ゲーム+α日記(2004年3月)

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3/29(月)

 昨日は、自分にとって重要な一日でありました。
 『ファイナルファンタジーXI』を遊んできて得られたものを生かすことができたのです。

 どれだけ時間をかけても結論が得られない、「悩む」状態から抜け出すのは難しい。答えがないのでは、先に進みようがない。いつまでも先に進まないでいるうちに、その状態に慣れて、これが普通だと思うようになる。
 悩むことをやめる。どうやって、と問うても、自分のうちからの返答はない。自力だけで抜け出す術は、おそらくないのだろう。自分のうちに答えを求めては、また新たな悩みの種が増えるだけだ。

 その場の言動がぎこちなかったり、こんなふうに後からくどくどと言葉にしたり、まだ悩みの外にいるとはとても言えない。ただ、風穴は開けられた。
 自分のことばかりでごめんなさい。昨日はありがとうございました。ご縁がありましたら、またどこかで。
 こういうことを、不特定な何かにではなく表そうとしていられるのが嬉しいのです(←結局最後は自分のことか)。


3/23(火)

 人間は、失敗することで成長できるのだという。そしてその点が、人間とコンピュータの大きな違いなのだそうだ。コンピュータは外部からインプットすることで覚えるのに対して、人間は外部へと出力することで覚えるようになっているとのこと。どこで読んだのだったか、脳の研究者によるコラムにそのようなものがあった。
 過去に試みていないことへ挑戦し、うまくいかなかったとき、その意外さが記憶に残る、ということだろうか。科学的な信憑性は判定できないけれど、実感としては納得できる。
 失敗とはうまくいかないということだけれど、他人から見て・自分から見ての二種類に分けられる。他人から見た失敗はただの評価で、そこに当人の成長を促す余地はない。自分が自信の行為を失敗だと認められるかどうかが、成長のために重要となる。
 自分から見て何かを失敗と位置づけるとき、自身が意図した結果のイメージが比較対象となっている。そういうものがない限り、客観的にどんなにひどい結果を残そうとも、自分がそれを失敗と認識することはできない。なにかひどい出来事があった、それだけでしかない。
 プログラムを組み込まれたロボットが予定通り動かなかったら、それを組んだ人にとっては失敗になるけれど、それはうまくいく「予定」があるからこそだ。組まれたプログラムに沿って動くロボットにとって、プログラムの不具合は他に選びようのない出来事で、「なんだか知らないが手足が言うことを効かない」というイヤな現象でしかない。そこからは何も学べない。ロボットが自力で進化する手がかりなんてものは、そこにはない。

 今もし時間があったら遊んでみたいと、『"Hello, world."』(ニトロプラス)に思いを馳せる。あのゲームは、こういう問題を扱っているのではないだろうか。『TALK to TALK』(Clear)は自分の期待に応えてはくれなかったけれど。
 自分も失敗したい、自分の行動を失敗と認識したいと、最近強く思う。失敗と認めるための意図、意志を作る力がほしい。
 これまでの人生における主観的失敗は、「失敗することに失敗し続けている」ことだけのように思える。どうしたらこのループから抜け出せるのか。切実に知りたい。


3/20(土)

 やれやれ、この一週間は『ZOOO』すらやらない(やる気力が出ない)仕事漬けで、ゲーム関連の話題といえばドリームキャスト版『プリンセスホリデー』のアンケートはがきを投函したことくらいでした。もはやゲームの日記と呼べるのか疑わしい。
 今になってそんなことをしたのはPS2版発売キャンペーンで主題歌CDがもらえると聞いたからで、思い入れがないばかりか今風な曲調があのゲームの最終シナリオにぴったりで、「やろうとしたことは分かるがそれはいまいちだろう」との当時の感想を再起させるばかりの歌なのだけれど、ただ貰いと聞けばそれでも応募してしまう自分のさもしさをアルケミストはよく理解していると、ここでも感心することしきりです。

 そんなわけでゲームネタが作れない最近だけれど、そんな折でも聞き惚れる音楽に出会えればまだ救いがある。
 最近は『てんのみかく』(
ゆう)というCDを繰り返しかけております。「GO!GO!7188を知っていた(作者がバンドの一員)」「CD屋で曲が流れていた」「商品が店頭に並んでいた」の3条件をみごとクリアして手元に届いた幸運を喜びたい。
 「天邪鬼」という曲が特に強く印象に残ります。喜びも苦しみも記憶とともにある。何もない平穏は、手に入って初めてしがないものだと感じられる。いや、もしかしたら、手元にあるものはいつでもみすぼらしく見えるのかも知れない。隣に移ったら、今いたところの芝は瞬時に青く染まるのかも知れない。
 異世界を舞台にしてそんな思いを引き出させる逸品です。


