ゲーム+α日記(2003年10月)

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10/29(水)

 『ファイナルファンタジーXI』を2時間ほど遊んでいると熱が出てくるようになった。最近というには少し前からの話。
 これによって、他のプレイヤーとパーティーを組んで遊ぶことは非常に難しくなった。

 最大6人までのプレイヤーが、テレパシーのようなやりとりを通じて、互いに離れていながら一つのパーティーにまとまる。彼らが実際に(ゲームの中で)出会うのはそれからだ。
 一地点に集まるだけでもそれなりに時間がかかり、待ち合わせ場所から戦いのフィールドへ移動、そこからようやく戦闘開始。2時間の制限はあまりにも短い。
 さらに、発熱はきっかり2時間後と決まっているわけでもない。それより早く発生するかも知れない。そして、そのように心配していると症状は助長されるものだ。

 これが治るまで、さようならパーティープレイ。
 レベル14、16、18(2回)、20(2回)、22、24、都合8回の体験を、自分は忘れない。それぞれに楽しいことがあった。また、それなしでもこの世界で何とかやっていけそうだとも分かった。
 おそらくは自分の性格も、この状態を招くのに一役買っているだろう。うまい言い訳ができたとすら感じている。楽しいと感じうることを知ってなお、他人との共同作業の前には壁を感じる。

 ここへ来て、自分の操るキャラの職業が赤魔道士であることに、運命的なものを感じる。
 まったく正しい選択だった。一人で何でもでき、ただし何についても突き抜けたものを持たないという赤魔道士の特性が、自分と主人公を強く結びつける。
 天職とはこういうものなのだろう。


10/27(月)

 こういうゲームの食い散らかし方は我ながらたいへん行儀が悪い、と思いながら『式神の城II』を立ち上げてみる。クリアしないうちに遊ぶゲームを取っ替え引っ替えするのは、買っておいて遊ばないのよりはいい気もするけれど、きちんとプレイする人から見れば五十歩百歩でしかないだろう。
 ゲームキューブ用の薄べったいパッケージをレジに持っていったら、えらく厚みのある箱に化けて出てきたのには驚きました。中には赤いスカーフを巻いた渋い顔の招き猫が一体。ゲームに出てくるらしいけれど、欲しい人に行き渡るべき品物でした。

 わーっと襲いかかる弾幕を、当たり判定の小さな自機でぎりぎり避けながら進んでいく、見た目の華やかなゲームという第一印象でしたが、遊んでいるうちに、これはメニューで誘導したりしないチュートリアルがうまく仕掛けられているのではないかという気がしてきました。
 プレイヤーは、6人の中から自機となるキャラを選択するよう求められます。ところで、初めてこのゲームを遊ぶとき、どうしても女の子を操作したい、とか、前作からの引き継ぎで、とか、まあ前作のことをほとんど知らない自分が言うのも何だけれど、そういうキャラ上・物語上のこだわりがなければ、つまり新しいシューティングゲームに触れてみようという意識で接するなら、まずは最初にカーソルが合っている、一番上の人を選ぶと思うのです。
 キャラごとにショットの性能は異なりますが、そのデフォルトキャラである玖珂光太郎(くが・こうたろう)の特徴は、ショットボタンを押し続けることで自動的に敵を追尾して倒してくれるというもの。それさえ出しておけば、少なくとも序盤は敵を撃つことは全く考えなくてすみます。かといってプレイヤーは暇なのかといえば全くそんなことはなく、ひっきりなしに飛んでくる弾を避けるのに全力を傾けているのです。
 ここに、弾の近くに自機がいるほど得点が高くなる(実際はもうちょっと複雑だけれど、結果的に間違っちゃいないからいいか)システムが加わることで、このキャラを選んだプレイヤーは、弾の近くに身を寄せることを専門に努力することになります。

