ゲーム+α日記(2005年5月)

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5/28(土)

 夏目漱石『こゝろ』を読みました。「ゝ」ってなかなか出ないのね(ATOKだと「おなじ」で変換)。
 角川文庫版だけなのか、どうでもいいところでの注釈が多いような気がしました。あれ、必要なんだろうか。
 それに対して、同じく付録ではあっても、注釈とは異なり解説には自分にとってためになる情報が。この物語は名作なので、高校2年生の教科書に欠かさず採用されてきた、なんてことが書いてありました。
 そうだったっけ? さっぱり記憶にありません。忘れてしまったのか。

 だいたい、前途ある若者が本作を読んで、果たしてどれほど感銘を受けるものなんだろうか。
 二大登場人物として主人公と先生が出てきますが、高校生にとって身近なのは主人公の方じゃないだろうか。主人公と一緒にいるときの、ある程度歳を取ったあの先生に入れあげるのは、なかなか難しいのではないかと思います。それがやれればこそ、この話は面白く感じられるというのに。
 主人公の側に立って読んでいっても、どうもその思いが理解できず、それでも名作だからと頑張って最後まで読んだとしたら、出てくるのは「これで終わり? 続きは?」てな一言感想、なんてことになったりしないだろうか。

 あるいは、物語の後半部、先生が若いときの話にだけだったら、納得しつつ読めるのかもしれない。
 でもそれなら、前半部は何のためにあるんだろう? それはまたそれで片手落ちな感想でありましょう。
 高校生の自分がもし読んだら、上のどちらかで受け取るんじゃないかと思います。幸薄い出会い、これでは忘れるのも無理はありません(記憶力のなさを棚に上げて)。

 これを教材にと渡された高校の先生だって困りそうな気もする。
 世の中にはもう生きていてもしょうがないと思うくらい強烈なことが起こり得る、とでも講釈するんだろうか。
 そんなことは教えたって借り物でしかないし、教わったって体得できるものではない。知識として持っていても、回避の役には立たない気がします。
 知識と実感とは別で、実感したときには手遅れでしょう。いや、手遅れだからこそ実感できるというべきか。だからこその二部構成、もう戻れない現状があったことを後から悟らせるための前半部ではないのか。
 少なくとも教科書のような与えられ方じゃだめだ。『こゝろ』の主人公ばりに求めていかなければ。あんなに頑張った彼だって、結局分かれたかどうか。

 前半部で自縄自縛状態にあった先生のことを偲びつつ、悶えながら後半部を読んでいました。
 とりつく島もないのが、ある時期を境に一気に理解できるようになる、これはそういう類の話ではないだろうか。
 あと、自分も歳を取ったのには違いないと思った。でも、また後々読み返したら別の感慨にふけるだろうか?


5/19(木)

 ということで『メテオス』にけっこう注力していたものの、システムの無法っぽさが気になってしかたなくなり、ついにはなぜこんなに腹を立ててまでこのゲーム遊んでるんだろう、てな心の不具合を生じてきました。ここらで封印したい気持ちでいっぱい。

 まともに遊べれば大変に面白いのが厄介なところです。しかも、100回でも200回でもやり直してベストスコアを目指すという頭を使わないプレイスタイルが、この掟破りによってさらに強化されており、それだけ見れば「高い中毒性」と混同して許せてしまう気になるところがニクい。
 プレイが思うように展開しないのが自分の腕前のせいなのかゲーム側の問題なのかが曖昧な場合は、極力前者に責任を帰すのが、よくしつけられたプレイヤーの態度だと言えるでしょう。そして、たいていの場合、ルールは隅々まで明らかではないものです(『テトリス』でブロックが着地してからさらに動かせる猶予時間について、正確に答えられるものでしょうか?)。そういう者がこのゲームを積極的に勘違いしようとしたら、難しいことなどなにもないはずです。
 それやこれや含めて、時間つぶしには最適なゲームです。喜怒哀楽に揺さぶられ、光陰矢の如し。取り返しがつかないくらいに(←自制利かなさすぎ)。

 対戦プレイだったら、ハプニングの要素はさらに増すだろうから、この問題も相対的に目立たなくなるんではないだろうか。
 と、このブロックの嘘挙動にさんざん悩まされながら未だに弁護を試みるあたり、自分はつくづくお行儀がいい遊び手であることだなあ。


5/11(水)

 そうは言いながらも専ら『メテオス』に血道を上げる昨今であり、現在はタイムアタックに総力を挙げて取り組んでいるところ。
 パズルといえばタイムアタックであり、ときにはシューティングといえばタイムアタックと形を変えて現れるその思いは、高得点を目的とするゲームは常に時間とも戦うべきだという信念でありました。すなわち、貴ぶべきは得点そのものよりも点効率。
 遊んでる時間、あんまり取れないからね(そんな理由か)。

 そんな点効率ウォーズを連日のように繰り広げており、より高みを目指して熱く燃えているのだけれど、このゲームが繰り返しを強いてくる原因に、どうも納得がいかないものがあります。
 ルールの存在が極めて疑わしくなる挙動が、しばしば現れるのです。

 ブロックをまとめて消して高得点、のはずが、一部が残ってしまう。
 ブロックのまとまりがほどけるまでの猶予時間が、たまに異常に短くなる。
 空中を漂うブロックがやけに長時間浮き続け、次の手が仕込めない。
 これら、バグっぽいものからルールの一部に近そうなものまで、予想外のことが頻繁に起こるため、思惑通りにゲームが進むことはめったにありません。
 それが悔しくて直ちに再開するのだけれど、その悔しさは正当なルールと腕前の不備という真っ当な理由の元に感じているものなのか? もしかしたら、ゲームを遊ぶエネルギーになればいいとばかり、異種のものを同様に解釈してはいないだろうか?

 どうせ延々繰り返しプレイになるのなら、正々堂々とどつぼにはまりたい。目標を目指してはやる気持ちの片隅に、そんな釈然としない思いを抱えながら遊んでいます。
 ルールが複雑すぎるのがいけないのではないだろうか。


5/4(水)

 自分にとって、新しいことは楽しくはないこと。ただ、新しかった要素を取り込んで馴染みとしてしまえば、同じ動作でも楽しくなること。新しいことに接する意義がそこにあること。だから、当座は楽しくなくても、面倒だったり時には辛かったりしても、楽しみの幅を広げるために、新しいこととは相対していかなければいけないこと。
 
『ファイナルファンタジーXI』に関する来し方を振り返り、このような結論にたどり着くまで、ずいぶん時間がかかったように思います。
 となれば、パーティープレイに戻らなければなるまい。

 ところで、世の中には新しいこと自体が楽しいという人がいるようで、これは自分と「楽しい」を指すものが異なっていると思うほかありません。
 そのような人々はおそらく、やり方を会得したところで興味は他のことへ移るのだろう。
 しかし、両タイプが組めばいいコンビになるような気もします。もしかして社会とはこのように成り立っているのだろうか(←今さらの王、面目躍如)。



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