3/13(土)

 『ZOOO』を遊んでいて、どこかで似た構成と操作系を体験したことがある……と記憶をたどったところ、『ヨッシーのクッキー』に行き着いたので、さっそく検証することにした。
 NEWファミコンとビデオ端子ケーブル、アダプター、ソフトを引っ張り出してつないで、ゲームが始められるようになるまで15分。予想より時間がかからず上出来とも言えるけれど、やっぱり普段使わないと面倒くさい。

 で、両者は「パネルを固定したのち方向キーでずらす」という点で確かに似たことをやっているものの、クリアのルールがまるで違うせいで、全く異なるプレイ感覚になっていることを再認識。見た目以外は全然似てませんでした。というか、『ヨッシーのクッキー』って一人プレイは落ちものだったのか、すっかり忘れていた。
 『ZOOO』が手数の多さで勝負するタイプなのに対して、『ヨッシーのクッキー』は一つ消すのにも仕込みが必要で、ルービックキューブを少し思い出しました(これ以上、連想で説明力不足をごまかさないように)。
 決められた枚数のパネルを消す『ZOOO』は受動的で、画面からパネルを一掃させる『ヨッシーのクッキー』は能動的である、とも言えそう。受け身タイプの自分には断然前者が合っています。

 なお、『ヨッシーのクッキー』は各クッキーの色遣いが似通っていて判別しづらく(総天然色のクッキーは体に悪そうだけれども)、また自分の環境だけかも知れないけれど方向キーの誤入力が多くて、プレイしていて大変にイライラしました。
 なぜこのゲームを、ルールを覚えていないくらい遊んでいなかったのかをも思い出した次第。『ZOOO』はその点も問題なしであります。


3/8(月)

 『ファイナルファンタジーXI』から別のゲームに目を向けるにあたり、さしあたっては短時間でけりのつくパズルゲームなどが良さそうだと考えた。
 あわよくば、ちょっとした待ち時間が頻発する『FFXI』の合間に遊んでやろうとの魂胆。
 それで『FFXI』から距離を置くと言えるのか? どっちつかずになるのではないか? そんな疑念もあったけれど、とりあえずやってみることにし、ゲームボーイアドバンス版
『ZOOO』を試してみた。
 正直、ゲーム自体にそれほど大きくは期待していなかった。ネット上の無料ゲーム『ZOO KEEPER』をそこそこ遊んでゲーム内容は知っており、その移植版が小さな暇を埋める以上の役割を担ったりはしないだろうと、今にして思えばたかをくくっていた。
 そして1時間後。
 『FFXI』を放り出して『ZOOO』に熱中し続ける自分がいました。完敗です。

 敗因は操作系にありました。パネルを動かして絵柄を並べ合わせるのがこのゲームの基本操作ですが、PCでのプレイに慣れていたため、マウス操作で遊ぶのが普通だと思わされていたことに気づかされたのです。それがどれほどゲームへの没入を妨げていたか、今ならよく分かる。
 このゲームが作られるにあたって、PC版の改善点が相当吟味されたのでしょう。この洗練ぶりには値段がつきます。体験版と製品版としての違いが歴然とある。
 アイディアを無料で提示して、サービスで金を取る、そんな回収法の妙を見た思いです(それはちょっと言い過ぎてやしないか?)。

 いやもう、ゲーム開始直後、説明書もろくに読まずに初めてパネルを動かしたときは衝撃的でした。俺の全米も震撼しましたよ。


3/6(土)

 今だから言えるけれど、自分は『ファイナルファンタジーXI』での大きな目標を一つ達成したのだと分かる。他の人と一緒にプレイすること、それができるようになれるとは、ゲームを始めたときはとても思えず、だからゲームとのつきあい方もいささかならず及び腰で、その状態を保ち続けて年を越したのだった。
 ここで一旦、このゲームから距離を置くのもいいかも知れない。もう一つ上の大きな目標は見えている。他の人を誘ってパーティーのリーダーとして振る舞うというのがそれなのだけれど、そこへの道のりはあまりにも急峻で、ひとつの山を越えて青息吐息の自分が直ちに取りかかれるとも思えない。
 それは一生かけて取りに行くスキルという位置づけで、より長いスパンで取り組みたい。