 これって、シューティングを上達するのに重要だと最近強く思うようになった「自機の当たり判定を把握する作業」を集中的に練習しているのにほかなりません。
 これに熟達すれば、弾を避けるためにいつも大回りしなくてもすむようになっていく。弾幕と呼ばれるような密度の攻撃でも、その中に自機が滑り込める隙間があることが分かるようになっていく。そのとき、弾幕は「幕」というイメージを剥ぎ取られ、離散化された弾の集合体として知覚される。
 次回以降のプレイでは、生き延びるチャンスが自然に広がっていることでしょう。

 うまいこと企んだものだと感心しました。
 ここで他のキャラを選んだ場合は、その恩恵はたぶん与えられないと思います。でも、キャラ造形を優先させる遊び手なら、多少ハンデがあったってついていくんじゃないだろうか。
 まっさらな状態で接したときに、楽しみながらうまくなるきっかけをくれる、これは重要な工夫ではないかと思うのです。
 ということで、好感を持ちながら楽しく遊ばせてもらったひとときでした。
 あ、前作もこうだったのかな?


10/23(木)

 『月は東に日は西に』に紛れるようにして『ボーダーダウン』をちょろちょろと遊んだりしているのだけれど、これはまた困ったゲームだと感じました。
 難易度を最弱にしてまだクリアできていない段階でのたわごととして聞き流していただきたいのですが、語りたいストーリーを大事にしていただきたかった。
 どうせプレイヤーに自爆を要請したいというのなら、説明書に堂々と記した方がいいと思うのです。理由をずばり、が無理なら、理由があるということを。「クリアのためのランク調整」なんてのは、体裁を取り繕えているようでいてむしろ邪道、むしろ奇形ですよ。そっちこそ秘密にしたらいい。
 支配されるのなら、ランクよりもストーリーに。あるいは開き直って、自爆ボタンを搭載するくらいの心意気で。そのうちオプションに出てこないだろうか。

 付け加える必要があるかどうか分からないけれど、ドリームキャスト版が初プレイです。これを入荷しようという男気あるゲーセンは、近所には見られなかった。


10/20(月)

 『CONTINUE』最新号である12号を締めくくる「ゲームの彼岸にて」が、またも示唆に富む提言を行ってくれた。

 「ゲーム性とは何か」と題されたこの文章では、その題のとおりの内容が、なぜこんなことをあえて示さなければならないのだ、といったいらだちを押し殺した風味で記されている。本文の趣旨を一ヶ所引用して表すなら、「『プレイヤーが何をできるのか』こそがゲーム性のかなめ」となるだろう。そして、本文のサブタイトルは「現実から堕とされた意志のシステム」だ。意志を実現させるものがゲーム性、ということになる。
 この文章の執筆動機はおそらく、これも引用すると「『ビデオゲームにゲーム性など必要ない』という意見」だろう。ただ、この文章はそのまま読むなら「ゲーム性(という、もうすでに分かっているもの)の否定」なので、「ゲーム性とは何か」という題意とは噛み合っていない。
 この意見に対して、「ゲーム性のことを知っているならそんな意見は出ないはずだ」との立場で反論するのが本文のスタンスになっている。腹立たしいし明らかに間違っているこの意見に反駁するのに、その明らかなところから説き起こさなければならない、いらだちを押し隠したそんな論理性がすぐれた文章だと思う。

 ところで興味深いのは、ここで定義された「ゲーム性」が、面白さとの結びつきを必須としていないことだ。「できるけれどそれ自体は必ずしも面白くないこと」だってゲーム性のうちに入るのだから。
 できること、その可能性をつきつめていくと、あるところで、できたときの喜びをできなかったときの辛さが上回る。ゲームに熟達し、スーパープレイに近づくほど、挑戦は苦行となり、それを続けるには求道精神が必要となる。
 意志あるところに道あり、というけれど、意志を優先させるあまり道を求めるプレイスタイルになったとき、そのゲーム性から面白さは離脱している。最終的には面白くなくても構わない、それがゲーム性だ、ということになる。
 その通りだと思う。ゲームはいつだって面白いとは限らない。面白くないこと、辛いことも含めてゲームである。

