこのゲーム、シナリオは一本しかないのだろうか?
 いくつもの正解がある、というより、正解も不正解もなく選んだ結果がある、そんなノベルゲームに慣れてきた身には、これは懐かしいというより新鮮です。選択肢を前にするたびに余計なほど考え込む。
 ゲームオーバーの際にヒントを出してくれるお助けキャラ「ヤタロー」が、熟考度を加速します。コイツの発言が小生意気で腹立たしい。これは出会いたくありません。
 いろんな結末を楽しむのも本作の一つ、みたいなことをゲーム中で他ならぬヤタロー君が話してくれることで、間違えたくない気持ちに拍車がかかります。おまえが言うなと突っ込みたい。

 ところで、このゲームでは違うポーズの二枚の立ち絵がアニメーションでつながります。姿勢が瞬時に変わるのを防ごうとしているのですが、アニメになったとたんに輪郭が太くなるのがいやでも目立つ。あまり報われない頑張りだと感じられました。
 口パクも粗くて音声と合っていない。この野暮ったさは、狙って作られている台詞や画風のダサさとは別物でしょう。
 とはいうものの、立ち絵→アニメ→立ち絵のつながりに、世界を救って結婚相手も探そうという欲張りな懐かしRPG『ブルーブレイカー』を思い起こし、確認のため手持ちのサターン版を立ち上げてみたら、確かに当該パートだけは似通っていたものの、それ以外の目に入るすべてがざらざらでプレイを続けるに耐えないありさまだったのに衝撃を受け、絵の進歩を再認識しました。
 一番驚いたのは、ほんの数分遊んだだけでお蔵入りしていた『ブルーブレイカー』について、自分が少しでも覚えていたことですが。やり残してきたことは山ほどある。


9/2(火)

 ストーリーの良いギャルゲーを遊んでその面白さに感動した際に、
「こんな良いゲームがギャルゲー(エロゲー)だからという理由で広く遊ばれないのはもったいない」「ギャルゲーにとどめておくには惜しい」
などの感想を持った向きもあるかと思いますが、そういった方々におかれましては全員このタイトルをお買い求めになっているに違いないので、これでタイトーも少しは潤ったのではないでしょうか(焼け石に水くらい)。
 女の子グラフィック大映しの陰に隠れて、遠い日の思い出だの記憶にない過去だのを目一杯扱ってきたのが昨今の読み物式ギャルゲーだったので、たとえその看板が外されていても、テーマに共通するところがあるなら、このカテゴリーの鬼っ子として扱っていいのではないかと思います。
 というか、この絵柄はギャルゲーマーへの挑戦状ですか?

 そんな思いで、またパッケージ絵の文字情報(絵として働く文字)に圧倒されて、そういう喧嘩ならと買う気にさせられました。『白中探検部』。最近のオリジナルタイトルの乏しさから原作つきかどうかを詮索するも、自分の知る範囲では発見できず。でもそれ、ものすごく狭いからあまりあてにならない。
 オープニングデモ、起伏を予感させる映像とともに流れる「キミドリ」という歌に聞き覚えがあり、はて、このゲーム以外にどこかでBGMとして聞いたことがあるような? としばらく頭をひねっていましたが、気づいてみれば自分の車のBGMでした。
 つい最近聴いて、音取りの確かさとそこに気を取られすぎていない歌の達者さに仰天して、それ以来ちょくちょくかけているアルバム『ニコパチ』(坂本真綾)の収録曲だったという次第。
 援護射撃を受けた気分です。



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