 ということで、少し他のゲームにも目を向けてみようかと思っている。
 と、そんな矢先に、先月末の言及ついでにチェックした『こころナビ』(
Q-X)サイトで「ルファナ崩し」と名付けられたブロック崩しゲームを見つけたとしよう。どうすればいいか。今の気持ちに沿って、ダウンロードして試してみるのも無理からぬところではあるまいか。

 汎用プログラムに絵を乗せてブロックを設定し、崩すことで基本的には同じ構図でちょっと変化をつけた絵が現れるというゲームですが、数回試して1面すらクリアできない自分の腕にだんだん腹が立ってきました。
 なぜこんなシンプルなものがクリアできないんだろうか。
 ここでいつもなら、新たなグラフィック見たさに延々とただ頑張ることで解決を図るのですが(それって図ってない)、今回は意外なことに、「攻略」の気持ちが先に立ちました。

 なぜクリアできないのか、という疑問に、事態の進展に役立つ答えはない。あれやこれやの理由が挙げられそうだけれど、いずれも他の、ほとんどはより厳しい態度によって論破されてしまう。
 本質的な、正しい答えは「クリアできないからクリアできない」なのだけれど、質問者はそれでは納得しないだろう。質問者の意図は大きく分けて2つ、別に理由など知りたくないか、どんな答えに対しても「それは言い訳だ」と言いたいか。今の自問自答はイライラした気持ちの表れなので前者になる。後者に属する問いを他人から投げかけられたらイヤな感じですね。
 解決のためには、まず質問を肯定形にしなければならない。「なぜミスをするのか」。このゲームの場合だったらさらに狭く、「なぜボールを落とすのか」と限定される。
 ところが、この質問も答えるには時期尚早だ。「なぜ」は考察を求めているけれど、そのためには材料がなければならないから。「なぜ」の前に材料を集めなければならない。その質問は、「どのようにして」となるだろう。観察して、情報を集めよう。
 「どのようにしてボールを落とすのか」。ボールと反射板の位置関係が一つのヒントとなるだろう。

 観察の結果、どうやらボールはほとんどの場合反射板より先で落下していることが分かった。先、というのは、ボールの横向きの進行方向と逆向きに板がいる、ということだ。
 板の動きがボールに追いついていないのだろう。それは認識の遅さを引きずっている。ボールの動きを見てこの辺に落ちてくるだろうと判断したものの、それは実際には軌道の外挿になっていないのだ。
 これで「どのようにして」、そして「なぜ」の見当がついた。

 とりあえず予測したより少し先で板を待機させてみる、という対策を取った。予測の精度が上がると、「少し先」もまたずれてくるので、長期的な指針にはならないが、なに、全2面しかないゲームなのでその場しのぎで十分だ。
 それから数回後、無事クリアを迎えることができた。

 こういう遊び方もいいとは思うが、次回は別のゲームにしてみたいと思います。
 たぶん、「ルファナ崩し」にはひたむきな努力の方が似合っているだろう。


3/2(火)

 ついに!
 ついに、『月は東に日は西に』(
オーガスト)結先生ルートのクリアに成功いたしました!
 始めたのが去年の12月半ばだから3ヶ月弱、いやあ長かった。これまで遊んだなかではもっとも長く感じた『みずいろ』でも2ヶ月で全クリアだから、どれだけこのルートにかかりきりだったかが分かろうというもの(いつから『ファイナルファンタジーXI』は『月は東に日は西に』とタイトルを変えたんだ?)。

 お話はまあ、真に受ける気になれないというか、結先生に三文芝居をさせるんじゃない! と怒鳴りたい気持ちでいっぱいであり、それはぶつ切りプレイによる感情移入の阻害とは別問題だろう。
 しかし、ここで『プリンセスホリデー』のことが思い出されなければならない。文章の端々に表れていた無秩序さを作り手の無自覚さによるものと思い込んだために、自分が見当違いの怒りに燃えてしまった顛末を。
 最後までには、過剰を通り越して無用と思えるこのヒロインたちの運命の翻弄ぶりに対して、何らかの説明が、あるいはせめてそれらが意識的であることが、示されるに違いないと思い、その予測にすがっているところです。
 結先生の同僚にして親友の恭子先生も言っていた、「聖域の場所なんて、人によって違うからねぇ」と(いちおう背景色表記)。
 真相はまだまだ先、だいいちヒロインは3人も残っている。年下2人にちっちゃな先生で十分、などとはこれっぽっちも思っていないのであります(振り返ってみればそういうチョイスなんだよなあ)。



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