 もしかしたら、「ゲーム性とは何か」が戦っていたのは、半身が隠された意見だったのではないか。そしてその意見の全身は、「(面白くさえあるなら)ビデオゲームにゲーム性など必要ない」だったのではないか。
 面白さだけが欲しいならゲームである必要はない、という意味で、それもまた正しいと自分は思う。求めるものが違うだけだ。
 たとえ面白くないことがあったとしても、それでもゲームを選ぶのかどうか。そういう覚悟が欠けているところこそが、「ゲーム性不要」なる意見の本来の問題点であり、今号の「ゲームの彼岸にて」が立ち向かうべき真の敵なのではないか。そんな気がしました。


10/16(木)

 やや不自由な(ゲームができない)空き時間が大量にできたので、読書でもと思い『輝く日の宮』(丸谷才一著、講談社)を読み、思うようにならない時間のことがまるで気にならない楽しいひとときを過ごしました。

 一章ごとに工夫がこれでもかと散りばめられていて、区切りを迎えるたびにため息が出る。一気に読み進めるのが惜しいので、そこで一旦止めてそれまでの流れを反芻したりするのです。
 源氏物語が主題ですが、自分のように源氏といえばせいぜい「源氏名」くらいしか思い起こせない(しかも語源を知らないで使う)古典素人にもやさしく話は進行していきます。ということで、この小説のフィクション率が全く推定できません。ひょっとしたら全部大マジのおはなしなのではと思わせる。
 また、小説全体を通して重なるものの多いことといったら。重なりを意識するためには、重なりあうものの境界というか枠が必要になりますが、これが早いうちから手を変え品を変え、大小サイズも多彩にそこここで現れる。そして最後に、スケールの大きな重ね合わせが起きて幕が閉じるのです。何が重なるかはネタバレなので当然言えない。
 なんと手の込んだ作りだろうと、読了後しばらくぼうっとする。二日で読み終えたのはもったいなかったな。という後悔はしかし、これまで読まないでいたことのそれよりはずっと小さなものだと思えば、どうでもいい繰り言ではあります。いやー面白かった。
 しかし、たまに厚い本を読むとすぐ得意げに報告するのは、我ながらほほえましいものであります。


10/13(月)

 かわいい女の子が勢揃いの『月は東に日は西に』の中にあってひときわ目を引くのが、主人公たちのクラスの担任を務めることになった野乃原結(ののはら・ゆい)先生。
 何しろ公式プロフィールでは身長138cm。全員が一堂に会したグラフィックで他のキャラと背丈が比較できますが、一口に小柄といって片づけられる小ささではありません。とっても小柄な人だと言えます。
 このキャラがいることに、自分としては全面肯定していきたいのですが、ここで、普段の自分は悪質ないたずらをされる子供キャラの存在を好まないのに、これはどこか矛盾があるのではないかという気がしてきました。
 好みが変わり、ちっちゃい子の受け入れ態勢が整ったのか? いや、『はじめてのおるすばん』(
ZERO)は未だに認められない。とすれば、彼我の違いはどこにあるのか。

 ここで、『モエかん』(ケロQ)の主人公専属秘書・霧島のことが思い出されます。あのキャラもちんまくて、「ちゅ」なんて語尾を使っていたけれど、全然問題なく、いやむしろ大いに喜んで迎え入れたものだった。
 先生とか秘書とか、ゲームの世界の中で子供は果たさないであろう役割を与えられていることがポイントなのではないかと思います。先生(秘書)である以上、彼女たちが自身のことを「子供っぽい」と気にすることはあっても、「子供である」と意識することは決してないはずだ。彼女たちはもう子供ではないのだから。それが想像できる。
 翻って、「18歳以上です!」というのはゲームの中では何の機能も果たしていない。それはただ、ゲームの外側で飛び交うやりとりでしかなくて、彼女たちに向かうことはない。彼女たちのためにはならないそんな言葉、誰も信じちゃいないのだ。
 ついでに告白するなら、霧島のあの口調に接したとき、独特で面白いとは思ったけれど、幼児みたいだとは思いませんでした。どこかでそのような記載に触れ、そういえばと思い当たり、その方が伝わりやすいだろうと思って、以降はそう説明するようにしましたが(説明などする機会もそうそうないだろうけれど)。あれは異化効果ってやつ? 陳腐な別の概念を当てはめるためではなくて、ミスマッチ感をただ楽しむためにあるのだと思う。そもそも、幼児ってほんとうに「ちゅ」づけでしゃべるもんなのか?

 そんなわけで、結先生最高。先の集合風景だけでなく、背の低さを生かしたビジュアルショックが至るところで襲いかかってきます。
 黒板の上の方に手が届かない! カフェテリアの座席につくと、テーブルから上にはほとんど顔しか出てない!
 いいのかこれで(←さんざん喜んでおいて何を言う)。


10/11(土)

 学校が、あるいは学園が聖域である、との提示に何らかの反応を返せるほど、「聖域」なんて言葉に馴染んではいないけれど、例えばクラスメートとして、あるいは部員として、意図していないのに誰かの近くにいることを認めてもらえる空間のことを思えば、そこが特別な場であることは間違いありません。
 その特別さのことを「聖域」と呼んでいいのなら、それ以上はいらない。ことさらに狭義の何かを設定しなくても、用意してもらったもので十分です。
 こんにちは、学園生活。

 といった期待に胸ふくらませて『月は東に日は西に〜Operation Sanctuary〜』(オーガスト)を立ち上げたので、スタート直後の訳ありげなやりとりに警戒感が大いにかき立てられました。
 どうか、真相が大したものではありませんように。


10/7(火)

 『ファイナルファンタジーXI』では、一つのことをやりとげようと努力するとなかなか辛い目に遭う。
 早くレベルを上げたいと願うなら、中断できないパーティープレイを数時間続ける必要がある。お金が手っ取り早く欲しいと思ったところで、アイテムを競売にかけて誰かが競り落としてくれるのを待たなければならない。アイテム合成や魚釣りの技術を上げたくても、一回試みるごとに上がるスキルは微々たるものだ。
 何をするにも手間がかかり、そう簡単には目標まで届かせてくれないようになっている。
 だから、狙いを絞ってそれだけに専念すると、うまくいかなかったときの徒労感が強くなる。そして、狙い通りにことが進むことはあまりない。

 そこで、目標をいくつも持たすようにして遊ぶことにした。
 例えば釣り。釣りは、それだけを取ってみれば「釣り糸を垂らしてから当たりが来るまでの待ち時間が長い」「当たっても釣れないことはざらで、竿が折れて続行不可能になることさえある」「連続して餌を投げ込めない(弾込めにかかる時間の分?)」と、とても楽しめる代物ではない。
 その労を直接楽しみに変換する太公望感覚が身についていないので、「当たりが来るまで周囲を眺める」「食い逃げされても惜しくない安価な餌と、大物が釣れない代わりに決して竿が折れない釣り場を選ぶ」「釣りの合間にはその辺をうろつく敵を倒したり、釣った魚を調理したりする」などを組み合わせてチャレンジしてみた。
 それで楽しめることといったら、試してみて驚くほどだった。
 一つ一つがうまくいく可能性は低くても、重ね合わせてことごとく失敗する可能性もこれまた低い。そして、どれかがうまくいってくれれば、その楽しさが全体の楽しさになってくれる。そういうことなのだろう。

 それ以来、「釣りが楽しい」と聞くたびに、自分はこのような、いわば雑多な要素で濁りまくった楽しみをイメージしています。
 実際、もしこのときの体験を聞かれたら、「敵を倒してたまにアイテムを拾ったり、調理の腕前をちょっと上げたり、まわりで不利な戦いの末に死にそうにしてる人を助けたりしながら釣りしてた」ではなく、ただ「釣りしてた」と答えるでしょう。
 それでも、同じ返答でありながら、以前と今とではその内容は大きく異なっています。それはもう、後に続くのが「つまらなかった」か「楽しかった」かに分かれるくらいに。


10/5(日)

 『白中探検部』コンプリート。
 22個という過剰な(ああ、この「過剰な」という感覚もギャルゲー由来(略))エンディング数ですが、残り2つがどうしても分からずに答えを参照しての完結。そのことは残念だけれど、そこには偶然ででもなければたどり着けそうになく、偶然を期待してやり直し続けられる気持ちのゆとりはないのだった。
PS『てんたま』を遊んでいた頃は暇だったと痛感します。
 正直、どれもそこまで頑張って見なけりゃならないものでもない気はしましたが、一つ、謎解明の探偵役でさんざん使われたあげくに放り出される悲劇の裏ヒロイン・彩佳との、序盤における呆れるほどぞんざいな駆け落ちエンド(バッドエンドと明記することはないじゃないかと思った)にて「彩佳にホの字」との表現と出くわしたときには、最近そのフレーズを真顔で口に出した自分を顧みて誇らしく思いました。
 やっと自分も『白中探検部』のセンスに追いついたよ!(時代と逆方向へ手に手を取って駆け落ち)


10/4(土)

 『白中探検部』の未読文章埋めに精を出しているのだけれど、トゥルーエンドの幹の太さに対して、その他の扱われ方のなんとも小ぶりな枝かげんには感心するばかり。
 分岐も選ぶと即死のものばかりでなく、予想を上回るボリュームのイベントが、その分岐でしか見られないイベントグラフィックを多数取り揃えて待っていて、しかもそれらが徹底してハズレに扱われているのがすごい。女性陣の水着姿が満載の回り道が、サービスにしたってとってつけた感が強すぎるのです。
 こういうゲームでは普通、絵と文章の資源の重みは絵の方に極端に傾いていて、同じ絵をいかにうまいこと使い回せるかが作り手の腕の見せ所になっているところがあると思いますが、このゲームは逆。物語に対して絵の量が多いのでした。
 と、そんな「普通」がギャルゲーから叩き込まれたものであることに気づいて一瞬はっとしましたが、そんなこと今さらだよな気にすることでもない、と思い直して、さらに病状が進んでいることに改めて思い当たった次第でした。
 そうそう、トゥルーエンドに到達したせいか、案内役のヤタロー君は姿を見せなくなっていました。いなければいないで寂しいものです(また出てきたら絶対うざったがるその口でよくもぬけぬけと)。

 ところで、このゲームのパッケージに使われているような少数精鋭なグラフィックと、立ち絵やアニメの量産型グラフィックとでは、描き味がかなり異なっています。
 それが悪いとは別に思わないのですが(ゲームでは珍しいことではないし……ああ、この「珍しくなさ」もギャルゲー由来のものだ)、気になるのは、前者の持つ膨大な情報量の中に、このゲームの人物たちに強調されているダサさが必ずしも読みとれないんじゃないか、と思ったからです。
 例えばパッケージ絵(公式サイトのトップページにあるけど、ちょっと小さすぎて分からないのが残念)が訴えてくるのは、「火気厳禁」「ポンヌフ」「荷重5瓲 白浜工業 1953」といった文字群が風景化していることによる存在感で、それは字が絵になるような丹念な描画(描字?)のたまものなのだろうけれど、その丹念さが一生懸命さを連想させ、空回りする・あさっての方を向いた努力が端から見てカッコ悪い、ダサいと判定されることから、人物像の設定の方針が決まっていったんだろうか、なんて想像しましたが、それってひねりが加わり過ぎな上に、絵に失礼な気がします。
 絵から物語が生み出されたんだったら、そういう回りくどいことよりもこれら書き文字要素を大切にするだろうから、絵とシナリオの関係はあまり緊密ではないのかも知れません。
 ということで、本編ではこういうところはあんまり大切にされていないのでした。もったいないなー。

 しかし、絵について語るのは自分には力が足りないと、いつもにもまして思わされます。
 絵は二次元で文章は一次元、別次元の能力が必要なのだ、そう思えば納得はできるけれど、それでもどかしさが消えるわけじゃない。



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